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サッカーのアジア・カップ予選が開幕
A組インド戦で先制ゴールを決めて喜ぶ小野。日本は6−0で快勝(時事通信社)

アジアカップ2007予選

今年最初の公式戦。
今日はどれだけ得点入れてくれるかだけが楽しみの試合だった。且つ0点で抑えるのが条件。
前回のインド戦は7−0だったそうだ。
今回は6点入れた。だから、まあまあ満足。
でも、前半攻めあぐねた。1点しか入らなかった。
エンジンかかるの遅すぎる!これは修正しようがないのか・・。
これから見守っていこう。
1点目は小野のジーコジャパン100点目のゴール。
ちなみに、記念すべきジーコジャパン1点目も小野だったそうだ。
試合後のインタビューで、小野は「絶対入れるつもりだった。」といっていた。
フォワード勢ももちろん入れようと思っていただろうが、
それをMFのポジションで実現した小野はさすがだ。
後半にようやく2点目、長谷部のシュートがゴールネットを揺らす。
これはよけた巻のお腹をかすめてゴール。
正式記録「巻」となった。巻も長谷部も複雑な気持ちだろう。
3点目はセンタリングからの福西。

後半30分を過ぎたころに、抜群!という感じのパスが相手ゴールの前に決まりだした。
小笠原、そして途中で入ってきた遠藤もうまかった。
サントスの積極的なロングシュートもいい。
そして佐藤もいい動きする。後半の後半はうまさがめだった。
(相手ヘトヘトみたいだったけど。。)

4点目、久保 GOOOOOAL!! 
続いて佐藤 GOOOOOAL!! 
そしてまた久保 GOOOOOAL!! 

久保はこれでジーコジャパン最多得点(11点目)。完全復活。
ジーコの頭の中では久保の代表入りはもう決定しただろう。

試合後、久保のコメント
久保:入ってよかったです
MC:2点はいりましたが・・
久保:はい。入ってよかったです。

・・・相変わらずシンプル

<得点>
小野伸二 (前32分)
巻誠一郎 (後13分)
福西崇史 (後23分)
久保竜彦 (後34分)
佐藤寿人 (後38分)
久保竜彦 (後48分)

<日本代表メンバー>
GK:23 川口能活/ジュビロ磐田
DF:21 加地亮/ガンバ大阪
DF:5 宮本恒靖(cap)/ガンバ大阪 → 24 茂庭照幸/FC東京
DF:22 中澤佑二/横浜F・マリノス
DF:14 三都主アレサンドロ/浦和レッズ
MF:15 福西崇史/ジュビロ磐田
MF:18 小野伸二/浦和レッズ → 4 遠藤保仁/ガンバ大阪
MF:8 小笠原満男/鹿島アントラーズ
MF:35 長谷部誠/浦和レッズ
FW:9 久保竜彦/横浜F・マリノス
FW:36 巻誠一郎/ジェフユナイテッド市原・千葉 → 佐藤寿人/サンフレッチェ広島

<サブ>
41 下田崇、2 田中誠、25 村井慎二、31 駒野友一
19 本山雅志、30 阿部勇樹


竹田城跡

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天空の城の異名をもつ「竹田城」
黒澤映画「影武者」や、角川映画「天と地と」のロケ地にもなったところ。

車でちょっと寄り道のつもりで行ってみたが、城跡までは歩かないとけなかった。
駐車場から雪の登山道を登ること約20分。素晴らしい景色が待っていた。感動!

平成18年2月13日、日本城郭協会により「日本名城100選」が選出された。
その中には「竹田城」も含まれていた。
奇しくも、その日に竹田城に登っていた。ちょっと嬉しい気分だ。


遺構について

竹田城は別名「虎臥城(とらふす)」という。嘉吉年間、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に13か年を費やし築いたものと伝えられてきた。
築城当時の城には石垣はなく、曲輪を連ねただけのものであった。
それが現存の完成された城郭に整備されたのは、天正〜慶長初期と推定されている。
石垣は近江穴太(あのう)衆の手により穴太流石積み技法を用いた”野面積み”である。石材は現地のほか山麓附近から集めたものであろう。
遺構は最高所の天主台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸北西部には花屋敷と称する一郭があり、主郭のなかでも最も低い位置にあるため、南北には向かい合った塁状石垣列を築いている。
規模は南北約400m、東西約100mで今なお当時の威容を誇っており、山城として全国でも数少ない現存する遺構である。
(現地 説明板より)

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城主について

城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となったと伝えられ以後、太田垣氏は7代にわたりこれを守り継いだ。
応仁の乱では2代城主景近が京都へ出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を景近の二男宗近が撃ち破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城は攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃をうけ竹田城はついに落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。
同8年(1580)桑山重晴が城主となり、13年には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀を竹田城主として入れた。広秀は、九州征討、朝鮮の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原惺窩との親交も厚く、領民には産業を奨めて深く敬慕された。
関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃して果てた。享年39歳、慶長5年10月28日のことである。
(現地 説明板より)

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駐車場脇にある「山門」と「山名氏、赤松氏 両軍陣役諸霊供養塔」


■関連過去記事:「影武者」 http://blogs.yahoo.co.jp/iwaemon21/26170623.html

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