渡辺茂樹のいたちものがかり

ニホンイタチをこよなく愛するアスワット顧問/動物学者・渡辺茂樹のブログです!

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田原坂紀行




西南の役に斃れし兵士たち田原の坂に往事を想う

   明治10年(1877)の西南戦争は日本最後の内戦で、薩摩反乱軍総3万と日本政府軍総6万が激突した。戦争全体の死者は(両軍合わせて)1万4千だが、田原坂の戦闘のみで4千が死んだ。つまり、戦争全体の総死者数中の30%がこの戦闘で生じたことになる。

イメージ 1   西南戦争は日本刀が戦場で使用された最後の戦である。だがそれは、勝敗の局面を変えるには至らなかった。基本は銃撃戦である。それは9年前の鳥羽伏見合戦も同じだ。だが殊に田原坂では、狭い地域で猛烈に撃ち合った。そのため、敵味方の放った弾丸が空中衝突した「行きあい弾」が幾つも生じた(写真1)。むろんそれは、両軍兵士の射撃能力の高さにも拠ることだろう。

   戦闘は3月4日に始まり、以後17日間に及んだ。ひとつの戦場での持続日数としては、日本史上最長のだろう。銃の性能と兵站の確かさからして、政府軍は圧倒的に有利だった。戦闘が長引いたのは、薩摩の兵が敢闘したからだ。そのありさまを、司馬遼太郎は以下のように記す(「翔ぶが如く」より)。

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   薩軍に雨は敵であった。薩軍の銃のほとんどは一発うつと銃口から火薬を入れ、槊杖で突っつくように詰めたあと、同じく銃口から弾を入れるのである。雨中では、火薬を濡らさずにこの操作をすることは困難だった。
   それに、薩軍や熊本隊の軍装の多くは着物に袴であり、これは雨に濡れると布が体にべとつき……(中略)……薩軍が、これほど不快な条件に耐え、かつ補給と補充にくるしみ、なおかつ戦意と戦闘能力を衰えさせなかったのは、史上に類のないことといってよい。
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   薩軍も着物ではなくて洋式軍装だったという説もあるが、それはまあどうでも良い。溜まった排泄物の難しさも含め、薩軍側は圧倒的に不利・不快だった筈だ。その状況に17日間耐えたのは敢闘であり、「史上に類のないこと」という評価に同意する。

   だがいくら敢闘しても、それは「敗北の先延ばし」でしかない。薩軍に所詮勝ち目はなかった。そ司馬遼太郎はその絶望状況を描くことにより、65年後の(ガダルカナル・インパール・ニューギニア等での)凄惨を連想させたかったのだろう。65年後の日本兵は餓死者が多くを占めた。弾丸に当たって死んだ薩兵は、「それよりはまし」と言いうるかもしれない。

   ちなみに、田原坂での薩兵のみの死者は約3千だ。この時点での薩軍の兵力は1万5千だから、その20%が戦死したことになる。重傷者を加えれば、消耗率は50%を越えたと思われる。

   前出の薩軍総3万という値は、田原坂戦闘の後に徴兵・補充した人数を加えたものだ。司馬遼太郎によれば…田原坂以前の1万5千は生粋の薩摩兵児(選りすぐられた若年の薩摩武士)で、これより後の補充兵はやや戦闘力が落ちたという。その兵児の半分が失われたとなれば、この時点で「戦争は終わった」とも言いうる。

   だが薩軍は往生際が悪かった。鹿児島市内の城山で敗残者が玉砕死する9月末まで、戦争は(九州内を転戦しながら)なお半年間続く。その愚行は、65年後の日本軍の行いと似ている。

   更に言えば…最激戦の田原坂では、薩軍の将官クラスは死んでない。少し南の戦場の吉次越で、篠原国幹が(赤マントの目立つ服装で指揮をしていた故)狙撃兵に倒されたのみだ。田原坂の指揮者は村田新八と別府晋介だが、いずれも城山まで生き長らえた。桐野や西郷等も含めて、「いい気なものだ」と言わざるを得ない。将が命を惜しんで兵を消耗品扱いする習癖は、明治10年の薩軍も(65年後の日本軍と)同じだったのである。

   その田原坂は、現在の熊本県植木町にある。鹿児島本線の木の葉駅から田原坂駅の東に丘陵地があるが、その北面に位置する。坂の長さは水平直線距離で1km余で、標高差は約80m。丘陵地全体の長径は約3kmで、短径は1km程である。

   この坂で何故激闘が行われたかというと…それは薩軍の戦術の拙さによる。政権打倒の近道は多分長崎を取って船を奪い、東京を衝くことである。土佐出自の名将(元)板垣退助は、薩軍が何故それをしないのかと不思議がったという。

    戦国期の名将島津義弘ならば、おそらくそうしただろう。だが300年後の薩軍には、勇士はいても名将がいなかった。彼らは愚直に、熊本の鎮台(後に「師団」と改称)を標的とした。その鎮台が拠る熊本城を攻めるが、落とせない。その状況下で、政府の援軍が北から熊本城を目指しているという情報が入る。内と外から挟み打ちされたら、薩軍は敗北必至だ。で、薩軍は、政府援軍を迎撃すべく熊本城の北に兵を出したのだ。

  丘陵地が壁のように連なる熊本城北部において、田原坂は最大難所だ。だが難所とはいえ、その坂道は砲車が通過出来る唯一の道路だった。谷あいを抜ければよいと思えるかもだが、この時代の低湿地は水田に覆われ、道路は通っていなかったのである。だから政府軍は何としても坂越えをせねばならず、薩軍は何としてもそれを阻まねばならながった。島津義弘ならば形勢不利と見て、「一時鹿児島に撤退する」ことを考えたかもしれない。だがこの時の薩軍には、そのおつむを持つ将がいなかったのである。

   薩軍の将のおつむのお粗末さについて、司馬遼太郎は(「翔ぶが如く」にて)以下のように論評する。

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   西郷と薩軍の作戦案は、いかなる時代のどのような戦史にも例がないほど、外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった。これとそっくりの思考法をとった集団は、これよりのちの歴史でーーそれも日本の歴史でーーたった一例しかないのである。昭和期に入っての陸軍参謀本部とそれをとりまく新聞、政治家たちがそれであろう。
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   「然り」だが…現代日本はかなりこの状況に近づいているような気がしないでもない。やばい。

  以上の予備知識を抱えて、「紀行」を行った。2017年の12月25日にである。以下にその見聞録を記す。

   JR鹿児島本線の木の葉駅で下車して東に(国道208号線を)1km余歩くと、田原坂の入口である。田原坂は(下から)一の坂、二の坂、三の坂と呼称される。前述のように傾斜は緩い。道の両側は竹藪だ。明治10年時点ではアカマツ疎林が大半だったとのことだから、随分様変わりしている。

イメージ 2

 
 一の坂を過ぎた時、竹藪の中で黄色い獣が動いた。お!、シベリアイタチだ。サイズからして、たぶん雌だろう。慌ててカメラを構えたが、撮ることは出来なかった(写真2)。午前11時42分の出来事である。

   更に登って二の坂が近づいた時、やはり竹藪内土手にけもの道があった。おそらくイノシシだろう。ただ足跡は認められずで、糞も無かった。そもそも田原坂の1km余の踏査では、獣糞は全く見つけられなかったのである。


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   明治10年に薩軍は、坂の曲り角や道路の要所に堅塁を築きあげた。そして、政府軍の砲弾を避けるために道路両側の土手に無数の横穴をぶち抜いたという。だが140年後のいま、土手は低くて横穴を掘るには丈が足らない(写真3)。坂道のルート自体は当時と同じでも、路面の嵩上げが行われたのだろう。


イメージ 4

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   二の坂を過ぎて三の坂が近づくと、広葉樹が目立つようになった(写真4)。そして道の右側縁にはミカン畑があり、下方には水田が見える(写真5)。このあたりの典型的な田園風景だ。予備知識が無ければ、此処で140年前に血みどろの戦いが行われたとは到底思えまい。


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   坂を登り切ると、平坦でかなり広い台地が広がる。そして野菜畑があり、人家もチラホラ点在している。その一角に田原坂資料館と、「弾痕の家」もあった(写真6)。後者は元々は三の坂の傍らにあったが、資料館の設置に合わせてその隣に移したのだという。

   資料館は田原坂のほぼ終点にあるのだが、其処から分岐してやや東寄りに下る道がもう一本ある。その道を下ると、熊野座神社がある。薩軍の前線基地があった所だ。そのせいか此処の石塔にも弾痕(らしき穴)が認められた。神社の木柱にあった獣の古い爪跡は、たぶんアライグマだろう。地表に糞は、たぶんニホンテンのものと思われる。

   この坂を下り切ると、其処は休耕田だ。それを通過して、竹藪内のあまり使われてない道を歩く。テンの糞がやたら多いその道は行き止まりだった。やむなく休耕田を突っ切り、国道に沿ってその下を流れる小川に出る。適当な所で国道に上がるつもりで、川沿いに歩いた。

   このコースにも、テンの糞がやたら多い。そして川縁の泥上にはアライグマの足跡があった。やがてイタチの糞も見つかった。シベリアイタチのものじゃないかと思えたが、むろん断定は出来ない。

  この地のニホンテンとシベリアイタチは、やはり人家天井裏で繁殖しているのだろうか?。その可能性大だろう。地元の人に聞き取りをしたかったが、人影が稀た。通行人に「お宅の天井裏には…?」と尋ねるのも変なので、結局聞き取りは行わなかった。

   最後に再び明治10年のことに戻る。厳密に言うとその少し後で、「翔ぶが如く」の締めである。明治11年5月14日に大久保利通が暗殺され、その同志で大警視の川路利良は落ち込んだ。眼窩が黒ずみ、両眼だけが青く光っていた。「夜陰、川路の枕頭に西郷軍の亡霊がむらがって立つ」という噂が流れたという。その川路は明治12年10月13日に病死した。最後の一文は以下のものである。

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   ともかくも西郷らの死体の上に大久保が折りかさなるように斃れたあと、川路もまたあとを追うように死に、薩摩における数百年のなにごとかが終熄した。
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   林真理子の「西郷どん」は未読だが、彼女に斯様な名文が書けるだろうか?。そもそも彼女は西南戦争の史的意味をどのように理解しているか。少しく不安に思う。


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以下は、あるダムについての話である。完成後に予想される水面面積から判断して、約200ha程の陸地が水に沈む。そのことでこの地の陸棲動物にはどの程度のダメージがあるだろうか?。イタチを例に考えてみた。なおこの地にシベリアイタチはおらず、ニホンイタチのみが棲息する。

  陸地約200haには、どれだけの数のニホンイタチが棲息するか?。まずそれについて雑駁なる考察を試みる。

   ニホンイタチの行動圏は、雄10ha・雌1haと仮定する。前者はラジオテレメトリ、後者は直接観察法で弾き出した雑駁な数字だ。雌については、古に東京農工大学がラジオテレメトリ法で求めた値と一致する。そして雌雄の各個体の行動圏が重ならないと仮定し、性比を1:1とするならば、200haのエリアに総個体数は約18.18頭となる。

   行動圏が重ならないという仮定は根拠に乏しい。その一方で、やはり根拠に乏しい「いずれの個体も使用しない"空地"が存在する」という仮説も成り立ちうる。この背反する仮説を相殺させるならば、総個体数は約20頭というは案外妥当ではないか?。

   いやあ雑駁だなあ(苦笑)。でも「言論の自由はある」と信じる。詳細は糞DNAを用いての個体数推定調査をすれば判ることだ。

   ちなみに面積200haという値は、私が知る限りの「ニホンイタチが、個体群を維持しうる最小面積」だ。それは閉鎖個体群であり、、移出入無し(出生死亡のみ)で個体群が維持出来るものだ。鹿児島県トカラ列島の平島にそれが存在し、その島の面積は約200haなのである。   

  だが、平島における総個体数が20ということはないだろう。集団遺伝学の知見より、閉鎖個体群の維持には(雌雄合わせて)50頭は必要と考えうる。平島に少なくとも50頭が棲息するならば、各個体の行動圏は(前述の)私の仮定値より小さいことになる。ないしは「かなり重複する」筈だ。そして食物資源は「かなり豊か」ということになるだろう。…というような話は、以前にも(ブログ第84話「島の面積とイタチ」にて)述べた。年をとると、同じ話を繰り返すようになる(苦笑)。

   オープンな陸地200haの個体数が約20であるならば、その喪失は一つの個体群ぶんに満たない。だがダメージは受ける。そのことへの「罪滅ぼし」として、新たにに出来るダムの水面ギリギリにビオトープを創る計画が進行中という。それによりニホンイタチを「保全」したいらしい。しかしてそれは可能か?。

  谷底の主流エリアが水没することにより、川沿いに点在する集落と、それに隣接するススキやササの群落が消える。ニホンイタチはサワガニとアカネズミを多く食べる。サワガニは流水性で、かつその餌が溜まり易い本流域に多いと思われる。アカネズミはススキやササの群落で密度大だろう。それらが水没により失われるのは、ニホンイタチにとって痛手だ。ダム水面より上部に創られるビオトープは、果たしてどれだけ有効だろうか?。

   イタチ個体群の存続には餌と、そしてシェルター(殊に繁殖場所)の2つの要因が必要だ。まずは餌について。

  集落地域が水没するゆえ、ネズミを保全するのは困難である。サワガニも難しい。魚と渓流昆虫、そしてカエルは、ビオトープの設計次第ではそれをなしうる。

   ただニホンイタチは泳ぎがさほど上手でなく、魚を狩るのは苦手だ。胃から出て来た例はあるが、それはスカベジングによるものと思われる。水溜まりが小さければ泳ぐ魚も捕えうるかもだが…その魚は小さくて、あまり腹の足しにならないのではないか?。渓流昆虫についても同様である。羽化成虫が糞に大量に含まれる事例はあるが、その時期は限られる。安定した餌資源にはなり得まい。

   カエルについて言えば…流水性のタゴガエルは細流で繁殖する。だからこれをビオトープで保全するのは難しい。止水産卵のヤマアカガエルとニホンアカガエルは期待しうる。いずれもこの地に多くないようで、「どうかなあ?」と思うが…周辺で採取した卵塊を移入する手もあるのではないか?。外来種の移入はまずいが、在来種のカエル2種の移入は(周辺からなら)許され得よう。

   ともかく(最初の予測にとらわれず)、臨機応変に対処することが必要だ。こういうことは、「イタチに聞いてみなければ判らない」と思うべきである。古の動物学者には常識であった「…に聞いてみる」という精神が、最近減衰しているような気がしてならない。

    次はシェルター。ニホンイタチは雌のみが育児を行うが、そのサイズは雄に比べて異様に小さい。だから繁殖用シェルターを見出すのはさほど難しくないように思える。しかし、本当にそうか?。そのとき、行動圏が1ha程しかないことがネックになる。そのエリア内が相当に富栄養でなければならないからだ。

   私が観察した唯一の雌の繁殖巣は近くにアメリカザリガニが多く、その条件を満たしていた。それがいないこの地域で、何がニホンイタチ雌の生活を支えているのか?。おそらく場所的には、水没する集落に多くを依存していたのではないかと思う。集落周辺には農耕地もあり、其処は(土壌昆虫やミミズが多く)富栄養の筈だからだ。加えて集落周辺には巨石や瓦礫や材木積み上げ等…繁殖巣が作りうるシェルターが豊富だ。ニホンイタチ雌は小さいとはいえ、森林内はその条件が良くない。

   つまり集落の水没は、ニホンイタチの雌にとってとりわけ痛手と思う。ならばビオトープには、「繁殖巣を作りうるシェルター」を設けるべきだろう。それが餌場の近くにあることは、巣立ち直前の子にとっても重要だ。その時期の子は、巣の近くの餌場で「狩りを仕方を学ぶ」からである。

   ニホンイタチの保全は、繁殖条件が保証されて初めて達成しうる。いま設けられつつあるビオトープがその助けになることを願う。
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