古代史遊歩

そろそろ再開か?・・・〜★☆

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伯耆国の二宮とされている波波伎神社の西には一級河川の天神川(てんじん)が流れている。
この河川は、岡山県との県境近くにある津黒山(つぐろせん 標高1118m)を源とし、もとは竹田川と呼んだ。
その途中でそれぞれの谷から流れ出る支川と合流しながら、倉吉市見日町(みるか)付近で同程度の流域を持つ小鴨川(おがも)や国府川(こう)と合流し、北上して日本海に注いでいる。
いわゆる「暴れ川」で、治水対策が進んだ昭和の時代になってからも室戸台風や伊勢湾台風のときには堤防の決壊や道路流出、さらには家屋をも流してきた。
しかし古い時代には災いと同時に肥沃な土壌をもたらし、もちろん流域の住民に豊かな恵みをも与えてきたのだ。
 
 
古くから繰り返された度々の氾濫は、河道の位置までも大きく変えてきたようだ。
古い資料によると西暦1544年の洪水までは現在の天神川本川である竹田川と小鴨川・国府川は別の河川として描かれており、竹田川は東郷池から流れ出ている橋津川(はしづ)に合流して海に流れている。
一方、小鴨川・国府川は北条の南端から西に向きを変えて由良川に注いでいた。
 
このことは古代の神々を語るうえで、上代以前の地形と現在とが全く異なっていたことを知らなければならない。
そう考えると、「海田」や「灘手(なだて)」とか「上灘(うわなだ)」とかという海にかかわるような地名は、古い時代の地形を今に残してきていると想像できる。
実際、上灘地区にある住吉神社のたもと(標高20mほど)まで海水がきていたという話を聞いたこともあった。
また戦国大名である山名時氏は、倉吉市巌城の仏石山に田内城を築城し、その麓に城下町として見日千軒(みるかせんげん)を栄えさせたようだ。
その市まではもちろん船の往来があったとされている。
付近の海田という地名は船運が日本海から東郷池そしてさらに天神川を遡った名残ではなかったのだろうか。
しかしそれも1544年の大洪水ですべて流されてしまった。
 
イメージ 1
        打吹山から見日方面を望む
 
 
 
その後、西暦1740年に治水事業として掘削工事を行った。
それは江北浜集落の北野天満宮がある天神山から東方の長瀬へ続く岩を撤去して現在の流路を作った。
そのとき以来、北野天満宮の名をとって天神川と呼ばれるようになったようだ。

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