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【大阪】天保山跡

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鳥羽伏見の戦いにおいて敗戦濃厚になってくると、
大阪城にいた徳川慶喜は江戸へ戻る決意をした。
慶応4(1868)年1月6日 夜10時頃のことだった。

天満八軒家から川舟に乗り、川をくだって天保山沖に出たときはまったくの深夜で、洋上に霧がこめ、幕艦がどこにいるのかわからない。ただ目の前に大きな米国軍艦が碇泊しているのがわかった。慶喜は、朝までこの軍艦で休もうと言い、交渉方を外国方の者に命じた。
米国艦長は、その申し出を快諾し、このおもわぬ訪客のために酒肴を出してもてなした。夜が明けると、開陽丸の所在がわかったので米艦隊からボートを出してもらい、それへ移乗した。
艦はすぐ蒸気をたき、朝もやのなかを出航した。
大阪城内で慶喜らの失踪を知ったのはこの時刻であった。

司馬遼太郎「最後の将軍」より

かつて「目印山」とも呼ばれて船からの目標になっていた天保山は、
幕末の頃、砲台が建設されるなどで削られていたという。

現在、標高4.53mの日本一低い山である。
(国土地理院発行の地形図に載っているなかで)

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「大坂天保山」 初代歌川広重 画)

天保2年(1831年)より2年間、洪水防止と大坂への大型船の入港をしやすくする目的で安治川の河口を浚渫した際、その土砂を河口に積み上げて作られた人工の山である。当時は20mほどの高さがあり、大坂の町へ遡るため安治川に入ろうとする船にとって目印となっていた。
海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、その当時から既に現在同様の観光スポットであったという。

フリー百科事典「ウィキペディア」より

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はじめまして。ランダムから来ました。おお,日本一低い山,天保山。この広重の絵は風呂屋のタイルみたいですが。(爆)義経が西国へ逃亡しようとしたのは,このあたりじゃなかったですか?

2006/1/15(日) 午前 10:26 ぜっと

あ、ズバリ!いちを天保山公園にあったタイルです(笑)。義経が西国行きので舟に乗ったのはもっと上流、大阪市内で天神祭りが行われる界隈「渡辺津」というところみたいです。平安時代は平安京と大阪湾・瀬戸内海を結ぶ交通の要所だったところ。幕末に慶喜が小さなに乗った天満八軒家の附近ですね。

2006/1/15(日) 午後 2:41 iwaemon


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