いつまでも、御塩倶楽部

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河和海軍航空隊

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ハセガワの「1/48 零式水上観測機」


 ハセガワというプラモデルメーカーから、今年の2月に零式水上観測機のプラモデルが発売された。

先日、買った。

定価2940円、スケールは、48分の1である。



 零式水上観測機は、軍艦の着弾観測を目的に開発された二人乗りの水上機である。

「ゼロカン」と呼ばれていた。

水上機の操縦訓練を行っていた第2河和海軍航空隊にもあった機体で、終戦時には93式中間水上練習機の次に多く残っていた。

第2河和空で編成された特攻隊は、この零式水上観測機で出撃することになっていた。

終戦時、河和に零式水上観測機が多く残っていたのは、この特攻機が出撃直前に終戦となり、九州の基地から戻ってきたためである。



 2004年から2007年まで河和海軍航空隊の地元である美浜町で、河和空の展示が行われた。

かつて河和にあった水上戦闘機「強風」などのプラモデルも展示された。

聞けば、役場の職員や職員の親戚やらで休日に作ったらしい。

その甲斐あって、「子どもから大人までプラモデルを熱心に見てくれた、地域の歴史を身近に感じてくれたかもしれない」と展示担当者が言っていた。

3次元の持つリアリティなんだろうか。

48分の1の零式水上観測機は、これまで発売されていなかったので、今回の発売は結構なことである。



 昭和20年8月15日に、第2河和空の零式水上観測機は沖縄の米軍艦隊に特攻する予定になっていた。

ある特攻隊員は、前日14日に自分が操縦する機体を点検に行った時、後部座席に電信機が積まれ、さらにその後ろに250kg爆弾と思われる爆弾が積んであったのを見ている。

しかし、15日に重大放送があるということで、14日の夕方、第2河和空特攻隊の出撃は中止になった。


 このプラモデルは、そういう機体である。

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 国土交通省の旧名古屋無線標識所(河和南部小学校隣り)に第1河和海軍航空隊の防空指揮所が残っている。

無線標識所とは飛行機の灯台みたいな役割をし、電波で飛行機に位置を知らせる施設である。

2006年に閉鎖され、その後アンテナなどの無線標識所の設備は撤去された。

往年は過激派にねらわれる重要施設だったが、現在はフェンスと第1河和海軍航空隊の遺構である防空指揮所が残るだけである。

 ここの防空指揮所は、半地下式のコンクリート製防空壕である。

『河和海軍航空隊調査報告書』によるとカマボコ形の部屋が3つあるらしい。

入口は4カ所あったと思われるが、確認できるのは3カ所のみである。

戦後、無線標識所として広大な敷地が利用されていたため、開墾による破壊をまぬがれたと思われる。

残存状況や遺構自体の性格を考慮すると、愛知県下でも貴重な遺構である。


実測図引用元

美浜町教育委員会 2007 『河和海軍航空隊調査報告書』

航空隊の美談

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 壬生神社という神社が河和(愛知県美浜町)にある。

鳥居の前にある石柱には「村社壬生神社」と彫られている。

「村社」はコンクリートで埋められて字がつぶされている。

戦後の政策がそうさせたのだろう。

神社の隣りには、中部電力の変電所がある。

ここは、市街化区域と市街化調整区域の境が近くにあるようで、町並みの外れである。



 どうしてこの場所を訪ねたかというと、数年前、地元の方から次のような話を聞いたからである。

「戦争中、現在の変電所の近くに河和海軍航空隊の飛行機が墜落しました。パイロットは、民家に落とさないように最後まで操縦していたという話を聞いたことがあります。」

この話は、地元の教育委員会が2007年に発行した『河和海軍航空隊調査報告書』には記載されていない。

水上機の操縦訓練をしていた第2河和海軍航空隊の殉職者・戦死者リストがあるので調べれば実際にあったことなのかわかるかもしれない。

でも、実際にあったかどうかを確認するよりも、このような話があること自体が大切で、驚いた。



 河和中学校内に残るかつての航空隊の門柱を今でも「隊門(たいもん)」と呼ぶ人がいたり、民間人を基地に立ち入らせないために造られた迂回路を「海軍道路」と現在でも呼んでいる人が地元にはいる。

戦時中に軍隊の基地があるということは、その後も有形・無形で何かが残っている証拠である。

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 愛知県知多郡美浜町大字豊丘に法華寺(ほっけじ)というお寺がある。

このお寺の参道入口に海軍航空隊が掘った井戸がある。

一年ぐらい前は小屋があったと思うが、現在はない。


(写真 上 小屋があった当時)

(写真 中 現在の井戸)


位置から判断して、第1河和海軍航空隊が使用したと思われる。


『河和海軍航空隊調査報告書』の記述によると、

「愛知用水通水後井戸に栓をしてあったが、法華寺への参道工事中栓がはずれ、常時少量ではあるが水が出ている」とのことである。

現地へ行くと水が溜まっていたので、その下が井戸だろう。(写真 下)

井戸そのものはあっても、構造物などの遺構は残っていない。


 知多半島には、大きな河川がない。

だから、愛知用水ができるまでは水の少ない土地だった。

造られた溜池の数は多い。

多くの将兵を収容した基地にとって、水の確保は重要である。

水に関連する遺構が他にもいくつか残っている。


参考文献

山下 泉2007「河和海軍航空隊に関係する遺構(36)井戸」『河和海軍航空隊調査報告書』

防空壕はどうなるのか

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 毎日新聞(2009年1月13日 朝刊)に「貴重な戦争遺跡か 危険な穴か」という記事が載っていた。

内容を要約すると以下のとおり。


 2005年に鹿児島市内の防空壕で中学生の一酸化中毒で死亡事故があった。

国土交通省は全国計5003カ所の防空壕後を封鎖するよう各自治体に通達し、各地で封鎖された。

山梨県韮崎市の防空壕では見学ツアーまで行われていたが、封鎖によりできなくなってしまった。

調査や教育的な活動に対しては、安全を確認した上で開放してもよいのでは、という意見が出てきた。




 戦時中、第1と第2河和海軍航空隊があった愛知県美浜町にも防空壕は多い。

基地があった県内の他地域に比べても戦後の開発が緩やかだったので、残存率も高い。

河和空の調査を始めた頃は、防空壕などにフェンスもなかった。(写真 上)

(この写真も貴重になった)

全国的な方向と同様に、鹿児島市の事故以来封鎖された。(写真 下)

終戦後に米軍が撮影した航空写真を見ると、尾根にそって黒い点が見える場所がある。

初めて見た時は、写真の汚れかと思ったが、現在残っている防空壕の位置を重ねたらほぼ一致した。

黒い点は、防空壕の入口だとわかった。

(河和海軍航空隊の防空壕については、『河和海軍航空隊調査報告書』に聞き取り、実測図もあり詳しい。)



 率直な気持ちとして、防空壕は危険でこわい。

危ないのはよくわかる。

だから、入らない。

以前、ある戦跡考古学の方が、「壕を利用していた当時は坑木などで補強してあり安全だった。戦争が終わって物資不足のため坑木などを抜いたから、さらに防空壕が危険になった」と教えてくれた。


 遺跡や教育よりも今生きている人間の生命の安全が最優先される。

同時に、きちんと記録するべき歴史が日本にはあると思っている。


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