「学会員の言う事は全部嘘だ」
と偏屈に凝り固まってしまったアンチの方には何を言っても無駄かも知れないのですが、あえて学会の全活動家が常識として理解している事実を記事にします。
学会員と池田名誉会長の関係は、「師匠と弟子」それだけである。
アンチの妙なネット工作が功を奏しているのか、学会員が池田先生を盲目的に崇拝していると勘違いしている人が多い。
言うまでもなく、私は創価学会に入会して以来、ただの一度も、「池田先生を慕いなさい」とか「池田先生を尊敬しなさい」とは教えられた事はない。
そもそも人を敬ったり尊敬したりする感情は、縁による自然な発露から湧き出るものであり、間違っても誰かに強制されてできるものではない。
学会の活動家の方々は、そんな事は常識的に知り尽くしているので、誰もそんな事は言わない。
学会にいれば、池田先生の指導や功績に触れる機会は多い。
すると、いつからともなく、池田先生が尊敬に値する人物であると知るようになり、「私は池田先生を人生の師匠として生きてゆきたい」と、やむにやまれない気持ちからそう心に願うようになる。私がそうだった。
そのプロセスを知らない人は、表面だけを見た浅はかな心で批判をしてくる。
また
「今の創価学会は池田教である」
との認識を法華講や妙観講の人間達が弘めて、それを信じこまされた人は非常に多い。
ところが「創価学会は永遠に御書根本である」とはっきりと宣言したのは、当の池田先生であるし、批判者の言い分を見ても、名誉会長のここが御書に違背していると納得できる意見は目にした事がないため、「池田教」などと言われるゆえんは一切ない。
では何故「池田教」などと揶揄されるのか。
「法華経の行者」というのは、常に三世間(五陰・国土・衆生)の機根を見極めながら「随縁真如の智」を湧き出だして、広宣流布を進めていかなければならないため、凡夫の目にはその行動の深い意味を見極める事が難しい場合が多い。
公明党の設立、創価大学の創立、民音の設立、富士美術館の設立、世界の識者との対話、学会内部のあらゆる人材グループの推進と育成・・・
これらは、別々のようでいて、実は、「広宣流布」=「世界平和」=「人間主義」という観点ですべてが繋がっているのだ。
池田先生は広布のため、これまでにありとあらゆる具体的な手を打ってきたが、それらのすべては、深い祈りと、思索に思索を重ねた結果から生まれた御仏智によるものだ。
あらゆるすべてに対して一切手を抜かない。それこそ、学会歌一つ完成させるのにも、一念に億劫の辛労を尽くす。
ところが、そこまで深い誠実さを常に持っている人間がこの世にいるとは信じられない人にとっては、「池田が増上慢を起こしておかしな事を始めた」=「それを疑問にも思わずに従っているバカな学会員」=「池田教の信者」という浅慮単純な方程式が成り立ってしまうのだろう。
例えば、法華講・妙観講の人たちは、宗門を外護する立場だった頃の池田先生の指導をよく引っ張り出して批判をしてくる。
よく目にするのは、「五座三座の勤行をしっかりやらない人は懈怠である」とか「唯授一人の血脈を受けた御法主上人が書写した御本尊でなければ功徳がない」等であり、それを文証として「今と言ってる事が全然違う!自語相違だ!」と、わめきちらす。
そもそも御書には五座三座をやれとは書いてないし、「血脈は必ず一人から一人へ流れる(一子相伝?北斗神拳か!)から私の後継者を敬いなさい」とも書かれていない。
では何故、過去にそのような指導がなされていたのか。
真実というのは言うべき時があって、それを言うタイミングを間違えてしまうと、一切が水泡に帰しかねないという意味なのだろう。
本当は唯授一人の血脈も富士の清流も宗門を守るための方便にすぎなかったというだけの話だ。
宗門が改心していれば、今でも日蓮正宗創価学会は厳然と続いていただろう。
しかし学会は破門されたことにより、結果として葬式仏教を廃し、元々庶民のために発生した仏法の本義を現代に蘇らせる事に成功したのだ。
ところで、学会と宗門の関係を男と女に例えるならこういうことにならないだろうか。
ある男が「私は君を一生守ります」と誓ってプロポーズした。
男は約束通り、常に女に対する誠意と真心を尽くしぬいた上、無数の貢物も献上した。
しかし、女は男に甘え、どんどん堕落し、人として大事なものを失い始めた。
男は、「このままでは彼女は不幸になる」と気付き、女に対して注意をするようになった。
女は次第に男がウザくなり、一方的に三行半(みくだりはん)をつきつけてきた。
それから間も無く、一方的に三行半を突きつけた女が、「あんた!私を一生守るって言ったじゃない!」と難癖をつけてきた。
やれやれだ。
考えてみると、池田先生ほど賛否がはっきり分かれている人間って、ほかにいるのだろうか?
歴史上の人物を見ても、一定の功績を残した人物に対しては、冷静に評価すれば全否定というのはあり得ないはずだ。
しかし、池田先生を批判する人間のほとんどは、全行動・全人格的な部分を否定している。
そんなわけだから、正視眼の知識人たちから見れば、それが単なる嫉妬から来る誹謗中傷だと気付き、真実を冷静に見極めようとしてくれるのだろう。
冷静に客観視すれば、池田名誉会長が指揮する創価学会が、世界に仏法思想を弘めたのは事実だし、命を賭した「日中国交正常化宣言」が引き金となって、正常化への歯車が大きく動き出したのも事実であるし、毎年のSGI提言を国連や世界の指導者たちが参考にしているのも事実だ。
これらは池田先生が行った世界情勢に対しての功績のほんの一部だが、もっと大きな、否定したくてもしようがない功績がある。
それは言うまでもなく、世界の数百万人に及ぶ学会員たちに勇気と笑顔と希望をもたらしたという功績だ。
世界中で「私は池田先生の励ましによって絶望の淵から立ち上がり、今では誰もがうらやむ幸福な境涯になる事ができました」と、満面の笑顔で話すSGIメンバーの体験談は枚挙に暇がない。
基本的にアンチは、それらの現実に対しては何ら反論できないため、見て見ぬふりをするのが常だ。
「道理証文よりも現証にはすぎず」P1468
ネットに毒された迷える2世・3世にも言いたい。
実践を試みず、ネット上の詭弁に騙される事なかれ。
「強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」P957
アンチは「学会誹謗」がライフスタイル。
真面目な学会員は「励まし」がライフスタイル。
どちらが人生として価値があるのか、明白だ。
かなり話は脱線したが、ここで主題をはっきりと明確にしておきたい。
創価学会の中で「池田大作崇拝」によって幸せになった人はただの一人もいない。
現実に向き合い、苦しみながら、ご本尊に望みを託し、くじけそうになる心を友の励まし、師匠の励ましで乗り越えてきた「善の連帯」それこそが創価学会なのだ。
もし万一「私は池田先生を拝んでいます。ただひたすら心酔しています」という学会員がいるのなら連れて来てほしい。
私がその方にきっぱりと間違いを指摘してあげます。