海南島はどこへやら〜ほぼダイビング日誌

チャイナリスクの荒波に揉まれ続ける半生(反省)なり!

JAZZ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

どうも仕事も含めて生活様式が落ち着きがなく、いろいろなジャンルに手を染めているせいか、あるジャ

ンルのものが、ある時突然何年も、長いときには十数年も封印してしまうことがあります。

JAZZもそのひとつで、高校時代から毎日毎日聞くこともやることも含めて集中していたものなのに、少し

歳を取ってから何故か探究心が薄れたというか、新しい感動を発掘しようという努力をしなくなったとい

うか・・・。

もちろん車に乗れば、i-PODから大好きなビル・エヴァンスやキース・ジャレットが自然に流れてくる

し、夜一人でぼんやりしているときは、ビリー・ホリディのアルバムなんかをかけておくことがよくあり

ます。

JAZZは生活の一部になってはいるのですが、昔のように没頭することはありません。

でも、きちんと聞き込んでこなかったことをものすごく反省しているピアニストがいます。

その名は、ミッシェル・ペトルチアーニMichel Petrucciani。

1994年の秋、私は仕事でニューヨークにいました。ちょうどその時、昔から大好きだったビル・エヴァン

スと一緒にベースをやっていたエディ・ゴメスがブルーノートに出演していましたので、仕事を終えてか

ら聞きに行くことにしました。

彼以外のミュージシャンは、ドラムもピアノもとても若いスタッフで、テクニカルな若手とちょい渋めの

エディ・ゴメスとの絡みは、なかなかアルバムではお目にかかれない興味深いコンビネーションでした。

昔からレコードで聞き込んできたアーティストの本物を目の当たりにして、とても心地よかったのです。

でも、次の感動はこの懐かしさの次元をはるかに超えるものでした。


このとき、彼以外の出演者で、当時の私にとって初めて遭遇するピアニストがいたのです。

世間ではすでに有名だったと思いますが、JAZZに対して探究心の薄れていた私にとっては初めてお目にか

かるアーティストでした。

それがミッシェル・ペトルチアーニでした。

イタリア系のピアニストで、生まれつき患った病により、身長は1m足らずのその体をブルーノートのス

タッフかマネージャーに抱きかかえられて登場し、ピアノ椅子に乗せられ、演奏は始まりました。


十数年ぶりの衝撃が私の脳髄に走りました。

コルトレーンとエリック・ドルフィーのデュオをレコードで聞いた時以来の戦慄でした。

ビル・エヴァンスのような理知的な旋律を聞かせるかと思いきや、嵐のような激しさで聞くものを圧倒す

る強烈なインパクト・・・。そしてキース・ジャレットのような内向的なものではないソロピアノ。

ほんとうにびっくりしました。

これから、ミッシェル・ペトルチアーニを聴きこんでやろうと心に決め、ニューヨークを後にし、日本に

帰国。


また何年ものフリーズ期間・・・。

先日、ミッシェル・ペトルチアーニは、1999年1月にすでに亡くなっている事を知りました。

36歳の若さでした。故郷のフランスに埋葬されているそうです。


ほんとうにルーズな自分を悔やんでいます。

今はもう生きた彼のサウンドは耳にすることはできませんが、もう一度、できる限り残っているすべての

演奏を聴き込んで行きたいと思います。



*是非コメントの欄の「ぐっちさん」提供のHPを開いてYOUTUBEのLIVEを聴いてみてください。

イメージ 1

イメージ 2

海南島を何ヶ月かご無沙汰していたので、高校時代のJAZZの思いでなぞを書いていたら、思いがけず、函

館ラサール在学中に日参しましたJAZZスペース「想苑」の創始者のお孫さんからコメントをいただき、

「想苑」が2003年に14年ぶりに再開したことを知りました。

ほんとうに素晴らしいことです。

今、高校を訪問しても当時の先生などいらっしゃらないだろうし、「想苑」を訪れた方が、きっと当時に

ワープする度合いが濃いのではないかと思います。

石橋、幌村、荒川、遠藤・・・・!!

「想苑」が再開したぞ〜!!

ようやくまた函館に行ける理由ができた。


「想苑」 函館市青柳町3−15

イメージ 1

函館ラサール高校の寮で一緒の部屋だったjazzのテナーサックス奏者川村裕司を調べていたら、今年のお

正月のコンサートのチラシを見つけました。

最も感性がビビッドに溢れかえっていた高校時代を過ごした函館の地で催されていたようでした。

毎年やっているのかなとじっくり読んでみると、なんと、同じく同級生のKATSUMI-RYOがベーシストで名

を連ねているではありませんか。

高校卒業後、18歳くらいのころにJAZZベースを始めた彼は、とても繊細な男で、この先、おそらく生活

の足しにもならない音楽で食ってゆけるはずもなく、ほんとうに生物的に生きてゆけるのかいな・・・と

仲間内で心配していたものでした。

その彼が川村と一緒のコンボで、故郷の街でのコンサートで立派に(?)生きていました。

驚きでした。

イメージ 1

わたしのjazzの出発点は、高校の1年生の頃です。

北海道の競馬馬の産地の田舎町で育ったわたしが、高校入学のために少しばかりの都会で生活を始めまし

た。

その高校は函館ラ・サール高校といって、北海道では進学校でしたが、かの鹿児島ラ・サールとは比

べようも無く、あちらの高校に比べてはるかにアドバンテージがあったのは、jazzでした。

毎日、函館山のふもとの「想苑」という卒業生がやっていたjazz喫茶に入り浸り、高校の寮に帰ってきて

はまた自室でjazzを聴くという毎日でした。

そして、同級生や後輩や先輩達にも天才的なjazzミュージシャンが存在していて、放課後の音楽室で良く

ピアノなど聴かせてもらったりもしていました。

高橋知己さんや元岡一英さん、寺下誠さん、菊地昭紀さんなどは皆、ここのjazz研の出身です。

わたくしの友人で、寮で同室の川村裕司は、もともとはギタリストだったのですが、ある日、寮の自室で

jazz狂いの連中が音楽を聴きながらおしゃべりをしていたときのこと、ちょうどそのとき流れていたのが

ガトー・バルビエリというアルゼンチンのサックス奏者(映画ラストタンゴ・イン・パリの演奏者)だっ

たのですが、完璧にその演奏に打たれ、それ以降、大学もゆくことも辞めてjazzの道に走りました。

彼はその後ニューヨークに行き、今も現役でやっています。

全く会うことも無く、たまにテレビなどで見かけるとすっかり頭は禿げ上がっていましたけれど・・・。

そんなことで、ほんとうに不思議ですが、あの時代の私たちは、何かひとつのインパクトのある出会いを

契機に、何も考え込まずに好きな道に走って行ったようなきがします。

不安は何もなかった。

イメージ 1

今は、自分の性格とは全く裏腹に、休み無く仕事漬けの日々ですが、思い返してみれば朝から晩まで何事

にも縛られることも無く、完璧にフリーな暇な時代があったような気もします。

でも、全く何の不安も将来に対する恐れもなかったような気もします。特に目標も希望もなかったのに。

20歳そこそこそこの時代。

17歳から20歳ころまでの自分は、jazz漬けの日々でした。

自分でも手作りのコンポを組み立て、バド・パウエル、ウイントン・ケリー、レッド・ガーランド、ビ

ル・エバンスなどのピアニストがいつも部屋に流れていました。

某大学のjazz研にも一時所属して、ビッグバンドもやっていました。


外へでても、あの頃繁華街の裏道に必ずあったjazz喫茶に必ず向かっていました。

渋谷のジニアス、神保町のお店(完全にど忘れした。響だったっけ?)にはよく通いました。


でも一番足しげく通ったのは、代々木の交差点の教会の地下にあった「mouve」というお店。

そこで、コルトレーンとエリック・ドルフィーの白い海賊版の「マイ・フェバリット・シングス」を聞い

た私は、集中しすぎて思いっきり鼻血を流すという伝説を作ってしまいました。

ほんとうにあの頃は、まったくとりとめのない生活を送りながら、何であれほどまでに不安を感じてなか

ったんだろうと、ほんとうに不思議です。

全1ページ

[1]


.
itsint2006
itsint2006
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

友だち(3)
  • ゆーいち
  • ウンディーねこ
  • RyukyuTokyo
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事