慶喜の葬儀は寛永寺で行われたあと神道式により谷中墓地に埋葬された。
明治維新後は「 廃仏稀釈」運動が高まり、神式の国教化がはかられていた時期でもあった。
寛永寺
寛永寺本堂(根本中堂)
上野戦争で主要伽藍は消失。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、
明治12年(1879年)川越喜多院の本地堂を移築したもの。
慶喜が鳥羽伏見の戦いの途中に大坂城を脱出し江戸へ戻り
2月15日から寛永寺大慈院の四畳半の一室で約2ヶ月間の謹慎生活を送った。
寛永寺書院には「葵の間(蟄居の間)」が保存されている。(非公開)
上野戦争の記念碑
彰義隊士阿部弘蔵が明治7年に記録した彰義隊結成から上野戦争の顛末に及ぶ文章が刻まれている。
明治44年寛永寺境内に建立された。
寛永寺境内
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自分が生まれた静岡には、慶喜公が晩年過ごされていた「浮月楼」があります。現在、料亭として一般の方もご利用できますので、一度いらしてはいかがでしょうか?
2006/5/18(木) 午前 5:12 [ かず ]
いつか静岡にもいってみたいですね。徳川の本拠地だった土地だからたくさんありそうですね。
2006/5/19(金) 午前 0:05
いわえもんさん。お久しぶりです♪徳川慶喜公の墓所、キレイな所ですねぇ♪感激です☆慶喜公も安らかにお眠りしている事でしょう(^^)
2006/5/23(火) 午後 7:28
美優さん>慶喜自ら墓の見取り図を作成したそうですよ。参考にするため青山霊園(大久保利通、後藤象二郎、大鳥圭介らの墓がある)に何度も訪れたそうで、設計基準は歴代徳川将軍みたいに立派なものではない事、神式である事、だったそうです。
2006/5/24(水) 午後 10:23