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小塚原回向院の墓域は現在修復工事中のため残念ながら入ることはできませんでした。 (〜2006年7月頃まで)以下5つの墓碑の写真は以前撮ったものを搭載します。 松陰二十一回猛子墓 伝馬町刑場で斬首された吉田松陰は小塚原へと移送された。 四斗樽に入れられていた松陰の遺体は、桂小五郎、伊藤俊輔、尾寺新之允、飯田正伯の四人が収容、 甕に入れたあと橋本左内の墓の左隣に埋めた。 それから20日後、尾寺と飯田がそこに大きな石碑を立てたが、幕府により、ほかの志士達の墓碑と ともに取り壊された。文久二年、久坂玄瑞が幕府の許しを得て松陰の墓碑を立て直した。 今も小塚原に残る「松陰二十一回猛子墓」は久坂玄瑞揮毫のものである。 その後、高杉晋作により世田谷の長州藩領地へと改葬された。現在の松陰神社である。 橋本景岳先生墓碑 ・梅田雲浜 小浜藩士。安政の大獄で最初に捕縛。江戸で獄中死。 ・鵜飼吉左衛門 水戸藩士 戊午の密勅に関わる。安政の大獄で死罪。 ・鵜飼幸吉 水戸藩士 戊午の密勅に関わる。安政の大獄で死罪梟首。 ・関鉄之助 水戸藩士 桜田門外の変を起こす。江戸伝馬町で斬首。 ■地図:小塚原回向院 南千住駅 徒歩1分 小塚原の刑場は、間口六十間余(約180メートル)、奥行三十間余(約54メートル)で、 明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、はりつけ・斬罪・獄門などの刑が執行された。 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立された。 ■地図:延命寺 南千住駅 徒歩1分
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幕末・明治の史跡
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安政元年(1854)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。 これは神奈川条約ともいわれる。 歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である。 ■地図:開港広場/みなとみらい線「日本大通り」駅徒歩3分 開港に伴い、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が今の神奈川県庁所在地に設けられ、 神奈川奉行の支配に属していた。 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。 明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。 ■地図 /みなとみらい線「日本大通り」駅徒歩2分 公式サイト http://www.kaikou.city.yokohama.jp/ 開館時間 9:30am-5:00pm(入館は4:30pmまで) 休館日 月曜日、年末年始、資料整理日 入館料 大人200円、小中学生100円 |
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竣工:1910年(明治43年) 設計:田村鎮(陸軍技師) 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設し、この兵力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年に近衛都督西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組され、「天皇および皇居の守護」という任務が課せられた。 1873年に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。 1891年、鎮台が廃止され、鎮台には各師団が配備されることとなり、山県有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加することとなった。 (フリー百科事典ウィキペディア「近衛師団」より) ■地図:九段下駅 徒歩12分。現在は「東京国立近代美術館工芸館」 場所:東京国立近代美術館工芸館横 ■地図:九段下駅 徒歩10分 北の丸公園内 ■地図:九段下駅 徒歩5分 北の丸公園内 日本武道館の近く
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