いつまでも、御塩倶楽部

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河和海軍航空隊

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 愛知県の知多半島に美浜町という人口約2万5千人の町がある。

西は伊勢湾に接し、東は三河湾に接していて、太平洋戦争の頃は町の東側が河和町という町だった。

戦時中、ここの町に整備教育を行う第1河和海軍航空隊と水上機の操縦教育を行う第2河和海軍航空隊の基地があった。

戦時中(日中戦争を含む)に新規で造られた基地なので、計画した海軍内部は資料がないのでどうだったかわからないが、基地予定地に浦戸(うらと)と古布(こう)という集落が二つあったので、土地買収は集落移転も伴う話になった。(写真 上・中)



 航空隊建設の連絡が、地元河和町へ入ったのが、昭和16年3月。

用地買収が8月には始まっていた。



 戦時下、民間で使うことができる物資は少なく、家屋は移築された。

さらに、多くの成人男子が徴兵されているので人手が足りない状況での移築だった。

じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん・こどもによる家屋の移築だった。

集落移転の詳細を知りたい方は、下記参考文献に浦戸・古布地区の当時を知る方々からの聞き取り調査の記述があるので参考にしてもらいたい。



(写真 下)は移転前の古布から移転先に続く道で、ここを解体した家屋の資材を積んだ荷車が通った。

現在、自動車が一台走れる幅しかない細い道路で、古布の九條という交差点で海軍道路と交わっている。


「海軍道路」とは、民間人を基地に立ち入らせないために、造られた迂回用道路である。


戦時下に苦労して移築させた家も、その多くはもう建て替えられて、新しい家になっている。(写真 最下段)
 
(註)地図と米軍撮影空中写真は、展示「河和海軍航空隊と美浜町」(2006美浜町生涯学習センター)の展示パネルの写真に加筆しています。集落の範囲はおおよその範囲を示したものであり正確な範囲ではありません。


参考文献

 山下 泉2007「河和海軍航空隊の歴史」『河和海軍航空隊調査報告書』

整備兵を養成する

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 稲刈りの季節に、第1河和海軍航空隊跡地へ行った。


現在の愛知県美浜町にある。

戦時中は、河和町だった。


 人を殺し、ものを壊すのが軍隊の最終的な行為である。

第1河和海軍航空隊は、飛行機の整備教育を行う練習航空隊である。

追浜海軍航空隊知多分遣隊が、河和海軍航空隊として昭和18年に開隊した。

訓練の内容については、山下 泉氏の「河和海軍航空隊の歴史」(『河和海軍航空隊調査報告書』)に詳しく書かれている。

ここでも訓練は相当厳しかったらしい。

水泳の訓練で泳いでいる時に下(海の底)を見たら黒い海が広がっていた、その景色が忘れられない、
と元隊員は教えてくれた。



 戦争をするには、専門的な知識や技術を必要とし、第1河和空では飛行機の整備兵が養成された。

60年前は整備兵が作られ、現在は米が作られている。

当時の日本中で、搭乗員と整備員が養成されたが、それでも足りなかった。


 この方向(写真)だけでも兵舎が7棟建っていた。

田んぼの中に、少し見えているのが兵員浴場の壁である。

いつまでも、このままであって欲しい。



 昭和21年9月に、名古屋の第八高等学校が第1河和空の跡地に移転してきた。

八高は、昭和22年に火事があり焼失し、8月に再び名古屋へ戻った。


八高があった当時、まだ第1河和空の建物はかなり残っていたらしい。



参考文献

磯部利彦 2007 「河和海軍航空隊に関係する遺構」『河和海軍航空隊調査報告書』

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 河和町(現在の愛知県美浜町)では、昭和19年までに8回の空襲警報が出ていた。

昭和20年では終戦までの8ヶ月間で43回もの空襲警報が出ている。

日本近海まで米軍の空母が進出できるようになったことと硫黄島に米軍の飛行場ができたので、頻繁に空襲されるようになった。

空襲された理由は、航空隊の基地があったことに他ならない。



 昭和20年2月に、第2河和海軍航空隊でも特攻隊が編成された。

燃料不足、飛行機の温存のために、迎撃に上がることは少なくなったと言う。

3月には練習航空隊から第2河和空は外され、空中教育もなくなった。

第2河和空の水上機は、布土(現在の美浜町・河和の北にある地区)、大井(現在の南知多町・河和の南にある地区)などに分散して隠されていた。

武豊町あたりまでに、水上機は分散されていた。



 これら水上機は、海岸にあった松林の中で、擬装用ネットをかけられていた。

国民学校の児童がワラで網を作り、偽装用ネットとして使われた。

伊勢湾台風後に造られた堤防や開発、松食い虫などにより、現在は広い砂浜もないし、松もあまりない。





 先日、布土の堤防裏に、小さな松林を見つけた。(写真左側が海岸線)

こういう場所に、水上機が隠されていたのだろうか。



風景は変わり、知る人も少なくなった。



参考文献

山下 泉2007「河和海軍航空隊の歴史」『河和海軍航空隊調査報告書』

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 愛知県美浜町に「布土」という大字の地名がある。

あまりなじみのない読み方をして、「ふっと」と読む。

ここに、河和海軍航空隊の施設が戦時中にあったが、具体的なことはわかっていない。


 戦時中に河和海軍航空隊の基地を建設するため、道路の整備が行われた。

道路の新設と拡張は、厳密には異なる行為であるが、ここでは整備と表現する。

現在でも道路として確認できるもののいくつかを紹介したい。

一つは、河和上前田交差点から河和中学校南付近に接続する道路。

二つ目は、河和中学校南付近から、現在の古布を経由し矢梨の浜交差点に接続する道路。

この道路は、いわゆる「海軍道路」。

地元では現在でも「海軍道路」と呼ぶ。

この呼び名から戦時下に基地を持つということが地元にいかに大きな影響を与えるか、その重大さを感じる。

三つ目は、現在の国道から旧布土駅付近に接続する道路である。

昭和22年の米軍撮影空中写真で確認できる。

布土に河和海軍航空隊の施設があったことは聞き取り調査で確認できたが、具体的なことまでわかっていない。

1985年発行の『美浜町誌 資料編二』にある「河和中学校の布土分教場」として紹介されている写真がかつての海軍の建物である。

この写真は、2007年発行の『河和海軍航空隊調査報告書』にも引用されているのでご覧になった方も多いと思う。

 このブログの写真は、現在の国道247号から海軍が整備した道路の入口である。

いろいろな所に、戦時中の遺構がある。

地域の歴史は、義務教育の段階できちんと教えてこそ意味がある。

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 河和海軍航空隊跡地(大川〜司令部用防空壕)

 河和漁港(愛知県美浜町)の隣りに「大川」という川の河口ある。

河和漁港は、元々の漁港ではなく、戦時中に航空隊のために造られた港である。

ここから物資が陸揚げされていた。



 大川を上流に少し上ると、柿ヶ坪橋という欄干がオレンジ色の橋がある。

河口から柿ヶ坪橋あたりまでが、航空隊基地建設のために付け替えられた流路である。

戦前の大川は北東に延びていたが、水上機関連の施設を建設するため流路を現在の北に流れる大川の形に変えられた。

海軍は必要があれば富士山も動かす、と言うぐらい戦時下では力が強かった。



 柿ヶ坪橋の南には、現在、田んぼが広がっている。

ここはかつての第1河和海軍航空隊の練兵場である。

練兵場にいた兵隊は、米軍の艦載機などの空襲に遭うと、大川の土手に伏せていた。

練兵場周辺の丘陵には、防空壕が掘られていた。

人間用だけでなく物資を守るための壕もあった。



 練兵場の東端に防空壕が集中する場所がある。

ここは防衛研究所の「第1河和海軍航空隊施設図」にも「隧道式防空壕」とある。

聞き取り調査によると「司令部用」とのことである(『河和海軍航空隊調査報告書』)。

現在は舌状丘陵がえぐり取られており、畑になっている。(写真 上)

だから、構造は一切わからない。

昭和24年に米軍が撮影した航空写真には、防空壕の跡らしき線が見える。(写真 下)

(※筆者註 赤いラインの横に防空壕の跡があります。)
(写真は美浜町生涯学習センター「河和海軍航空隊と美浜町」のものを撮影)


防空壕はそもそも地中に掘られものなので、上空から見てもわかるはずがない。

昭和24年の段階では、天井が落ちていたのだろうか。


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