幕末・明治の史跡
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(あれが松山城か) と、川むこうの山を見上げた。みるからに坂のけわしそうな山である。 いわゆる「山城」であった。この種類はめずらしい。城がけわしい山の上にあるというのは鉄砲渡来以前の常識であり、当然ながら敵を防ぐのにはこれほど便利なものはない。 が、鉄砲が渡来して、この形式ははやらなくなった。鉄砲という、弓よりも射程のながい兵器が、山城にこもる敵を苦もなく打ち砕くようになったのである。そのころ、城は平地に降りた。 (中略) 山城などは数百年前にすでに流行おくれであるのに、この備中松山城は典型のような山城である。 (古格でいいものだ) と、継之助は見上げつつおもった。山腹に霧がうごめいており、山頂の白壁に朝のひかりがきらきらと映えている。天守閣は二層で、大小三十いくつの建物がそれぞれ岩場に基礎をかまえ、たがいに連結し、その威風はいかにも武門の象徴といえるようであった。 (「峠」司馬遼太郎著より) 日本に現存する12しかない天守閣のうちの1つでとても貴重なものだ。 (現存天守閣:備中松山城、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、丸亀城、松江城、高知城、宇和島城) 備中松山城を登ってみると、難攻不落の要塞だと肌で感じることができる。 車で七合目附近にある駐車場までいけるが、あとは徒歩で天守閣まで約20分歩く。軽い登山だ。 二の丸跡から景色を眺めるとまさに山の眺めそのものである。 御根小屋御殿跡(政庁跡) 平時の政務は天守閣のほうまで登らずに山のふもとの政庁で行っていたようで、その政庁があった場所に
高梁高校がある。当時の石垣がそのまま利用されておりこの学校で学ぶ生徒は実に羨ましい。 |
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加賀藩は天狗勢を手厚く扱った。食事はもちろんのこと酒肴も贈られた。衣類に煙草、ちり紙なども 配られ、風呂にも入れるようにした。 しかし、そんな状況も長くなかった。水戸藩内の反乱を抑え、天狗勢を良く思っていない幕府の若年寄 田沼玄蕃頭が京に入り、追討総督の一橋慶喜に天狗勢の引渡しを求めてきた。 慶喜は天狗勢を田沼(幕府側)に引き渡すことを承諾した。 元治2年(1865)1月29日、「天狗勢を加賀藩から福井、彦根、小浜の三藩に引き渡すように」 との通知がされると、幕府は、肥料用のニシンが入れてあった回船問屋のニシン蔵を16棟借り上げ、 50人位ずつ押し込めた。武田耕雲斎ら約30人を除き、全員の左足には足枷がはめられ罪人同様の 扱いとなった。 『鰊蔵での生活がはじまった。食事は日に二度で、握り飯が一個づつとゆるま湯があたえられるだけで
あった。戸も窓も板が打ちつけられているので、蔵の中は暗い。かれらを苦しませたのは、肥料用の 鰊の強烈な異臭であった。それに、排泄物の臭いもくわわって息もつけぬような堪えがたさであった。』 (吉村昭著 天狗争乱) |
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天狗勢の本陣に入った帰山(加賀藩士)は、武田に事情を説明して嘆願書を返し、 「十七日に戦をしかけますので、ご用意いただきたい」 と、告げた。 武田は、 「中納言(一橋慶喜)様に対し、敵対するつもりはなく、貴藩に対しても同様である。 なにとぞ、中納言様に嘆願書のこと、かさねてお願いいたす」 と、懇願した。 (吉村昭著 天狗争乱) 天狗勢八百余人に対し、幕府は二重、三重の大包囲網を敷いており、その数一万といわれていた。 武田耕雲斎は軍議を開いた。 山国兵部は、長州まで行き同士と尊王攘夷の志をとげようといい、 畑弥平は、命ある限り戦いいさぎよく死すべし、といった。百騎が一騎になろうとも京に至りて朝廷に 事実を上奏すべきだ、という者もいた。激論の末、 武田耕雲斎は、主人にひとしい一橋公に弓を引くわけにはいかぬ、投降すればきっと朝廷に尊王攘夷 の志を伝えてくれる。と降伏を主張。これに藤田小四郎、田丸稲之衛門、武田魁介、竹内百太郎らが 賛意を表し「降伏」と決定。 元治元年(1864)12月17日、降伏状を加賀藩に提出した。 降伏した天狗勢は12月23日〜25日の3日間で敦賀の3つの寺に収容された。 本勝寺 武田耕雲斎、藤田小四郎、山国兵部、田丸稲之衛門、武田彦衛門、根本新平、 滝平主殿、井田因幡、朝倉弾正ら387人 本妙寺 武田魁介、川瀬平蔵、長谷川道之介ら346人 長遠寺 山形半六ら90人
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天寧寺 三重塔 文学の小道 正岡子規碑 のどかさや 小山つづきに塔ふたつ 子規 日清の役に、日本新聞の従軍記者として尾道を通過した時の作で、 西国寺の三重の塔と天寧寺の海重塔を眺めたものと思われる。 尾道"文学の小道"には河東碧梧桐の碑もある。 しかし残念ながら今回は見れなかった。道に迷い、探す時間がなくなったのだ。 文学の小道の碑の場所がかかれているマップを入手していたにもかかわらず車に置き忘れてしまった。 坂の上の雲の(根岸)で「子規はしかたなく碧梧桐のほうは同居させることにし」とある。
また、子規の従軍が決まり、碧梧桐は虚子とともに新橋駅まで見送っている。 碧梧桐は年長の子規のことを幼名で「升さん」と呼んでいたそうだ。 子規と碧梧桐は師弟を超えたそんな仲なのだ。子規は碧梧桐をとてもかわいがっていた。 その碧梧桐の句碑が子規の碑と同じ"文学の小道"にあるというのがとてもいい。 また尾道へ行く機会があれば是非、碧梧桐の碑にも寄ってみたい。 |



