幕末・明治の史跡

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村山たか女の墓

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村山タカ(幕末)
彦根藩士の娘だったと伝えられる。京都に出てきて金閣寺の寺侍・多田源左衛門の妻となり、
ひとりの子を産み帯刀(たてわき)と名付けた。
やがて離婚し彦根に戻ったタカは彦根で井伊直亮(彦根藩第12代藩主)の妾となる。
直亮の死後は井伊直弼の妾となり、その後、彦根藩国学者・長野主繕の妾となり、
井伊直弼が大老になって尊王攘夷派を弾圧する際、長野とタカは入京、宮廷の
女中となって公卿や志士たちの情報を集めた。その時には息子帯刀も仲間に加わっていた。

井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのち、直弼に加担した者たちに天誅が加えれられるようになると
タカは捕らえられ、三条大橋の東端の柱に縛られ生晒しにされた。
その後、金福寺で晩年を過ごし、明治9年、67歳で没した。

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圓光寺の庭園

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水琴窟

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円山応挙筆「雨竹風竹図」
安永五年(1776年)圓光寺に円山応挙が滞在し、庭の竹林を見ながら描いた作品。

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圓光寺の開基は徳川家康によるため、家康が祀られたお墓がある。

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オマール氏の墓(1946.8.6広島原爆で被爆)
圓光寺を訪問した8月6日(原爆の日)、偶然にこのお墓と出会った。


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圓光寺
京都市左京区一乗寺小谷町13(地図

長州人首塚

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上善寺には、
「禁門の変」の際、鷹司邸付近で討死した八名の首塚がある。

入江九一(長州)、原道太(久留米)、半田門吉(久留米)、
那須俊平(土佐)、田村育蔵(長州)、緒方弥左衛門、小橋友之輔(高松)、
ほか一名(=久坂義助?(長州))

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上善寺境内長州人首塚碑
元治甲子之変越藩士与長藩士
戦於 皇城堺町門獲首八級越
藩軍務官桑山十蔵葬之於此建
石標之然経年所之久世人知者
太尠明治三十八年福井県人田
辺政之助偶見此塚報之毛利公
邸公聞之派人攷覈事実而得知
其姓名者七人曰贈正四位入江
九一曰贈従四位原道太曰贈正
五位半田門吉曰贈正五位奈須
俊平曰田村育蔵曰緒方弥左衛
門曰小橋友之輔其餘一人未有
所考公命修塚域寄祭資当寺永
祈冥福野衲謹記事由以*後人
明治四十年九月
上善寺現住載誉運外誌

場所:京都市北区鞍馬口通寺町東入ル(地図

蛤御門

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元治元年(1864)7月19日「禁門の変」勃発。
この戦いで最も激戦地となったのが蛤御門付近だった。

長州藩の突撃のすさまじさは、
「賊勢(長州)すこぶる猛烈」
と、会津藩の記録にあるとおりであった。会津は公卿警備の隊長野村勘兵衛とその部将野村藤七郎が
たちまち戦死し、友軍の桑名藩が逃げ出し、慶喜直属の一橋勢も乾御門のほうへ退却し、
「藩兵の守り、ほとんど失わんとす」
と、会津側が記録している。
蛤御門に突入した来島又兵衛の部隊は門扉をたたきやぶって乱入し、急射撃のあと、敵勢にむかって
抜刀突撃した。

(世に棲む日日(三)司馬遼太郎著 より

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                          門に残る弾痕

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                長州藩士来島又兵衛はこの木の付近で戦死したと伝えられる

水戸藩邸跡

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場所:烏丸通り下長者町通り西入ル北側(地図
蛤御門のすぐ近く、護王神社の前。

吉田松陰先生(山河襟帯)詩吟 石碑


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嘉永6年(1853)松陰は浦賀で初めて黒船を見た。
その圧倒的な文明に驚き、海外渡航(密航)を決意。
そしてロシア船が長崎に来るという情報を得ると急遽江戸をたち長崎へ向かった。

途中、京都に寄り御所を拝観(嘉永6年10月2日)。
この詩はその時に詠んだもの。

吉田松陰の50年忌にあたる明治41年に京都府教育会により建立された。

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山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣
不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳
敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平 従来 英皇不
世出悠々失機今公卿安得 天詔勅六師坐使 皇威被八紘人
生若萍無定在何日重拝 天日明
右癸丑十月朔日奉拝 鳳闕粛然賦之時余将西走入海
  丙辰季夏  二十一回藤寅手録

場所:平安神宮大鳥居のそば。京都府立図書館前。

参考サイト(京都の石碑)
http://homepage3.nifty.com/so_you/list/124.htm

【大阪】適塾

適塾

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適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が 江戸時代後期の天保9年(1838年)
大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾という。また、適々塾とも称される。
緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来。

福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎、久坂玄機、大鳥圭介ら、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの
人材が輩出した。漫画家手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。
(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

適塾 http://www.osaka-u.ac.jp/jp/about/tekijuku/index.html

福沢諭吉「福翁自伝」より

塾は不規則といわんか不整頓といわんか乱暴狼藉、まるで物事に無頓着。
書生はみな活発有為の人物であるが一方から見れば血気の乱暴書生ばかりでなかなか一筋縄でも二筋縄
でも始末にいかぬ人物の巣窟。
学問勉強ということになっては当時世の中に緒方塾生の右に出るものはなかろう。
日が暮れたからといって寝ようとも思わずしきりに本を読んでいる。読書にくたびれ眠くなってくれば机の上につっぷして眠るかあるいは床の間に床側を枕にして眠るか、ついで布団をしいて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。

大坂は暖ったかいところだから冬は難渋なことはないが、夏は真実の裸体、フンドシも襦袢も何もない真裸体。もちろん飯を食う時と会読をする時はには、おのずから遠慮するから何かちょいと引っ掛ける。
食事の時にはとても座って食うなんということは出来た話ではない。足でも踏み立てられぬ板敷きだから、みな上ぞうりを履いて立って食う。銘々に茶碗に盛って百鬼立食。

大阪のビジネス街の真ん中にポツンとある適塾。
夕暮れ時に久々に訪れてみた。
幕末当時、ここで久坂玄機(玄瑞の兄)、福沢諭吉、大村益次郎、手塚治虫のおじいさんたちが
学んでいたと思うといつ来ても感慨深い。
タイムトリップして当時の様子を覗き見してみたいものだ。

除痘館の跡

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適塾の裏手、愛珠幼稚園向かいの緒方ビル。

銅座の跡

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銅座の制定は明和三年(1766)から維新まで続き、明治十三年(1880)その跡に愛珠幼稚園が設けられた。
江戸時代、銅は重要輸出品の一つで、大阪では住友家などの銅商を中心に全国から銅の原料を集めて
精製し、この銅座でまとめ、長崎へ送って貿易の決済に充てていた。
場所:愛珠幼稚園前

ちなみに愛珠幼稚園は明治13年開園(1880)
現園舎は明治34年竣工(大阪市有形文化財)。大阪最古の幼稚園。

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