渡辺茂樹のいたちものがかり

ニホンイタチをこよなく愛するアスワット顧問/動物学者・渡辺茂樹のブログです!

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短歌の運命について



  先日大学のミニ同窓会があり、私を含めて23名が集合した。その翌日は内10名余と、京大時計台会館内レストランで会食した。ひとときの邂逅を終えた後、以下の短歌5首が思い浮かんだ。そしてそれを参加者にメール発信した。

友ありて遠方よりも 集い来ぬ楽しなれども別れは哀し

会うがゆえ別れがあると人は言うでも悔やまない今日会いしこと

何時の日か必ず会える又会える此の世の生が我ある限り

見てくれは良いが中身は怪しなり反知に見ゆる我らが母校

山極がゴリラを騙り でかい面ボノボ古市いま何処に在り

イメージ 1  時計台会館内には「山極総長と語る」なるニュースレターの貼紙があった。それを見て私は「総長って、暴力団用語じゃねえのか?」と思った。

  山極寿一は私と大学院の同期だ。だが私は一度も会話したことが無く、どういう人物なのか直接には知らない。著作を読んだことも無い。ただ新聞に書き散らしたものを見る限りでは、優秀な霊長類学者とは思えぬ。政治力はあるようだが、それについては「ワル」の印象をもつ。

   古市剛史と黒田末寿は能力が高く、そしてワルではなかった。いずれもボノボ(別名ピグミーチンパンジーまたはビーリャ)の研究者だが、当時はこの猿の調査の方が盛んだったのである。いま、どうしているだろうか?。思い出皆無の山極からの連想で、懐かしく回顧する。

  山極以外のゴリラ研究者は、自然保護関係に転出した岡安直比(おかやすなおび)が思い出されるのみだ。私が「びサン」と呼んでいた女性である。現在はWWF日本支部の管理職と伝え聞くが、活躍中とは言い難い。などなど…往時と現在を引き比べ、「一将功成って万骨枯る」の感が深い。

  以下には旧作15首を記す。

我が母校京都大学最早無し今其処在るは残骸なりき

遥かなる遠い昔の全共闘忘れた文字をいま思い出す

投石と催涙ガスにバリケード時の徒花されど懐かし

本郷の台地に向けて砲弾を撃ちたく思う此処上野より

此の世にて袖擦り合いし人々が夢に出る見る代わる代わるに

煉獄の世紀になりしか21我去りしのち君何処なり

戦場に果てし兵士の亡霊よ今甦り安倍晋を討て

日が昇る国にてやがて日が沈む私もうだめ貴女は生きて

古のマドンナ達が甦る人生の末夢走馬灯

「ひどいわ」とポツリひとこと呟いたあれは古きみは美少女

闇の夜に煌めく妖し紅の花私を滅ぼせその花弁にて

此の世では二度と会えない好きなひと幸あれ君にと唯祈るのみ

青春の多くを過ごし京の地にいま舞い戻り往時を想う

青春の思い出多き京の地で三刻を過ごしまた旅に出る

青春は今も尚あり胸のなか体老いても心は老けじ

   亡父の元後妻で国文学者の影山美知子は、「こんなもん短歌じゃない」と評した。だが私は、57577の形式を踏んだものは全て短歌と思う。詠む時は堅苦しく考えず無理をせず、心に浮かんだことをそのまま書き留めれば良いのだ。私はいつもそのつもりで作歌している。

  そのことは「破格」…つまり57577の枠組を極端に崩した作品は、短歌ではないということになる。それをするとリズムが生じない。リズムが無い韻文は短歌ではなく、ツィッターの呟きでしかない。

  亡父は清水房雄という筆名の有名歌人だが、困ったことに彼の作品には破格が多い。それは彼の師匠の師匠である土屋文明の「悪影響」だろう。土屋は正岡子規に源を持つアララギ派を変質させ、潰した。アララギを直接に滅ぼしたのは父だけど、父は土屋の代行者でしかないと思う。

   アララギ派の始祖たる子規は、俳句の中興の祖でもある。子規の短歌は(土屋の前は)斉藤茂吉が継いたが、俳句は高浜虚子が継承した。

  俳句の現況もやばい。だが短歌よりは「まし」だ。それは、虚子が桑原武夫の(エッセイ「第二芸術」における)批判をわりと真摯に受けとめたからだろう。対して短歌は(アララギ以外も)絶滅危惧で、若者には殆ど見向きもされていない。

  俳人としての子規は偉大だが、短歌については妙なことを(エッセイ「歌よみに与ふる書」で)言っている。それは「理屈を言うな」という理屈だ。「万葉集」における額田王にせよ柿本人麻呂にせよ、あるいは子規が高く評価する源実朝にせよ、その作品は理屈に満ちている。それは、メッセージとも換言しえよう。

   そもそも古の短歌は政治の手段であり、時にはセレナーデでもあった。幕末の武人(高杉晋作・山県狂介・山川浩など)においては決意表明手段だった。東大闘争時の落書き「連帯を求めて孤立を恐れず力及ばずして…」は(短歌じゃないけど)は、その系譜だろう。あの作者は、本当は57577文にしたかったのではないか?。

  個々の作品の評価はさておき、短歌とは本来そういうものだった筈だ。なのに子規ほどの者が何故その歴史事実を無視したか?。桑原武夫は(エッセイ「短歌の運命」で)短歌についても考察しているが、何故かそのことには言及していない。

   おそらく子規は、短歌を「大衆化」したかったのではないか?。57577の枠組内に収めるためには、語彙が豊富でなければならない。僅か31文字に(理屈を言うために)起承転結をつけるためには、理論的思考力が要る。つまり知識人でないと作れない。そのことに子規は危惧を抱いたのではというのが、私の解釈である。

  明治末の時代状況では、子規のその判断に一理ありと思う。そして、以後暫くの短歌の隆盛を見る。でも20世紀後半になっても(子規の真意を悟らずに)それを墨守するのは間違っている。俵万智はその風潮に一石を投じたと思う。だが衰亡の流れを止めることは出来なかった。

   桑原武夫は俳句については(前出エッセイにて)舌鋒鋭く批判しているが、短歌批判の矛先はさほど鋭利でない。ただ彼も「短歌はメッセージを言うためのもの」とは認知していて(子規を暗に批判し)、そして「情報が複雑化した現代社会に於いては、31文字では足らないのではないか?」と述べた。つまり「短歌の運命は滅びである」というのが、桑原の結論だ。

   その論に私は異議がある。短歌単独で生き残るのは確かにもう無理だろう。ただエッセイの中に散りばめて、アクセントを付ける形なら未だ命脈を保てるのではないか?。不肖私は、それを実践しているつもりだ。

   桑原は「俳句はお手軽に芸術家気分に浸れるのがメリット」とも言っている。それは短歌にも当てはまると思う。エッセイは書くのに時間がかかる。けど短歌は「ふっと思いついて作品化出来る」のがメリットだ。そのメリットは生かしうる。

   短歌も俳句も、同好会のようなものがある。その会で作品を提示しあう時、個々の作品を詳細に批評するのは避けるべきと思う。添削は論外で、それをすると、作歌者が萎縮する。「言論の自由の侵害」にもなる。だから精々、「いいね!」や「いまいち」のレベルに留めるべきではないか?。

  アララギは「歌会」というのを催して、権威者(清水房雄等)が偉そうに会員の作を添削した。私からすれば「あなたにとやかく言われたくない」だが…アララギの会員は嬉々としてその添削を受け入れた。でも徐々に、そのことが「変だ」と気づいたのだろう。そしてその結果、アララギは滅びたのである。

  むろん、短歌はアララギ派だけではない。その中にはメッセージがあり、かつ破格でないものもあって、それらの某かは「いいね!」と評しうる。

  ただ、そのメッセージが「いまの若者にはどうか?」と思えることもある。短歌が芸術たりうるには、「時を超える」ことが望ましい。そのためには工夫が必要だ。作者自身は「心に浮かんだことをそのまま…」で良いのだが、それだけでは芸術にはなり得ない。

   高杉晋作の「おもしろきこともなき世をおもしろく…」は、時を超えて人々の心に滲み入ると思う。下の句の77を敢えて詠まなかった(一度限りの)「技巧」が絶妙だ。日本短歌史上屈指の名作だろう。

   ただ…これが高杉の作であることを知らなかったら、評価は違って来るかもしれない。桑原武夫は(エッセイ「第二芸術」にて)、俳句は「作者の知名度により評価が左右される」ことを証明した。短歌も(俳句程ではないまでも)、その傾向があるかもだ。

  作者がわかっていればそれで十分という訳でもない。例えば「万葉集」における以下3首。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひゆ今は漕ぎ出でな   [額田王]

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る   [額田王]

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも   [大海人皇子]

   初めは白村江海戦に向かう船団を見送る歌であり、残り2つは壬申の乱の前哨となる。その知識が無いと、この3作は名歌たりえない。技術のみでは限界があるかもしれない。つまり、私の(前述の)「エッセイの中に韻文を散りばめる」スタイルが有効なのだ。ただ、この(7世紀後半という)時代には、未だエッセイという文章スタイルが成立していなかった。

   話があちこち跳び、起承転結のメリハリの無い(私にしては珍しく?散漫な)文章だな。だが軌道修正はせず、以後もそのスタイルで続ける。

  俳句の会は添削をあまりしないようだ。ただ集まったメンバーが自作を皆に示し、それに無記名で人気投票することはやるらしい。AKBランキング方式ですね。それならまあいいんじゃないかと思う。秋元は自身が優れた詩人であるだけに、芸術の何たるかがわかっている。

   私は極めて内輪の(「プロ」はいない)短歌会に参加したことが、一度だけある。そのときAKB的投票が行われ、私の作が一席になった。それは以下の作品だ。

黄泉の国亡き母訪ね何時の日か此の世の生きざま果たせし後には

  亡母のことを詠んだものは他に2つある。

我が父の無様な今を見ゆるとき亡き母のこと思い出さるる

半世紀前に去りぬる我が母よ其のひとの名は渡辺ひで子

  父のことを想定して詠んだものは(前出の他に)、以下4首だ。

百と壱母の倍余を生きた父きみの人生何だったのか

さよならと言って別れたひと故に此の世で会うはもう無かりしを

我が命尽きる日もまた遠からじ故に殊更別れは言わじ

我が心今日の朝に道を聞く故に夕に死すまた可なり

   個別の作品の評価は、「いいね!」か「いまいち」に留めるべきと記した。だが「己は斯様に心掛けて作歌する」と述べるのは、許されうるかもしれない。以下にその私論を述べる。

  まず(前述のように)、57577の枠組みを崩さないのが条件になる。そして必ずという訳ではないが、メッセージを込めるのが望ましい。子規が勧めたような「情景を淡々と描写する」ものでは、芸術たりうるのは難しい。

  起承転結をつけることも心掛けている。メッセージには論理が必要だからだ。そもそも短歌の575は起承で、77は転結ではないかと私は思う。偶然父もそのように考えていたことを、最近に知った。

  それと(これも父のスタンスと一致するが)、非日常的漢語を私は好んで用いる。それをすることで、57577文はよりリズミカルになると思う。例えば「煉獄」「夢走馬灯」「黄泉」がそれである。

  その漢語に「謎」があるとインパクトが強まる。例えば、古の美少女S(ブログ第50話登場)に捧げた以下の作。

美しき花に棘無し毒もなし可憐に咲きし地獄花には

   漢語「地獄花」は如何様にも解釈しうるだろう。Sはこの作品を「いいわね」と誉めてくれた。出会いの時に19歳だった彼女が、20代の半ばに差し掛かった頃だ。彼女が「地獄花」をどう解釈したかは、わからずじまいだった。

   謎の美女だったSは、幼い時に母親を亡くしている。顔を覚えてなくて、写真で初めて対面したという。その感想を聞いたら、「私がもう一人いるみたい」と笑っていた。

   彼女のその時の想念は、歌に詠めるな。だがSは短歌の鑑賞者であっても、創作者ではなかった。私が代わりに詠むなんてことは、畏れ多くて出来ない。

   更にもうひとつ…「自分の作品を自分で気に入っている」ことが望ましい。気に入り過ぎて「毎夜ひとり悦に入る」のはちょっとどうかと思うけど、己が気に入らない作品が他者に感動を与えうる筈は無いのである。「芸術とは、他者に(多少なりとも)感動を与えうる作品」なのだ。

  その意味で、私の父:清水房雄は不幸な歌人だった。私は晩年の父に「自選30首を如何です?」と勧めたことがある。そのとき彼は「いいものなんか一つも無い」と呟き、暗い顔で首を振ったのだ。

    私は父の作品の破格の多さと、無思想性(メッセージの貧しさ)に批判的だ。だが全てが駄作とまでは思わない。けれども彼はそう思い込み、自虐の気分に陥っていることを知って愕然とした。励まそうとしたが、言葉が見つからなかった。そしてそれが、私と父の「此の世で最後の会話」になったのである。

   暗い話の後に、明るいことを記す。最近短歌を始めた旧友Eの作品は、私の作風に近い。彼も科学者だから、メンタルが似ているのかもしれない。彼にも是非、ブログやフェイスブック等で作品を公にして貰いたい。

  ただEは、「作品をエッセイの中に散りばめる」ことは実践していない。そのことに「反対ではない」ようなので、今後更に勧めてみたく思う


★★★  ★★★  ★★★  ★★★

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弾左衛門のこと



弾左衛門平成此の世に甦れ「維新」を騙る悪党を討て

   関八州の「穢多」(歴史用語です!)頭の弾左衛門の屋敷は、現在の東京都台東区浅草今戸にあった。私は其処を学区に含める都立上野高校の出だが、在学中はその名称すらも知らなかった。大学に入って知ったのだが、何時どのようにかは記憶に無い。「同和教育」には出て来なかったような気がする。

   大いなる関心を持つに至るのは、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」(1978)を読んだ後だ。司馬の"最後の幕末小説"であるこの作品は、蘭学医の松本良順、司馬凌海(幼名島倉伊之助)、関寛斉のトリプルキャストでストーリーが進行する。 更に彼等の指導教官だったオランダ人ポンぺや、良順の実父である(やはり蘭学医の)佐藤泰然等も印象的に登場する。だが最も私の印象に残ったのは弾左衛門(12代&13代)と、その家来達だ。以下の述は、多くを司馬のこの作品に拠る。

   司馬によれば、弾左衛門についての初めての考察は、明治25年(1892)から翌年にかけて朝野新聞に連載された(著者不明の)「徳川制度」であるという。この年には最後(13代)の弾左衛門:弾直樹は既に亡く、以後その姓が公に登場することは(私の知る限り)無い。若き日の加山雄三は弾厚作というペンネームを用いたが、これはおそらく「関係ない」だろう。

  それはさておき…徳川政権下での弾家の威儀は1万石で、実質財力は10万石であったという。むろん「石」というものが公に認知されていた訳ではないが、実質的には武家であり、そして中堅クラスの大名だったと言いうる。

  財政基盤は皮革製品の製造販売だったが、主に武具であったその需要が「平和」により減少すると、灯心や履物の製造販売に着手する。いずれも専売で、無税であったために収入は大だった。

  司馬は「無税という点では、被差別民全体がそれに近い」と述べ、更に「無税は特典や恩恵ではなく、思想そのものが差別から出ていた」と言う。そして、「幕藩体制が人外の人として扱っている以上、租税をとる論理が成立しないというだけのことで、さらには租税までけがれているということも要素の一つに入っていたであろう」と考察する。

   だが私は、司馬のこの論理は「順序が逆ではないか?」と思う。私は、「まず差別ありきではない」と考える。

    司馬も記していることだが、関ヶ原合戦には弾一党は部隊を率いて出陣し、何ら差別を受けることはなかったという。そして徳川政権初期には、江戸城に接してその西南(現在の芝公園あたり)に屋敷を構えていた。中期になって浅草に「遠ざけられる」のだが、初期にもし差別を受けていたら、そのような場所に屋敷を構えられる筈はないだろう。

   更には、3つあるその家紋。一つは丸に十字の轡紋で、それは薩摩の島津家のものと同じだ。もう一つは桐で、それは足利、織田、細川などの武家の名門が用いたものに似る。新興武家の豊臣も桐を用いたが、それはデザインを少し変えた五三の桐で、弾家の紋もそれと同じだ。更に幕末に常用された笹竜胆。これは村上源氏、清和源氏のものと同じである。

   そのようなことからして、「差別まずありきではない」と私は信ずる。徳川政権初期はむしろ厚遇されていた。それが嫉妬を買い、何らかの理由で差別が生じたのではないか?。

  ただ無税厚遇の制度は残り、経済的には恵まれていた。だが「維新」によりその厚遇が無くなり、差別の意識のみが(元被差別民全体に対して)残った。つまり「踏んだり蹴ったり」である。

  「差別は平等の幻想から生ずる」と私は思う。故に明治以降、その意識はむしろ熾烈になったのだ。江戸の身分制社会では、当事者の差別・被差別意識は案外薄かったのではあるまいか?。

    江戸:浅草の「穢多」は、そうではない人と混じって住んでいた。だから差別が全く無かったとは言えないが、居住区が峻別されていた西日本とは事情が異なる。そしておそらく東北人は、「穢多」ということば自体を知らなかったと思う。

   ちなみに英語で差別は"discrimination"という。蛇足で付言すると、不倫は"adultery"である。むろんこのことは、英語圏に日本語のその概念が存在しないという意味ではない。かれらは物事の捉え方がrealなのだ。対して現代日本では(差別と不倫の2語は)、時としてカルトの領域に入る。

  しかして「差別が(江戸でも)生じた」理由は何か?。一つは前述の「嫉妬」ではないかと思うのだが、私は更に3つの理由を考える。

  ひとつは徳川5代将軍綱吉の時代に発せられた「生類憐れみの令」だ。当時「穢多」は畜産業に従事していた訳ではない(それが公に行われるのは「維新」以降)。ただ弾一党は、犬のブリーディングも家業としていた。その史実を私は南千住在住の郷土史家杉山六郎氏から教えられ、「目から鱗が落ちた」気がした。

  戦国の世に主に軍用に用いられていた犬たちは、徳川政権下は警備ならびに愛玩の機能を果たすようになる。だがそれ以外に、武家屋敷では「秘かに食われていた」ようである。文化人将軍綱吉は、それを「好ましくない」と考えた。弾一党はあくまでブリーダーであり、畜産業者ではない。だが濡衣的に、割りを食ったのではあるまいか?。

  もうひとつは「非人」(歴史用語です!)頭の車善七を支配下に収め、善七が行っていた「刑場での汚れ仕事」に関与するようになったこと。弾左衛門配下の「穢多」は管理職で、処刑の実務は善七配下の「非人」が行っていたようである。だが部外者からすれば、「一つ穴の狢」に見えたのだろう。

   更にもうひとつは、「闇社会を仕切っていた可能性。同心&与力が担う警察制度が整うより前は弾一党が江戸の治安を保っていて、それが「徳川政権初期は、弾屋敷は江戸城に接していた」理由じゃないかと思う。ちなみに現代の警視庁本部は、皇居の西に接する桜田門外にある。

  中期以降は弾一党の警察機能は(たぶん)減少した。ただ局所的には、依然そうだったのじゃないかと思う。 私は吉原界隈の古地図を見たことがあるのだが、その時に「はん」と思った。車善七の屋敷が、吉原の南に接してあるのだ。吉原の警備は、おそらく善七配下の「非人」が担っていたのだろう。

  そして弾左衛門は、その上に管理職として君臨していた。ならば色好みの江戸庶民に「あいつら…」と憎まれるのは必然のことである。私が、現代警察官総体を(些か理不尽に)嫌悪するようにだ。

イメージ 1   ところで「胡蝶の夢」には、松本良順が12代弾左衛門(名は譲)を往診に行く場面がある。当時江戸の下町に発達していた運河を船で移動し、山谷掘の今戸橋を潜り抜け、そこで陸にあがるのだ。現在の都立浅草高校のあたりで(添付写真)、弾屋敷はそこが南端だった。

   そして其処から細長く北に伸びた弾屋敷は約4.6haの広さがあり、周囲には多数の寺が「宝石のように」散りばめられていた。…ということが、古地図から読み取れる。だがその地図には「弾」の文字は無く、当該敷地は「穢多村」と記されている。むろん屋敷内は「大名の城館似」であり、ビレッジではない。

  そもそも「穢多」は農業をしない。彼等は牛馬の解体を(無償で死体を譲り受けて)行うが、それらは元は農村で(耕作・運搬用に)飼われていたものである。

   ところで、4.6haの面積は広いのか狭いのか?。それはニホンイタチの雌の行動圏の4倍強で、雄の行動圏の半分以下だが、むろんその比較は意味が無い。

  日比谷公園の面積がその約3.5倍と知ると、狭いように思えるかもしれない。だが江戸時代の日比谷公園に相当する敷地には、鍋島と毛利の2藩の屋敷が収容されていた。この2藩の屋敷は此処だけではないだろう。だが4.6haを独占していた弾家は、比較して「冷遇されてない」と思う。

   以下は司馬遼太郎が描く弾左衛門のプロフィールについて。13代(幕末の名は弾内記)のことは、「黒羽二重の羽織と小袖、白襟を見せ、仙台平の袴といったぐあいで、どう見ても大名か大身の旗本の当主のよう」と記している。そして、「いわゆる殿様顔に多い面長である。眉がつよく騰り、鼻隆く、齢は30代の終わり頃と思われる」とも描写する。

  写真が現存するこの人は摂津国渡辺村の出身で、幼名は小太郎といった。12代に才質を見込まれて抜擢され、その娘と結婚して婿入りした。弾家に限らず、江戸時代の武家は「優秀な婿に家運を託す」ことが少なくなかったのだ。

  幕末動乱の時期に弾家は徳川側についた。薩摩より「我らはルーツは同じ。共に戦わん」との要請があったが、応じなかった。そして13代は、慶応2年(1866)の幕府の長州遠征に家来を率いて従軍する。

  だが弾の部隊は後方で兵站の役割を果たしただけで、前線には出なかった。それ故に、同士討ちをせずに済んだ。長州側には、維新団を名乗る「穢多」出自の部隊があったからだ。黒ずくめの制服を纏った維新団の兵は、徳川軍の主力を為す幕府歩兵隊と激しい銃撃戦を展開したと伝えられる。

  その一年半後の鳥羽伏見合戦で薩長軍が勝利し、勢いに乗じた新政府軍は東征を開始した。中山道を通る(土佐中心の)軍を迎撃すべく甲州に派遣されたのが、近藤勇と土方歳三に率いられた新撰組残党だ。

  このとき新撰組は部隊を形成する程の数が残ってなかった。見かねた弾左衛門は、己の家来を兵士として供出する。隠居していた12代がその兵を統率し、近藤らと共に西に向かう。名付けて甲陽鎮撫隊だ。

  新政府軍と甲陽鎮撫隊の戦いはあっさり終わった。弾家としては「義を見てせざるは勇無きなり」と思ったものの、徹底的に戦う気は無かったようだ。おそらく死者は殆ど出ていないだろう。

  江戸に残っていた13代は板橋に使者を送り、中山道遠征軍の将:板垣退助を迎えて恭順を申し出た。板垣は快諾し、以後弾一党が戦場に出ることは無かった。彰義隊に私的に参加した者も、殆どいない筈だ。

   明治国家の成立後、弾内記改め直樹は軍用革靴の製造を行う事業を興す。だが江戸時代の「無税特権」が失われていた故に新規同業者との競争に晒される。そして敗北し、弾家は零落した。

   ただその後、番頭格の人物が奮迅する。そして、弾の元「城下」の浅草を皮革製品・履物の街として栄えさせることに成功した。その名残りは今も残る。最近はやや陰りが見えぬでもないが、それは日本経済全体のことだろう。



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韓(から)のくに夢とわかりし思い入れ我の貧しき知性なりしも

   初めにまず、古の(今は亡き)聖母女学院の記憶を再び辿る。以下は、その生徒A.K.が約20年前に記したものである。私が韓国紀行のエッセイを教室で配布し、その感想として述してくれたものだ。

[読んで疑問に思ったこと]
   私の韓国のイメージとしては、観光地以外は自然豊かな国というものだ。あくまでイメージであって、実際はどうなのか全く知らないが。だから、先生が韓国に行かれるというのを聞いた時「ああ、自然が多いからイタチも多いんだろうな」と思った。しかし、実際先生が一度もイタチの姿を見かけなかったというのは、驚きだった。日本では都市部にも生活しているイタチが、どうして韓国でみかけることができなかったのだろうか?   私はイタチについて全く知らないので何ともいえないが、韓国の風土、気候、生活する場はイタチに適していないのか?  それとも、イタチにとっての天敵がいてイタチは生活するのが大変なのだろうか?   謎である。

[先生が疑問に思ったことへの考察]
   スズガエルというカエルがどんなものか知らないのに考察するのはおこがましいが、私が考えるには、オタマジャクシの時には普通のカエルと同じように育ち、カエルとなって、それからだんだんカラフルになっていくのではないかと思う。なんか一般的な考え、浅い考えでスミマセン。考察するのは難しいですね。

[批評]
   先生の文章は、何かまとまりがあって読んでいてわかりやすいと思う。あと、ときどき全く関係ないくだらない事を書いて冗談まじりの文章にしてくれているのも、かたくるしさばかりじゃなくなるので、こっちとしては楽に読めるし、おもしろいと思う。先生は文章を書くのがお上手ですね。

  これに対する私の感想は、「望外褒言葉恐縮至極」である。お返しに私の感想を述べると、このJKの作文力も相当なものだ。今日びの高校生はこれだけのものはなかなか書けない。改めて、「聖母女学院の(20年前の)JKは優秀だった」と思う。

   彼女のその能力は、学校で習得したものではあるまい。家庭教育と、読書によって得たものである筈だ。聖母に限らず、学校は生徒の能力を伸ばす場として機能していない。むしろ「潰す」ことが多い。その程度が比較的ましな学校が、相対的に良い学校であるだけである。日高敏隆先生以外の教師は蔑視し、そしてことごとく敵対して来た私は、いまそのように総括する。

   この古文書は先日部屋の片付けをしていた時に発掘したものだが、そのとき別の文書(というより紙片)も出て来た。添付写真がそれである。

  この可憐なリクエストに、私がどう対応したかの記憶がはっきりしない。当時、畏友の小島一介が京都市動物園で飼育係長の任にあったので(ブログ第54話参照)、そのつてを頼って連れて行ったようにも思う。だが「その時の情景」が浮かんで来ないのだ。別の生徒達の誘いで、映画「ジュラシック・パーク」を見に行ったことは鮮明に記憶するのにである。

  もしか「断った」のかもしれない。そのことがトラウマとしてあったので、映画鑑賞は承諾したのかもしれない。だとしたら、この時の生徒達には申し訳なかったと思う。

  聖母には「男女交際禁止」の校則があった。私はそのとき既に不惑齢だったけど、生徒達には多分10歳は若く見えた筈である。私は教師だが、「男」には違いない。だから(集団でとはいえ)学校に無断で「デート」したら、それは男女交際と見做されたかもしれぬのだ。そして私は、学校に届け出書類を出したことが無い。そのことは、確かに記憶する。

古のマドンナ達が甦る人生の末夢走馬灯

  斯様に昔のことがやたら思い出されるのは、不吉であると思えなくもない。それは一種の走馬灯現象に思えるからだ。もしか私は、死期が近いのだろうか(?)。

  だとしても、仕方あるまい。人間、何時かは死ぬのだ。出来ることなら苦しまず…そして潔く死にたい。かなりみっともない死に方をした父親(享年101歳)のことを、反面教師にしてである。

   それはさておき、私の韓国紀行とイタチのこと。それを以下に記す。ちなみに冒頭の57577文で「我の貧しき知性」と記したが、これは謙譲語である。深刻にそう思っている訳ではない。

   私が初めて韓国に行ったのは、バルセロナ五輪の年だ。そしてそれから4年連続で年1回韓国に行き、その度に紀行文を書いた。タイトルは「からのくに里山紀行」、タイトル無し、「サードコリア」、そして「June  Korea」である。最後の"June"以外はいずれも8月の旅だ。そのいずれもが、何故か私の手元には残っていない。

  そしてそのいずれにも、イタチは(生きた姿では)登場しない。その糞は見つかったが、「極めて少なかった」と記した。目撃頻度だけでは、個体群密度云々は言い得ない。だが、生活痕跡(糞や足跡)も稀だということは、「密度は低い」という仮説が成り立ちうるだろう。

  ちなみに韓国には、ニホンイタチMustela  itatsiはいない。シベリアイタチMustela  sibiricaは(密度はともかく)広域的に分布する筈だ。そして38ºNに重なる非武装地帯近くには、オコジヨMustela  ermineaとイイズナmustela  nivalisもいることになっている。

  で、私は4回の韓国紀行でまず智異山(チリサン)に登り、次いで俗離山(ソンニサン)、雉岳山(チアウサン)の山麓を歩いた。そして、扶余(プヨ)、春川(チュンチョン)、原州(ウォンジュ)、公州(コンジュ)の田園地帯を踏査した。だが前述のように、イタチの存在確認をすることは稀だったのである。

   A.K.とは異なり、私は「韓国は禿山が多いのではないか?」という予断&偏見を持っていた。だが結果はそれと異なり、かなり「緑豊か」だった。あとで知ったことだが、それは暗殺された大統領朴正熙の政治的業績の故だという。朴は、かなり積極的に植林を推進したとのことだ。

   樹種は、見かけは日本産と似た広葉樹が多い。スギ・ヒノキの人工林は、日本ほど目立たない。ただその広葉樹林を日本と比べると、「乾いている」という印象を受けた。

  日本の森林も、全てが湿潤な訳ではない。スギやヒノキの人工林はおしなべて乾いている。そして広葉樹が多い林でも、例えば滋賀県の音羽山はかなり乾いている。同じ滋賀県でも、田上山は湿潤だ。そしてイタチの痕跡は、後者が相対的に多いのである。

  都市の状況はどうであろうか?。かの国の野生哺乳類の権威で、北大留学の歴のある韓尚勲に「イタチはいるか?」と問い合わせたことがある。返答は「ソウルやプサンに"いる"とは聞いたことが無い」であった。

  ま、そうだろうな、とは思う。韓国の都市にもクマネズミは多い筈で、食物条件は良いと思う。だが住宅事情がよろしくない。韓国の建築物は機密性が大で、イタチの侵入が難しいからだ。そしてオンドルを使うため、屋根裏に断熱材グラスウールを(たぶん)入れてない。だからもし侵入を果たしても、繁殖用巣材に事欠く。ということはつまり…韓国のシベリアイタチはNT(準絶滅危惧)状態ではないかと思える。

  転じて西日本の状況を見るならば、それは「シベリアイタチにとってのパラダイスでは?」と思えぬでもない。本貫の地:韓国での状況がもしヤバいのであれば、「在日シベリアイタチ」は保全すべきだろう。むろん人間に迷惑をかけるのは困ったことで、それは何とかせねばならぬ。でも「絶滅させる」のは如何なものかと思う。何とかして、「共存」の術を考えたい。

   A.K.が「考察」で触れたスズガエルは美しいカエルだ。その色彩は琉球の貴重種イシカワガエルに似てなくもない。だが系統的にはそれとはかなり異なり、どちらかと言えばprimitiveな種とのことだという。この種も、あまり良い状態ではないようである。

   追伸:本稿をブログupしようと思ったまさにその時に、耳寄りの情報が入った。「ロシアのシベリアイタチもヤバい」のだという。情報源は畏友金子弥生(東京農工大学)である。その詳細は後日に別稿で記す。



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第78ー79話に、忘れじの(今は亡き)聖母女学院高校の回想を記した。此度はその続々編である。


   
引っ越しの時に部屋を片付けていたら、「渡辺蔵書貸出帳」なるものが出て来た。私が聖母に勤め始めて5年目の1994年からその翌年にかけて、生徒諸君に貸し出した本の目録だ。以下はそれに絡めての回想録である。


   
1994年の前年は聖母の創立70年で、同年に学院のシンボル的な存在だった老教員の虎岩信江が癌で亡くなった。その年は、私が箕面市勝尾寺川でニホンイタチの繁殖行動を観察出来た最後の年でもある。そして翌年の1995年には、阪神大震災と地下鉄サリン事件があった。そしてそのあと世紀末から世紀初にかけて、凶悪殺人事件が頻繁する。と、いうようなことが、つらつら思い出される。


  
貸し出された本の書名は以下のようなものだ。


   
「動物の権利」「家畜と人間」「ダーウィン以来」「ワイルドスワン」「新宿医科大学」「ビッグバン理論は間違っていた」「サンゴ礁の動物たち」「ゾウの時間ネズミの時間」「エレクトロニクスが戦いを制す」「ジュラシック・パーク」「無限の果てに何があるか」「銀行:男たちのサバイバル」「地球の掟」「凩の時」「悪魔の遺伝子操作」「輸入米は危ない」「みどりの守り神」「カンビュセスの籤」「寄生獣」「風子のいる店」「デビルマン」「故郷忘じがたく候」「街道をゆく:韓のくに紀行」「街道をゆく:ニューヨーク散歩」「街道をゆく:オホーツク街道」「アメリカ素描」「ミシシッピ川紀行」「アポロ13号奇跡の帰還」「ヒトはみな生まれる前は女だった」「龍は眠る」「宇宙衛星博覧会」「メタモルフォセス群島」「古代通史」「治療塔」「オスとメス:性の不思議」「殺しあう市民たち」「笑うカイチュウ」「どっこい生きてる!」「ホワイト・バッジ」「あの頃ぼくらはアホでした」「人に棲みつくカビ」「ホット・ゾーン」「アウトブレイク」「悪魔の黒い霧」「大地動乱の時代」「ドイツの森番たち」「柩の列島」「ウラルの核惨事」


   
貸して返って来なかった本も(僅かにだが)あるように思うし、2年前の引っ越しの時にかなりの数が失われた。そのため、今では著者名を確認出来ないものもある。覚えている限りの著者名は以下の如しだ。


   
スティーブン・J・グールド、ユン・チァン、永井明、本川達雄、NHK取材班、マイクル・クライトン、足立恒雄、アル・ゴア、大江志乃夫、藤子・F・不二雄、岩明均、永井豪、司馬遼太郎、猿谷要、宮部みゆき、筒井康隆、古田武彦、大江健三郎、長谷川真理子、藤田紘一郎、中島るみ子、東野圭吾、リチャード・プレストン、石橋克彦、広瀬隆、ジョレス・メドベージェフ


   
この著者名リストを見た人は、「こやつは何の教師か?」と思うかな。むろん理科です。本業は生物だが、聖母では化学と地学も担当した。他校では物理も行い、「理科はひと通り全部こなせる」と自称している。社会科と国語も自信があるが、その教員免許は持ってない。英語と数学は(免許を持ってないのみならず)自信が無い。美術、音楽、体育も同様だ。


  
これらの本をどのように持ち運んだかはよく覚えてないのだが、多分何回かに分けて理科非常勤講師控室に運び入れたのだろう。専任他教師はさぞかし嫌な顔をしたと思う。でもその時の私は、唯我独尊のKYだったのだ。あ、いや、今でもそうだな()


   
「動物の権利」と「家畜と人間」、ならびにグールドの「ダーウィン以来(上下2冊)」を借り出したのは、Y..だ。彼女は近畿大学の畜産学科を志望していて、受験科目は小論文だけだとのことだった。で、「じゃあこれ読んだら?」と勧めたのである。そして見事に合格したのだが、そのことに私が貢献したか否かは未確認だ。


   
..は美少女で、聖母の学校宣伝冊子に顔写真が載ったことがある。演劇部員だったが、演技力はいまいちだった。というか、3人いた演劇部員の中ではS(以下イニシャル1文字は第78話登場のJKに対応)の演技力がずば抜けていた故、目立たなかったとも言いうる。


   
..がもし演技力大だったら芸能界を志望したか?。それは多分無いだろう。聖母は美人校だが、芸能界志望の者は(私の知る限り)一人もいなかった。その世界に価値を見出すような学校ではなかった。噂のみ聞く神戸女学院高校のように


   
..に本を貸したことが、その後の「貸本業開始」の契機になった。そしてJには.足立恒雄の「無限の果てに何があるか」を貸し、演劇部員のSは司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」と大江志乃夫の「凩の時」を(自ら進んで)借り出した。いずれも大学受験対策ではない。ただ彼女は歴史学科の志望であり、その望み通りに進学した。


   
もう一人の演劇部員だったY..は、京都女子大学に進んだ。私は一時期京女大に勤めていたことがあり、偶然彼女と構内で再会したことがある。喫茶店でも行こうかと誘ったが、彼女は授業があるからと断った。短い立話の印象では、あまり楽しそうではなかった。京女大は彼女が望んだ進学先ではなかったようである。


  
Uは「悪魔の遺伝子操作」と、岩明均の「寄生獣」をリクエストした。後者は最も人気があり、Uが返却した後も引く手あまただった。そしてMはユン・チァンの「ワイルドスワン」を借りる。一時期不登校だった彼女「らしい」と言えるかもしれない。


   
教育実習生だったMは、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを所望した。あ、彼女は何が専攻だったかな?。聞いたように思うが忘れた。英文科だったろうか。


   
Aも司馬本を借り、更に猿谷要の「ミシシッピ川紀行」、そして広瀬隆の「ドイツの森番たち」と「柩の列島」、更にジョレス・メドべージェフの「ウラルの核惨事」を所望した。少しく私を困らせた彼女は、ひとりあたまの借り出し冊数が最も多い。


   
同志社大学に進学したM..は、中島るみ子の「どっこい生きてる!」を読んだ。この本には、私が未熟イタチ研究者として登場している。あ、いや、それではなかったかな?。「東京の野生動物大探検」だったかもしれない。ともかく、その際に私を取材した著者中島は、今は忘れられたライターである。文春ビジュアル文庫から出たのだか、いまそのシリーズは店頭に出てないのだ。そして彼女の著作はみな絶版で、図書館にも置いてない。


   
..とは、彼女の卒業後に一度会ったことがある。京都競馬場近くの喫茶店でだ。彼女は大学が楽しくないと言っていた。そして「私、いま同棲してるの」とも言ったが、あまり幸せそうではなかった。それは不倫ではないが、ややそれに近い関係だったようだ。もしか彼女は、私に何かを言って欲しかったのかもしれない。だが、カウンセラーは私の柄じゃない。科学や文学や政治の話なら、喋り出したら止まらない程に出来るけれどもである。


  
結局私は、聖母のJKの「役には立てなかった」のかな。いや、そうでもないだろうか?。多少とも寄与することがあったのなら、嬉しい。


   
東本願寺僧侶某は「人は何かの役にたつために生まれてくるのじゃない」と言う(添付写真参照)。君さ、嘘言っちゃいけないよ。君自身はそう思ってないじゃろが!。


  
自分のことしか考えない人生は楽しくない。人間はやはり何かあるいは「誰か」のために役立とうと思って、生まれて来るのだ。それは、文化により習得する後天的なものだけれどもである。その願いが結実しなくとも、それは仕方ない。


    
私が心を通わせた高校生は女子が多い。たまたま女子校勤務が多かったこともあるのだが、それだけが理由ではないだろう。私は、女子相手の方が「つい熱心になる」なのだ。でも、それは依怙贔屓ではない。そのように言われるのは心外である。それは生物学的必然なのだ。



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イメージ 1   第77話「忘れじのJK」に登場する少女達(当時)13人中の10名は、S女学院の出だ。S女学院の実名は聖母女学院という。


   添付写真はその聖母女学院の校章である。一見ロングスカートを穿いた女性のように見えるこのデザインは、実はそれではない。Ermine(アーミン)という空想上の獣を象ったものだ。ただ、Ermineは実在の獣をも意味する。その獣は食肉目イタチ科イタチ属で、日本語の種名はオコジヨである。学名はMustela  ermineaで、英語名はStoatともいう。


   ちなみに,イタチ属の種の英語一般名詞はWeaselだ。で、ニホンイタチはJapanese  weasel、シベリアイタチはSiberian  weasel、イイズナはLeast  weaselという。そして前記のように、オコジヨには特別名が付いている。もう一つ特別名が付いているイタチ属の種がある。それはヨーロッパケナガイタチで、英語名はPolecatだ。学名をMustela  putoriusというこの獣はれっきとしたイタチであり、猫ではない。それを家畜化したものが、フェレットである。


   少しく脱線した。以降は…オコジヨを校章としたその学校が「今は無い」ということを記す。建物は当時の侭だが、校名が香里ヌヴェール学院に変わり、共学化したのだ。つまり「 今其処在るは残骸なりき」である。


   古の聖母女学院に勤務する前に、私の心はやや荒れていた。その心は彼女らに癒やされた。「あの6年間がなければ今の私は無い」…と、偉そうに言える私ではないけれど、あれが無けれねば私は「人の道を踏み外していた」ような気がする。「有難う  心優しき  少女たち  楽しかったよ  あの6つ年」である。


   ところで京都には、姉妹校の京都聖母学院がある。京阪電車沿線の深草の在だ。こちらは今も聖母の字を消すことなく、女子校の侭だ。何故なのだろうか?。その理由を考察する前に、歴史を少々記す。

   創立は聖母女学院が遥かに古く、1923年だ。関東大震災の年だが、在地が大阪の玉造だった故その影響を直接には受けてない。創ったのはフランスから来た修道女たちだ。彼女らはヌヴェール愛徳修道会の所属だったが、その時はこの片仮名文字を校名としなかった。日本文化に合わせて、聖母女学院と名付けられたのである。やがて戦争が始まるとその校名はファシストどもに敵視され、香里高等女学校に変えさせられる。そして戦後に元に戻った。

   戦争末期に玉造界隈は米軍の非人道爆撃を受け、壊滅した。だがその少し前に校舎を郊外の枚方市香里丘に移していたため、被害は少なで住んだ。戦後に同じ敷地に新しい校舎が建てられて、それが今もある。

    姉妹校の設置は戦後7年目の1952年で、つまりUSAとの戦争講和成立の翌年である。大阪も京都も中学校が併設され、京都には短大も出来た。姉妹校の校名は京都聖母女学院だったが、2011年(福島原発事故の年)に「女」の字を抜き、京都聖母学院と改名する。だが共学化はしなかった。京都の女子校は本願寺系の京都女子学園とプロテスタント系の同志社女子、ならびに平安女学院が著名だが、カトリック系では京都聖母学院がトップランクだろう。

   さて、本家たる大阪の聖母が滅び、分家の京都聖母が残ったのは何故なのか?。その理由は直接的には、前者が生徒が集まらず経営難に陥ったからだ。しかして何故そうなったか?。その理由を、「同志社香里の共学化」に求める人がいる。京都府立高校元校長のMである。

   同志社系列の高校は岩倉に共学、今出川に女子校があり、聖母女学院のある香里丘には男子校があった。そして、京阪電車沿線のお嬢様は聖母、お坊ちゃまは同志社香里というすみわけ関係が成立していた。だが同志社がお嬢様を受け入れるようになるとその関係が崩れ、生存競争において聖母は敗れたというのがMの説である。

   それはあるかもしれない。だがそれだけではないだろう。当時の聖母女学院は同志社志向は強くなく、中堅クラスの(京大や東大は含まない)大学にバランス良く進学していた。医学部志望者も少なくなかったが、大概何処かには収まっていた。同志社香里に流れたことはあるにせよ、それより「聖母の魅力がなくなった」ことの方が大きいのではないか。具体的には「教員の質が低下した故」じゃないかと思う。

    私が居た頃の聖母の専任教員は、多くが凡庸だった。それでも、愚鈍のレベルの者は少なかった。それが様変わりし、愚者の楽園になったのではなかろうか。京都聖母の内実は知らないが、質の劣化がいくらか少ないのではないかと推察する。

  私が居た頃の聖母の教員達は、何かと言うと「うちの高校の生徒はレベルが低い」とぼやいていた。「何をぬかすか」と私は思った。聖母の(当時の)生徒は優秀だ。それまで私が勤めた学校を引き合いに出すと、奈良女子大学付属高校(共学)と比べても遜色が無い。有名校進学実績では劣るが、それは聖母の生徒が「おっとりしている」からだろう。前出の専任教員達は、そのことが理解出来てなかったのだ。

   ところで私が聖母に勤めるようになった契機は、京大(の理学部動物学教室)に「非常勤講師(生物担当)募集」の貼紙が出たからだ。私はその貼紙を見ていない。私はそのとき既に研究室を離れていたからだ。だが未だ大学に居た友人がそれを見て、「おまえ、応募してみんか」と連絡して来た。応募の結果、即決で採用された。そのとき聖母の関係者は「京大出が欲しかった」のだと思う。ただそのことに私が気づいたのは、聖母を辞めてからずっと後になってからである。学歴をひけらかす趣味の無い私は、「中等教育世界で京大出の肩書きがどういう意味を持つか」を理解していなかったのだ。

   で、その京大出の私は、おそらく生徒(のマジョリティ)の期待に応え得たと思う。だが私は、「破格」であり過ぎた。「政治の話」を好んでしたし、その関連の(担当教科には関係無い)資料を頻繁に配布した。担当教科の授業内容は、大学の教養レベルだったと思う。それは生徒にはうけたが、教員には睨まれた。生徒の支持があった故すぐには解雇されなかったが、6年目が終わると限界だった。実質上クビになって学園を去るとき、某生徒が呟いた一言を私は今も記憶する。それは「せんせいは、この学校の"色"に全く染まらない人ね」という言である。このことは何時か何処かで書いたな。

  やさぐれの私が6年間も聖母に勤められたのは、生徒の支持の他に、虎岩信江という人格者の老教員がいたからかもしれない。東京女子高等師範(お茶の水女子大学の前身)出の歴史教員の虎岩は、校長を勤めて退任した後も未だ聖母に在籍していた。この人が1993年に癌で死去したとき、私の命運は定まったのだろう。現職の校長と教頭は、私に対する強い敵意を示していた。美術の専任教員のSは私の味方だったが、ヒラの彼女の支持だけでは限界があったのである。

   S教員とは、京都市動物園に行ったことがある。生徒数名も一緒にだ。飼育係長で畏友の小島一介(ブログ第54話参照)が未だ存命の時で、小島は一般入場者が入れない奥に我々を案内してくれた。そこには生まれて間もなく保護された(その時よりは少し成長した)ツキノワグマの幼獣がいた。よく慣れていて、人間が抱きついても平気だった。Sはキャアキャア喜びながらその幼獣と遊んでいた。

   一年程経ってから、彼女は「あの子、随分大きくなったでしょうね?」と私に言った。私は躊躇いつつ、真実を告げざるを得なかった。「あの子はもうこの世にいないのです」…ツキノワグマは日本の大概の動物園にいるから、成獣の引き取り手は無い。さりとて、人慣れした個体を放獣するのは危険過ぎるのである。Sはショックを受けたような表情を浮かべ、それ以上何も言わなかった。

  Sは聖母の専任教員の中では例外的に凡庸ではなく、そして人格者だった。もし彼女が管理職に昇進するようなことがあったら、聖母女学院は滅びを免れたかもしれない。でもおそらく、もう勤めていないだろう。いまどうしているかは知らないが、もしかすると故郷に帰ったかもしれない。

   彼女は元は薩摩おごじょである。開聞岳の近くの村の出身で、沈寿官と彼が創る薩摩焼のことも良く知っていた。もし故郷に帰っていたら、連絡をとってみたい気がする。私はいま、「鹿児島県におけるニホンアナグマ虐殺」に大いに関心があるからだ。


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