渡辺茂樹のいたちものがかり

ニホンイタチをこよなく愛するアスワット顧問/動物学者・渡辺茂樹のブログです!

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中野家の人々




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我が命尽きる日もまた遠からじ故に殊更別れは言わじ

父が死に叔母が鬼籍に入りてのち我が親族は指僅かなり

白蓮の薫陶受けた叔母なれどその色紙持ち以後歌詠まず



   叔母(亡母の妹)が亡くなった。2017年12月末にで、享年は「90歳余の筈」としか知らない。死因も知らされていない。そもそも私は弔事のことを直には知らされずで、人づてに聞いた。私は親族中の鬼っ子…ないしは故郷を捨てた渡世人であり、あらかた無視されて来たのだ。

   ただ叔母とその子2人とは、例外的に付き合いがあった。とりわけ叔母には「よくして貰った」記憶がある。その叔母の墓前に、冒頭の3首を捧げる。ただし初めの「我が命…」は、父に手向けたもののリサイクルだ。

   3首目に登場する白蓮とは柳原白蓮(本名宮崎あき子:1885ー1967)。本郷の東大前にあった(今は無い)女学校で、叔母はこの高名な歌人に作歌の手ほどきを受けたという。そのとき白蓮は50歳前後だろうか。叔母に見せて貰ったアルバムではその年に見えずで、若々しかった。叔母が所有する色紙にどのような歌が記されていたかは、記憶しない。

   白蓮の代表作は2つだな。比較的初期の作品で、「火」の文字を巧みに使った以下2首だ。

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反古いだき立てる火の前
わたつ海の沖に火もゆる火の国に我あり誰そや思はれ人は

   この時点では、未だ3人目の(以後死ぬまで配偶する)夫:宮崎龍介との"adultery"は存在していない。それが成立し始めた頃の作品を、以下に2つ引用する。

今はただまことに人を恋いそめぬ甲斐なく立ちし名のつらさより
君ゆけばゆきし淋しさ君あればある淋しさに追わるるこころ

   今の時代に、斯様な恋歌を「人妻」から貰った男子はよろめくだろうか?。ま、その女性のルックスにもよるな(笑)。而して以後、46年の歳月が流れた。辞世歌は以下である(享年81歳)。

そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ

   いずれも名歌とまでは言えないが、私の父親:清水房雄の作品に比べれば遥かに上質である。知名度において清水を上回るのは、むべなるかなだ。

   ところで、最近のマスコミの"Adultery  Hunting"にはむかつく。あれは人権侵害だ。で…「白蓮事件」にかこつけてそれを批判しようと思ったが、タイトルからずれるな。中野家の人々はadulteryとは無縁である(と思う)。故にその論は別稿にて行う。

   以下には叔母のことを記す。彼女の名は中野君子という。旧姓は阿曽で、むろんそれは私の母と同じである。阿曽家は千葉県東葛飾地区我孫子の地主階級で、先祖は鎌倉の御家人という噂もある。真偽のことは知らない。

   ただ,古に阿曽治時という武将がいたな。北条一族の大仏貞直らと共に楠木正成と戦い、散々に打ち破られた人だ。新田の鎌倉攻めの時は北条一族を見放し、いち早く逃亡した。いまの阿曽家がその末裔…とは聞いてないが、有り得ぬことはないように思う。

    母はその阿曽家の長女で、名をひで子といった。君子叔母は次女だ。他に長男と次男がいたが、いずれもかなり昔に鬼籍に入っている。叔母は4人の兄弟姉妹の中で最も長命した。それは慶賀すべきことなのだろうけれども…でも、彼女の人生は「幸せだったろうか?」といま思う。よく判らない。ただ彼女は、姉と違って夫運に恵まれた。姉(即ち私の母)は夫から精神的虐待を受け、そのストレスから癌を発症して死んだのだ。なお母を虐待した父は、二度目の再婚の後に自分が同じ目に遭う。「因果は巡る」である。

   叔母の夫は温厚な性格の医師だった。エキセントリックな国語教員だった私の父とは違い、「よく出来たひと」だったと思う。ただその父(叔母の舅)は私の父に似てエキセントリックで、ちょっと問題ありの人だった。その名を中野治房という。植物生態学者で、古の東京帝国大学の理学部教授である。

   中野治房の帝大在職期間はよく知らない。ただおそらく、物理学者寺田寅彦とほぼ同期だったと思う。寅彦は1935年の12月末(つまり2・26事件の2ヶ月前)に、57歳で死んだ。対して中野治房は戦後にかなり長命した。だから世代が違うように錯覚されがちなのだが。

   幼少期に私は治房氏と何度か会話したことがある。だがその具体内容は全く覚えていない。私が動物学を志すにあたって、この人の影響は全く受けていない。そして後年(私が大学に進学して後)、彼の事績を調べてみたことがある。初めは京大の生態学者達に「中野治房というひと、知ってますか?」と聞いてみた。だが誰もその名を知らなかったので、ズッコケた。

   それから文書を調べて、successtionという学術語を「遷移」と訳した人だと知る。現代に残る「業績」は、それのみのようだ。でもま、明治時代の東大教授なんて、そんなもんだろう。寺田寅彦にしても、文学史上の人であっても科学史上の人ではないのである。

   中野治房は(寅彦と違って)エッセイは一切書いてない。ただ「草原の研究」という著書があり、私はそれを本郷の井上書店で(偶然に)見つけて購入した。だが、その中味は全く面白くなかった。京大の植物生態学は「種生態」が主流で、私はそれにシンパシーを感じている。それとは「学風が違う」せいもあるかもしれない。

   それと…日本には草原は無い。草地があるのみだ。中野治房はそのことが理解出来てないように思える。だが、明治の東大教授ゆえ、ま、それは仕方なかろう。そもそも斯様な認識が確立したのは、吉良竜夫(京大系の生態学者で大阪市立大学教授:故人)の出現以降のようにも思える。

  治房を生んだ中野家は幕末は造り酒屋であり、動乱に乗じて財を成した。それ以前から地主ではあっただろうが、その財に拠り大地主に成り上がったのじゃないかと思う。このあたりのことは(叔母は詳細には語らなかった故)憶測の域を出ないのだが…阿曽家は由緒ある名家で、中野家は新興の名家なのではないか?。

    ただ中野家は東大教授を輩出したことで、「学者家系」と(地元では)見做されることになる。それは治房の子や孫には相当な負担になった筈だ。家系とか家柄とかには無関心の私だが、その雰囲気は何となく感じ取れた。

   中野治房の長男治行…つまり叔母の夫は東大に進まず、慶応大学の医学部に進学した。私学は官学より格下と見做された時代のことで(今でもそうかな?)…父の治房は不満だったと思う。だが治行は我が道を貫き、医学者にもならず、一介の町医者で終わった。それは彼なりの「反骨」であり、そして叔母はその夫のメンタルを支えたのじゃないかと思う。

   治房の三男は戦後に東大農学部の教授になった。この人が「学者家系」を継いだことになるのだが、おそらく治房はその三男にも不満があったと思う。私は京大で初めは農学部に在籍し、後に理学部に転じた。だから判るのだが、理学部の者は農学部を「見下す」傾向がある。比較的リベラルな京大でもそうなのだから、東大では斯様な差別意識がより醜悪だったと想定しうる。

   松本清張には、「小説東京帝国大学」という著作がある。1965から翌年にかけてサンデー毎日に連載され、1969年に単行本出版されたものだ。科学史学者:山本義隆は著書「私の1960年代」(2015)でその一節を引用し、「官僚だけではなく、技術者の養成が帝国大学のいまひとつの存在理由だった」と述べた。そして、「法・医・工・農の実学が帝国大学の中心だった」とも言う。国家の論理としてはそうかもだが、研究者自身の認識は違ったのではないか?。

   前述の京大における「基礎は実学より尊い」という偏見は、明治期の東京帝大にもあったように思う。欧米ではその認識は明確だと山本は言う。そういえば…SF作家マイクル・クライトン(ハーバート大学医学部卒)は著作「ロスト・ワールド」の中で、登場人物に「技術者には知能が無い」とまで言わせている。

   ま、それはさておき…治房の三男の名は準三という。1925年の生で、私立成城高校を経て、1944年に東京帝大農学部林学科に入学した。それは学徒出陣の年だから、相当にきわどかった。だが幸い徴兵されずに済み、戦後は木材化学を専攻した。卒業後直ちに助手になり、ほどなく教授に昇進する。そして1986年3月に(60歳で)定年退職した。父治房ならびに兄治行と同様に、今は故人である。

    木材化学における中野準三の業績は、「リグニンの化学構造および反応性について」である。セルロースとヘミセルロースについての研究もあるが主力はリグニンで、合計215編の論文中の70%余がそれに関するものだ。そしてそれは、「紙の漂白」という科学技術の基礎になるものである。生涯オリジナルな研究成果を遺さなかった父治房を反面教師として、研鑽を重ねたのだろう。

   それは結構なことだ。だが私は、「それは、彼が本当に"やりたい"ことだったのか?」と思ってしまう。彼は、リグニンの生態学や進化生物学的意味については全く語ることが無かった。私は、その関係の「如何にも理学部的発想の」質問を手紙で送ったことがある。だが返事は無かった。私も、重ねての問いは発しなかった。

   中野治房の孫や曾孫の代に学者はいない。ただ叔母は、その次女(私の年下の姪)が「とても頭が良かった」としばしば語った。けれども美和子という名のその次女は、幼女時代に病死してしまったのである。叔母は「あの子なら東大に行けた」と言いたげだったが、その言は遂に(一度も)発しなかった。私は「叔母さん、時が時なら貴女が…」と思ったが、やはり言わなかった。

   叔母は次女のことを回顧する度に、「あなたたち、とても仲が良かった」とも言った。かれこれ60年の昔のことであり、私における美和子さんの記憶は薄い。あるいはそれは、「彼女のことを忘れようと努めた」結果かもしれない。

   私は至って偏屈な児童だった。その私と話が合ったということは…彼女は、「聞き上手」ということだ。だから頭は相当に良かったのだろう。幼女とはいえ、「栴檀は双葉より芳し」である。性に目覚めてからの私が専ら知的な女性に惹かれたのは、美和子さんの記憶が潜在意識下に有ったからかもしれない。ちなみに私における「知」は、学歴とは必ずしも関係無い。「東大出の馬鹿」は現世にヤマほどいる。

   話を転ずる。それにあたってまず一首。

二千拾壱の三点壱壱に国の滅びが今始まった

   晩年の叔母を回想したときには、3・11絡みのことが印象深い。 その日に福島で生じた放射性物質は、北西の風に乗って南下した。そして我孫子を通過する時に雨雲になり、地上に落下したのだ。同様に「福島から遠い割に酷く汚染された」地域として、栃木県南部の渡良瀬遊水池がある。

   故郷の我孫子が汚染されたと聞いた私は、線量計を持って叔母の家を訪れた。その敷地内は何処も空間線量が5ミリシーベルト(年)前後…つまり、かなりの汚染だった。   私は「一時的にでも、引っ越した方が良くはないですか?」と叔母に勧めた。だが叔母は、その気は無かった。「私は、どのみちもう長くないのだし…」というのがその理由である。慣れぬ土地で苦労したくないということのようだ。それも一理あると、私は思った。   そのとき私は、まさか彼女が6年後に死ぬとは思わなかったのだ。死因は(冒頭で述べたように)不明である。だが「被曝が無関係とは言えないのでは?」と思う。けど仕方ない。叔母自身が決めた人生の選択だ。

   私が当時セミの羽化殻に用いての生態調査をしていたことは、本ブログの第50話「此の世の別れと蝉と」で述べた。3・11の後、ふと「羽化殻にはどの程度放射性物質が沈着するか?」と考えた。正確に言うと、放射線測定学を専門とする福田共和氏(大阪電気通信大学教授)が発想したことだ。

   羽化殻はキチンが主成分で、生きた細胞は含まれない。だから放射性物質が「溜まる」ようなことはないだろうと私は思った。けれども科学の発展はしばしば、「常識ではあり得ない」ことの発見により為される。福田氏の勧めで福島市のセミ羽化殻を集め、持ち帰ってそのベクレル値を測って貰った。結果は「あっと驚く」であった。極めて高い値を示したのだ。

   もう一つの興味ある事象は、我孫子ならびに渡良瀬遊水地での結果だ。其処で採取したセミの羽化殻からは、放射性物質が殆ど検出されなかった。つまり内部被曝はしていない…と断定は出来ないが、その可能性がある。ちなみに渡良瀬の空間線量も5ミリシーベルト(年)前後で、「福島市並み」だ。

   同じ福島市でも、空間線量が10ミリシーベルト(年)を越える渡利地区の羽化殻はとりわけベクレル値が高い。市内の5ミリシーベルト(年)前後の地で採った羽化殻の内部被曝は、それには及ばない。でも、明らかに放射性物質が検出された。なのに空間線量が同程度の我孫子と渡良瀬では、ベクレル値がほぼゼロなのだ。

   この結果は、放射線生態学の見地からして極めて興味深い。そもそも…セミの羽化殻の内部被曝値に興味を持ちそして測った者は、世界広しと言えども我々だけだろう。プライオリテイは十分にある筈だ。是非とも論文に…と張り切ったが、未だ実現していない。些か時期を逸した感もある。欲張って「海外の権威あるジャーナルに」と考えたのがまずかった。そういう自己顕示欲は「私らしくない」のだ。

   でも、私は未だ諦めない。何時か必ずこの結果をpublishする。そして、「それを叔母の墓前に捧げたい」と思っている。自称「骨の随までの唯物論者」の己には、似つかわしくないことだが。

   最後にひとこと。福島の放射線空間線量はいまなお森林内において高く、深刻である。除染はつまり移染に過ぎず、根本的解決は出来ていないのだ。対して我孫子の空間線量は下がり、今は全国標準である(らしい)。除染こと移染はとりわけたてて行わなかったのにである。その理由は、私には想像がつく。


★★★  ★★★  ★★★  ★★★
   

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母の仇その父が逝き思うこと愛と憎しみ裏表なり

寒波来て忘れた仮説思い出す其れはearthの温暖化なり

   この短歌と古の美少女Sは、直接の関係は無い。ただ、彼女は母に似ていた。其のことは、以前に書いた。そして私のアンチ地球温暖化仮説には、Sも同意した。後者については、別稿にて記す。宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」に絡めてである。

   其のSのことは、これまで何度もこのブログで述べた。第50話「此の世の別れと蝉と」、第83話「短歌の運命について」、第95話「性衝動解発のリリーサーとしての乳房」等に於いてである。再びお出ましを願ったのは、テレビでラグビーの日本選手権を見たからだ。その片割れの明治大学は、Sの母校なのである。ただし彼女自身はラグビーとは関係ない。試合の応援に行ったことは無い筈で、興味もあまり無かったように思う。Sはミーハーではないのである。

   私がSと初めて会ったのは、彼女が未だS女子大付属校のJKだった時だ。以前(本ブログの50話にて)「19歳だった」と記したがそれは嘘で、18歳だった。ただし卒業間際の高3で、その3学期である。その時点で既に明大入学が決まっていたことは、少し後になってから聞かされた。

   Sと出会うまでの私は、明治という大学を侮っていた。私は彼女と同じく(ただし40歳程年上で)、東京の高校の出身だ。だが、私の出た都立上野は当時の典型的受験校で…「東大以外は大学に非ず」の雰囲気があった。早慶は滑り止めで、明治は「落ちこぼれの行くところ」だった。私の価値観はちょっと違ったけど、それでも明大は「憧れる」ような学校では無かったのである。

  校則厳しき女子校のJKだったSは、明大に自由を求めて憧れた。そして予備校の現役生コースにも通い、目出度く(推薦で)合格した。其れで私は明治に対する認識を改めた。彼女が憧れるくらいだから、良い大学なのだろうと。

   ちなみに女優の井上真央と北川景子は、Sと同時期に明大に在籍していた。高倉健は大々先輩であり、彼女の在籍時には星野仙一が広告塔の役割を果たしていた。それらの知識をSは持ってはいたが、関心はあまり無いようだった。重ねて、彼女はミーハーではないのだ。自らの向学心のために明治を選んだのである。

  だが入学後にSに学園生活の模様を聞くと、私の気分は暗くなった。彼女を通して聞く明大の授業の内容が、あまりにお粗末だったからだ。それは学生を舐めているとしか思えないものであり、「カルチャーセンターじゃあるまいし」とも思った。

   だがこの言い方は、カルチャーセンターに対して失礼だろう。カルチャーセンターはさほどの金額の授業料を取らない筈だ。対して明大は、法外な授業料を取る。その金額と授業内容が見合わないとしたら、それは詐欺だ。

   古(1968ー1969頃)の、明大闘争のことを思い出す。早大闘争でもそうだったように思うのだが、国立大学とは違って「授業料値上げ反対」が闘争の核としてあった。そしてその闘争は敗北し、結果国立大学の授業料も私学並にupした。授業内容はお粗末なままにである。

  Sは中産階級のお嬢様だから、授業料支払いに苦渋していた訳ではない。だが授業のお粗末さには、かなり不満だったようである。あるいは本人は最初それ程には思ってなくて、私がそれと「気づかさせた」ようにも思う。

   私が大学に入学した時も授業に失望し、「こいつら(京大教員共)、馬鹿か!」と思った。そしてそのことは…高校時代に決して左翼的でなかった私を、闘争学生の側に歩み寄らせる動機になった。時が時なら、Sもおそらくヘルメットを被っただろう。彼女は正義感が強い女性だ。けれども21世紀の明治大学には、学生闘争などというものは影も形も無かったのである。

  あるいは明大の教員達は、「うちの学生は馬鹿だから、真面目に授業をする必要は無い」と思っているのかもしれない。別の大学でのことだが、そのような発言をした教員を私を知っている。千葉科学大学や倉敷芸術科学大学ならば、教員がその気分になるのもわからぬでもない。だが明治の学生はそれほどお粗末ではない。そのことを、私はSを通して知ったのである。

   そもそも千葉科学大学等でも、学生の100%が阿呆ということはないだろう。畏友K(某大学准教授)は、「どの大学にも何%かは優秀な学生がいる筈(逆に阿呆な学生も)。違うのはパーセントの数値のみ」という仮説を有している。私も同意見だ。京大の優秀パートは2桁は有るだろうが、50%には至るまい。千葉科学大学にも、零コンマ某%の優秀者は居るのではないか?。加計獣医大学がどうであるかは、お手並み拝見である。

   ともあれ…古の美少女Sは憧れの明治大学に入学したのだが、其処は期待外れだったのである。その失望感は、4年次に進学してゼミに入ると絶頂に至る。彼女のゼミの担当プロフェサーは、とてつもなく無能だった。その名を聞いて私は、「どういう業績があるか」を調べてみた。驚くべきことに、専門の論文や著書を殆ど出していないのだ。

   というのは私も同じだから、あまり偉そうなことは言えない。だが、それでもそのプロフェサーよりは出している。論文については、レフリングの厳しいジャーナルを避けているだけだ。そして私が教室で配った手書き授業教材は、「かなりハイレベルである」と思っている。それをSは「面白い」と言ってくれた。彼女はべんちゃらを言う性格ではない。

   たが、阿呆の明大プロフェサーは時たま自分の書いた新聞コラムを配るだけで…あとは愚にもつかないことを語ってお茶を濁すだけだったという。そのコラムを私はSに見せて貰ったが、「話にならない」(レベルが低過ぎる)と思った。

   そして、そのコラムの中に「漸く念願の大学教授になれた」という一文があり…私は仰け反った。大学教員には学問を「する」ことが目的で精進する人と、学者に「なる」ことが目的で足掻く人の2タイプがある。このプロフェサーは後者であるらしい。

   Sは時たま、このプロフェサーを睨みつけたという。プロフェサーはその度に、「ほら、またそういう怖い顔をする」と怯んだとのことだ。彼女は美しいひとだから、さぞかし怖かっただろう。ちなみに私は、Sの怖い顔を見たことが無い。私はM的だから、「一度、Sの怖い顔を見てみたい」と思ったことがある。だが、私が彼女を怒らせることをする訳はないのである。

  Sのゼミの卒論は、フィールドワークをすることが原則である。沖縄に関心大だった彼女は、その島の何処かをフィールドにすることに決めた。むろん、無能プロフェサーには頼らずにである。初めは波照間島をリストアップし、いろいろ考えて宮古島に変更した。

   フィールドワークといってもSは文系だから、糞採集や罠掛けは行わない。野生動植物の知識も(私が教えたことの他は)乏しい。ただ波照間島にも宮古島にも、ニホンイタチの移入個体群が存在する。そして…波照間ではヤシガニ、宮古ではミフウズラを食べて、それを脅かしているらしい。で、だめもとで「イタチの調査をしてみない?」と唆してみた。だか彼女は、当然のように拒否した。

    Sは好奇心大のひとだから(故に私と7年間も「付き合って」くれた)、イタチに全く関心が無い訳ではない。ただ動物生態学の調査は、1年にも満たない期間のフィールドワークで成果を出すのは難しい。そもそもそれを行うには、ある程度の習練に裏付けられた特殊技術が必要だ。クレバーな彼女は、「自分にはそれが無い」と瞬時に悟ったのだろう。私は「馬鹿なことを言ったな」と反省した次第である。

  文系的テーマで論文を書き上げて、Sはやがて卒業の日を迎えた。それが近づくと、彼女はそれまで無視して来た"MEIJI   UNIVERSITY"Lのマーク入りの便箋(添付写真)を使うようになった。憧れてその後に失望した学園だが、去るにあたっては愛着が生じたのだろう。

   就職にあたってSは無論私に「相談」なぞしなかったし、私も余計なことは言わなかった。だが行き先を決めてそれを私に教えてくれた時、私は「明大なら、もっと"いいところ"に就職出来るのでは?」と反応した。それに対する彼女の応答は、「大学は関係ないです。特に女子は」であった。そうなのだろうな。こと「就職」については、私の認識は浮世離れしている。

   Working  womanになった後のSとも、更に3年間付き合った。それまで同様に、「一指たりとも触れることなく」である。その3年間は、Sにはかなり辛いものだったようだ。やがて彼女は結婚し、一児の母になる。それ以降、Sからの連絡は絶えた。いま、何処で何をしているかは知らない。たぶん東京に居るのだとは思うが。

   孫と祖父程に年の差がある男女の「付き合い」が何故7年間も続いたかというと、それはSが聞き上手だったからだろう。私は基本的に書きことば人間だが、彼女の前では話上手であるべく努めた。そして私は「自分自身のことはあまり語らない」人間なのだが、彼女の前ではそれもある程度披瀝した。ただ、あくまで「ある程度」であり…現世や過去の歴史のことについての「私の考え」を多く述べた。私は(自分で言うのも何だが)博学だから、其の手の話題には事欠かないのだ。

   そしてSにはそれに対応しうる好奇心、つまり知性があった。聞き上手というのはそういうことであり…例えば京大女子には、案外少ないのである。そして彼女にとっての私は、「それまで見たことの無い種類の人間」だったと思う。けれども7年間付き合って、私は「飽きられた」のだろう。

   ところで浅田次郎の時代小説「一路」の中に、印象的なセンテンスがある。それは以下のものだ。

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   しかし、忘れじの一夜であることにちがいない。初めておなごと二人だけで歩き、美しいひととときをともに過ごした。結ばれることなど夢であるとしても、この記憶だけで人生を諒とできるような気がした。
**********

   私はこの小説のヒーロー小野寺一路と違い、Sと「結ばれたい」とは思わなかった。そしてSも小説のヒロイン国分薫とは異なり、その気は100%無かった。ただ…「この記憶だけで人生は諒とできる」気分は、私の側(のみ)に濃厚に有るのだ。

  何故か私には、若年の頃から配偶願望というものが無い。当然のようにそれをすることは無く、多分もうじき人生を終える。そのこと自体に心残りは無い。結婚が「人生の墓場になってしまった」事例を、多く見ているからだ。不幸せな人生を送った私の母や、再婚後の父の惨がそれである。

   対して私は、少なからぬ数の美少女達と「袖擦りあって」来た。とりあえずそれで満足だった。ただその擦り合い方が「一瞬の火花のようなもの」であることに、満たさない気分も少しあった。而してSとは7年間に渡って擦り合った。故に、その記憶を「諒とできる」のである。最早此の世に思い残すことは無い。

   ただそれは異性関係限定のことだ。動物学は十分にやり切ってない。其のことには未だ未練があり、故に出来たら今しばらく生きたい。でも、どうだろうか?。


★★★  ★★★  ★★★  ★★★
   

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我が父のぶざまな今を見ゆるとき亡き母のこと思い出さるる

百と壱母の倍余を生きた父きみの人生何だったのか

さよならと言って別れたひと故に此の世で会うはもう無かりしを

我が命尽きる日もまた遠からじ故に殊更別れは言わじ

弐千拾七之三月雛祭り其れが命日私の父の

人生の墓場でありし結婚を三度せし父きみ哀れなり

歌一首作るにいたく苦しみしあの苦しみが今はなつかし

八十余年の作歌歴をば何とする統べては虚し何もかも皆

「アララギ」終末期の苦しみは何時になりても忘れざる儘

結局は宙ぶらりんの態度論それが己の生き方にして

漢学者にも剣客にも作歌者にも何にも吾の成りそこねたる

斯んな歌を残してお別れするなんて何とも悲しい事なのですねえ。
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  前半の6首は私の作品で、後半の6首は私の父:渡辺弘一郎(歌人名:清水房雄)が死の間際に詠んだ辞世歌である。私の6首中で父の死後に詠んだものは、「弐千拾…」と「人生の…」のみだ。私の作品はこの際はさておき…以下、父の辞世歌に就いて述べる。なお以下の述の某かは、このブログの第83話「短歌の運命について」で記したことと重複する。

   彼の辞世歌は全部で8首だ。それらは「さよなら、皆さん」と題して歌誌「青南」に掲載された。うち2首は引用を省略した(添付写真には有り)。

   最近知ったことだが…この歌誌は、父が(経費の大半を出資して)創った短歌同好会の同人誌であるようだ。父は昔、高名な歌人:土屋文明から「アララギ」の主幹を継いだ。だがそれを(おそらく同人激減が理由で)、潰してしまったのである。その後は大手出版社角川の歌誌「短歌」を主な作品発表の場としていたが、己が"仕切る"場が欲しかったのだろう。私には良く判らぬメンタルだ。私は自己表現欲は(過剰な程に)有るが、自己顕示欲が薄いのである。

   ちなみに私は父の作品の価値を殆ど認めない。一時は「あんなもんは、短歌じゃない」とすら思っていた。でも、「改善の余地はあり」と思い…その意思を初めは「無視する」ことで表現していた。だがそれは、父には全く通じなかった。そもそも父の短歌は親族の誰にも価値を認められておらずで、1ダース以上出している歌集は殆ど読まれていない。よって彼は、「親族の評価には無関心」にならざるを得なかったのである。

   己が作歌する者も、私の他にはいない。私の叔母(亡母の妹)は女学校在学時に柳原白蓮の薫陶を受けた人だが、卒業後は作歌しようとはしなかった。その叔母も、父が送られて来た歌集に殆ど目を通さなかったようである。叔母は父を「人間としても」認めておらずで、「姉(私の母)は、何であんな人と結婚したのだろうねえ」と辛辣な言を吐いたこともある。その叔母も、昨年末に逝った。

   私のみは父の歌集に8割がた目を通した。ただそれは、かなり後年になってからだ。はっきりとは記憶しないが、たぶん今世紀になってからだと思う。

  私が作歌を始めた時期はそれより少し早い。1990年代の末…つまり6年間勤めた聖母女学院を馘首になった頃だ。同じ頃、父の三度目の結婚が破綻した。ただ…「離縁した二人目の後妻」(ならびにその女性との間に出来た異母弟)との「奇妙な同居生活」は、以後18年間続く。それは晩年の父に暗い影を落とすことになるのだが、その詳細は此処では述べない。

  遅まきながら作歌を始めた私は、己の作品も用いて「短歌はかくあるべし」と父に訴えた。論点は主に3つだ。「破格(57577の枠組みを崩すこと)は良くない」、「メッセージを込めるべし」、そして「自虐的呟きは自重すべし」である。

   「破格」は俳句世界で種田山頭火が創始し、短歌で土屋文明がそれを模倣した。 俳人は賢明にも山頭火を模倣しなかったが、歌人は多く文明に倣った。彼を神の如く敬う父も、その一人である。そのことを私は、「伝統ある日本文化:和歌を壊すことになる」と批判する。それをすると、韻文独特の「リズム」が失われる。リズムが無い韻文は、芸術たり得ない。

   そもそも短歌の「短」には(小説の「小」と同じで)、へりくだりの暗喩がある筈だ。それはよろしくない。堂々と「和歌」と称するべきだ。過剰のへりくだりは見苦しい。

   現代短歌の多くにメッセージが欠落しているのは、正岡子規の影響だろう。メッセージを伝えるには理屈…即ち論理が要るが、子規は(エッセイ「歌よみに与ふる書」において)「理屈を言うな」と述べているのだ。

   私は、子規は「短歌の大衆化」の意図からこの屁理屈(としか思えぬ事)を述べたと見ている。明治後期の時点では、そのことに多少の意味があっただろう。だが国民の教育水準が上がった昭和・平成の世に、なお子規の屁理屈を墨守することはあるまい。

  メッセージと呟きは似て非なるものである。呟きが語りかけているのは己のみだから、其処にはコミュニケーションが成立しない。即ち「自閉」に陥る。対して古名称の和歌は、多くがコミュニケーションの手段として用いられた。呟きのようなものも無いではないが、それは名歌ではない。

   そして呟きは、しばしば過度の自虐に陥る。それも見苦しい。父の作品には、その手のものが極めて多いのだ。

   父の作品にも、僅かに評価すべきことがある。それは起承(575)と転結(77)が成立しているものが多いことだ。起承転結は、論理を述べるにあたって有効な文章技術である。だが父の作品は「呟きのみでメッセージが無い」ものが多く、また破格が少なくない故、その技術を生かせてないのである。

   私は科学の使徒だが、文芸の修業は全くしたことが無い。その私から、斯様な理屈を(主に書きことばで)展開されて…父は「ぐうの音も出なかった」(このセンテンスは漱石の「三四郎」が発祥)。相当にショックだったようだが、あからさまに「おまえが正しい」とは言わなかった。でも、そう思っていることがありありだった。

   で、私は(話ことばで)「でも、いい作品も少しはあるでしょ。それらを集めて"自作30選"を編んでは如何です?」と勧めた。言外に、「今からでも遅くないから、"名作"を詠むべし」の意を込めてだ。だが父は「いいものなんか一つも無い」と呟いて、首を横に振るだけだったのである。

  そして冒頭の辞世歌だが…「う〜ん、何じゃこれは!」の気分である。改めて「こんなもんは短歌じゃない」と思った。でも考えようによっては、「如何にも父らしい作品」と言いうる。

   父は私の批判を(たぶん)真摯に受けとめつつ、でも「今更この年で作風を変えるのは無理だ」と悟ったのだろう。そして、私が批判した「破格」と「自虐」を乱発した。それが最も顕著に表れているのは、人生の最終歌「斯んな歌を…」である。此処まで居直って己の欠陥を露呈していまうと、ある意味爽やかである。名歌と言えぬでもない…は、嫌味かな。

   「歌一首…」については、「へえ、彼は歌を詠むのに苦しんでいたのか」と知って気の毒に思った。私における作歌はストレス解消の手段であり、苦しんだ記憶は皆無である。苦しまなきゃ詠めないようなら、短歌なんか詠まん方が良いと思う。そして、「自分で気に入ってない作品が、他者に芸術的感動を与えうる筈は無い」とも信じる。

   「いいものなんか一つも無い」と呟いた父は不幸な歌人だった。そもそも「歌人を志したことが間違い」だったとも思う。父は(どう考えても)芸術家タイプではないのだ。

  そのことは、父の師である土屋文明も気づいていたようである。文明は(父が語ったところでは)「君に短歌には向いてない。漢文学の道を究めるて学者になるべき」と忠告したという。対して父は「僕には反骨精神があるので…」と誇ったが、そういうのは反骨とは言わないのである。

    私は文明を「日本の伝統文化:和歌の破壊者」と見做して憎むが、このことでは彼の言が正しいと思う。父はおそらく自分の学者としての能力を見限ったのだろうが、その判断は間違っている。父の知力はたいしたことなくて、私に比べて遥かに劣る。だが「世界を相手にせねばならない」(私の専攻の)自然科学と異なり、漢文学は「井の中の蛙」でも通用する。漢学者として自己顕示することは、可能だった筈だ。

   父に先立つこと半世紀余前に逝った母も、私と同じ論だったと思う。あるいは、私の論は母によって形成されたものかもしれぬ。母は(戦前に青春期を送ったゆえ)大学を出ていない。でも父より遥かに頭が良い人だった。そして私は、母の遺伝子を(子4人の中で)最も多く継いでいると思っている。

  地主階級のお嬢様として育った母は、学校の成績も良かった。おそらく今なら、東大か京大に楽々入学出来たと思う。だが当時は女子は帝国大学入学資格が無かった。で、女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)に進もうと思ったらしい。だが父がプロポーズしたことにより、その道は絶たれた。そもそも母の両親は、娘が高等教育を受けることに賛成ではなかったようだ。

   おそらく母は、女子高等師範の代わりに「父から個人教育を受けられる」と思ったのだろう。そして「この人と一緒なら退屈せず、楽しい人生を送れる」と信じた。だが、それは見込み違いだった。父は母が期待したような人間ではなかった。そしてあろうことか、母を精神的に虐待した。母はその父への不満を、おそらく私のみに語った。そのことは誇りに思うが、それはその後の私の人生を呪縛することにもなる。

   そして母も、父に「漢学者であって欲しい」と願った。歌人になることにはあまり賛成ではなかった。未だ幼かった私の当時の記憶は定かでないが、おそらくそうだろうと回顧する。

  その母は、44歳の若さで 癌で死んだ。癌の発症にはストレスが関係する。だから私は、「母の死には、父の精神的虐待が大いに関係した」と思っている。故に私は、父を「母の仇」と信じて激しく憎んだ。

   この想念は、父に直接披瀝することは無かった。だが父は、その私の想いに薄々気づいていたと思う。晩年の父への私の批判を、彼は「亡き妻の亡霊が語っている」と感じたに違いない。晩年の父は、明らかに私を「恐れていた」のである。

   だが歳月の流れは、ひとの憎悪の念を薄める。その時点では、私は父を「許して」いた。そう思うようになった契機は(今にして思えば)、私が作歌を始めたことだったろう。だから、晩年の父への(短歌を介しての)批判に憎悪の念は無かった。純粋に、「生涯に一つぐらいは名歌を詠んで逝って欲しい」と思ったのだ。そして、その願いが果たせなくて…無念である。


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イメージ 1   安田里央著の「巨乳の誕生」(太田出版)が刊行された。それ自体は未読だが、日刊ゲンダイ(2017、12・16)の書評であらましを知ることが出来た。

   現代日本社会の男性の多くは「巨乳好き」だという。私はそれは「マスコミのでっち上げ」と思うのだが、ゲンダイの書評はその認識から出発する。そして「実は、世界に誇るポリノグラフィーである春画にも、おっぱいはほとんど描かれていない。女性器は呆れるほど精密に描かれており、大半が着衣のままで下半身だけをめくりコトに及んでいるが、全裸であってもおっぱいは極めてあっさりとしか描かれていない」…と紹介する。

   あ、そうなの。つまり、現代日本男性の(マスコミによりやや誇張された?)巨乳好きは、「近代(とりわけ戦後)の産物」なのだな。西洋文化の影響である事情は、たぶん「肉食好き」に似る。「USAに植民地支配されて以降」とも言いうるかもしれない。

   ただ巨乳好きの本家たる西洋も、中世は違っていたという。 「中世ヨーロッパではキリスト教の影響が強く、性は淫らなもの=悪という発想から、女性は貧弱な肉体の方が尊ばれていた」…とのことである。

   かような禁欲志向はキリスト教異端派の英国国教会でも同様であり…近代(19世紀のビクトリア王朝時代)でもそうだったことは、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズから読み取れる。

   そもそも宗教(religion)は、キリスト教に限らず禁欲的だ。司馬遼太郎は宗教の意義を「人間の蛮性を飼い慣らす」ことにありと言う。であるならば、禁欲は必然のことと言いうる。そしてそのことは、結果的にホモ・サピエンスの人口爆発抑制の機能を果たして来た…という私論は、本ブログの第94話「選手と教授と教育と差別、そして不倫」にて述べた。

  基本的に無宗教である日本社会は、さほどに禁欲的ではなかったと思う。ならば人口爆発が起こったかというと、少なくとも江戸時代はそうではない。そのことは、歴史学者:鬼頭宏の諸著書に述べられている。

    江戸時代の日本は「子沢山」ではあったのだが、幼児死亡率が大だったのである。「間引き」も、かなり普遍的に行われた。そして以下のことは鬼頭は論じていないが…刑法が峻厳で、犯罪者に対する容赦がなかった。ひと一人殺せば、原則死刑だった。そのことも、人口抑制に無関係だったとは思えない。

   話がタイトルの「乳房」からずれている。プレイバックすると…幼児死亡率大のことは、女性が小乳(「貧乳」は差別だ!)故に乳の出が少なかったことも一因だったのではないか?。そして当時の日本人女性の多くが小乳だったのは、栄養条件の悪さの他に「巨乳が(男性がそれを嗜好しない故)、Natural  selectionの対象にならなかった」こともあるのではないか?。乳房のサイズという形質の発現が「遺伝か環境か」と問われると、「両方だ」と私は返答したい。

   しかして西洋男性の「巨乳好き」は何時から始まったか?。ゲンダイによればそれは「アメリカでマリリン・モンローが登場する第2次世界大戦後まで待つことになる」…のだという。「そうだろうか?」と私は思う。そもそも西洋社会は、中世より(宗教の抑圧下で)「乳房への関心大」だったのではないか?。

   そのことを私は、「西洋人男性は性交時に後背位を好む筈」という仮説に絡めて考える。何故かというと西洋(のヨーロッパ)は半農半牧社会であり、牧を営む際に家畜の後背位交尾を目撃する筈だからだ。対して家畜との交渉が少ない日本では、人々が「あれを真似してみよう」という気にならなかったのではないか。

   この論は、たぶん私の独創ではない。英国の動物学者デズモンド・モリス著(日高敏隆訳)の「裸のサル」に、書いてあったように思う。ただなにぶん昔に読んだ本で、その後に再読していないゆえ記憶は定かでない。

  ただモリスのこの著で、明確に記憶していることがある。それはヒト雄が雌の乳房を見た時に、それを尻と思い込む(そして性衝動解発のリリーサーとする)という仮説だ。仮説には、確かめうるものとそうではないものがあるが…これは後者の例だ。だが私は、妙に納得した。ならば後背位を好む西洋男が、それをあまりしない日本男より「乳房に執着する」のは必然のことだろう。

  以下は私事。私は、女性の乳房に性衝動が解発されない。「昔も今も」である(今はそもそもインポですが)。古の美少女Sが、「私、貧乳だから…」と呟いた時のことを思い出す。私は「あ、そうなの。気づかんかった」と応答した。それは全く本当のことであり、私は彼女の顔面形態に魅せられていたのだ。

   際立った美女だったSのことは、本ブログの第50話「此の世の別れと蝉と」で述べた。そのSが、同じ大学のラグビーplayerと会話した時の話(を彼女から聞かされたこと)を思い出す。彼女の所属する大学はラグビー強豪校で、そのplayerはFWで、新聞に名が出るレベルだった。たまたま彼女を学内で見かけ、知り合いを介して「一度お茶でも…」と意思表示してのことだったらしい。

   クレバーなSは、男が有名playerだからとてそれに媚びを売る女性ではない。興味半分で男の誘いに応じた彼女は、その時のことを「ラグビーの話しかしない(出来ない)人だった」と評していた。彼女は「聞き上手」な女性だが、その時は些か辟易したようだ。対して私は(自分で言うのも何だが)博覧強記だから、彼女を退屈させることは無かった筈だ。だが残念ながら、私は彼女にとって「性の対象」ではなかった。年が、離れ過ぎていたこともある。

  そのSに限らず、私が異性に惹かれる時のリリーサーは主に「顔」だ。むろんより重要なのはおつむの中身だが、それはfirst  cotactでは判らない。ただ最近は人生経験を重ねて、顔からある程度性格や知力を読み取れるようになった。自称テレパスたる所以である。「声」もかなり参考になる。だがその私をもってしても、乳房や尻、あるいは足などではその女性の心が読めないのだ。

   そして…私が惹かれる異性の顔貌は、半世紀余の昔に(44歳で)逝った母親に似ている。この年になって、漸くそのことに気づいた。今にして思えばSは「そっくり」だったし…N(古の京大法学部生)にもE(古の聖母女学院高生)にも、面影があった。いずれも性格は母とかなり違った。形態が似ているからとて、性格も似るとは限らない。ただ、いずれも「知的だった」ことは共通する。

  私の母は、乳癌で死んだ。致命に至るのは(転移後の)脳と肺の癌だが、初めの発症は乳房だった。そして今にして思えば、母はわりあい巨乳だったように思う。ならば…私が女性の乳房に性衝動を解発される訳は無いのである。なんかフロイド的だが…「フロイドは偉大である」と、改めて思う。

  更に加えて思うのは、「女性自身にとっては"小乳"が生存上有利」ということだ。その方が活動性大だし、「昨今の乳癌増加は、巨乳の増加と関係ありでは?」とも思うのだ。巨乳の方が乳の出は良いだろう。だがそれは(前述のように)、人口爆発のリスクを孕む。現代日本は人口爆発とは背反の「少子化」の時代だが、そのことには生態学的必然性があるのだ。

  だから若者が「結婚出来ない、子を作る気になれない」のは結構なことだ。生まれた子が多く死ぬよりも、子を生まぬのがベターだ。動物生態学的に見て、ヒトは「K戦略者」なのだから。

   で、ですね…巨乳好きの男性はその嗜好を考え直した方が良い。他人事ながら、そう思う。巨乳の発現遺伝子頻度が個体群中に増すのは、個体にとっても不幸なことである。



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   和英辞典というのはなかなか面白い。以下にはその記述より…選手とplayer、教育とeducation、教授とprofessor、学校とschool、差別とdiscrimination、そして不倫とadulteryについて論じる。まずは選手をplayerと訳するのこと。

   選手は選ばれし者…つまりeliteだから、これをplayerと訳すのは奇妙だ。そのことに気づいたのはかなり昔で1980年代末、即ち聖母女学院に勤める少し前だったように記憶する。

   幕末(ないしは明治初)に初めてplayerという英単語を見た日本の知識人は、おそらく欧米におけるsport(「楽しみ」ないしは「戯れ」の意)の何たるかが理解出来なかったのだろう。本来、sportを行う者即ちplayerは、「娯楽者」ないしは「遊び人」と訳すべきである。けれどもsportの本質がわかっていない前出知識人は、「選手」という誤った翻訳語をあてはめたのだ。一方eliteはエリートと、そのまま和製英語にした。これに「選ばれし者」という翻訳語を使わなかったのは、自らがそれであることの「やましさ」があったからだろう。当時の知識人は武士だったのである。

   この仮説を未だ存命だった漢文学者の父:渡辺弘一郎に披瀝したところ、かなり気に入られられた。そして父は、「漢語には選士という(士族階級のエリートを意味する)語がある」ということを紹介し、それをそのまま翻訳語にしなかったのは「武士社会が崩壊したからだろう」という仮説を述べた。

   そのとき私は、初めて父と「知的な会話」をした。彼は動物学(のみならず科学全般)に無知・無関心だったので、私の方から父の守備範囲に立ち入らざるを得なかったのだ。その後は何度か「短歌は如何にあるべきか」を議論した。父は清水房雄という筆名の歌人でもあったのだ。だが残念ながら、その話はあまり噛み合わなかった。そして「二千拾七之参月雛祭其れが命日私の父の」…となったのである。

   1990年代前半にプレイバックする。前記仮説を聖母のJKに紹介したところ、やはりかなりウケた。だが教師達の反応は鈍く、あからさまに敵意を示す者もいた。教師という職業人(の多く)は凡庸ならざる思考、つまり「仮説」を嫌うらしい。

   対して学者は(私の父もそうだが)仮説を尊重する。社会学者で京都大学教授(当時)の伊藤公雄も私の論に賛意を示し、養父章の「翻訳語の成立事情」(岩波新書)のことを私に紹介した。この本では「選手」は取り上げられていない。だが「愛」や「自由」等々の語の成立事情が考察されていて、なかなか読み応えがあった。この本が絶版で、存在自体殆ど知られてないのは残念である。

   以下には、養父が取り上げていない語について私的に考察する。まずは「教授」。

   教授という語は漢語にあり、それがそのまま翻訳語になった。だが英語のprofessorが意味するところとは、かなりギャップがある。英語のprofessには「教え授ける」という意味は無い。「公言する」「装う」「信仰する」「職業とする」…等の意だ。つまり(字義通りに解釈すれば)、大学のプロフェサーには「教育する義務は無い」ということになる。

   次は「教育」。英語はeducationで、educateは「導き出す」というのが本来の意味である。つまり、日本の大半のスクールでやられているようなことは、その名に値しない。あ、schoolを「学校」と訳すのも変だな。それはflockとほぼ同義で「群れ」が本来の意だからだ。

   「差別」が(和英辞典では)discriminationであることを知った時には、ギョッとした。crimeは犯罪で、dis-はそれを否定する接頭語だからだ。つまりdiscriminationは、「犯罪ではないこと」になる。だがむろん、英語圏の人がこの語を肯定的に用いている訳ではあるまい。「法律では罰せないが、倫理には反する」ことを、言外に含めているのではないか。

   「不倫」がadulteryであることにも、ギョッとした。adultは生物学的には性成熟した個体、つまり「おとな」の意味だから、「大人ぽいこと」ないしは「大人なら誰でもすることに」なるからである。

   だがこの私の考察には、反論が寄せられた。武田薬品USA工場元社長の荻野克彦氏よりである。氏は技術者だが、科学の心:即ち仮説の価値が判る人だ。

   その荻野によれば、adulteryはadultとは無関係に成立した語であるという。adultの語源はラテン語のadultus(成長した者)である。一方adulteryは、ad-(その方向へ)とalter(別)が合体しと、adultery(別の人へ行く)の語が成立した。そしてそれが転じて、日本語で「不倫」と訳されるadulteryが生まれたという。

   へえ、そうなのか…知らなんだ。ただadulteryを不倫と訳すのは、やはり良くないだろう。原語のadulteryは「現象」を述べているだけで、それを価値判断はしてないからである。

   それともう一つ思うのは…「ことばは生きもの」ということである。生物進化には収斂という現象がある。起源の異なる異種生物が、類似の生態を有すことによって似た形態・機能を示すことだ。adulteryの成立事情がadultプラス-eryでないにせよ、内心そのように(誤って)理解している者が多いのではないか?。そして、その誤りがかなり普遍化しているのではないか。この仮説の成否は、アンケート調査を実施すれば判ることだ。

  ただその理解は、検出しにくいものだろう。表向きは、キリスト教的一夫一妻の倫理観が支配的だからだ。そしてそれは、人口爆発抑制の機能を果たして来た。キリスト教に限らず大宗教はみな禁欲的だ。そのことにも同様の意味があると私は睨んでいる。教祖がそれを認識していたが否かはさておき、結果的にそうなったと思う。

   けれどもホモ・サピエンス(の先祖)が未だサルであった時代には、人口爆発の危惧は無かったろう。そして配偶形式は、多夫多妻であった可能性が大だ。その時代の遺伝子が、今なお残っているのではないかと思う。長谷川真理子はそのことを「複数の女性と性交渉を持ちたいという傾向は、ヒトの男性の中にかなり広く見られる傾向といってよい」…と述べている(講談社現代新書「オスとメス:性の不思議」より)。

   付言すれば…ヒト雌も、必ずしも一人の配偶者に固執しない筈だ。ただ利己的遺伝子学説の観点からすると、雌は「いまいる子」を大事にする傾向が(雄よりも)強い。父親が誰であれ「自分の子であるのが確実な子」をである。だからadultery願望が雄ほど強くないのだ。

   ヒト雄が雌よりも「不倫を憎む」のは、配偶者の子が本当に自分の遺伝子を継いでいることの確認が出来ないからだろう。その故に「配偶者防衛」に熱心である。そのことは他の動物も同じだが…ただ雌は(前述の理由により)配偶者防衛を殆ど行わない。ヒト雌が例外的にそれをするのは、他の動物には無い(女性差別的な)「経済問題」が絡むからだ。

   なんか身も蓋も無い論理だが…長谷川は(私も)、ヒト社会の一夫一妻的配偶形式を否定しているのではない。ヒトは子育てに極めて手間のかかる特殊な動物で…そのためには「つがいの形成」が不可欠だったのである。そのルーツが多夫多妻であったにせよ、「人類の誕生」時点では一夫一妻の配偶形式が生まれていた可能性が大だ。ただそれは(adulteryが珍しくない)「緩やかな」ものであったと思われる。

   近代社会では婚姻は法的契約であり、adulteryはその違反と見做される。我々は近代に生きる者ゆえ、それに縛られるのは仕方なかろう。だがその違反は民法上のことで、当事者間の問題である。刑法の違反…つまり「犯罪」ではない。そして倫理に反する訳でもないだろう。そのことは、声を大にして言いたい。

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