幕末・明治の史跡

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蕃所調所跡

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安政三年、幕府はここに蕃所調所を設け、専ら海外の事情を調査すると共にその教育にあたらせた。
近所に私塾「鳩居堂」を開いた村田蔵六(大村益次郎)は教授手伝として出仕している。
文久元年十二月、幕臣のみに開いていた門戸を諸藩の藩士にも開放。
文久二年、一橋門外へ移動し開成所と改称。
明治二年、大学南校と改称して東京大学の前身となった。

■地図:九段下駅から徒歩1分・九段下交差点の交番横、昭和館横

大山巌像

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大山 巌
天保13年10月10日(1842年11月12日) - 1916年(大正5年)12月10日
幕末期の薩摩藩の藩士。明治時代・大正時代の政治家・軍人。

■地図:九段下駅から徒歩3分

品川弥二郎像

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品川 弥二郎
1843年11月20日(天保14年閏9月29日) − 1900年(明治33年)2月26日
幕末期の長州藩士。明治時代の政治家。

九段下駅から徒歩3分(大山巌像の側)

大村益次郎像

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大村益次郎
文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)
江戸時代後期の幕末から明治初頭の兵学者。
大村益次郎登場小説 
『花神』(司馬遼太郎) 
『鬼謀の人』(『人斬り以蔵』に収録、司馬遼太郎) 
『伊達の黒船』(『酔って候』に収録、司馬遼太郎)

明治二年二月、戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社(現、靖国神社)の創建に際し、
社地選定のため同月十二日、この地を視察した事も記録に見え、靖国神社創建者と
しての功績は大きく、明治十五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、
宮内庁から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
(靖国神社 大村益次郎説明板より)

明治15年11月15日、大村益次郎の祭典の折、靖国神社宮司だった加茂水穂が大村の銅像の
建立を提案したという。大村像の像立委員会には徴収罰の元勲らが名を連ね、有栖川宮や三条実美
らの賛助を得て計画は進行する。像は戊辰戦争で大村が活躍した上野山内への設置も予定されたが、
明治21年5月、内務、陸、海軍三大臣の特別許可を得、幕末の討幕方殉難者や、戊辰戦争での
新政府軍戦死者を祀る、靖国神社への設置が決定した。
明治24年5月、石膏像が完成。次いで6月から小石原砲兵工廠で銅像の製作が開始され10月に
完成。除幕式は明治26年2月5日に盛大に行われた。
奇しくも、大村(当時は村田蔵六)が開いた私塾「鳩居堂」跡にほど近い。
(幕末維新江戸東京史跡事典より)

■地図:九段下駅から徒歩3分

神道無念流 錬兵館跡

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幕末三大道場のひとつ錬兵館があったところ。
錬兵館には、高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、
特に桂小五郎は剣の腕前に優れ師範代もつとめている。

坂下門

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文久2(1862)年「坂下門外の変」の現場

尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件。この結果、安藤は負傷し老中を罷免された。

■地図:東京駅より徒歩10分/大手町駅より徒歩5分

外桜田門

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万延元(1860)年「桜田門外の変」の現場

水戸浪士らが大老井伊直弼の行列を江戸城桜田門外で襲い暗殺した事件。
日米和親条約締結に対する反発、安政の大獄の報復によるものだった。

■地図:坂下門から徒歩5分

坂本龍子の墓

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「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」

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地図: 信楽寺 京急「大津駅」徒歩約5分
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今年は坂本龍馬の妻、おりょうさん没後100年。

忘れていた・・・。
すみませんでした〜おりょうさん。
なくなったのは1906年(明治39)1月15日。

竜馬の妻・おりょう 没後100年 
風雲児支え 貫いた夫婦愛

「まことに面白き女」−。幕末の風雲児、坂本竜馬がこう評した妻おりょう。寺田屋事件では竜馬の命を救ったことでも知られる。今年は、波乱に富んだ生涯を閉じてから100年の節目。15日が祥月命日だった。ゆかりの地の京都、横須賀(神奈川県)では、その遺徳をしのぶ活動が進められている。
京都・嵐山の名刹(めいさつ)、天竜寺。その塔頭(たっちゅう)の一つ、寿寧院に昨年、顕彰碑が建立された。おりょうと、父親の遺徳をしのぶもので、碑文には竜馬から贈られ、おりょうが最も気に入っていたとされる歌「又あふと思ふ心をしるべにて道なき世にも出づる旅かな」が刻まれている。となりの永代供養墓には、京都・八瀬の寺で長く無縁墓となっていた二人の遺骨も納められた。

おりょうの父・楢崎将作は、京都・東山の門跡寺院、青蓮院の侍医。安政の大獄で投獄された勤王家でもあり、数多くの志士たちを援助した。この縁でおりょうは竜馬と知り合ったとされ、竜馬の計らいで京都・伏見の船宿「寺田屋」の養女となった。一八六六(慶応二)年一月、入浴中に幕府の捕り方が急襲したのに気づき、階段を駆け上がって二階にいた竜馬に知らせた。後に竜馬は姉にあてた手紙に「竜女がおればこそ、竜馬の命は助かりたり」と記している。

おりょうの百回目の命日を翌日に控えた今月十四日、「楢崎将作・坂本龍子顕彰会」のメンバーらが集まり、碑の前で追悼法要が営まれた。おりょうが親しんだ月琴の音色も碑の正面に広がる嵐山にこだました。顕彰会の杉本弥寿男代表世話人は「おりょうさんは『京都に帰りたい』とよく話していたそうです。竜馬が活躍した京都の地に顕彰碑ができて、さぞ喜んでくれていることでしょう。多くの歴史ファンが訪れてくれるのを期待しています」と話す。今後、全国各地の歴史愛好団体などとも積極的に交流を図っていくという。

一八六七(慶応三)年十一月、竜馬が京都の醤油(しょうゆ)屋「近江屋」で暗殺されて以降、各地を転々としたとされるおりょう。その原因や生活状況は諸説があり、定説はないが、一八七五(明治八)年に三浦郡豊島村(現横須賀市)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍した事実は確認されている。
松兵衛との出会いにも諸説あるが、松兵衛の四代目の子孫、西村兵造さん(72)=京都市在住=は「祖母からは寺田屋で出会ったと聞きました。松兵衛はもともと彦根藩士で、幕府と藩の密命を帯び、身分を隠して横須賀で造船所を営んでいたそうです。おりょうおばあは『かいしょもの(甲斐性者)だから一緒になってやろう』と話したといいます」
西村さんによると、おりょうは長崎で生活したためか国際感覚に優れ、将作の父から習った小太刀は免許皆伝、懐にはピストルもしのばせた性根のすわった女性だったという。
横須賀市の京浜急行京急大津駅に近い浄土宗信楽(しんぎょう)寺。ここに、京都から遠く離れた地で一九〇六(明治三十九)年、六十六年の生涯を閉じたおりょうの墓がある。大志を抱き、海をこよなく愛した竜馬の妻らしく、潮風香る高台にそびえる墓標。「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と記されている。「竜馬の妻」であったことに終生誇りを持っていたとされるおりょうの心中を松兵衛が慮(おもんぱか)ったことをうかがわせる。松兵衛は実家の楢崎家と竜馬の墓にも分骨したとされる。
竜馬愛好者らで結成している「よこすか龍馬会」(会員四十五人)は、竜馬、おりょう夫婦の木造座像を製作して、今年十月に信楽寺で開く没後百年祭で披露する計画を進めている。
磯野淑紀会長は「おりょうさんあってこその竜馬。世を憂えた表情の竜馬に、安堵(あんど)した様子で付き添うおりょうさんの姿をクスノキで作り、大切な財産として本堂に安置したい。夫婦像を見て、夢を追いロマンを持ち続けることの大切さを感じ、長く語り継いでいってほしい」と話している。
東京新聞 1月17日

【生野】生野義挙趾

生野義挙趾

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生野義挙趾(生野代官所跡)と、志士がはじめて集合した生野延応寺
文久3年(1863)8月17日、吉村寅太郎(土佐)らは中山忠光(公卿)を擁して大和に挙兵し
五条代官所を占拠した(大和義挙、天誅組の乱ともいわれる)。黒幕は長州藩。
この挙兵に呼応して徳川幕府に不満の分子も日本各地で次々に挙兵、いっきに倒幕が実現する
計画だったが、同8月18日に京都で政変が起こり政状は倒幕派に不利なものとなる。
倒幕派の中心だった長州藩は京都の政界から追い出されてしまった。
文久3年9月、天誅組壊滅。

そういう状況で、生野で再び挙兵がおこった。

文久3年(1863)10月12日、天誅組はまだ戦い続けていると信じ、それに呼応。
澤宣嘉(公卿)を擁した平野國臣(福岡)、河上弥一(長州・奇兵隊)が幕府機関である
「生野代官所」を占拠。再び全国に倒幕の挙兵を促そうとした。
が、時期的に不利でもあり、すぐに鎮圧されてしまった。

徳川幕府が朝廷に政権を返上する(大政奉還/1867)4年前の出来事だった。

多田弥太郎顕彰之碑

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出石町浅間峠(県道2号線沿トンネル出口すぐ)

多田弥太郎

文政九年(1826)生。出石藩士。
出石藩校弘道館で学んだのち江戸でも学び、若干22歳で弘道館教授になる。
長崎で高島秋帆に西洋砲術を学んだ。
藩主の継嗣問題で投獄され、獄中で「海防策」を著し世に名を知られることになる。
文久二年(1862)赦免。
翌三年(1863)生野挙兵に参加。
義挙失敗により一度は京都に逃れたが因幡・伯耆の志士を募るため城崎に入るため
八鹿町寄宮に宿泊。そこで藩史に捕らえられた。出石に送られる途中、浅間峠にて
斬殺される。享年三十九歳。

平野國臣捕縛の地

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旅籠京屋があった所。土手のすぐ向こうには円山川が流れている。

養父市八鹿町下網場
平野次郎國臣

文政11(1828)〜元治元(1864)。
福岡黒田藩の足軽の家に生まれる。
尚古主義者であり、総髪、毛鞘の太刀、烏帽子、直垂を着用するなど当時としては異装。
次郎と名乗っていたが、國臣と改名。一大名の家来ではなく「国の家臣」という意味である。
梅田雲浜、梁川星厳らと古くから勤皇倒幕活動をしていた。西郷隆盛、高杉晋作とも交流が深く、
倒幕派巨頭の一人であった。
生野の乱(生野義挙)を起こすが鎮圧、捕縛され、京都の六角獄舎に入れられる。
禁門の変の火災に乗じ獄舎内で斬殺された。
文久三年十月十五日
平野次郎 横田友次郎 上網場村京屋に捕らえられる(午前十時)

広谷の材木屋旅籠から駕籠二挺を仕立てて、城崎へ赴くべく上網場村まで来た時、豊岡藩の一番手が押太鼓で練り込んで来るのにばったり出会った。かくと見て平野らは旅籠京屋に駕籠を着けさせて、一行を避けようとした。京屋の奥の離れ八畳の間に案内された時、豊岡勢は包囲していた。
豊岡の一番手岩崎豊太夫が二人を尋問したが、平野は、
「自分は因幡藩の竹島直紀、同伴者は東久太郎と申す。当国湯島へ参るもので怪しき者ではない。」
と言った。しかし言語風采態度なり、かつ道順が違って行くのですこぶる怪しい。さては生野浪人と判断した。
「湯島へ行かるるなら弊藩より案内致そう。只今は生野事変の為往来が難渋であるから。」
と体よくあしらって京屋裏から両人を別々に舟に乗せて円山川を下って豊岡へと護送した。
途中で舟がスレスレになった時、横田はグズグズしていてはいけませぬ。と斬り死を目配せで暗示したが平野は屹と睨まえた計りであった。
八ツ時(午後二時)一番手から豊岡表へ両人を差送る旨通知が届き、頓て両人は豊岡京口町麹屋又兵裏門から舟を上がり、別間に案内して監視した。
藩では怪しむべき筋も幾多あるので竹島惣太夫等四人が翌日再吟味することとした。

「生野義挙日記」より

中嶋太郎兵衛 黒田與一郎顕彰の碑

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「生野義挙日記」太田虎一著は生野書院で購入できる。
生野義挙が時系列に、関連史跡も紹介されている。

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