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嘉永6年(1853)6月3日 アメリカのぺりーが最新鋭の蒸気船サスケハナ号・ミシシッピー号、帆船プリマス号・サラトガ号 を率いて浦賀沖に来航。日本に対して開国を迫った。 これに対し、幕府は久里浜海岸に急ごしらえの応接所を設置、要求書であるアメリカ大統領の親書を とりあえず受取り、「来年回答する。」との返事をしたにとどまった。 泰平のねむりをさます じょうきせん たった四はいで 夜も寝られず鎖国中の日本は、この大事件に騒然となった・・・。 幕末動乱のはじまりである。 横須賀市ホームページ←当時の久里浜の様子を描いた絵や、中島三郎助の写真が載せてあり参考になる。 場所:横須賀市久里浜 徳田屋跡松陰が浦賀の町についたのは、夜の十時すぎである。辻々に篝火が大きく燃え、道をゆくのになんの 不自由もない。町をあるいてまず旅籠を決めた。部屋へあがると、廊下にまで泊り客があふれており、 松陰もその廊下組の一人だった。 松陰はまず佐久間象山をさがさねばならない。さがすまでもなく、象山とその門生たちが、二階にいる ことを知った。 「寅次郎もきたのか」 象山は、部屋を訪ねてきた松陰に、まずそういった。相変わらず容儀盛んな男で、これだけ旅籠が 満員なのに、一人で一部屋を独占し、門生を次室にはべらせている。 (司馬遼太郎「世に棲む日日」より) ペリーが来航した嘉永6(1853)年6月に、黒船を見学するために吉田松陰が二度目の宿泊をし、 ここで佐久間象山と会っている。 これより二年前の嘉永4年(1851) 松陰は肥後藩士の宮部鼎蔵とともに江戸湾沿岸の防備状況視察のために宿泊、 象山は門弟の小林寅三郎をともなって思索の旅で徳田屋に宿泊している。 ほかに、浮世絵師の安藤広重が安政5年(1851)に、 桂小五郎が安政2年(1855)浦賀奉行所与力の中島三郎助に造船技術の教授を得るために宿泊。 残念ながら、建物は大正12年の関東大震災で倒壊している。 場所:横須賀市東浦賀町2丁目20番地 中島三郎助は、初めてのペリー来航の際ペリーの乗る黒船に小船でこぎつけ対応に当たった人物。 これより前の天保8年、アメリカの商船モリソン号が江戸湾に出現した際、「無二念打払令」により 台場から砲撃を加えている。砲術家としてもすぐれていたといわれる。 長崎海軍伝習所第一期生。 幕府瓦解後、独立国家構想をもとに榎本武揚らと蝦夷地へ出航。そのとき中島三郎助は機関士として 開陽丸に乗っている。明治2年5月16日函館戦争で戦死。享年49歳。 場所:横須賀市東浦賀町 東林寺 長崎海軍伝習所の同期生である中島宅を訪れた勝海舟は、叶神社に詣り、境内にある井戸水を汲んで 潔斎・水垢離を済ませ、修行用の法衣に心身を整えた後、山頂へと登り樹林に囲まれた奥の院の片隅 を選んで座禅を組んで断食修行をしたと伝えられる。 日米修好通商条約批准のため品川沖を出航した咸臨丸(艦長:勝海舟)は、途中浦賀で積荷などの 準備をして大平洋へと向かっていった。日本人だけで初めて大平洋を横断した咸臨丸の偉業を記念 してたてられた碑。 場所:横須賀市西浦賀町 愛宕山公園
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素晴らしいですね〜!横須賀にも行って見たいですね、是非!ペリー記念公園、石碑、勝海舟、吉田松陰、横須賀には幕末がつまっていますよね。当時を思いながら足跡たどってみたいです!
2005/12/21(水) 午後 2:04 [ nami ]
西浦賀から東浦賀へは小さな渡船で渡ったのですが、これは最高によかったですよ。ついたらそこが徳田屋跡でした。
2005/12/21(水) 午後 10:42