|
幕末の油商小泉仁左衛門邸附近。 禁門の変で天王山から出陣の際、長州藩士がここで朝食を採ったといわれている。 場所:京都市西京区樫原宇治井西町(旧山陰街道) 小泉仁左衛門は、大和の森田節斎や、小浜の梅田雲浜と交流があり彼らの私塾を開くなど 勤皇思想を広めるために尽力。雲浜の塾には長州藩の吉田稔麿(松下村塾の四天王の一人) も学んでいる。仁左衛門邸には水戸の鵜飼吉左衛門、頼三樹三郎も訪れるなど勤皇活動も活発 であった。長州藩士と親しくなるにつれ、攘夷のための資金を得ようと考え、梅田雲浜、肥後の 松田重助、大和五条の乾十郎らの間を仁左衛門が斡旋し、長州物産販売、山城丹波物産購入の 仕事を小泉邸で行うようになった。 元治元年(1864)7月、禁門の変で敗れた真木和泉らは天王山へと引き揚げた。その真木和泉の軍勢 に参戦していた相良新八郎、頼元兄弟(薩摩を脱藩し禁門の変では宇都宮兵と共に行動を共にし長州に 味方した)梅本僊之助(長州)の三人は、出陣の際朝食を採った小泉仁左衛門邸近くまで逃れてきた。 しかし、砲を構えて敗走兵を待伏せていた幕府方・小浜藩兵100名に出くわし斬りあいのすえ 闘死した。 彼らの遺骸は放置されたままだったが気の毒に思った村民は密かに幕府の目を盗んで高円寺に埋葬した。 場所:京都市西京区樫原塚ノ本町 山口直(なおし)は小泉仁左衛門と親族関係にあった洛西の大庄屋。
吉田稔麿、古高俊太郎、平野國臣、宮部鼎蔵、藤本鉄石らと交わり、大和義挙の際には武器弾薬を送る などの協力をしている。長州藩と繋がりが強く、長州藩主が入洛時には食料の調達係を努めるなどした。 また、御所内の学習院で攘夷論を建言したことで新選組の知るところとなり再三追われたという。 潜伏中病気になるが、西郷隆盛や大久保利通の知遇により薩摩藩邸で療養、のち薩摩藩船で長州へ下り、 積年の功により藩士となった。維新後は東京で新政府に仕えている。 明治5年10月7日没。旧友だった江藤新平により東京の四ツ谷西念寺に葬られた。 墓は京都市西京区川島玉頭町の冷聲院にあるもの。 |
幕末・明治の史跡
[ リスト | 詳細 ]
|
鳥羽伏見の戦いで敗走してきた新選組をはじめ旧幕府軍は、本営として定められていた 淀城に入城しようとした。しかし、城門は堅く閉ざされて入ることができなかった。 当時、藩主・稲葉正邦は幕府の家老として江戸にいた。 淀藩は、譜代として、徳川・旧幕府軍の一員として、薩長の新政府軍と戦うはずであった。 しかし、留守を預かっていた家老・田辺権太夫は、徳川を見限った。 新政府軍に寝返ったのである。 淀城大手門を守っていた田辺治之助は、旧幕府軍の兵 数人が城内に乱入したことへの 責任を負い自刃した。 田邊治之助君記念碑 子爵稲葉正凱書 慶応四戊辰年正月三日鳥羽伏見ノ役当時我カ淀藩主稲葉正邦公ハ 幕府ノ老中職トシテ江戸ニ在リ因テ藩士ハ堅ク城門ヲ鎖シテ留守 ス其大手門ハ者頭役田邊治之助君ノ守ル所ナリ五日後退セル藩兵 門内ニ闖入シ来ルモノアリ守兵直ニ之ヲ拒ミ出シタルモ時偶々城 中ニ在リタル君ハ此ノ報ヲ聞クヤ守門ノ責任ヲ痛感シテ自刃ス其 壮烈ナル実ニ士人ノ典型ト謂フベシ 今ヤ士道頽廃責任観念ノ缺如セルノ際今年恰モ七十周年ニ相当ス ルヲ以テ我等同人君ノ高風ヲ欽慕シ相謀リ碑ヲ建テ其事実ノ梗概 ヲ記シ後世ニ伝フト云爾 昭和十二年九月 日本の合戦 No25に、
「旧幕府軍を裏切った淀城主」という記事が載っていた。 家臣の裏切りを江戸で知った稲葉は新政府軍に恭順し、 江戸城の明け渡しに尽力したそうだ。 |
洛中の攘夷派の暴走はなおも進行をゆるめず、三月四日将軍家茂の入京とともに最高潮に達した。 かれらは企画した。帝に洛南の石清水八幡宮に行幸してもらい、攘夷の宣言と祈願をすることであった。 文久三年四月十一日、午前六時、鳳輦は御所堺町御門を出発した。 行列の人数は一万余、関白以下の公卿・官人、武家は慶喜以下の諸大名が供奉した。 将軍と尾張候徳川慶勝は発熱のため不参である。慶喜はその名代であった。 行列は鳥羽街道を経て淀大橋を通り、午後八時すぎ石清水の山麓に達した。 帝は山麓の豊蔵坊で一泊された。 慶喜もその付近の一坊に入り、衣冠束帯を解き、横になった。 (司馬遼太郎「最後の将軍」より抜粋) 攘夷を公然と宣言することを恐れた将軍名代の慶喜は、その夜出奔した・・・。 黒船来航以来、不平等条約を結んだ徳川幕府に対し、外国の圧力に屈するな!と、いう世論が しだいに大きくなっていく。こういう背景のなかで攘夷(外国を追い払うこと)派が 政治的に力を持つようになり、それが、将軍に攘夷を天皇の前で約束させようという動きになり、 ついに、彼らの画策により将軍が京都に行かざるをえない状況になってしまう。 将軍が入洛したのは三代将軍家光以来229年ぶり。 そして、将軍家茂は「5月15日」を攘夷する期限と約束させられてしまう。 幕末における石清水八幡宮は、天皇と朝廷が将軍よりも政治的に強くなってきたことを象徴するところ であり、全国にそれを誇示するため政治的に利用されたところであった。 小説「蘆刈」に男山が描かれていることに由来。 1879年にトーマス・エジソンが炭素白熱電球を発明。 そしてこの石清水八幡宮境内に生えている竹が電球のフィラメントの材料として最も適していることを知り、 電球発明の翌年から十数年もの永い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を造ったそうです。 京阪八幡駅前のモニュメント。 なぜ竹なのか?謎が解けたのである。 場所:八幡市八幡高坊(場所)
|
|
方谷の里ふれあいセンターでは、山田方谷について分かりやすくかかれた伝記が購入できる。 「山田方谷」 著者:方谷を学ぶ会 (平成14年3月初版発行)1,400円(税込) 郷土史家で方谷研究第一人者の田中章夫氏が中井小学校PTAだよりに寄稿されていた 「方谷シリーズ」の原文を元に、小学校6年生が理解できる程度に分かりやすく再編集 されたものだそうだ。現地で編まれた本ならではの情報もあり貴重な一冊だ。 歴史好きの大人が読んでも十分な内容になっている。分かりやすいが小学生には難しいと思った。 方谷が四歳の時(文化五年)に書いた遺墨など、貴重な資料も展示されている。 墓碑には備中松山藩主板倉勝静による文字が刻まれている。 入り口にはきれいに花が並べられており、お墓にも花が添えてあった。
方谷生誕の地では現地の人々に大切にされていることがとてもよく分かる。 |
まるで箱の底だ。 と思ったほど、まわりを山でとりかこまれた谷間の底にあった。 その谷の最も深い底を、渓流が音をたてて流れている。 あたりに、方谷屋敷のほか人家らしいものはなく、要するに古来、人間の住んだことのない土地である。 (こんな谷間を、開墾できるのか) 無茶だとおもった。狭い河原のほかは平地というものがないのである。 (司馬遼太郎「峠」より) 現在の方谷駅構内に方谷屋敷(長瀬塾)があった。 駅ホームから山側に見える「山田方谷先生旧宅跡碑」と、
方谷駅の高梁川を挟んで対岸にある「見返りの榎」。 河井継之助が方谷の元を去る際、このエノキの木の下で方谷屋敷を振り返り、 三度土下座をしたといわれてる。 |



