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太刀洗平和記念館

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平和への願い 
いつまでも平和を・・・その想いを万世に語り継ぐために。

太刀洗航空隊は、西日本における陸軍航空発祥の地であり、
満州・上海・支那事変から大東亜戦争までのあいだ、
ここで数多くの航空関係部隊が編成され、
それらの部隊は大陸や南方全域で活躍しました。
また、大東亜戦争末期には特攻基地、
あるいはその中継基地として
全世界に「太刀洗」の名を轟かせました。
しかしその陰には、この太刀洗駅頭で、肉親に別れを告げて
勇躍出征しながら、無言の帰還をされた方々も多くいました。
そこで、今の平和はこれら数多くの尊い犠牲の上にあることを思い
その鎮魂と平和を守り続けるために
戦後五十有余年の風雪に耐えて歴史を語り続ける
この太刀洗駅に、昭和六十二年四月
「平和記念館」を設立致しました。

パンフレットより

福岡に帰省した8月15日、両親と一緒に訪れてみた。
太刀洗は実家のすぐ近くだ。
戦時中に飛行場があったことは小学生のときに先生から聞かされて
知っていたが記念館があることは最近まで知らなかった。

戦時中の太刀洗は飛行訓練所、若いパイロットの養成所として機能していた。
戦争も終わりかけになると、ここで訓練したあと鹿児島の知覧へ向かい、
あるいは、この太刀洗から「特攻」していく若者も多かったと聞く。

こういう悲しい場所だったなんて・・・。

戦争は二度としてはならない。改めて思った。

場所:福岡県 甘木鉄道太刀洗駅構内(地図

行基

その時歴史が動いた「東大寺大仏誕生物語」  
 天皇と民の挑戦▽再現黄金の大仏 
  5月24日(水) 22:00〜22:45   NHK総合 

その時歴史が動いた◇聖武天皇によって東大寺大仏の開眼法要が営まれた752年4月9日に焦点を当てる。奈良時代、日本は民衆に税を課し国家の安定を目指す律令国家づくりを推進。その推進者として即位した聖武天皇は、重税によって家をなくした人々、いわゆる"浮浪民"に目を向けなかった。民衆救済に決起したのは、僧侶の行基。彼は各地で貧民支援を続けて支持を集めたが、やがて反体制と見なされ弾圧を受けた。ところが浮浪民の増加で律令制が揺るぎ始めると、聖武天皇は行基の民衆人気の秘密を探るようになる。行基の下では民衆が仏の功徳を求め、自発的に橋やため池造りに参加していた。やがて聖武天皇は、民衆の自発的な力で巨大な仏像を建造するという前代未聞の事業を発案する。 

久々にNHKその時をみた。
奈良の大仏見に行きたくなった。
すぐ影響されてしまう。。
東大寺の周辺といえば奈良時代の歴史が点在。
幕末好きの私としては、ちょっと趣味とは違うけど興味深い時代。

その時によると「行基」はたびたび説法で1000人もの群集を集めていたらしい。
人口の少ない奈良時代に1000人・・・すごい。

私は全校生徒が約1000人いる高校に通っていたが、
その全校集会を思い出すとすごい人数だということが分かる。

人を集めて布教することは当時禁止されていたから
聖武天皇からは目をつけられていた。

大仏より「行基」に興味が沸いたから早速検索してみたら出た!
行基について面白いエピソードを分かりやすく書いているサイトが。

行基の生涯
http://www.geocities.jp/rekishi_chips/onsen2.htm
(歴史チップス)


行基、めちゃくちゃすごい。
まさに、人間ブルドーザー?
今日の新発見だった!!

〜補足〜
上記サイトのエピソードで誤解がないよう下記サイトも参考にしたほうがいいと思います・・・。
http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-57.html
【神通の眼力で女の頭に猪の血が塗ってあるのを見て叱った話】
【行基大徳が、子を連れた女に、前世での敵を教えた話】

竹田城跡

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天空の城の異名をもつ「竹田城」
黒澤映画「影武者」や、角川映画「天と地と」のロケ地にもなったところ。

車でちょっと寄り道のつもりで行ってみたが、城跡までは歩かないとけなかった。
駐車場から雪の登山道を登ること約20分。素晴らしい景色が待っていた。感動!

平成18年2月13日、日本城郭協会により「日本名城100選」が選出された。
その中には「竹田城」も含まれていた。
奇しくも、その日に竹田城に登っていた。ちょっと嬉しい気分だ。


遺構について

竹田城は別名「虎臥城(とらふす)」という。嘉吉年間、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に13か年を費やし築いたものと伝えられてきた。
築城当時の城には石垣はなく、曲輪を連ねただけのものであった。
それが現存の完成された城郭に整備されたのは、天正〜慶長初期と推定されている。
石垣は近江穴太(あのう)衆の手により穴太流石積み技法を用いた”野面積み”である。石材は現地のほか山麓附近から集めたものであろう。
遺構は最高所の天主台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸北西部には花屋敷と称する一郭があり、主郭のなかでも最も低い位置にあるため、南北には向かい合った塁状石垣列を築いている。
規模は南北約400m、東西約100mで今なお当時の威容を誇っており、山城として全国でも数少ない現存する遺構である。
(現地 説明板より)

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城主について

城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となったと伝えられ以後、太田垣氏は7代にわたりこれを守り継いだ。
応仁の乱では2代城主景近が京都へ出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を景近の二男宗近が撃ち破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城は攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃をうけ竹田城はついに落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。
同8年(1580)桑山重晴が城主となり、13年には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀を竹田城主として入れた。広秀は、九州征討、朝鮮の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原惺窩との親交も厚く、領民には産業を奨めて深く敬慕された。
関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃して果てた。享年39歳、慶長5年10月28日のことである。
(現地 説明板より)

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駐車場脇にある「山門」と「山名氏、赤松氏 両軍陣役諸霊供養塔」


■関連過去記事:「影武者」 http://blogs.yahoo.co.jp/iwaemon21/26170623.html

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第7回「妻の覚悟」 2月19日放送 
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織田軍は南近江の六角氏を攻めていた。しかしある日、信長(舘ひろし)は、一豊(上川隆也)や秀吉(柄本明)らわずかな供のみを連れて、市(大地真央)の嫁ぎ先、小谷城に浅井長政(榎木孝明)を訪ね、大胆にも一夜を過ごす。『信長暗殺の企みあり』。一豊に告げたのは六平太(香川照之)。事実、この機に乗じて信長を亡き者にするべしとの声が城では上がっていたが、義兄の信長を裏切ることはできないとする長政によって陰謀は食い止められる。間を置かず、織田軍は六角氏を平らげて上洛。征夷大将軍に任ぜられた足利義昭(三谷幸喜)は信長を父と呼び、副将軍か管領となるよう申し入れるが、将軍の下に入る気のない信長はこれを拒否。畿内を平定したのち、岐阜へ帰陣する。一豊たちを待っていたはずの山内家は、悲しみに包まれていた。新右衛門(前田吟)の妻、ふね(熊谷真実)が流産し、そのまま急死したのだ。自分を強く責め、戦場の夫には知らせてくれるなと、ふねが言い残していたことを涙ながらに語る千代(仲間由紀恵)だが、それが侍の妻として持つべき覚悟であることも同時に思い知らされていた。翌年春、再び上洛した信長は、将軍御所を建て、京都奉行の一人に秀吉を任命。与力である一豊も、京に留まることを余儀なくされる。 
大河ドラマ「功名が辻」

信長が動いた。兵を引き連れてイザ京へ!
まずは浅井長政のいる小谷城へ。長政の父は信長の敵、朝倉氏と通じていた。
暗殺を主張するが長政の説得で何事も起こらなかった。
信長、大胆不敵。何を考えていたのだろう。
長政を試しているのか?
これからの展開が楽しみだ。
六角氏を瞬く間に蹴散らして京都入り。
そして征夷大将軍になった足利義昭(三谷幸喜)に面会。

義昭「その方のお陰である、今よりそちを父と呼ぼう。」← 三谷義昭、軽いなぁ〜
信長「されど、わずか3つの違いにございますれば・・」
義昭「父では不満か。ならば・・副将軍になってくれ」 三谷さん軽い軽い。
信長「御免こうむりまする!」 およよ。
義昭「ならば・・・管領はどうじゃ」 ちょっと怖いよ信長。
信長「御免こうむりまする!!・・・・。」 厳しい口調!
   それほどまでの仰せなれば、堺・大津に代官をつけおく義お許し願いたく存知まする!」 

なるほど〜。やるな〜信長。
今回はここが一番迫力あってよかった。新たな展開にまた期待!


第7回で紹介された史跡
・伝 六角氏居館跡
・"楽市"発祥の推定地(旧東老蘇地区)
観音正寺
観音寺城跡
第6回「山内家旗揚げ」 2月12日放送 
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浅井家に輿入れした市(大地真央)を案じる千代(仲間由紀恵)だが、より現実的な心配事が持ち上がる。新右衛門(前田吟)の妻と七人の子供たちが山内家で暮らすことになり、台所は火の車に。わずか五十石の禄高でどうやりくりするつもりかと迫る吉兵衛(武田鉄矢)。千代は自分の食事を抜くことで当面の難を切り抜けようとする。
一方、稲葉山城改め岐阜城では、足利義昭(三谷幸喜)の任を帯びた明智光秀(坂東三津五郎)が信長(舘ひろし)の元を訪れていた。義昭の権威を借り、京に上ろうとする信長。足利幕府の再興を願う光秀。価値観の違う二人は出会いから噛み合わない。光秀が登城したことを千代に聞かせようと帰宅する一豊。見つけたのは、空腹のあまり倒れた妻の姿だった。家臣を大切に思う千代に心打たれた一豊(上川隆也)は、山に入って、猪を仕留めて鍋にし、千代、家臣とその家族たちにふるまう。
迎えた永禄11年(1568)7月、信長は義昭を岐阜に迎え、上洛の準備は万全となる。出陣の朝、千代は、ひそかに用意しておいた旗指物を差し出す。縫い込まれているのは丸三葉柏紋。山内家の紋だ。「旦那様、お家再興の御旗でございまする」「参るぞ!」。一豊と家臣たちは、六万に上る織田軍の一員となり、京めざして出立した 
大河ドラマ「功名が辻」

千代が倒れた。余りにも腹減りすぎて倒れた。
それ、ちょっと我慢しすぎやろう〜。ほとんと食べてないやん。
と思ったけど「家族みんな呼びなさい」といった手前がんばるしかなかった。
これが予想外に沢山の家族でびっくり。まるでマンガだ。
学生時代、食べる金がなかった頃、1日1食ってのを何回か経験したが、それでも我慢できなかった
のを思い出す。1日中寝てたり、部屋でじっとしてカロリー消費しないように工夫したものだ。
千代の場合は家事で動きまわらなければならない。カロリー消費量がただごとではない。
が、一豊がイノシシを捕ってきて、飯がたらふく食べれたところで一件落着。
ドラマも動いてきた。
いよいよ明智光秀(坂東三津五郎)が信長に登用された。
坂東三津五郎は、京都の公家関係・しきたりに詳しい「光秀」役にぴったりだ。
どういう展開になるか。坂東三津五郎「光秀」のこれからが楽しみだ。

第6回で紹介された史跡
京都 妙心寺(山内一豊夫妻の菩提寺)
※普段公開されていない妙心寺塔頭寺院も公開中(〜3月26日まで(3月12,20,21日は休止))
※明智光秀供養の“明智風呂”と呼ばれる浴室や、玉鳳院に信長・信忠父子の墓もある。

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