渡辺茂樹のいたちものがかり

ニホンイタチをこよなく愛するアスワット顧問/動物学者・渡辺茂樹のブログです!

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鹿児島県霧島紀行


  鹿児島県は九州の南端にあり、クワガタムシの双角を下(南)に向けた形をしている。右(東)の角が大隅半島で、左(西)の角が薩摩半島だ。その形状を裏返して上(北)に向けると、本州北端の青森県に似る。右(東)の角は下北半島で、左(西)の角は津軽半島だ。いずれも火山地形であり、鹿児島の錦江湾は200m余の深さがある。だが何故か青森の陸奥湾はその一割程の深さしかない。薩摩半島の南端には薩摩富士と呼ばれる開聞岳があり、その1km北東には日本で2番目の深さ(最深300m余)の池田湖がある。錦江湾の中央にある桜島(東端は大隅半島に連結)が今なお煙を吐く活火山である故か、海底には熱水の噴出孔がある。そのため、通常は深海の海嶺付近に分布するハオリムシが棲息する。ハオリムシは口も肛門も持たず、体内に共生する化学合成細菌のはたらきで生存するユニークな動物だ。だが何故か鹿児島県民は、ハオリムシを県のシンボルにはしていない。鹿児島県のシンボルは、馬鹿の一つ覚え的に「西郷隆盛」である。

   鹿児島県は文化的に6つのエリアに区分しうるが、それはこのブログの第104話に記したゆえ再述しない。自然地理的には基盤の多くが花崗岩と安山岩で、表層は火山灰由来のシラスから成る。シラスは養分に乏しい故、この地は農業生産性が高くない。植生は気候的には照葉樹林帯の筈だが、その森林は多くない。遷移初期段階の落葉広葉樹と、人工林であるスギ・ヒノキ林、ならびに竹林が多くを占めている。スギ・ヒノキ林と竹林は、野生動物の棲息には「好適とは言えない」環境である。

   此度の鹿児島紀行は1泊2日と短期の故、空港を有する霧島市の探索をメインとした。宿泊は霧島国際ホテルであり、私にしてはえらく「贅沢」である。だがなにぶん、飛行機の割引きチケットとタイアップした安宿は無いのだ。新幹線を使うとむしろ割高になる。「貧乏人は旅をするなということか?」と言いたくなる。

   でもま、仕方ない。2018年4月24日の7時20分に伊丹空港を出て、霧島市の南西にある鹿児島空港に向かった。ほぼ1時間後に(定刻通りに)到着し、東京から来る金子弥生(東京農工大学)を待った。合流し、金子の運転するレンタカーで調査を始めたのは10時少し過ぎである。

  調査の眼目はニホンアナグマ(以後はニホンを省略)だが、1泊2日の行程では個体数推定等を行うのは無理である。とりあえず棲息環境を実見して、「イメージを掴みたい」と思った。だが生憎の雨である。そのため基本的に車から降りず、車窓からの眺めでイメージ作りをすることにした。その眺めは「近畿の農山村とあまり変わらないな」と、最初は思えた。とりわけ森林植生は「似たようなもの」だ。だが農地は、なんか違う。「あ、そうか」とすぐに気づいた。水田が殆ど無いのだ。そして、麦畑がかなり多い。おそらく焼酎にするのだろう。耕作放棄(と思われる)地も広がっている。ただ、レンゲを植えている地はかなりあり、此処はいずれは農地になる筈だ。それが水田か畑地かは不明だか、「近畿に比べれば畑作が盛ん」とは言い得よう。

   水田はニホンイタチの棲息には(餌場として)「良いもの」だが、アナグマにとっては畑地の方が望ましい。主要食物であるミミズの棲息に好適だからだ。ただ、畑地(ならびにその耕作放棄地)ならば常にミミズが多いとは限らずで、「シラス台地には少ないのでは?」とも考えうる。それともう一つ気になったのは、柿の木が全く見当たらないこと。その果実は、秋にアナグマ(ならびにニホンテン)が大いに依存することが知られている。それが無いということは…この地のアナグマの食料事情は、かなり悪いのではあるまいか。

   ただ鹿児島には柿の代替になりうる食物がある。それは日本最大のミミズであるシーボルトミミズだ。普通のミミズの寿命は1年で…そして秋に産卵するのに対して、シーボルトミミズは3年生きる。産卵は夏であり、秋には越冬のために谷間に集まるという。であるならば、越冬のために栄養を貯えねばならぬアナグマの餌として格好ではないか?。ただこれは私の「妄想」であって、本当にそうであるという確証は無い。その密度も不明である。

  森林の奥の道も走ってみた。林内はかなり暗く、日当たりの良い斜面を嗜好するアナグマの居住環境(穴を掘る場所)として適当とは思えない。そして地面の傾斜がかなりきつい故、腐植土が溜まりにくい筈だ。ということはミミズが少ない筈で、食物条件も良くない。住宅事情においても食物条件においても…「こういう場所はアナグマは好まない」というのが、私と金子の一致した見解である。アナグマに限らぬが…森の動物は、森林さえあれば何処にでも棲めるというものではない。その「質」が問われるのである。

   昼過ぎには雨は更に強くなり、窓の外が良く見えなくなった。「こりゃいかん」と思い、予定より早く宿(霧島国際ホテル)に向かった。霧島火山帯の最高峰は韓国岳(からくにだけ)の1700mだが、ホテルの所在地はそれほどむろん高くない。それでも600mはあるだろう。この標高ではアナグマは「いても少ない」と思われる故、調査の対象にはしなかった。そして「本格的な温泉に入るのは何年ぶりかなあ」と思いつつ入浴し、身分不相応でゴージャスな夕食をとった後、早めに就寝した。明日の天候回復を祈りつつである。

   翌朝は「霧で真っ白」だった。元々霧島温泉は「蒸気が白く吹き出している」地なのだが、それに朝霧が混じって「10m先は見えない」状況である。これでは車の走行は厳しいのではと思えたが、9時頃には薄くなった。雨は降ってない。「よっしゃ」と思い、車で坂を下った。

   シーボルトミミズは農地には少ない。どちらかと言えば、森林棲のミミズだ。ただ…このブログの第46話に記したように、高知県の天狗高原の放牧地には多くいた。牛糞に依存しているのだろう。そしてアナグマはそれを食べていた。鹿児島ではどうかは不明だ。そもそも、鹿児島県には放牧地というのがあまり無い。霧島高原には2つあるが、それらは(いずれも)微妙に宮崎県なのである。此度の調査の眼目はあくまで「鹿児島県のアナグマ」なので、其処には行かなかった。そして結局、此の地でシーボルトミミズを目撃することは無かった。

   霧島市のあちこちを走り、その東の(大隅半島基部にある)曽於市にも行った。そして気づいたのだか、このあたりは新しい道路がやたら多いのだ。それは真っ直ぐで広く、スピードを出し易い。そのことは鹿児島県全体の傾向ではないか?。船越公威は「最近アナグマのロードキルが増えている」と主張するのだが(このブログの第104話参照)、それにはこの事も関係すると思う。道路は出来て間もなくはロードキルがやたら多く、歳月を減ると少なめに安定するという話を聞いたことがある。私は船越のデータの信憑性を疑うのだが(何せ彼は死体を自分では見てない)…もし真としても、「だから鹿児島県はアナグマが増えている」と断定出来ないだろう。異なる数の捕殺罠(つまり道路)で得られたデータを比較して、個体数の多少を云々するのは乱暴でイメージ 1ある。

   調査は午前中で終え、午後は「観光」をすることにした。錦江湾の西岸を南下し、西郷隆盛蘇生の家まで行った。西郷が僧月照と「男色心中」を試みて、彼のみ生き残った地だ。そしてその近くで、団子を食べた。その団子売りのオバサンから聞いた話はなかなか面白かったが、具体は省略する。

   この紀行の締めは、「泥地の足跡」(添付写真1)のことだ。場所は霧島市の南端で錦江湾の北岸。町名は隼人町である。観光に出る前に其処で弁当を食べたのだが、その際に偶然発見したのである。調査は終えたつもりだったのに、最後に意外な(そしてラッキーな)ものを見たのだ。

   その泥地は放水路(添付写真2)の底にある。其処に複数種の、多数の足跡があった。最も小さい足跡は、おそらくニホンイタチの雌だろう。それとタヌキとネコかな。アライグマの(掌状の)足跡は見当たらぬ。最大サイズのものはイヌだろうか?。でも散歩途中の飼犬が、斯様な放水路に入るとは考えにくい。そして、周囲の(レンゲが植えてある)草地に野犬の痕跡は見当たらぬ。金子は「キツネでは?」という説を唱えたが、私は「どうかなあ」と反応した。村上隆広(知床博物館)によると、「キツネの足跡はイヌに大変似ていて、単独での判定はまず無理」とのことである。つまり「状況」で判断するしかない。それからすると、「キツネと断定は出来ないが、その可能性あり」かな。

   これらが何故泥地に足跡を付けたかというと…放水路内にアメリカザリガニがいて、それを食べに来たのではないか。ただ水量がかなり多いため、ザリガニの確認は出来なかった。捕食のために水に潜らにゃならぬとなると(ニホンイタチはそれはお手のものだが)…大型の足跡がイヌである可能性は、ますます下がるように思われる。

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   以下は蛇足。私が鹿児島から戻って数日後に、ASWATの福永よりメールが来た。彼の実家は鹿児島県の伊集院で、我々が霧島に行く数日前に帰省していた。そのとき親戚がいる霧島にも足を伸ばし、聞き取り調査を行ったという。以下はその結果である。


 「 親戚にアナグマの件を聞いてみたけど、"墓の花を食べる"などとチンプンカンプンのことを言っていた。アライグマではないか?」とのことだ。更に「狸汁(実はアナグマ汁)を食べたことは?」と聞いたが、「そんなもの知らない」とのことである。つまりアナグマは存在を殆ど認知されておらずで、おそらく数も少ないと思われる。霧島に限って言えば、それを食べる習慣は無いようだ。

   福永はASWATの本業たる「獣の家屋侵入形跡調査」も行ったが、明確なものは見つからなかったという。よって「シベリアイタチは(鹿児島にいるという報告はあるものの)、いても少ないのではないか?」というのが、福永の判断である。ちなみに前述の放水路界隈の景観は、近畿ならばシベリアイタチAreaだ。其処でニホンイタチ(の雌)らしき足跡が発見されたということは、「鹿児島県にはシベリアイタチが少ない」ことの傍証になる。アライグマについては、「鹿児島県の家屋建築構造からして、侵入しにくい」と福永は言う。ならばアライグマは森林内で繁殖することが多く、そのことでアナグマと競合する可能性も有り得よう。


   

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イメージ 1   私はこのブログの第102話に、「京大女子のこと」という文を記した。それには己が所属した農学部と理学部の女子は登場しない。同ブログの第103話「動物学女子のこと」には理女子が2人出て来るが、農女子は"未だ"である。そして此度初めて登場する。その名はN.T.で、皆からはTENKOと呼ばれていた。学年は私よりも少し下で、所属は農芸化学科。出身高校は兵庫県西部の名門校姫路西だ。

   実は私は、彼女を一度しか見たことがない。そして会話していない。農学部には(理学部に転籍する前に)、6年間居たにもかかわらずだ。その一度は1969年の学生大会。無期限バリスト続行を決議することになるその大会に、彼女は仲間数人と共に途中参加した。そのとき彼女は未だ教養課程の学生で、専門課程(の3ー4年生)の学生大会では決議権は無い。けれども「連帯の挨拶」をするために参入し、我々はそれを拍手で迎えた。実際にマイクを持って挨拶したのは男子学生だったが、彼女がリーダー格であるのは明瞭だった。小柄で"可愛い系"のルックスだが、その目はpantherのようであった。オーラを発していたとも言いうる。後日に「小悪魔」と評した者がいるが、そうとも言えるかもしれない。日時は忘れたが、1969年の初夏だったように思う。

    その時のその女子の印象は強烈で(と感じたのは私だけかもしれないが)…私は、「あれは誰だ?」と思った。その時の専門課程にも女子は(3ー4年生を合わせて)20人程いたが、オーラを発するような者はいなかったのだ。で(誰にも言わずに)…秘かに調べ、「農芸化学科のN.T.らしい」と知ったのである。ちなみに当時の農化は農学部の最難関だ。私が志望しても(志望しなかったが)、たぶん合格出来なかっただろう。

   正体が判れば、それで私の関心は薄れた。お近づきになりたいなどとは、思わなかった。その頃私は己の大学の女子学生が眩しく、曰わく言い難しのコンプレックスを感じていたのだ。私が京大女子と「せめて袖を擦り合わせたい」と思うようになるのは、後年のことである。

   ただその日から少し後に、私より下の学年の男子から彼女の「噂」を聞くようになる。詳細は語られずだが、"TENKO"という符丁をしばしば耳にするようになるのだ。で、私は思った。「TENKOは彼等にとって女神のような存在ではないか?」…と。

   だがそれにしては、奇妙に思えることがあった。彼女の姿を全く見ないのだ。噂のみが(半ば神格化されて)流布し、御本尊は現れない。それって、本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」の"鬼頭さん"のようなもの…と連想したのは後年のことだが、ともかくそういう感じだった。

   やはり後年(というか"極く最近")に知ったことだが…TENKOはその後、工学部に出没することが多かったようだ。農学部は、1969年11月の「無期限バリスト自主解除」を機に"正常化"された。そのあと専門課程に進学して来たTENKOには、それが不満だったのだろう。一方工学部は、未だささやかに"争乱状態"が続いていた。例えば学部長室占拠が行われていて、奥平純三(テルアビブ空港で爆死した奥平剛士の実弟)等々も出入りしていたという。TENKOは農学部生としては唯一人、その中に加わっていたらしい。

  全くの憶測だが…彼女は、農学部の仲間からマドンナ(ないしは女王様)視されるのが嫌だったのではないか。真に知的な女性はそういうものである。女王様然として喜ぶ豊田真由子、稲田朋美…あるいは小保方晴子の輩はパアである。男共が己の利権目的で創ったその座にうかうか座ると、やがては奈落に叩き落とされる。彼女の工学部での活動状況は知らないが、たぶん其処も安住の地ではなかっただろう。

   私の持論だが、「志ある女性にとって、美しいことは損」なのだ。むろん、たまたま美しく生まれて来た女性が己を恥じる必要はない。時にはそれを「武器」として利用することがあっても良いだろう。だがその際には細心の注意が必要だ。「性の魅力」は劇薬なのであり、使い方を誤ると身を滅ぼす。

   荒畑寒村の「ロシア革命前史」に登場するヴェーラ・フィグネルのことを想起する。富裕な貴族の家に生まれたヴェーラは、その美貌と才知により"革命の女神"に奉られる。男の同志達は、何かというと「ヴェーラが…」と彼女の言を反復したという。そしてやがて彼女はロシアの官憲に逮捕され、投獄される。苦難の歳月が過ぎ…20世紀初に特赦で解放された時には、神経痛とリューマチに悩む哀れな老婆に変わっていたという。実年齢は未だ中年であるのにだ。そんな彼女を、レーニンとトロツキーは無視した。

  1960年代末に刊行された本書をTENKOが読んでいたか否かは、定かでない。でもともかく、彼女はヴェーラの轍を踏まなかった。連合赤軍に合流しなかったし、パレスチナにも行ってない。風の噂では…リケジョとしての技能を生かし、その世界でそれなりに"活躍した"とのことだ。地味にだが、志を果たし得たのじゃないかと思う。

  嘉田(旧姓渡辺)由紀子は、TENKOとほぼ同じ世代だ。やはり(仲間内では)秘かに知られていた彼女は、やがて"世に出た"。滋賀県知事として奮迅し、派手に生きた。だが昨年の衆議院議員選挙に(滋賀1区から)出て敗北し、"政治生命は終わった"という感じである。学生時代に嘉田よりむしろ有名だった(?)TENKOには、"最後の一花を咲かして欲しい"と願う。ただし"政治家として"ではない。それはこの期に及んでは無理だろう。でも、"言論の力"の行使は出来るのではないか。

   TENKOさん、如何です?。貴女は自己顕示欲大のひとでは無いだろうけど、一度は世に出ても良いのでは?。もし未だ存命であるならば。

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イメージ 1漱石は"こころ"ばかりが何故もてる至高の作は"三四郎"だが
東京は罰せられねばなりません汚濁に満ちた虚飾の街は
この街の何処かに君が住む限り東京今も光の都

  この作品に就いては司馬遼太郎の優れた書評がある。「街道をゆく」シリーズの「本郷界隈」(1992)だ。これを書いて4年後に司馬は(享年72歳で)死ぬのだが…まずはその内容を抜粋紹介し、然る後に私論を重ね合わせる。

  司馬の論は、「文明の配電盤」という語に要約される。つまり、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する配電盤になった。同時に、下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たしたのだ」と司馬は言うのだ。ちなみに彼は大学を出ていない。最終学歴の大阪外国語学校は、未だ大阪外大になっていなかったのだ。だが彼は基本的に独学の人であり、それ故にこのような発想が出来たのだろう。ちなみに松本清張は高等小学校が最終学歴だ。20世紀後半を代表する二人の「知の巨人」が、自身は配電盤から遠かったというのは興味深い。

  ストーリーが進行する時代は明治40年(1907)だ。主人公の小川三四郎は熊本の第五高等学校を出て、東京帝国大学に入学するために汽車に乗る。ちなみにこの時代の日本に大学は…本郷にある東京帝大と、創設間もない京都帝大の2つしか無かった。帝国の名前が付かない私立の大学や、東北、北海道、九州等に帝大が創られるのはその後のことだ。そしてこの時代は大学入試などというものは実質上無かった。全国に一桁の数だけある高等学校を出ていれば、東京か京都の帝大にほぼフリーパスで進学出来た。高等学校は難関だったが、それでも「英語がある程度出来れば…」であった。未だ評価が定まらない京都帝大を選ぶ者は少なく、青年は荒野…ならぬ(それとは真逆の)東京を目指すのであった。
   つまりこれは「東京という街」が主人公の物語であり、煎じ詰めれば「東京大学小説」だ。司馬によれば「"三四郎"という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語」…なのである。更に司馬は、以下のようにも言う。

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   明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できねば、なんのことかわからない。主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。だからこの主題は同時代のアメリカに置きかえることはできない。一人の青年がワシントンD.C.にむかってゆくということをもって、"三四郎"の筋を借りようとしても成り立たないのである。

  その意味で、明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない。

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   極めて的確なる書評だが、司馬以前に斯様にこの作品を評した者はいなかった。例えば柄谷行人は漱石が暗喩として籠めた文明論に全く気付かず、この作品を単なる青春小説と見做している(1985)。そしてその観点からの洞察もピンボケだ。例えば三四郎とそのマドンナの関係について、「この出会いを恋というならば、彼らは恋しあったといってもよい」などと大ボケをかます。柄谷は(愚者が多い)文芸評論家の中では「まし」な存在だが、女心というものが全く判らぬ人らしい。

   ま、それはさておき…司馬は、本作品を「西遊記」にたとえてもいる。三四郎の東京行きは取経の旅であり、天竺は本郷(東大)だ。そして其処には妖怪が跳梁する。親友の佐々木輿次郎(東大選科学生:今日の聴講生のようなもの)も妖怪と言えぬでもないが、どちらかといえば従者:猪八戒だろう。沙悟浄は広田先生(第一高等学校:東大教養学部の前身の教諭)で、孫悟空に相当する者はいない。敢えて言えば野々宮さん(東大理学部助手:寺田寅彦がモデル)だろうが、三四郎は彼をそれと認識しなかった。

   主たる妖怪は二人だ。まずは氏名不明の「汽車の女」。乗り合わせた三四郎を"誘惑"し…危ういところで踏みとどまる三四郎に、「あなたは余っ程度胸のない方ですね」という強烈な捨て台詞をぶちかます女性である。そして女は「にやりと笑った」。で、「三四郎はプラットフォームの上に弾き出された様な心持がした」のである。実をいうと…これと似た体験が私にも無いではない。女は怖い…けれどもつい、魅せられる。

  そして、もう一人の妖怪も女性だ。その名は里見美禰子で、三四郎のマドンナである。里見という姓は千葉房総に蟠踞した武家のものだから、彼女は士族の末裔だろう。三四郎は肥後(熊本)の富農の出自であるに違いない。その二人は、旧加賀藩屋敷内に設けられた東大本郷キャンパス内で遭遇する。ただし彼女は東大の学生ではない。相応の学力は有するが、この時代の女子には帝国大学入学資格が無かったのだ。

  二人は池の畔で出会う。それは当時は心字池と呼ばれ、現在は三四郎池と呼ばれる。其処での出会いは「厳密には、三四郎が一方的に彼女をみた」のだが…美禰子も、自分をじっと見つめている青年がいることに気づいていた。そして、「三四郎の前をとおるとき、白い花をおとしていった」のだ。この思わせぶりな所作は三四郎に強烈な印象を与える。そしてこのあといろいろあって(美禰子が広田先生と親しかったという縁もあり)…二人は「袖擦りあう」ようにはなる。三四郎はより親しくなりたいが、美禰子はそれを許さない。つまり二人の関係は…柄谷行人が言うような「彼らは恋しあった」などというものでは、断じてない。

  それでも益々お熱を上げる三四郎を、輿次郎が窘める。「君、あの女の夫(ハスバンド)になれるか」…そう言われて三四郎は「云はれてみると、成程疑問である」と気づくのだ。そのあと三四郎は野々宮さんに嫉妬し、広田先生と美禰子の仲も疑う。そして、やがて美禰子が(その二人のいずれでもない男性と)結婚することを知る。別れのときに美禰子は「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」と小さく呟き、そして三四郎にとってuntatchableの存在になるのだ。

   司馬は美禰子のこの言を「華麗なものである」と評する。そしてそれ以前の彼女の三四郎に対する所作を「結婚することなど頭から考えずに、いわばなぶるのである」と総括する。「なぶる」か。巧いことを言うなあ。ただその言い方は(美禰子に対して)やや酷と思えぬでもない。この時代は(前述のように)女性に帝大入学資格が無く、高等教育を受けられなかった。だから己の力でキャリアアップすることは難しく…望ましい人生を送るためには、配偶者を厳選せねばなかったのである。今日風の結婚観で、彼女のbehaviorを断罪してはなるまい。そしてそのような状況下で、ストレス発散の目的で(?)三四郎をなぶったことは責められまい。

  そもそも三四郎は、美禰子になぶられたことを不快に思っていないだろう。彼はおそらく、美禰子が妖怪であることに気づいていた。何せ里見家があった房総は、妖怪小説「南総里見八犬伝」の舞台なのだ。そして三四郎は…女妖怪の美禰子になぶられることに、ある種の「快感」を感じていたと思う。私もそうだから判るのだが、彼はM(マゾヒスト)だ。つまりこの作品は、日本のSM文学のプロトタイプなのである。

   再び「西遊記」に喩えれば、美禰子は孫悟空にとっての観音菩薩だ。あの二人の関係は、どう考えてもS(菩薩)とM(悟空)である。菩薩が(玄奘に介して)孫悟空にお仕置きをすると、天下無敵の悟空が苦痛と快楽に悶える。あれも、どう考えてもSM文学のシチュエーションだ。中華文学にも造詣が深い漱石が、観音菩薩のサディズムを美禰子に投入したことは間違いない。

  私が本作品を初めて読んだのは高3の3学期で、京大入学のために「箱根の坂を三四郎とは逆方向に越える」直前だ。小説の時代から丁度60年後のことである。そのとき私は、「私の美禰子」に京の地で出会いたいと思った。その時ははっきりと自覚しなかったが、己の大学の女子に「なぶられたい」と願った。その願いは、叶ったような叶わなかったようなである。その顛末は、本ブログの第102話「京大女子のこと」で記した。「われは我が愆を…」に似た台詞は彼女らからは聞かされずで、聖母女子と明大女子から下賜された。前者はブログの第41話、後者は同第97話で回顧している。

   ところで小川三四郎は、本郷という天竺で経典を得られたか?。そもそも本郷に本当に天竺は有ったのか?。漱石はそのことをはっきりとは書いてない。だが司馬遼太郎は、"無かった"とほぼ断言している。「漱石は文系の教室での風景をわざと気のぬけたものにしている」ことを理由にしてだ。ただ、理系の教室にはあるいは有ったかもしれないと匂わせる。つまり、「理科大学(今日の理学部)の実験物理の野々宮さんの部屋」にはである。

  今日的観点からすれば、野々宮さん…こと寺田寅彦の業績はたいしたことはない。彼は日本文学史上の人だが、科学史上の存在ではない。それでも文系学者に比べれば、より天竺人に近いひとであったと言えるだろう。

   この稿の締めとしてもう一つ。添付写真のセンテンスのこと。三四郎が「汽車の女」から与えられたショックから覚めやらぬ時、広田先生と(未だそれとは知らずに)出会う場面だ。この時の広田はやや妖怪的である。そもそも彼にイメージが投影される沙悟浄は、元妖怪なのだ。その特異なキャラは、30年後に中島敦の短編において見事に造形される。司馬の「広田は沙悟浄」の論は、おそらく中島にヒントを得たものだろう。

   司馬遼太郎はこの時の広田の語りを、「ひげの男の予言が、わずか38年後の昭和20(1945)年に的中するのである」と評する。その通り。付言すれば、この2年後の大逆事件のダメージも大きかったろう。関川夏央は「このとき日本の青年期たる"明治"は事実上終焉した。そして日本と日本人は、昭和20年の破局に至るレールの上をたしかに走りはじめたのである」…と記す。「坊ちゃんの時代Ⅳ.明治流星雨」(1995)の述である。
   そしていま…は、敢えて述べない。


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イメージ 1  著者は1985年の生まれだ。この本が出たのは2001年だから、そのときシックスティーンである。その年齢で著書を出すのは快挙だが、それは(本人の能力もさることながら)特異な体験の結果だろう。

   前述年に兵庫県で生まれた著者は、USAの西海岸で幼少期を過ごした後に帰国。小6時に英検一級を取得して、中1時にはTOEFL670点を獲得した。更に中2時にはTOEIC975点を得て、国連英検特A級を取得した。そして中3時の2000年9月に、USAの名門私立共学全寮制ハイスクール:チョート校(正式名称:チョート・ローズマリー・ホール校)の2学年に編入学する。本書は彼女が未だチョート校在学時に執筆され、出版されたものである。

  絵に描いたような「才女」の体験記だが、自らを誇るような気分は認められない。USAのエリート校がどのようなものであるかを淡々と描写し、日本の英才教育の底の浅さを(暗に)告発する内容になっている。ちなみにかの国のエリート校は、有名大学への合格者数を競うようなものではない。そもそもこの学校を出れば、USAの名門大学の何処でも(推薦と面接のみで)入学出来るのである。

   チョート校は4年制で、1年時は日本の中3に相当する。卒業のために学ばねばならぬ必修単位は全45で、科目は外国語、数学、国語(つまり英語)、歴史、理科、歴史だ。日本における英数国理社にほぼ相当する。 地理や政経は必修ではない。これらは中学で既に学んでいるのだろう。倫理は哲学として選択科目に含まれる。芸術(美術・音楽・演劇)も選択科目だ。必修科目の履修は3年時で終了し、4年時は選択科目のみを学ぶ。選択科目には心理学等もある。

   必修科目の国語は1年時は文学入門、2年時は作文と文学、3年時は国文学(つまりアメリカ文学を学ぶ。歴史は2年時に世界史、3年時に国史(つまりアメリカ史)だ。理科は1年時は物理、2年時は化学、3年時は生物で、地学は選択科目回しである。数学は1年時は代数Ⅰ、2年時は幾何、3年時は代数Ⅱを学ぶ。そして外国語は、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ロシア、中国、日本、ラテンの8つの言語から3つを学ばねばならない。日本語は(異形の故でか?)かなり人気があるという。

   注目に値するのは「体育が無い」ことだ。私は生徒時代にこの科目が大嫌で、「体育が無ければ学校はどんなにか楽しいか…」と思った。そして運動会は地獄だった。「こんなもん、学校でやるもんじゃない!」とも思った。USAのチョート校は、私にとってのパラダイスであるようだ。

  教科の内容について記す。まずは数学だが、「宿題が多い」のが特徴だ。教科書の次の章を読み、20程の設問を解く。翌日の授業では生徒が「わからなかったところ」を五月雨的に質問し、教師は逐一それを解説する。つまり「授業は、わからないところを解決する場である」というのが、この学校のスタンスである。試験は行わない。つまり解けない設問があっても単位認定に影響は無い。だから質問をしなければ、わからない設問は永遠にわからぬ儘である。

   化学も同じ方式だ。ただ数学と違って実験がある。毎週月曜に、2時間連続でそれを行う。そしてその後に、必ずレポートを提出せねばならない。レポートには、目的、手順と観察、結果と考察、そして「誤差やミスの分析」をせねばならない。むべなるかなだが、日本では大学院の学生もそれを怠ることがしばしばだろう。小保方晴子は「ノートをつけてなかった」ことがマスコミで報道された。ま、彼女の実験はエア(実際は行われなかった)故、それは当然だが。

  具体的な実験の内容では、ビニール袋と重曹と塩酸を渡されて、「袋を二酸化炭素で(過不足無く)一杯にせよ」というのが面白かった。そのためにはまず袋の(満杯の)体積を知らねばならない。そして部屋の気温と気圧を測りる。そして二酸化炭素の分子量と気体の状態方程式から、袋の満杯に相当する体積を計算する。更に反応式と各物質の1モルあたりの数値より、体積相当の生成物(二酸化炭素)を生むのに必要な反応物(重曹と塩酸)の質量を弾き出すのだ。かなり高度な実験だが、著者は一発で成功したとのことである。著者はやがて大学の文系学部に進むのだが、理系の才能もあったということだ。

   化学の実験では「ガンマ線の貫通力を調べる」というのもあるという。へえ、流石だ。被爆国日本では、放射線のことは(座学としても)殆ど教えられないのにである。

   ちなみに日本は「唯一の」被爆国ではない。USAもそうである。1950年代に頻繁に行われた大気圏内核実験によってだ。そのことは、広瀬隆の「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」(1988)に詳しい。この名著がもしベストセラーになっていれば、福島第一原発事故は避けられたかもしれない。それはこの本の刊行から13年後のことである。

   世界史の授業も「まず独学ありき」である。大学生用の(950ページにも及ぶ)教科書の次の章を読んで要点をまとめ、疑問点を書きとめる。そして授業時にそれを発表し、皆で議論する。教師は「逐語解説」のような愚かな授業はせず、議論をナビゲートするだけだ。「だけ」とはいえ、それをするには教師に相当な力量が必要だろう。

   世界史では(試験の代わりに)「研究論文」が課せられる。テーマの選択は自由だが、評価にあたっては「剽窃」が無いかが厳しく問われる。もし「インターネット上で見つけたエッセイを自分のものとして提出する」と、退学処分になるという。退学か。それはすげえや。

  「自分のことばで言い換えて用いる」場合でも、出典を明記せねばならない。つまり「知的財産の泥棒はいけない」ということである。当然のことだか、日本では(大学でも)守られないことが多いのではないか。小保方晴子がそれを平然と行ったことは、よく知られている。

   ところで、日本の歴史学者は「歴史にイフは無い」と言いたがる。「阿呆か」と思う。イフ即ち仮説が無ければ、それは科学とは言いえない。チョート校の歴史教師は斯様な阿呆ではない。例えば「もし鎌倉政権下の日本が元に占領されていたら」「もしモンゴル帝国がアラスカにたどり着いたら」…と問いかけて、授業は大いに盛り上がったとのことだ。著者は「もし日本が鎖国しなかったら」を発想した。だがそれを公にはしなかった。自ら考察はしたのだろうけど、その結果は記されていない。

  チョート校の生徒の政治意識は極めて高い。それに応えて学校は、パネルディスカッションを行った。共和党から州の行政官、民主党から政治雑誌編集長、そして第三党の選挙施行者が出席したという。時あたかも2000年で、ゴアvsブッシュJr.の大統領選の年だ。質疑応答時間には生徒から、外交、教育、銃規制等についての鋭い質問が飛び出したという。
そしてパネルディスカッションの後、生徒達の模擬投票が行われた。著者は「軍拡大反対」「環境対策推進」「銃規制賛成」であり、ゴア支持だ。だが模擬投票で最も多数を獲得したのは、緑の党のラルフ・ネーダーであったという。

  現実の選挙ではブッシュJr.が勝利し、そしてその翌年に9・11がおこる。湾岸戦争のあと暫く「いくらか平和」だった世界は、再び泥沼の戦乱に突入するのである。USA国民は、テロの不安に怯える。 そのあたりの経緯は、著者の第二作「9・11ジェネレーション」(2004)で述べられる。

  たぶんUSAの大学に進学するつもりだったであろう著者は、この事件を機に日本に帰国した。そして早稲田大学法学部に入学する。東大や京大を志望しなかったのは、「USAで受けた教育が、日本の国立大学の受験制度には合わない」と考えたからだろう。だが早稲田の(たぶん)退屈な授業は、彼女には苦痛だったと思われる。教員の質は、チョート校よりも遥かに劣っていた筈だ。

   やがて著者は、アニー・ガンダーセンやノーム・チョムスキーの翻訳を出す。だが、それらは殆ど話題にならなかった。そのあと著者は再渡米し、弁護士資格を獲得してニューヨークで開業した。更にオーストラリアのビクトリア州に移住して、そこでもやはり弁護士として活動中という。 つまり彼女は日本を「捨てた」のだ。捨てられた国の民としては残念に思うが、まあ仕方ない。そしていま、この国では反知性主義が猛威を振るっているのである。



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  論文のタイトルは「鹿児島県のニホンアナグマMeles anakumaの現状について:交通事故死個体数と捕獲数の年次変化から」(Nature  of  Kagoshima、44:77-83)で、船越公威と松元海里の共著だ。いずれも鹿児島国際大学の所属で、船越は教授と思うが、松元の身分は不明だ。なお船越は彼が京都大学理学部動物学教室の研修員だった頃の知り合いで、その後に彼が九州大学農学部畜産学教室の大学院に入学した後にも一度会ったことがある。その頃には、コウモリの研究者だった。以後、およそ40年会っていない。いまは鹿児島県人で、そしてアナグマの研究を始めたと知ったのは最近のことである。未読だが・・「鹿児島県産のニホンアナグマの生態」(重信江利佳と共著,自然保護,32:1−4,2006)という論文を出していて、これには「鹿児島県内では林内(広葉樹林や雑木林)の比較的乾燥した斜面に巣穴の入口が見つかることが多い」という知見が記されているとのことだ。なにぶん未読ゆえ・・それが本当にアナグマのものであるかや(キツネも繁殖期には穴を掘る)、であるとしてそれが「使用中」のものであるか否か、あるいは巣穴(ならびにそれから推定しうる個体数)の密度は不明である。



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  のっけから嫌味なことを述べたがまあそれはさておき・・2017年刊の本論文では船越は自前のデータは使っていない。鹿児島県が集約したロードキルのデータを主に用いている。それも、全県のデータではない。6つに区分される鹿児島県の行政域のうちの3つだ。北東部の姶良・伊佐(以下Aと記)、東北部の大隅北東(以下Bと記)、西南部の南薩(以下Cと記)がそれだ。そしてこの各々の地域で確認されたロードキルの総数は示さず、個体数/100kmの相対値で記している。ただし2016年度のデータのみは絶対値で、月別の変化を示している。なおA〜C以外の行政区分は、北薩(北西部=川内や出水を含む)、鹿児島(西北部=県庁所在地を含む)、大隅南西(東南部=佐多岬を含む)がそれだ。大隅南西から錦江湾をはさんで西が南薩で、これには開聞岳が含まれる。

 結果を記す。A〜Cのデータがすべて出そろう2011年度以降の各地域の相対値はAが8→9→13→18→20→20と変遷し、トータルは88だ。変曲点は2012年度から2014年度にかけてでこの2年間に2倍になっている。Bは1→7→9→5→8→32と変遷し、トータルは62だ。変曲点は2015年度から2016年度にかけてで、この1年間に4倍になっている。そしてCは5→5→40→35→39→47と変遷し、トータルは171だ。変曲点は2012年度から2013年度にかけてで、この1年間に8倍になっている。

 つまりトータルのロードキル相対値はAが88、Bが62、Cが171で、Cが断トツに多い。そして「増え始めた時期」はA&Cがいずれも2012年度よりで、Bは4年遅れて2016年度からだ。そしていずれも2012年度から「増め始め」が始まるA&Cだが、Aが増殖率がややゆるい。    


 この結果から何が言いうるかというと、かなり難しい。いずれもロードキル(の相対値)が「増えてはいる」のだが、それは「個体群密度の上昇」を意味するのだろうか?船越はそう信じて疑わないようだが、私は疑問視する。ただ私の論は後述するとして、以下にはまず船越の考察を紹介する。

  船越は、荒地面積(の耕地面積に対しての)比と、森林面積(の全土地面積に対しての)比に着目する。荒地面積はCが最大で18.0%であり、A&Bはその半分余だ。森林面積はAが最大で68.2%であり、B&Cはその7〜8割である。そして彼は、耕地面積比大の方が(作物残渣を利用しうることで)棲息条件を良くし、森林面積大の方が(ミミズが多くまた巣穴を掘りやすいことで)棲息条件を良化させると考える。その論からすれば、「耕地面積大」のことではBが最適であり、「森林面積大」のことではAが最適の環境ということになる。そしてCはロードキルが(6年間トータルで)最多だが、この地域はいずれにおいてもNo.1ではない。だから耕地面積比も森林面積比も、「ロードキル大→個体数大」の根拠にはならないのである。

 そもそも森林面積が大だから環境条件が良いという仮設は、粗雑だろう。確かに「穴は掘り易い」かもしれないが、「だから(餌となる)ミミズが多い筈」と本当に言いうるか?鹿児島の土壌はシラスで、ミミズの棲息には適していない筈だ。「いや、そんなことはない」と言うのなら、実際に土を掘って、ミミズの現存量を測るべきだ。それを行わずに「森林だから・・」と考えるのは、非科学的である。科学を行うには、データが不可欠なのである。

 と言いつつ私もデータを所有していないのだが(要請があれば喜んで取らせていただきます)・・仮説として「森林よりも、耕地のほうが餌条件が良いのではないか?」と思う。ただしその餌は、作物残渣そのものではない。それが腐敗したもの、ならびに肥料として投入したものを食べて成長したミミズが餌である。アナグマは雑食性だが、Carnivoraだ。最も好むのは動物質のもの=ミミズだ。農作物も食べるがそれはデンプン質のものが主である。「野菜」は食べない(筈である)。船越は、そのことを誤解しているようにも思える。

 ともかく、森林面積比は(大差がないことでもあり)あてにならない。耕地面積比は(もしかすると)ある程度指標になりうるかもしれない。そしてその値が最大のBでロードキル(の相対値)のトータルが最小というのは、示唆的だ。つまり、ロードキルが小というのは、個体群密度が(相対的に)大ということを意味するのではないか?そのBにおいても(2016年度よりは)ロードキルが急増した。それは、「この地域でも(A&Cよりも4年遅れて)、個体群の崩壊が始まった」からではなかろうか?

  そもそもアナグマは何故車道に出るのか?そのことを、エンロジカルに考えてみる必要があるかもだ。「好んで出る」のではないだろう。餌不足のゆえ、「錯乱状態になって」のことではあるまいか。本来アナグマは慎重で、臆病な動物である(と思う)。個体群が健全な状態なら、錯乱はしないのじゃないかと思うのである。



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 ところで船越は、鹿児島県全域における(狩猟ならびに有害獣駆除での)捕殺数年次変化のデータも載せている。その数は2008年度までは約100頭程度で横ばいだったが、2008年度から2009年度にかけて4倍程に増えた。そのあと4年間1.5倍ペースで増え続け、2012年度から2013年度にかけては3倍に増えた。以後また1.5倍ペースで増え、2016年度には何と5500頭を越えた。11年間に、約100倍余に増えたのである。この補殺の増加率は尋常ではない。それはどう考えても、「絶滅の生態学」で説明しうる。思うに・・欺様な鹿児島県民の「非道の行い」がアナグマの精神を錯乱させ、そして本当はあまり行われない「車道に出る」ことをさせたのではなかろうか。

 船越は「アナグマによる農作物被害は無視できず・・・(だから駆除やむなし)」と言うのだが、寝呆けたことを言わないでほしい。作物被害が、11年間で100倍に増えた訳ではないだろう。そもそも、作物被害が「本当に、アナグマによるものか?」と思う。もしそうであるとしても、駆除をせずに防除する(すなわち「専守防衛」の)術がある筈だ。鹿児島県民にその知恵が無いようなら、ASWATが(調査をさせていただいた上で)提供する。

 船越は、他にも寝呆けたことを言っている。ニホンアナグマが(ヨーロッパアナグマと違って)クランを形成せず、「単独雌の母系社会である」ことを根拠に、「食物などの条件さえ良ければ増加の一途をたどる」と言う。この言には、耳(あいや「目」)を疑った。アナグマは、典型的なK戦略者だ。少々食物条件が良化しても、「増加の一途をたどる」ようなことはない。そもそもいま鹿児島県では、食物条件が良化してはいない(と思う)。むしろ悪化していると、私は信ずる。

 ロードキルの月別変化のことも記す。Aでは5月、Cでは3〜5月にロードキルの(絶対値の)値が大であり、この時期は「繁殖」の時期である。Bでは最多は8月だが、3〜5月は少なくはない。このことは由々しきことであり、日本の狩猟文化は捕獲を冬季に限定し、繁殖期は避けてきた。その抑制が外れてしまったのである。

 有害獣駆除も、季節の制限が無い。実際にどの時期に多く捕獲されているかは(データがあげられてないので)不明だが、妊娠雌や子育て雌も捕獲・殺害されているのではないか?であるならば、個体群へのダメージはより大になる。私としては(予防原則の立場から)「とりあえず全面捕獲禁止」にすべきと思うが、次善の策として「狩猟法下の捕獲のみ認める」案もありうる。あるいは「有害獣駆除においては、雌は殺さない」制限をかけるべきだ。あ、むろん、有害獣駆除許可を無原則に出すことなく、「確かにアナグマの被害である、そしてそれは“専守防衛”では防げない」ケースに限るべきである。

 でもでも・・作物被害は「口実」なのね。私はそう信ずる。実は、害なんて殆ど無いと思う。殺害の目的はその肉・・つまりジビエである。そしてジビエを推進しているのは、現政権の官房長官=菅義偉だ。だから鹿児島のニホンアナグマ保全のためには、「菅義偉を“駆除”することが必要」と私は思うのである。むろん、政権トップのSIN(安倍)もだ。


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