幕末・明治の史跡

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土方歳三像
(東京都日野市 高幡不動尊境内)

土方歳三資料館

開館 毎月第1・第3日曜日13時〜17時
(日野市石田60)

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多摩都市モノレールの「万願寺」駅で下りて徒歩約5分のところにある。
日野は小説でイメージしていたよりかなり開けている住宅地。
東京都心に便利な場所だからそりゃそうだ・・。
近くには浅川が流れている。石田散薬に使う薬草「牛革草」を採ってた河原。
こちらは当時の面影を残しているのかもしれない。
資料館までは住宅地を歩いていくが途中「土方」の表札が何件もあった。
5分ぐらいで到着。
現在は次兄の子孫の方が住んでおり、隔週日曜日に一つの部屋を開放してファンを
招きいれて子孫の方がお話をするというスタイルがとられている。
部屋に入る人数は限られているため、次を待つ行列があとを絶たない。
時間と日が限られている為、見れないかもしれないので注意が必要だ。

歳三の愛刀「和泉守兼定」や家伝「石田散薬」の製造道具が展示されている。
玄関の太い柱と梁は、歳三が風呂上りに相撲の張り手の稽古をしていたという当時の
大黒柱が使用されている。

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「土方歳三胸像」と「歳三が植えたと伝えられる矢竹」
(土方歳三資料館玄関)

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土方歳三義豊之碑
(日野市 石田寺)


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土方家墓所の右奥に土方歳三の引き墓がある。
(日野市 石田寺)

子規と野球の碑

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愛媛県松山市末広町16-3 正宗寺境内


打ちはづす 球キャッチャーの手に在りて
ベースを人の行きがてにする



「全国に知られた松山の野球は、正岡子規によって伝えられた」
と、昭和37年刊行の「松山市誌」のスポーツの項に書かれている。子規は明治17年大学予備門に入学するとまもなく野球をおぼえ、これに熱中した、とある。その後、これを松山にもちかえった。
ちなみにかれはのちに新聞「日本」に書いた「ベースボール」という一文のなかで野球術語を翻訳した。打者、走者、直球、死球などがそうであった。

司馬遼太郎「坂の上の雲(ほととぎす)」より 

ベースボールに要するものはおよそ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなお善し)
皮にて包みたる小球(直径二寸ばかりにして中は護謨(ゴム)、糸の類にて充実したるもの)
投者が投げたる球を打つべき木の棒(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つ処やや細きもの)
一尺四方ばかりの荒布にて坐蒲団のごとく拵えたる基三個本基および投者の位置に置くべき鉄板様の物一個ずつ、攫者の後方に張りて球を遮るべき網(高さ一間半、幅二、三間位)競技者十八人(九人ずつ敵味方に分るるもの)審判者一人、幹事一人(勝負を記すもの)等なり。
新聞日本の記事「ベースボール(明治29(1896)年7月)」より


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ユニフォーム姿の子規(明治23年)

子規と野球

子規は、日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、自身の幼名である「升(のぼる)」をベースボールにひっかけて、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。)。
また「まり投げて見たき広場や春の草」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され、正岡子規は2002年野球殿堂入りを果たした。ポジションは捕手であった。
ちなみに、正岡子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用い始めたのは、中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年(明治23年)である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、「野球」という表記を最初に行ったのは正岡子規である。また、正岡子規も1889年に喀血してやめるまで、捕手として野球をしていたことがある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日米ホームラン王が再会 野球親善たたえる

【ワシントン17日共同】王貞治ソフトバンクホークス監督とハンク・アーロン氏の日米ホームラン王を招いて17日、約130年に及ぶ日米野球親善をたたえるパーティーがワシントンの日本大使公邸で開かれた。
パーティーは、王監督が3月に第1回大会が開催される野球の国別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の日本代表監督として米国を訪問するのに合わせて企画された。
王監督は日米の野球関係者約200人を前にあいさつし「10年ぶりぐらいでアーロン氏に会えた。日本の野球は今や大リーグに選手を送り出し、夢のようだ。(応援してくれた)米国に感謝したい」と述べ、「WBC第1回大会を全力で戦いたい」と抱負を語った。

(共同通信-1月18日)

【大阪】天保山跡

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鳥羽伏見の戦いにおいて敗戦濃厚になってくると、
大阪城にいた徳川慶喜は江戸へ戻る決意をした。
慶応4(1868)年1月6日 夜10時頃のことだった。

天満八軒家から川舟に乗り、川をくだって天保山沖に出たときはまったくの深夜で、洋上に霧がこめ、幕艦がどこにいるのかわからない。ただ目の前に大きな米国軍艦が碇泊しているのがわかった。慶喜は、朝までこの軍艦で休もうと言い、交渉方を外国方の者に命じた。
米国艦長は、その申し出を快諾し、このおもわぬ訪客のために酒肴を出してもてなした。夜が明けると、開陽丸の所在がわかったので米艦隊からボートを出してもらい、それへ移乗した。
艦はすぐ蒸気をたき、朝もやのなかを出航した。
大阪城内で慶喜らの失踪を知ったのはこの時刻であった。

司馬遼太郎「最後の将軍」より

かつて「目印山」とも呼ばれて船からの目標になっていた天保山は、
幕末の頃、砲台が建設されるなどで削られていたという。

現在、標高4.53mの日本一低い山である。
(国土地理院発行の地形図に載っているなかで)

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「大坂天保山」 初代歌川広重 画)

天保2年(1831年)より2年間、洪水防止と大坂への大型船の入港をしやすくする目的で安治川の河口を浚渫した際、その土砂を河口に積み上げて作られた人工の山である。当時は20mほどの高さがあり、大坂の町へ遡るため安治川に入ろうとする船にとって目印となっていた。
海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、その当時から既に現在同様の観光スポットであったという。

フリー百科事典「ウィキペディア」より

【佐賀】佐賀城鯱の門

佐賀城鯱の門

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明治7年(1874)の佐賀の役(佐賀の乱)で、佐賀城は戦火に見舞われた。
鯱(しゃち)の門にはその時の弾痕が残っている。

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江藤が顔をあげたとき、ちょうどそのときその方向の闇をやぶって火光がみえた。地に雷が落ちたようなきらめきであり、佐賀の町の城とそのまわりの樹木が一瞬、影になって浮かんだ。やがて足元の大地がゆれ動くような轟音がひびきわたっていた。佐賀軍の砲撃がはじまったのである。
その砲撃を合図に、数百発の銃声が響いた。

司馬遼太郎「歳月」より


アームストロング砲

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佐賀城本丸歴史館蔵(模造)

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佐嘉神社境内(模造)

幕末に佐賀藩が保有していた後装施錠砲。
イギリスのアームストロング社で製造され、長崎にいたグラバーらを仲介として輸入。
戊辰戦争では上野や奥羽の戦いで用いられ「佐賀の大砲」として威力を示した。

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もしわが藩があのアームストロングを欲するとすれば艦載砲でなく陸軍の砲台用のものである。なぜならば、わが藩は二百数十年長崎警備を公儀から命ぜられ、近年にいたって、いよいよその要塞設備を増強してきた。佐賀藩にとって必要なのは強力な要塞砲である。

司馬遼太郎「アームストロング砲」より


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佐賀城跡に、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元し建てられた歴史博物館。
木造復元建物としては日本最大の規模を誇る。
幕末維新期の佐賀の造船・鋳鉄など当事の最先端の技術や、歴史群像を垣間見ることができる。
幕末ファン必見の博物館だ! と思う。
入館料:無料
(正月は江戸時代の鼓の胴の松飾り(つづみのどう)が再現されていた。)

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幕末、佐賀藩ほどモダンな藩はない。軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていたし、その工業能力も、アジアでもっともすぐれた「国」であったことはたしかである。
佐賀藩の「文明」にくらべれば諸藩など、およびもつかなかった。箱根以東の諸藩が、鉄砲といえばなお火縄銃のことだと思っていたころに、この藩の鉄器工場ではすでに雷管式のゲーベル銃を国産していた。

司馬遼太郎「アームストロング砲」より

カノン砲

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佐賀藩で造られたわが国最初の鋳造鉄製150ポンドカノン砲(模造)
品川砲台(江戸)に備えられたものを復元したもの。

佐嘉神社境内

佐賀の七賢人石碑

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鍋島直正(閑叟)…肥前佐賀第十代藩主。幕末の頃には肥前佐賀藩の西洋・近代化に貢献。
大隈重信…早稲田大学の前身、東京専門学校創立。改進党を組織。総理大臣歴任。
江藤新平…司法制度の基礎を作った初代司法卿。
大木喬任…東京府知事、初代文部郷。近代教育制度の確立に尽力。
佐野常民…博憂社(日本赤十字社)創設。
島 義勇…北海道開拓の父。
副島種臣…外務卿、内務卿を歴任。

佐嘉神社境内

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謹賀新年
本年もよろしくお願いいたします。

平成十八年 元旦



丹生川上神社下社

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わが国最古の神社の一つ。天武天皇時代の白鳳四年草創(西暦657年)

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水の神様として崇められている。

幕末
孝明天皇は「外患惧服、国家清平」の祈祷を仰せつけ(安政元年/1854)、
文久二年(1862)には銀二十枚、米 三十石を下賜している。
また、文久三年(1863)の天誅組の大和義挙に参加した橋本若狭ゆかりの神社でもある。

高取は恭順を誓い、十津川郷は命を奉ずることとなって、天ノ川辻の陣営に歓喜のあがっている八月廿二日(文久三年/1863年)、大和国丹生川上神社の祠官橋本若狭は、同士中井越前元定欣求寺良巌等を伴い、伺候した。若狭等の来着は、またかれ等一団の志気を、いっそう興起せしめたのであった。
彦根藩の二番隊は・・・・(略)
九日朝、御吉野、長瀬を経て丹生へ侵入した。橋本若狭は中井等と共にこれを風呂ノ坪(丹生川上下社の東二町)に迎え討ち、奮戦すこぶるつとめたるも、衆寡敵せず、漸次圧迫せられて北方に退却し、若狭は長谷橋の北詰、北川方に身を潜めた。

若狭の退却するや、彦根勢は進んで丹生神社を占領し、若狭を求めて北に進み、その在るところを知り、これに迫る。若狭は身を躍らして石崖を飛び下り、長谷川の渓をつたって免るることを得た。
彦根勢は、北川方を若狭の宅と早合点し、火を放ってこれを焼き、さらに丹生川上下社へも放火し、拝殿および社務所を灰燼に帰せしめた。

「いはゆる天誅組の大和義挙の研究」より

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橋本若狭旌忠碑(せいちゅうひ)

場所:奈良県吉野郡下市町長谷1−1【地図】

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