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【我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし】
開目抄 5月度座談会御書 「学会から離れるな!」
「組織から離れるな!」
「御本尊から離れるな!」
池田先生は、本当によくこの指導を繰り返される。
地元で発心して10年が過ぎ、青蝿が駿馬の尾にしがみつくが如く、学会組織につき続けてきた今、何故先生がこの指導を繰り返されているのかを、少し真剣に考えてみることにした。 脱会者とか反逆者とか、活動から長らく遠ざかっている人など、様々な人を見てきて、また、自分自身が何年も活動から遠ざかっていた経験を振り返ってみて、ようやくこの指導の深さの一端が理解できたような気がする。
組織に着いて信心を続けていると、時には組織のあり方に不満を感じたり、幹部の気配りのなさに辟易としたり、常に多くのジレンマと隣り合わせとなる。 そんな時、自分の一念が常に「一人立つ精神」であれば、組織への不満は「自分が組織を変える」という誓願になり、幹部への不満は、「自分が弟子の手本を示す」という誓願になる。
多くの退転者、多くの内部アンチ、多くの活動休眠者を見ていると、面白いように共通している生命の傾向性があった。
「いざという時には他人のせいにする」
「不満は言うが、自分が弟子の手本は見せない」
という、外道根性である。
こうなると、もはや仏法者ですらない。
学会活動をしない理由を外に向けている時点で、それは仏法とはいえない。
不信や不満や疑念は組織で活動している限り、必ずついてまわる。だけど、不満を起こしてはいけないとも、疑念を持ってはいけないとも大聖人は言っていないし、学会指導にもそんなものはない。 大事なのは、そうなった時にどう自分と向きあうかなのだ。 「あいつが悪い」
「あの幹部が悪い」 「だから俺は活動しない」 実に惨めだ。最後に不幸になる人間の典型だ。
ところが
「組織から離れない」
この一点を絶対に忘れないでいると、幹部への不満、組織への不満が生まれ、活動意欲がなくなってしまった時に
「原点に戻って祈る」
という選択肢しかないという事に気付かせてもらえる。
そして不満の心を全力で御本尊にぶつけ、真剣に祈っていくと、知らず知らずのうちに生命が浄化され、境涯が上がる。
苦しくて苦しくてたまらない時に、「もうこれしかない」という本気の一念で唱題を続けると、知恵がわく。また、そんな時に読んだ先生の指導は、必ず自分の生命の奥深くに突き刺さる。自分が求めていた答えを必ず見つけることができる。
「組織から離れない」
という事は、どんなに苦しくても、辛くても、最後に頼れるのはご本尊様であり、御書であり、学会指導なのだと嫌でも気付く回数が増えるという事なのだ。
そして、ご本尊に題目をあげると、必ずすべてを乗り越えられ、悩みや苦しみの正体は、御書や学会指導に必ず答えがある事に気付けるのだ。
私はそれを繰り返したおかげで、ありがたくも生命を磨かせてもらった。
10年前と今では、まるっきり考え方が変わり、想像を絶するほど成長している自分に気付かせてもらった。
更に10年先、また学会創立100周年の2030年、はたして自分は、どれだけ腹の据わった信仰者になれているのだろうか・・・。
「組織から離れない」
とにかく、これさえ心に誓って戦い続ければきっと大丈夫だろう。いや、絶対に大丈夫だ。
もっともっと成長したい!! いや、する!!!
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こんにちは。
私もそうですが離れて見てはじめて解る事もあるかな…
って思いますね…
何処の世界探しても創価ほどの組織と資料を
持ち合わせた団体なんて存在しません。
有る意味今試されて居るのでは無いでしょうか。
今後も大聖人の仏法を継承していける人財なのか
そうではないのかと言う試練かなと思います。
先生が公の場に出なくなって他宗に取って見れば
「千歳一隅のチャンス」
と思って居るのではと思う事も有りますね。
インドから始まった仏法が中国に渡りその後日本に伝来されるまで
いろんな言語に訳されて居ます。
サンスクリット語では無いと成仏出来ないと言う事では無くって
あくまでもその「スピリッツを継承して居るか否か」
ではないかと思います。
そういう意味では先生も大聖人の仏法をまさしく「現代語訳」
して居る羅十の様な存在なのでしょうかね。
他人がどうこうと言う問題では無くって
自分自身がどうかと言う問いにどう答えるか。
何を求めるのか。何を得るのか。
これが今後の課題なのかなと思います。
2012/6/4(月) 午後 4:09 [ eijitypeR(^^♪ ]
水と風さん。おはようございます。
先日は過分な評価のコメントをいただきありがとうございました。
水と風さんの秀逸な記事により常日頃自分が思索してきたことがインスパイアされた結果あのようなコメントを書かせていただきました。また、エイジさんのブログに現れた法華講連中との対話の中で教学面の研鑽を積ませていただいたこともこれらの思索に大変に役立ちました。お二人には感謝しています。お二人の秀逸な記事の掲載を今後も期待しています。
さて、今回も素晴らしい記事をありがとうございます。全くその通りだと思います。もう一点付け加えるならば、師匠から絶対に離れてはいけないということでしょうね。
2012/6/5(火) 午前 7:30 [ ねこさま ]
エイジさん、私の文章力の足りなさか、コメントを読ませていただくと、どうも誤解されているような印象を受けました。
「組織から離れるな」
これは「心が」という意味を強調したかったのです。
エイジさんのように物理的に組織につけない方の事は全く問題にしていません。
「多くの内部アンチ」「多くの活動休眠者」を引き合いに出すのは、彼らはいかにも「私はちゃんとした理由があってあえて組織についていないだけだ」と、自分を正当化するので、「それは間違いだよ」と指摘するための記事なのです。
それ以外は私の意図するところではありません。誤解を与えてしまい、申し訳ありませんでした。m(_ _)m
2012/6/9(土) 午後 11:01 [ 水と風 ]
ねこさまさん、仰るとおりですね。
「師から離れない」
すべての学会活動は師を模範とする事から始めなければいけませんが、最も大事なのは行動を真似るのではなく、心を重ねる事なんですよね。
2012/6/9(土) 午後 11:06 [ 水と風 ]
いえいえお気に為さらないで下さい。誤解では有りません…^_^;
最初の結婚をした25歳頃から父が亡くなるまでの10年間
「心が組織から離れて」
居ました。
しかしこれも貴重な経験だと思って居ます。
「創価以外に心の拠り所は無かった」
と言う結論に達したからです。
他宗の友人知人も
「なんでこんなモノに信心が出来るのか」
不思議でしょうが無かったです。
「鰯の頭も信心から」
とは良く言ったものだと実感しました。
くだらないモノと対比してより創価の凄さが浮き彫りに成りました。
2012/6/11(月) 午後 4:18 [ eijitypeR(^^♪ ]
誤解が誤解でしたか、失礼しました(^^;
池田先生はよく、「最後に勝て」と言われていますからね。
なので心が離れても戻ってきた人は、離れていた時期すらも意味のあるものに変えてしまうんですよね。
不信がそのまま変な確信になって、脱会までしちゃった人はもう取り返しがつかない感じがします。
2012/6/12(火) 午後 10:37 [ 水と風 ]
創価の信者から、法華経の行者になることですね。これによって他人など関係ない信仰が確立されます。
2019/3/11(月) 午後 11:21 [ ローカルな善人 ]