渡辺茂樹のいたちものがかり

ニホンイタチをこよなく愛するアスワット顧問/動物学者・渡辺茂樹のブログです!

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   初めにまず、著者伊谷純一郎(1926ー2001 )の略歴を記す。ただしその多くは、著者の死後に出た「原野と森の思考」(岩波書店、2006)の略年譜に拠る。一方本書は著者の京大定年退官記念というべきもので、1990年に平凡社から刊行された。

   著者:伊谷は1926年(つまり大正15年にして昭和元年)に、鳥取市で生まれる。父は西洋画家である。おそらくその仕事の関係であろう。生後1ヶ月で京都に移住した。やがて京都府立第三中学校(現:京都府立山城高校)に進むが、第三高等学校(京大教養部の前身)には進学しなかった。代わりに鳥取高等農林専門学校獣医畜産科に入学する。成績不良の故ではあるまい。1944年という時代を思んばかれば、徴兵対策のためと思われる。知識層の出自ゆえ、「徴兵されれば(極めて高い確率で)"犬死"する」と読めていた筈だ。実学系の専攻に進めば、少なくとも前線には出ずに済むと判断したと思われる。

   この読みは当たった。1945年初に学徒動員令が発せられるが、伊谷の配属先は国内だった。兵庫県川西市の陸軍獣医資材支廠に勤務する。以後3年のことは(略年譜が空白ゆえ)不明だ。そして1948年4月に京都大学理学部動物学科に入学する。そこで、今西錦司というカリスマ(ないしはカルト)的生物学者と出会ったのが彼の運の尽き…じゃなくて、開運の始まりだった。

   当時は教養部なんて(無駄な?)ものは無かったのだろう。入学後直ちにJapanese  monkey(ニホンザル)の生態研究を始めた。今西の指導下で、宮崎県幸島にてだ。幸島のサルの「芋洗い文化」は有名だが、それは伊谷が発見した事象と思う。つまり彼は、学生時代に既に世界的業績を上げたことになる。このあと高崎山での調査も始める。そして大学院を出た後の1956年には、日本モンキーセンター研究員になる。京大理学部助教授になったのはその5年後の1961年で、35歳の時だ。助手の職を経てないのが(当時としては)やや異色だが、以後20年間助教授のままで据え置かれることになる。同じ研究室に池田次郎というあまり歳の変わらぬ人類形態学者がいて、教授として君臨していたからだ。池田教授と伊谷助教授をスタッフとする研究室は名称を自然人類学講座といい、Primates(霊長目)…即ちサル(monkey  and  ape)とヒト(human)を研究対象としていた。

   伊谷本人は、助の付く教授であることが凄く不満の人ではなかっただろう。そして1956年(つまりモンキーセンターに就職した年)には、アフリカでape(類人猿)の調査を始めた。初めのリーダーは今西錦司だったが、やがて伊谷が仕切るようになる。初めの調査対象はゴリラだったが、1961年(つまり助教授就任の年)にはチンパンジーに関心を移す。その頃、強力なライバルが出現した。オックスフォード大学系(ただし自身は高卒)の女性研究者:ジェーン・グドールだ。「チンパンジーは道具を使う」ことを発見した人である。その存在がプレッシャーになって…かどうかは知らないが、彼自身の調査対象はやがて「人類」にシフトする。ゴリラ、チンパンジー、ならびにニホンザルの調査は大学院生が行い、伊谷はそれを「指導する」立場になる。院生たちはアクティブに活動して多くの研究業績を上げるが、それは伊谷の指導力抜きではあり得なかっただろう。師の今西に代わって、彼自身がカリスマになるのだ。ただ今西とは違い、カルトには走らなかった。

   伊谷の人類学調査はタンザニアの農耕民トングウェに始まり、ザイールの主力採集民ムブティ(所謂ピグミー)、北ケニアの遊牧民トゥルカナ…とシフトする。その各々で大学院生を職業研究者に育てるが、カリスマたりうる者は現れなかった。サル研究においてもだ。今西は伊谷を育てたが、伊谷は(カリスマという意味では)誰も育てなかった。それは本人の資質の問題ではなくて、「時代の違い」なのだろう。

    伊谷が漸く教授に昇格したのは1981年だ。人類進化論講座という研究室が創設され、池田次郎が教授を勤める自然人類学講座から独立したのである。このとき伊谷は55歳だった。そして、以下より漸く本書の紹介になるのだが…このとき彼は、「体力の衰え」を感じ始めていたようだ。本書のあとがきに、「もし、真のフィールドワーカーとして徹しきれるならば、停年は55歳であるべきだというのが私の持論だった」と記し、更に「私は意気地なしで、自らの持論を実行できなかった」と述べている。そして以後三度アフリカに赴く。「その最初は、北ケニアの旱魃の年のトゥルカナの調査で、22回を数える私のアフリカ行のなかでもっとも過酷な体験を味わった。二度目もトゥルカナの調査だったが、右腕を骨折して帰国した」…という。そして三度目は、「ザイール盆地の熱帯雨林の中で発病し、地獄の敷居を片足までまたいだところで救出されて、多くの方々に大変な迷惑をかけることになった」…とのことである。

 へえ、知らんかった。そんなことがあったのか。ちなみにその年は1987年で、私はもう京大に居なかった。この「厄年」から3年後の1990年に、伊谷教授は京大を定年退官する。以後9年間神戸学院大学教授を勤めるが…その再就職先も(定年で)辞めて2年後の2001年に、死去した。死因は(略年譜には記されていないが)肺癌であると、風の噂に聞いている。

   伊谷が「地獄の敷居を片足までまたいだ」ザイール盆地は低地熱帯雨林で、海抜は100mにも満たないという。其処はボノボ(別名ピグミーチンパンジーないしはビーリャ)の棲息地で、加納隆至、黒田末寿、古市剛史らによって生態調査が行われていた。複数の雌が緩やかに群れを支配するこの動物の社会は、ある意味パラダイスと言いうるかもしれない。それ故にか伊谷は、「この森を訪れることは、私の長年の夢であった」と記している。そして、病床で考えたという以下の述が印象的だ。

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   なぜアフリカ大陸赤道直下の海抜百メートルにも満たないこの森林が、濃厚という表現とは裏腹の寂しい森だったのか。あの森林は新しいにちがいない。そして、これまで私たちが画いてきたこの大陸の自然景観の構造、コンゴ盆地が最も濃厚な森林に覆われ、そこから外に向かうほどに乾燥の度を増してサハラとカラハリの砂漠に至るという同心円構造は、再考の余地はあると思う。
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   この「ボノボの森」には土も石もなく、ベージュの細砂ばかりだったという。それで伊谷は、「もしさほど遠くない過去に、コンゴ盆地がカラハリ砂漠の続きだったとすれば、多くのことを根本的に考えなおさなければならなくなるだろう」と述べている。

   カラハリか…。伊谷の弟子である今村薫(現:名古屋学院大学教授)は、「砂漠に生きる女たち:カラハリ狩猟採集民の日常と儀礼」を(師の死後9年後の)2010年に刊行した。だが、謎は解けていない。彼女は人類進化論講座の出自だが、「進化」という事象にはさほどの興味は無いようだ。と、いうか…「いま在る(サルや"未開"のヒトの)社会を調査しても、人類進化の謎は解けない」と思っているのかもしれない。それは師の方法論の真っ向否定なのだが…伊谷自身も、晩年はそれに気づいていたような気がする。

   この記述がある章「アフリカの再考」が最も印象深いが…私は動物学者伊谷純一郎の真骨頂は、そのキャリアの後期の「人類進化論」よりも前期の「サル学」の方にありと思っている。と、いうか…私は「人類進化」よりも「動物の多様性」に関心大なのだ。私のサルへの関心は、より関心大の「Carnivora(食肉目)との比較」に限定される。本ブログの第90ー91話でその実践を行ったのだが、そのオリジナルは1988年に著した「人間の巣と動物の巣」(雑誌「建築美:極」載)だ。これを書くにあたり私は久しぶりに京大を訪れた。そして伊谷研の院生:岡安直比に、「サルの巣のこと」を教えて貰った。岡安は今村とほぼ同期で、当時博士後期過程の最終学年に在学中だった。

   「サルは殆ど巣を作らないが、原猿のあるもの(ガラゴ等)と、類人猿(のテナガザル以外)は作る。ただし後者は簡易移動ベット形式である」等…そのとき彼女が教えてくれたことの大半の出典は、本書の「霊長類の巣」という章であるようだ。初出は、「新建築学体系」月報9(1982)である。此処での伊谷の「考察」は、さほどのものではない。憚り「私の方が…」と思う。その違いは「Carnivoraとの比較」という視点の有無だろう。伊谷の論にはそれが無いのだ。ただ博物学的関心は大の人だったから、私が指摘すれば(私よりも上手に?)それを行ったかもしれない。

   その伊谷教授と、私は遂に一度も会話すること無く終わった。授業を聴くことも無かった。記憶するのは唯一…人文研で行われた(日高敏隆先生を交えての)シンポでの、「ミミズにも心が有るのだろうな」という呟きのみである。それまで「霊長類しか興味が無い」人と誤解していたので、少しだけ心を打たれた。

   本書の内容に話を戻すと…その他の章は、「法と行動」と「愛と性」が面白い。前者は、「私たちの類人猿の研究は、子殺し、共食い、集団間の雄の死闘と、資料が蓄積するにつれて不気味さが増してきた」…というセンテンスが印象に残る。ニホンザルについて述べた後者は、「 ある交尾期に頻繁に交尾を重ねた(血縁の無い)2種が、近接関係(依存や甘えが許される仲)に入った」のに「この2頭はつぎの交尾期に徹底して性交渉を避けた」…という記述が面白い。このニホンザルの生態について伊谷は、「最近流行りの利己的遺伝子説では解釈出来ない」と論じる。同感である。ヒトは利己的遺伝子説が(全面的には)適用出来ない唯一の動物なのだ。前者につれては…「子殺しは他の(サル以外の)動物にも多く見られるが、集団間の雄の死闘は案外珍しい。少なくともCarnivoraでは稀の筈」と指摘する。あるいはその死闘は、「戦争の起源」なのかもしれない。

    サル類の斯様な奇妙なbehaviourは、「ヒトにもよくある」ことなのだ。共食いは(現代は)稀だが、古にはさほど珍しくなかったことが知られている。現代でも、実質的な(肉を胃に収めることはない)共食いはしばしば行われている。つまり、ヒトは(デズモンドモリスが言うところの)「裸のサル」なのである。その一方で(栗本慎一郎が言うところの)「パンツをはいたサル」であるのが、ややこしい。


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京大理学部女子のこと

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   東京医科大学入試の「女子だけ一律減点」には唖然とした。男女を別枠で採り、その定員数に差をつけるのなら未だ分かる。むろんそれも感心したことではないが、差別を公言しているという意味で「正直」ではある。だが表向き平等を装って差別するのは、最早"discrimination"(英語で「差別」に対応する語)ではないだろう。dis‐は"crimination"(犯罪)を否定する接頭語だから、それは「犯罪には非ず」を意味する。けれども言外に「道義的には感心しないこと」を意味するのだ(ということは本ブログの第94話で述べた)。然るに此度の東京医大の行状はdis‐の付かない"crimination"、つまり犯罪であると思うのである。

   以下は話が変わる。我が母校のことだ。今なおと思うのだが、古の京都大学は女子学生が少なかった。ひとつの学年の合計3000人弱の中で、1割に満たなかったと思う。最多の薬学部で4割程で、次が文学部と教育学部の3割程か。ただ文学部は定員がこれらの中で最多ゆえ、絶対値は最大だ。法学部と経済学部は5分前後で、農学部と理学部は1割前後だったかな。工学部は1000人に近い定員中に一桁だから、5分にも満たない。医学部もそうだ。私が非常勤講師として授業(生物学実験)を担当した学年は、定員100人中に女子は僅か4人だった。

   農学部は定員が300人程だから、例年は30人前後の女子が含まれている筈だ。だが私が入学した学年は女子が異様に少なく、僅か7人しかいなかった。ただ入試成績の学年トップは女子で、食品工学科のHだった。何でそんなことが分かるかというと、入学式の時に各学部の総代を勤めるのは入試最高得点者だったからだ。ちなみに私はHとは、一度も会話することなく終わった。

   理学部の総代の性別は、記憶しない。でも女子ではなかったようには思う。理の定員は農より少し少なめの250人程で、女子は20人程だった筈だ。ただ私が理学部に在籍したのは大学院からであり、同学年の京大理女子とは全く面識が無い。

   斯様な「女子の少なさ」は、むろん入試の一律減点の所産ではない。さりとて、「女子は学力が劣るから」でもないだろう。「女子は本来的に数字や理科が苦手」と言う者が時々いるけれど、私はそのような神話は信じない。女子は、「受験勉強なんて馬鹿馬鹿しいことをやりたがらない」結果ではないか?。故に優秀な女子は、地頭の良さだけで(たいして努力せずに)入学出来る大学等にかなり流れる…のではないか?。異論はあると思うが、私はそう信じる。

   でもま、そのことはこの際どうでも良い。以下が本題である。

   大学院入試に合格したことで、私は初めて京大理女子とお知り合いになった。そのときちょっと異様に思ったのは、理学部は「学部学生が研究室に入って来ない」ことだ。1969年の「闘争」の前はそうでもなかったようだが…当時の理学部教員は、「大学院に合格した者のみ真面目に指導する」スタンスだった。学部学生対象の授業は至ってお粗末であり…つまり、絵に描いたような「大学院大学」だったのである。私は「それって、どうなのよ?」と思ったが…ともかくそれ故、初めは(極めて僅かの)大学院女子とのみ付き合った。ただし数年後には、学部学生とも会話出来る状況になる。

   大学院でもむろん女子はマイノリティで、例えば私と同期入学の30人は、全て男子だった。然るに異なる学年の女子院生の中に、村松研(免疫生物学)の稲葉カヨさんがいたことを記憶する。奈良女子大から来た稲葉さんは、後年に世界的生物学者として有名になる。だが当時は至って寡黙で目立たぬ人で、私は遂に一度も会話することなく終わった。ミーハー的な意味で、ちょっと残念である。

   対照的に割とよく会話したのは、同じ研究室の先輩Nさんだ。稲葉さんと違って、学部からの持ち上がりである。快活な性格で感じの良い女子だったが、頭脳のシャープさは感じなかった。「なんだ、京大理女子はこの程度か」という不遜なことを思ったことを覚えている。ただ人徳のようなものがあり…当時精神的にやや不安定だった私は、彼女の存在に随分助けられたように思う。Nさんはやがて川那部研(動物生態学)の院生と結婚し、その男が東京の某大学に就職するのを機に研究室を去る。博士の学位を取ること無しにであり、以後は専業主婦となった。シャープではなかったNさんだが、知性と教養は有った。研究者養成を強いられない大学の教員ならば、十分に勤まった筈だ。かなり残念である。

   以下には、「京大理動物の女子差別?」について記す。日高研(動物行動学)が誕生する前の京大動物の"華"は、伊谷研と川那部研だったろう。だがいずれの研究室も、女子院生を一人も輩出していなかった。あ、いや、伊谷研には一人だけいたな。ともあれ、大学院入試時に女子にはディスアドバンテージがある…という噂があったのである。

    私がBさんを知ったのは彼女が学部の4年生の時で、彼女は伊谷研を志望していた。でも前述の噂があり…それで気が強いBさんは、本人(の伊谷教授)に「本当ですか?」と問い質したようである。そのことが功を奏して(かどうかは知らないが)、Bさんは目出度く伊谷研の初代女子院生になるのだ。

   このことには注釈が要る。伊谷純一郎は(高名であったにも関わらず)20年間助教授のままで据え置きだった。だからその20年間の伊谷研は「半講座」だったのだ。1981年に新たな研究室「人類進化論講座」ができ、漸く(55歳にして)教授に就任する。Bさんはその2年後の入学で、名実共に独立した伊谷研の女子としては初代なのだ。

   そして僅かに遅れて、Iさんも伊谷研に入学した。 Mさんが犬山の霊長類研究所に入学したのはその数年後だ。そしてそれから更に少し後に、川那部研でも漸く女子院生が誕生する。YさんとUさんで、その年は女子2名(のみ)の同時入学である。この2人は、掛値無しの初代女子だ。

   当初は伊谷研と川那部研に女子がいなかった(前者は「極めて僅かだった」)のは、東京医大的な(女性蔑視丸出しの)メンタル故とは違うだろう。「フィールド研究は女子にはきつい」という配慮故じゃないかと思う。だがそのことは、女子本人には「大きなお世話」なのである。

   この2つの研究室の「女子解禁」の裏には、日高敏隆先生(故人)の"諫言"があったのではと想像する。彼は女子を、むしろ依怙贔屓する人だった。日高研の大学院入試では「女子に下駄を履かせる」という噂があり、それに対して男子院生から暗黙の批判が湧いたことがある。それに対して私は、「女子であることで割を食う今の時世に、ひとつぐらいそういう研究室があっても良い」と公言したことがある。ともかくそういう人だから、二人の教授に物言いをしたのじゃないかと思うのだ。

   院入試の実務段階で、点数操作が行わたことはあるまい。ただ噂を敢えて否定する言明は行われずで、それ故に女子が受験を自重して来た歴史はあったのじゃないかと思う。そもそも、ただでさえ女子が少ない学部なのである。

   はからずも伊谷純一郎と、川那部浩哉(存命)を"謗る"ような言い方になってしまった。でもそう思われるのは心外だ。女子への(当初の)対応は問題無しでもなかったが…いずれも優れた科学者であり、また"文化人"でもあった。川那部氏は存命だが、伊谷氏は2001年に他界する(享年75)。日高先生が亡くなったのはその8年後だ(享年79歳)。死因はいずれも肺癌であり、いずれもヘビースモーカーだった。最近は教養ある者は滅多に煙草を吸わないが、そのような社会風潮が成立したのは今世紀になってからだろう。70代で逝くのが早死にと見なされるようになるのも、今世紀になってからだ。

   京大理女子に話を戻す。あれから約30年の歳月が流れ、Mさんは京大教授になった。Iさんは名古屋学院大学経済学部教授で、Yさんは鹿児島大学水産学部教授だ。Uさんは奈良女子大学と福岡教育大学を経て、現在は滋賀県立大学教授である。そして「京大フィールド系女子のパイオニア」というべきBさんは某自然保護団体の要職に在り、母校の特任教授も兼任する。と、皆様順調にステップアップしているのだが…彼女らは「選えりすぐられた者たち」であり、例外的存在だろう。例えば…男子差別の観が無いでもなかった日高研では、女子は(研究者として)殆ど生き残っていないのである。

   京大の理学部生は、おそらく8割が「科学者になりたい」と願って入学して来る。けれどもその願いが叶う者は多くない。 まず大学院入試で振るい落とされる。大学院入試に通っても、将来は保障されない。とりわけ女子は分が悪いように思う。

   ところで、冒頭で私はNさんを「シャープでない」とくさしたが…そもそも(私から見て)頭がシャープな者なんぞは、この世に滅多にいないのだ。私の大学院同期入学(の30人)でそれに相当するのは、畏友新妻昭夫(故人)唯一人だろう。それでも大半の者は、その後に職業研究者になっている(私は例外)。つまり…男子は「そこそこ」のレベルでも職業研究者になれるが、女子は「相当な」でなければなれないのだ。

   大学院に進学しなかった理学部生の印象は概して薄いのだが、例外的に印象に残っている女子もいる。その一人で放射線生物学専攻を志望していたRさんのことは、本ブログの第103話で述べた。放射線生物学は不人気専攻だったから、受ければ必ず合格したと思う。そうしなかった理由に、ずっと後年になってから気づいた。2011年の3月11日の後にだ。

   福島原発事故の後に知ったことだが…理学部に放射線生物学専攻があるのは、京大と東大だけだという。そしてそのいずれも、"被曝研究"は念頭に無い。放射線のポジティブな"活用"がテーマであるらしい。そのことがRさんには不満で、おぞましく思えたのではないか?。私は彼女とはほんの少ししか言葉を交わしていないので、この推察に自信は無い。そして…Rさんがそのあと医学関係に転出して、改めて"被曝"の研究を行ったとも聞いてない。でも…童顔で、そして正義感が強そうな彼女のルックスを思い出しつつ、「そうあって欲しかった」と思う。

   動物学専攻以外の京大理女子は、全く知らない。ただ最近、旧友Hのパートナーが素粒子物理学専攻大学院生だったと聞いて「へえ?」と思った。此のことは、これ以上述べない。

   いま現在どうなのかというのは…なにぶん約30年間の御無沙汰故、不知である。ただ国立大学法人化と授業料大幅値上げは、日本の大学のレベルを大きく下落させた。京大理学部も例外ではあるまい。それでも「女子は未だまし」(下げ幅が少ない)と思うのは、贔屓目が過ぎるだろうか?。そうかもしれない。ただ、女子は(古も今も)差別されうる存在だ。そのぶん「反骨」というものがあり、反骨は活力に転じうる…と、信じたい。




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音羽山から逢坂山へ


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   初めに日本古典を少々。

音羽川雪解けの波も岩越えて  関のこなたに春は来にけり【藤原定家】
音羽山けさ声来れば時鳥  梢はるかに今ぞ鳴くなり【紀友則】
音羽山木高く鳴きて時鳥  君が別れを惜しむべらなり【紀貫之】
これやこの行くも帰るも別れては  知るも知らぬも逢坂の関【蝉丸法師】
夜をこめて鳥の空音は謀るとも  世に逢坂の関はゆるさじ【清少納言】

   散文では「方丈記」が有名だ。以下にその一節を引用し、合わせて当時の地図(写真1)を示す。

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   その所の様を言はば、南に懸樋あり、岩を立てて水を溜めたり。林の木近ければ、爪木を拾うに乏しからず。名を音羽山といふ。【鴨長明】
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   ただ、長明のこの記述は少し変である。その前に、以下の一文があるからだ。

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いま、日野山の奥にあとを隠して後、東に三尺余の庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。
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   少し後には以下の一文もある。

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峰によじ登りて、遥かに故郷の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師を見る。
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   長明が住んだ日野山とは、現在の京都市伏見区日野の山麓地域と思われる。庵があったのは川沿いだろうが、近傍には標高212mの峰がある。そこから望める鳥羽や伏見は、音羽山からは見えない。音羽山は現在の京都市山科区にあるのだが、その西に連なる東山山系が視界を遮るのだ。つまり記述が矛盾する。故に後世の写本では原文のオトハヤマを(オとハを削除して)トヤマ、即ち「外山」と解読した。でもそれって、原作者を馬鹿にしてないか?。そもそも外山では何のことかわからない。で、私は以下の解釈を支持する。

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元来、音羽山は牛尾山に限らず、北は比叡山から南は宇治山に及ぶ大山系の総称だったと思われる
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   岩波書店の「新日本古典文学体系39:佐竹昭広・久保田淳校注」(1989)の述だ。つまり長明は日野山山麓に住んでいたが、彼自身は其処を「広大な音羽山系の一隅」と解釈していたのだろう。ちなみに牛尾山とは、現在の(狭義の)音羽山とイコールではない。その西南の支峰を指す。

   広域音羽山系の東縁を真南に流れるのは瀬田川で、それは琵琶湖から流出している。古は田上川と呼ばれたこの川の東域に、懐かしの(古の美少女の記憶が残る)田上山がある。瀬田川はやがて西にカーブし、宇治川と名を変える。そして今は亡き巨椋池跡を西に進み…八幡市のあたりで、木津川ならびに桂川と合流する。これが三川合流地点で、それより下流が淀川である。

   桂川の源流は丹波山地だが、北山を源流とする鴨川が(鳥羽のあたりで)それに合流している。 木津川の源流は南伊賀の山々だ。宇治川(上流は瀬田川)の源流は琵琶湖…と言いたいところだが、それは正確ではない。琵琶湖はダムに過ぎないのであり、それに幾つかの川が流れ込んでいるのである。安曇川(源流は比良山地)、野洲川(源流は鈴鹿山地)等がそれだ。

   話がタイトルからずれた。藤原定家が歌に詠んだ音羽川は、現在は山科川という。牛尾山ならびにその少し南の千頭岳を源流とし、北北西に流れて山科盆地に出る。そして、東山山系から南下する四宮川と合流した後…反転して南西に曲がり、観月橋あたりで宇治川に合流するのだ。なお音羽山の北の逢坂山(境界は不明確)には、川と呼べる程の水の流れは無い。

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  2018年の7月27日に、私は山科の(京都東インターチェンジに近い)音羽町から牛尾山に入った。時刻は10時40分だ。山科川に沿って南南東(つまり山科川の流れとは逆方向)に進む約2kmのコースは舗装されていて、緩やかな登りである(写真2)。

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   この川沿い道の周辺はスギ・ヒノキ林だが、道沿いにはカエデの低木がある。落葉木は少ないが、川の縁にガマズミが一本あって赤い実をつけていた。照葉低木はソヨゴ、ヒサカキ、アセビ等。林内はかなり暗く、林床にササは殆ど無い。シダはそこそこあるが、その種多様性は(例えば田上山に比べると)大ではないように思われた。ただ、特筆すべきはマメヅタ(写真3)が多く見られたこと。護岸壁沿いに這うこの植物は、ツタではなくてシダ類である。このシダは、田上山では見なかった。舗装道の路面には干からびたミミズ(種名不明)の死体を散見した。やはり種名は不明のヤスデが1匹。昆虫は甲虫のキマワリとセンチコガネ、ゴマダラカミキリ、そして、そしてゴミムシないしはゴミムシダマシの類。セミは脱皮殻は目に入らずで、鳴声はニイニイゼミとアブラゼミが主である。だがさほど賑やかではない。ミンミンゼミも少しだけ鳴いた。脊椎動物の爬虫類はシマヘビとニホントカゲ。鳥はキジバト、カラス(ブトorボソは不明)、そしてスズメ目と思われるスラッとした灰色基調の小鳥を見た。

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  やがて高木が無い広場に出ると舗装道は終わりで、此処が駐車場になっている。此処から北東に舗装されていない(でも車が通れないこともない)登り坂が200m程あり、その終点が法厳寺だ。この非舗装道を登り始めると路面にマルバマンネングサとチドメグサ(写真4)があり、その近くでシーボルトミミズ(写真5)がのた打ち回っていた。

    法厳寺から先は、車は到底通れぬ山道だ。それを少し登り、尾根に出る。この尾根は京都府と滋賀県の境界で、東は大津市だ。尾根道を北東に進むと、やがて音羽山頂上(標高595m:三角点有り)に至る。法厳寺からの距離は、およそ1.5kmだ。そこで休憩する。展望はあまり良くない。

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   ここまでの尾根コースにもスギ・ヒノキはあるが、やや少なめだ。そしてコナラ、ソヨゴ、ネジキ、タカノツメ、ヤシャブシ、アセビ等が散見出来る。アカマツもあったが、その多くは枯れていた。ただ生きているアカマツの根元では、ニホンリスの食痕(写真6)を確認した。松毬の鱗片を綺麗に剥ぎ、その奥の種子を食べた痕跡だ。エビフライという俗称もあるこの松毬食痕を計7個確認する。比較的狭い地域に散らばっていたので、おそらく1頭のリスが食べたものだろう。あとウグイスの声を聞き、キツツキ(たぶんアカゲラ)が木の幹を叩く音を聞いた。

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   音羽山頂上からの尾根道をほぼ真北方向に進む。植生はそれまでの1.5kmとさほど変わらない。歩き始めてまもなく、ミドリセンチコガネ(写真7)を見た。私は甲虫の色彩を見てもあまり感動しないたちだが、この緑色は美しいと思う。そもそも私は緑が好きで、その色の翡翠(の安いもの)を古の美少女Sに贈呈したことがある。

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   更に進むと、イタチ糞(写真8)があった。断定は出来ぬがたぶんニホンイタチで、それは雌だと思う。川沿い道では計9個のイタチ糞(たぶん)を見たけど、尾根道に出てからの発見は初めてだ。

   更に尾根道を北に進むと、やがてそれまで稀だったヒグラシの脱皮殻が目立つようになる。道沿いに計12個を数えた。でもそれはさほど広くないエリアで、支峰534m地点を(横目に見つつ)過ぎるとまた目立たなくなる。境界がはっきりしないのだが、このあたりからが逢坂山なのだろう。これより北の支峰は、いずれも300m台である。東海自然歩道とも称されるこの尾根道は、整備されていて歩き易い。けれども音羽山と違って、誰とも出会わなかった。逢坂山は観光地化していないのだろう。

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   逢坂山の東海自然歩道はやがて急傾斜で下降する。その道は歩き易いように段差がつけてある(写真9)。そこで、またイタチ糞を確認した。法厳寺を出てから2個目だ。このあたりはまたスギ・ヒノキ林で、そしてヒグラシが鳴き始めた。ただ、蝉時雨という程ではない。そもそも今年は(都市部のクマゼミも含めて)セミの声に元気が無いように思える。沈黙の春ならぬ夏…なんてことを思いつつ急傾斜を下り、15時10分に国道1号線に出た。音羽山頂上からは約2.5kmである。其処は逢坂の関跡だが、観光のため下車するドライバーは多分殆どいないだろう。至って殺風景な名所旧跡である。

   イタチ糞のことをまとめる。なおテン糞は少なく、川沿い道と尾根道で各2個を見たのみだ。去年の秋に川沿い道2kmのみを歩いたが、その時は何故かテン糞が多く、イタチ糞は確認出来なかった。季節移動があるのかもしれない。

   ともあれ此度は…全行程約6kmで計11個のイタチ糞を確認した。うち9個は川沿い道2kmに出たもので、残り2個は尾根道4kmに出たものだ。つまり密度は川沿い道が4.5個/kmで、尾根道は0.5個/kmである。そして一週間前の田上山の踏査では、全て川沿い道(周辺は落葉広葉樹林)の6kmで5個のイタチ糞を見た。密度は0.8個/kmである。 ただし2013年6月には、同じルートで19個のイタチ糞を確認している。密度は3.2個/kmだ。以上の数値から何が言えるか…あるいは何も言えないかは、今のところ何とも言えない。なお糞内容物は川沿い道の3個はサワガニ(のみ)で、他8個は昆虫(のみ)である。ネズミは出なかった。

  イタチがニホンかシベリアかは、音羽山系では(DNA分析も罠捕獲調査もしてないので)不明だ。田上山では15年前に罠捕獲調査を行い、すべてニホンイタチであることを確認した。罠捕獲個体群の密度は約1頭/kmであった。この値の意味するところも、今のところ何とも言えない。そもそも罠捕獲結果は15年も前のものだから、今なお「田上山はニホンイタチの楽園」とは言い得ないのだ。

   とはいえ此度の結果から、些か大胆に「音羽山のイタチはニホンイタチ」と想像する。それは、昆虫に極めて多くを依存している故だ。むろんニホンイタチも、環境によってはネズミ(等の脊椎動物)をかなり食べる。そして、シベリアイタチも昆虫を食べないことはない。ASWATの調査では、クマネズミと昆虫の出現頻度がほぼ同じだった。けれどもボリュームは、クマネズミが遥かに大だったのである。

   つまりシベリアイタチは…ニホンイタチのような「昆虫をチマイマ食う」生活では飢えるのではないか?。昆虫も食べる一方で、ネズミ食が「欠かせない」のではないか?。つまりシベリアイタチは、ニホンイタチのように「貧困に耐える」のが難しい。それが、シベリアイタチが「山にあまり入らない」理由ではないかと思う。概して日本の山林は、アカネズミ(あるいはヒメネズミ等)の密度が大とは言えない。よって其処では、昆虫(あるいはサワガニ・ミミズ等)に頼らざるを得ないのだ。


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またまた田上山


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   滋賀県の田上山(たのがみやま)を訪れると何時も、古の美少女Mのことを思い出す。在学時に自分の描いた絵(写真1)をくれたこのJKのことは、本ブログの第4話で述べた。その絵の商品価値は零だが、私には宝物だ。裏には彼女の署名がある。それに、「17才」と(誇るかのように?)付記してあるのが印象的だ。かれこれ40年の昔のことである。

   ま、それはさておき…先日、またまたその田上山に行った。7月の20日にである。同行者が一人ありだか、むろん美少女ではない。大学入学時の同級生Rで、今春に半世紀ぶりに再会した。地元でお勧めの山はないかと問われた時、「田上山が良い」と誘ったのである。彼は植物に詳しいので、それには疎い(けれども詳しくなりたい)私には好都合なのだった。

   RとはJR石山にて10時に待ち合わせて、信楽方面行のバスに乗った。古にはあった信楽への直行バスが今は無く、田上車庫乗り換えになる。ただミホミュージアム行のバスというのが、この正体不明の(私は行ったことが無い)ミュージアムの開館期間に限ってある。運良くそのバスに乗ることが出来たのが、10時10分である。バスはほぼ満員だったが、何とか座ることが出来た。

   バスは瀬田丘陵を横切って東行し、大戸川渓谷の右岸を更に東に進む。大戸川は信楽に発して西に流れ、南郷洗堰にて瀬田川と合流する河川だ。同じく信楽に発する田代川という河川があり、これは大鳥居という名の地で大戸川と合流する。我々は其処で下車した。JR石山からの料金は730円で、安くない。

   大鳥居は古は集落の名だったのだが、大戸川ダム建設計画が持ち上がったことで住民は退去した。このダムが「出来そうもない」今も、無人の儘である。新名神高速道路建設計画もあって、これは開通した。この道路は大津市が栗東市と接するあたりでトンネルに入り、4km東でそれを抜ける。ちょうど抜けたあたりが大鳥居だ。なお信楽は市ではなく、それは甲賀市に含まれる。忍者伝説で有名な甲賀は、右同じの(三重県の)伊賀市の西に在り、それとは標高差がある。伊賀は盆地なのだ。よって、甲賀びとは伊賀びとを「見下す」傾向があると…冗談とも本当ともつかぬ事を、甲賀出身の友人Kが言っていたことを思い出す。膳所高校を出て京大の農林経済に進んだ男だ。Kともかれこれ40年会ってない。もう(此の世では)会うことは無いかもしれない。

   大鳥居で我々を下ろしたバスは其処で右折し、田代川沿いに南西に走ってミホミュージアムに向かう。我々はその車道をトコトコ歩く。車道だが川沿いなので、時にイタチ糞が出ることがあるのだ。とりわけ橋の傍らではで、この日も早速其処で1個を見つけた。内容物は昆虫だ。ともかくこの時期、近畿のイタチ糞は昆虫が多いのである。糞の外見では、イタチがニホンかシベリアかを判別することは出来ない。15年前の罠捕獲調査でこの地が「ニホンイタチの楽園」であることを確認しているが、今でもそうであるかは不明だ。ただ、落葉広葉樹を主体とする(林床にはササがある)景観は当時と変わってないので、今でもそうだと信じたい。

   3km程歩いた後に右折した。そして緩やかな上りの非舗装の林道を真西方向に歩く。この道もやはり川沿いだが、川には特に名はついていない。田上山から流れ出る水を集めて、東に流れる田代川の支流だ。頂(標高599.7m)を境に其処から西に流れる川もあるが、この日はそちらには行かない。頂の西にはガレ場があり、其処では水晶やトパーズが出る。元々田上山は、地学関係者においては「トパーズで有名」な山なのである。だがそれは取り尽くされて、最近は殆ど出ないようだ。

   植物に詳しいRに、いろいろと教えて貰う。私は木は多少知っているが、草は殆ど知らない。というか…認識の外に在った。だがこの日は改めて、「野に咲く花の名前は知らない🎵だけど野に咲く花が好き🎵」と思った。寺山修司作詞(フォーク・クルセダーズ歌唱)の「戦争は知らない」の一節だ。「戦(いくさ)で死んだ哀しい父さん🎵」「戦知らずに二十歳になって」のフレーズも思い出す。少し後に杉田二郎の「戦争を知らない子供たち」という歌が流行り、「戦争は知らない」は忘れられた。だけど私には、こちらの方が遥かに良い。杉田の詩には無い反戦の心が、寺山には有るからだ。

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   まずはヒメヤブラン(写真2)、ネジバナ(写真3)、そしてカキラン(写真4)。これらが私が名を知らなかった「野に咲く花」だ。いずれもラン科である。田上山は落葉広葉樹が多く、林縁は明るい。よってこれらの陽生植物が出るのだ。ギフチョウの食草として有名なカンアオイ(写真5)は開花していなかったが、その葉の色彩は特徴的だ。アギスミレ(写真6)も開花していなかったが、馬蹄形の葉はやはり特徴的である。谷川の淵によく出るスミレ科の草である。クラマゴケ(写真7)は苔ではなくてシダ類だ。一見花のようにも見える長い穂は、胞子体である。

   木はガマズミ(写真8)をわりと良く見た.だが、このように実が赤くなっているものは少なかった。他に目についた落葉木はコナラ、リョウブ等で、照葉木ではアセビ。ただ…シカの食害が大の地ではアセビが(有毒で食われない故)ひどく目立つのに対し、この山ではさほどでもない。シカの足跡も糞も認められたが、食害は小だ。理由はよく分からない。

   田上山は、このあたりの山林では例外的に落葉広葉樹が多い。おそらくその故でか、山全体が(周囲の山林に比べて)「湿っている」感じがする。山全体の保水力が大なのだろう。古には、頂の近くに湿原があった。そしてモウセンゴケが繁茂していた。今は半ば以上砂に埋まっていて、モウセンゴケは絶滅した。だが砂を浚渫して取り除けば、湿原が回復することもあり得るだろう。なお田上山は、地質学的には花崗岩質である。対して瀬田川の反対側(西)にある音羽山は、堆積岩質だ。

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   この林道コース約3kmでも、イタチ糞が出た(写真9)。計4個が出たが、いずれも田代川支流から5mとは離れていない(写真10)。それ以上離れている糞はテンである。ただテン糞が川の近くに在ることもありだ。イタチ科のこの2種を、糞で判別するのはかなり難しい。

   失われた湿原の地まで行って、来た道を戻った。再び大鳥居に至ったのは、16時半だ。所要6時間弱で、往復12kmを歩いたことになる。1kmを30分弱で歩くペースであり、私が一人で踏査する時よりもかなり早い。

   結局この日は計5個のイタチ糞を確認した。内容物はいずれも昆虫だ。内訳は3kmの舗装道で1個、やはり3kmの非舗装林道で4個である。どちらも川沿い道である(計6kmの)このコースで、5年前の6月には全19個を得ている。でも、この結果から「イタチが減った」と考えるのは早計だろう。このことについては、別稿で改めて考察する。

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    日本には、トカゲ亜目Lacertiliaカナヘビ科Lacertidaeの爬虫類が6種分布する。うち3種は大陸共通種で、国境近くのみの分布だ。北海道北端のコモチカナヘビLacerta  vivipara、対馬のアムールカナヘビTakydromus  amurensis、そして八重山諸島のサキシマカナヘビApeltonotus  dorsalisである。

   残り3種は日本固有種で、いずれもTakydromus属だ。ニホンカナヘビTakydromus  tachydromoidesは渡瀬線の北の分布で、主要4島(北海道・本州・四国・九州)とその属島、ならびに屋久島、種子島、北トカラ(中之島と諏訪之瀬島)等で棲息が確認されている。対してアオカナヘビTakydromus  smaragdimusは渡瀬線の南の分布で、南トカラ(宝島)、奄美大島、喜界島、徳之島、沖縄島等に棲む。背面の色彩が前者は茶色で後者は緑色であり、この2種は一目瞭然で区別出来る。加えて後者は、体形がよりスリムだ。

   残り1種は宮古諸島に分布するミヤコカナヘビTakydromus  toyamaiである。これは従来はアオカナヘビの亜種と考えられていたが、1996年3月に独立種記載された。その種小名からして、沖縄ウテナンチュー:当山昌直(とうやま・まさなお)の記載だろう。根拠は腹面の鱗列がアオカナヘビが6であるのに対して、ミヤコカナヘビは8であることだ。アオカナヘビの側面にある白線が、ミヤコカナヘビには無いことも根拠になっている。

    だが当山のこの論にはやや疑念がある。そもそも亜種なるものは…ある地域個体群が標徴において(他地域の個体群と)「不連続的に」区別でき、にもかかわらず交配すると子が出来る場合の呼称だろう。ミヤコカナヘビの標徴は不連続のようだが、「子が出来ない」ことは確認したのか?。あるいは、傍証として分子遺伝学的解析(遺伝距離の測定)は行ったか?。もしそのいずれもが行われていないとしたら、「本当に独立種なのか?」という疑いを持たざるを得ない。

   でもま、それはさておき…最近、「国内外来のニホンイタチMustela  itatsiによる絶滅危惧種ミヤコカナヘビTakydromus  toyamaiの捕食」という報告書が出た。日本哺乳類学会の和文誌「哺乳類科学」の、2018:58ー(1)  にである。著者は八千代エンジニヤリング株式会社の河内紀浩と渡邉環樹(後者は私とはアカの他人)、ならびに琉球大学博物館の中村泰之だ。八千代という地名は千葉県にあるが、それとは無関係の沖縄の調査会社のようである。だが著者らは(琉大の中村も含めて)、その姓からしてヤマトンチューと思われる。

  ま、それもさておき…この報告書の内容は極めてお粗末だ。日本哺乳類学会がこのようなものを受理して掲載することは、その「沽券に関わる」と思う。「レフリーは誰だ?」とあげつらうつもりは無いが…学会(ならびに著者本人)の名誉のために、「撤回」をお勧めする。小保方晴子の"NATURE"論文の前例もあり、それは可能の筈である。以下には、そうすべきことの理由を述べる。

   この報告書で著者らは…「本種(ミヤコカナヘビ)は生息環境(草地)に大きな変化がない地域でも確認できないほど減少している」とし、その減少要因としてニホンイタチ、ノネコ、インドクジャクによる捕食の可能性を想定した。これまでの僅かな調査結果(例えばUchida、1969)では、宮古諸島のニホンイタチの糞から爬虫類は出ていない。 然るに此度の著者らの糞内容分析の「結果」では…採取された全72個中、2個からミヤコカナヘビの体の一部が検出されたという。それは伊良部島の11個中の1個(つまり9%)と、宮古島の19個中の1個( つまり5%)である。宮古諸島でニホンイタチの定着が確認されているのは3島だ。残りの1つの下地島では最多の42個が採取されたが、それからはミヤコカナヘビは出なかった。つまり、全72個中の出現率は3%でしかない。

   なお宮古島と橋で接続している池間島と来間島も念のため調べたが、ニホンイタチの糞は発見されなかったという。面積が(いずれも)280haのこの2島にも、ミヤコカナヘビはいる。だが当山によれば…そもそもミヤコカナヘビは、「宮古島以外では発見すら難しい」とのことだ。ちなみに宮古島の面積は15833haで、沖縄島の13%程だ。本州と比較すると琵琶湖の24%、東京都の7%の面積に相当する。伊良部島は宮古島の約20%、下地島は伊良部島の30%程の面積である。下地島と伊良部島も、橋で接続している。

   私は、島の「面積」をしばしば気にする。それは、「個体群を維持するのに必要な最小限度の面積」が関心事だからである。ニホンイタチではその値は200ha程であろうと、以前に推定した(本ブログの第30話にて)。それでふと思ったのだが…ミヤコカナヘビが宮古島以外でrareなのは、他の島は(この種にとって)「狭過ぎる」からではないか?。カナヘビはイタチよりも小さいが、だからといって個体群維持に必要な面積も小さいとは限るまい。著者らは、そのようなことは「夢にも思わない」ようだが。あ、これ、宮部みゆきの初期作品のタイトルです。

  話が脱線した。本報告書を撤回すべき理由を以下に記す。最大理由は「考察」だが、「方法」からしてお粗末だ。一昔前なら知らず…現代では、糞内容調査にあたって「DNA分析による(脱糞者の)種の同定」をするのが常識だろう。それを怠っていることからして、rejectに値する。どこぞの聞いたことのない大学の紀要なら知らず、「哺乳類科学」は学会誌なのだ。

  イタチの糞はテンと紛らわしい。そしてニホンイタチとシベリアイタチを糞で区別するのは至難だ。幸い宮古諸島にはテンとシベリアイタチはいない。だが、鳥は時としてイタチ(ならびにテン)と紛らわしい糞を排泄するのだ。そのことは著者らも気にしていると見えて、「直径10mm程度でねじれがあるもの」のみを採取したという。径の値からイヌ・ネコの可能性を排除し、ねじれがあることで鳥ではないと判断したようだ。だが、ニホンイタチでは(雌が雄より著しく小さいこともあって)、径が5mm程度の糞も珍しくない。そして、ねじれが入ってない糞も普通にある。著者らの判断基準では、多くのニホンイタチの糞が漏れてしまう。それと、「鳥の糞にはねじれが無い」とは私も思うけれども…そのように断言する自信は私には無い。それを確かめるためにも、DNA分析はやはり必要だ。

  そして(論文を撤回すべきの)最大理由である「考察」。 前述の「結果」を受けて著者らはまず、「今回の結果は捕食性外来哺乳類によるミヤコカナヘビの初めての証拠であり、その個体数減少の原因についての議論に一石を投ずるものである」と言う。「全然投じてない」と思いますがね。その出現比率は全体で3%、最大値を示す隔離個体群でも9%でしかないのだから。

   それともう一つ、スカベンジングの可能性もある。胃や糞からある動物の破片が出たからとて、捕食(生きたものを殺して食べた)であるとは限らない。このことは我々Carnivoraの研究者には常識だが、一般には見落とされがちのことである。そしてもしスカベンジングが主なら、その餌動物の個体数減少の因にはならない。

   流石に著者らも、原因であると"断定"はしてはいない。「ニホンイタチの捕食がミヤコカナヘビの減少の原因なのかについては、検討の余地がある」と予防線を張り、「宮古諸島へのニホンイタチ導入が1967〜1971年のことであり、2000年代から顕在化したとされるミヤコカナヘビの減少とは、かなりの時間差がある」とも言う。その論はまあ妥当だ。だが、そのあと話が一気に飛躍する。「しかし本結果により、ニホンイタチが少なくともミヤコカナヘビの減少に追い討ちをかけている実態が明らかになった」…このような論理展開を、牽強付会という。

   締めの一文は、「宮古諸島固有のミヤコカナヘビの保全のためには、本諸島からのニホンイタチの排除を視野に入れた早急な対策が必要である」だ。 開いた口が塞がらない妄言だが、「語るに落ちた」と言うべきかもしれない。

   つまりこの調査会社の業務は「結論まずありき」なのだろう。スポンサー(誰だろう?)は、「ニホンイタチ憎し」の念に凝り固まっていた。「ミヤコカナヘビの減少の因はニホンイタチに違いない」と信じて疑わなかった。その他の…例えば、他の動物(ネコやインドクジャク)による捕食が原因である可能性は「夢にも思わず」でである。

   調査会社はそれを裏付けるデータを出すことが求められ、そしてデータが出揃ったら「駆除」を始める手筈だった。ところがあに図らんや、ニホンイタチは殆どミヤコカナヘビを食べてないことが判明する。調査会社は困惑したが、正直に考察してしまうとスポンサーの期待を裏切る。そして、「駆除」のビジネスが成り立たない。それでやむなく、前述の牽強付会の結論を出すに至ったのだろう。

   ニホンイタチは、何故にそれほど憎まれるのか?。その研究者たる私への敵意に由来…ってことは無いだろうな(私はそれほど有名人じゃないです)。キツネ等、民話において野生Carnivoraは概して悪役として登場する。そのことが案外大きいのではないか。

   加えて沖縄のニホンイタチは(「国内」だが)「外来」だ。そのことが、「ヤマトンチューによる侵略」を連想させるのかもしれない。だがその連想は理不尽だ。そもそもニホンイタチは、自由意志で沖縄に渡来したのではない。「強制連行」の形でやって来た。そしてその結果、「ラットの防除」に一定程度の役割を果たした(筈である)。「有難く思え!」などと言うつもりは無いが、そのことを夢忘るなかれである。

   宮古島ではこの他に、ミフウズラ(チドリ目ミフウズラ属)へのニホンイタチの食害も疑われている。トカラのアカヒゲ(スズメ目ノゴマ属)、伊豆諸島のアカコッコ(スズメ目ツグミ属:日本固有種)、同じく伊豆諸島のオカダトカゲへの(やはり国内外来のニホンイタチによる)害も疑われた。そして某か実態調査が行われたが、「決定的ダメージを与えている」という証は得られていない。私はその現場に立ち上がっていないので断定は避けるが、「最適採食説からすれば、イタチが希少動物を選択的に食べることは考えずらい」と思うのだ。

   国内外来にせよ国外外来にせよ、外来種を無闇に敵視するのは良くない。それは人間社会におけるトランプ的な思想…つまり移民排斥に繋がりかねず、危険である。「間引き」を絶対にしてはいけないとは言わないが、それは極力避けるべきだ。個体群の制御は「繁殖適所を減らす」ことで行うというのが、シベリアイタチに対するASWATのスタンスだ。それはニホンイタチに対しても適用しうるだろう。もしその必要があればである。

   ニホンイタチの本来の棲息地(である本州と四国と九州)では、個体群は準絶滅危惧状態だ。だから繁殖適所は「増やさねばならない」のだが…それは、容易なことではない。

   宮古島のニホンイタチの棲息状況は不明だが、それにも大いに関心がある。ニホンイタチは、本来は森の動物(ただし深山幽谷よりも里山に多?)である。宮古島は森が少なく、草地が多いようだ。そのような「慣れない」環境にどのように適応して生活しているか?。それを知ることは、森が多い地での保全の役に立つかもしれない。噂では…琉球大学理学部の伊沢研が、宮古島でニホンイタチの本格的生態調査を始めたという。伊沢雅子は(どこぞの怪しげな)調査会社とは異なり、まともな研究者だ。とりあえず、その成果に期待したい。


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