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安政元年(1854)1月、アメリカ提督ペリーが再来。 前年、初来航の際の軍艦は4隻だったが、二度目は7隻で来航した。 アメリカの要求に屈して開国するか、断固反対するか、日本中は沸騰していた。 ペリー横浜上陸図 (安政元年2月10日の様子) しかし、多くの反対派の意見を押し切り、幕府は開国を選択。 安政元年(1854)3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれた。 条約内容(粋) 1.アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、箱館を開港すること 2.アメリカの難破船、漂流民の救助の保護、引き渡しをすること 3.アメリカ人居留地を下田に設定すること 4.アメリカに最恵国待遇をあたえること この条約締結により日本の鎖国体制は崩壊した。 断固反対派であり、条約決裂の際にはアメリカ艦隊との戦争を想定して、 具体的な「海戦策」を藩主に献じていた24歳の若い兵学者がいた。 吉田松陰である。内容が興味深いので引用してみた。 「吉田松陰の海戦策」 小船による決死強襲主義をとる。 漁船の頑丈なものを50そう用意し屈強のこぎ手を雇う。 1そうの船に小銃手10人、大砲1門、砲手5人乗せる。 そのほか、敵艦によじ登るための道具として、長い鳶口、熊手、打鉤、竹はしごを用意する。 夜影に乗じ、まず20そうが先陣。あとの30そうは予備とする。 先陣20そうは漕ぎにこいで快速にすすみ、敵艦の手前三、四丁に近づくや、大砲を連発する。 的は大きくはずれはない。 やがて火災がおこり夷人どもがさわぎ立てれば、小銃隊がすかさずこれを狙撃し、そのあと艦に のぼって白兵戦を演じ、艦ぐるみうばってしまう。 敵艦がこの勢いにおどろいて逃げればそれでよし。 逃げずに陸戦隊を上陸させてくるならば、当方の幸いである。鎌倉や三浦のあたりは地形が複雑で これをむかえて殲滅することきわめて容易である。 さらには、敵は本国にかえって態勢を立てなおし、ほぼ一年を経て大来襲するであろう。 その間に、洋式兵器を整え、日本中の武士に洋式訓練をほどこして敵を待つ。 (司馬遼太郎「世に棲む日日」より抜粋) 吉田松陰だけではなく、江戸中、日本中の人たちがアメリカ艦隊との戦争になったとき、 どうしよう、ああしようと考えていた。 松陰の海戦策は、当時日本が持っていた大砲や銃などの武器を考えると、これ以上の策は 難しかっただろう。 ペリーはこの二度目の来航時には、最初から日本と条約を結ぶつもりでいた様子で、多くの 献上品を持参していた。 それは日本が見たことのないものものも含まれ、圧倒的な先進技術の差を見せつけるものだった。 ペリーが徳川将軍に献上した蒸気機関車模型。 本物の蒸気機関車の1/4サイズで、組立てて実際に石炭を焚くと 約30kmのスピードで走る精巧なものだったといわれる。 場所:静岡県下田市 下田公園下。 向かって右はペリー提督、左は日本初のアメリカ領事となって下田に滞在したハリスのレリーフが 刻まれている。 場所:静岡県下田市 下田公園下。 |
幕末・明治の史跡
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嘉永6年(1853)6月3日 アメリカのぺりーが最新鋭の蒸気船サスケハナ号・ミシシッピー号、帆船プリマス号・サラトガ号 を率いて浦賀沖に来航。日本に対して開国を迫った。 これに対し、幕府は久里浜海岸に急ごしらえの応接所を設置、要求書であるアメリカ大統領の親書を とりあえず受取り、「来年回答する。」との返事をしたにとどまった。 泰平のねむりをさます じょうきせん たった四はいで 夜も寝られず鎖国中の日本は、この大事件に騒然となった・・・。 幕末動乱のはじまりである。 横須賀市ホームページ←当時の久里浜の様子を描いた絵や、中島三郎助の写真が載せてあり参考になる。 場所:横須賀市久里浜 徳田屋跡松陰が浦賀の町についたのは、夜の十時すぎである。辻々に篝火が大きく燃え、道をゆくのになんの 不自由もない。町をあるいてまず旅籠を決めた。部屋へあがると、廊下にまで泊り客があふれており、 松陰もその廊下組の一人だった。 松陰はまず佐久間象山をさがさねばならない。さがすまでもなく、象山とその門生たちが、二階にいる ことを知った。 「寅次郎もきたのか」 象山は、部屋を訪ねてきた松陰に、まずそういった。相変わらず容儀盛んな男で、これだけ旅籠が 満員なのに、一人で一部屋を独占し、門生を次室にはべらせている。 (司馬遼太郎「世に棲む日日」より) ペリーが来航した嘉永6(1853)年6月に、黒船を見学するために吉田松陰が二度目の宿泊をし、 ここで佐久間象山と会っている。 これより二年前の嘉永4年(1851) 松陰は肥後藩士の宮部鼎蔵とともに江戸湾沿岸の防備状況視察のために宿泊、 象山は門弟の小林寅三郎をともなって思索の旅で徳田屋に宿泊している。 ほかに、浮世絵師の安藤広重が安政5年(1851)に、 桂小五郎が安政2年(1855)浦賀奉行所与力の中島三郎助に造船技術の教授を得るために宿泊。 残念ながら、建物は大正12年の関東大震災で倒壊している。 場所:横須賀市東浦賀町2丁目20番地 中島三郎助は、初めてのペリー来航の際ペリーの乗る黒船に小船でこぎつけ対応に当たった人物。 これより前の天保8年、アメリカの商船モリソン号が江戸湾に出現した際、「無二念打払令」により 台場から砲撃を加えている。砲術家としてもすぐれていたといわれる。 長崎海軍伝習所第一期生。 幕府瓦解後、独立国家構想をもとに榎本武揚らと蝦夷地へ出航。そのとき中島三郎助は機関士として 開陽丸に乗っている。明治2年5月16日函館戦争で戦死。享年49歳。 場所:横須賀市東浦賀町 東林寺 長崎海軍伝習所の同期生である中島宅を訪れた勝海舟は、叶神社に詣り、境内にある井戸水を汲んで 潔斎・水垢離を済ませ、修行用の法衣に心身を整えた後、山頂へと登り樹林に囲まれた奥の院の片隅 を選んで座禅を組んで断食修行をしたと伝えられる。 日米修好通商条約批准のため品川沖を出航した咸臨丸(艦長:勝海舟)は、途中浦賀で積荷などの 準備をして大平洋へと向かっていった。日本人だけで初めて大平洋を横断した咸臨丸の偉業を記念 してたてられた碑。 場所:横須賀市西浦賀町 愛宕山公園
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旅籠の食事(大阪商人枡屋が仙台へ旅をした時の草津宿の旅籠での食事を再現) 【夕食】一汁三菜 菜は、煮物の平付(平椀)、焼き魚、猪口など 東海道箱根より西では3品、それ以外では2品が多かった。 【朝食】一汁二菜が一般的だが、箱根より西では三菜とするところもあった。 和宮草津宿昼飯の再現 文久元(1861)年十月二十二日 皇女和宮が、14代将軍家茂に嫁ぐため京都から江戸へ向かう途中、昼食をとるためにたち寄った際の記録。 全部で2万6千人もの大行列だったといわれ、行列が通過するだけで4日程かかったといわれている。 慶応元(1865)年五月九日 新選組の土方歳三、斉藤一、伊東甲子太郎、藤堂平助ら32名が関東で隊士募集の帰りに宿泊。 一人あたり250文づつ支払い、心づけとして蝋燭20丁を置いていったという。 (二十万石以上の大名の従者一人が支払う金額に相当) 場所:JR東海道本線「草津駅」下車 南へ徒歩10分
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慶応4年(1868)5月、新政府軍は約二千人を動員して彰義隊の立てこもる上野山を包囲した。 一方、彰義隊約一千名は黒門、車坂門、谷中門など八門の防備を固めていた。 午前7時、新政府主力の薩摩藩が黒門に攻撃を開始したことによって戦闘の火蓋が切られた。 新政府軍による銃弾の弾痕が残っている。 荒川区の円通寺に移築された「黒門」と「彰義隊士の墓」 慶応4年(1968)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。 黒々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏麿和尚は、官許を得て寛永寺御用商人三河屋幸三郎 とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。 これが縁となって、明治40年、寛永寺の黒門が円通寺に移築された。 円通寺:都電荒川線三ノ輪駅から徒歩約3分 参考:講談社 日本の合戦 No26 |
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鳥羽伏見の戦の時、樟葉砲台は旧幕府軍の小浜藩が守っていた。 淀川を挟んで対岸の高浜砲台は津藩藤堂家が守っていたが、津藩は旧幕府軍の不利を見て新政府軍に 寝返り小浜藩が守る樟葉砲台に砲撃を加えてきた。 ■地図:京阪橋本駅下車徒歩約15分/枚方市楠葉中之芝2丁目 鳥羽伏見の戦いの際に使用されていた弾薬庫が、京都府八幡市の西遊寺に移築されて現存している。 しかし、残念ながら見学はできない。 場所:京阪橋本駅下車すぐ/京都府八幡市橋本
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