幕末・明治

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幕末NEWS

熊本市で横井小楠の墓前祭 /熊本

幕末の志士に大きな影響を与えた思想家、横井小楠の墓前祭が15日、熊本市沼山津の小楠公園であった。横井小楠顕彰会のメンバーや地元住民、熊本市や益城町の関係者ら約80人が参加した。
早くから開国論を唱えていた小楠。明治維新後、新政府の参与となったが1869年、京都で暗殺された。
墓前祭は小楠の命日にあわせて毎年開かれている。花や果物が供えられた小楠の銅像前で神事があり、今年で死後137年になる小楠をしのんだ。
横井小楠顕彰会の弥冨孝一会長(76)は「近代国家の幕開けの激動の時代に大思想家として名をとどろかせ、明治維新に大きな影響を与えたのが小楠先生。もっと多くの人に小楠先生のことを知ってもらいたい」と話していた。
(毎日新聞) - 2月16日
■小楠公園−(漫遊くまもと)

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井伊家は能力主義 彦根城博 研究叢書第六巻を発行
  
滋賀県彦根市の彦根城博物館は、重要文化財「彦根藩井伊家文書」の研究叢書(そうしょ)第六巻「武家の生活と教養」を刊行した。能力主義に基づく井伊家の教育システムや藩主の献立などの暮らしぶりを解明している。
同博物館や外部の学術者による彦根藩資料調査研究委員会が、2001年から研究成果を順次刊行している。第六巻は、村井康彦・京都市美術館長が班長を務め、京都女子大や京都橘大の教授たちによる研究班の論文9編や史料を掲載した。
論文「井伊家庶子屋敷日記の世界」では、厳しい倹約生活のもとで幅広い教養を身につけた井伊家男子の教育体制を解き明かした。秩序を尊ぶ朱子学を重んじた幕府や他大名と異なり、能力主義的な徂来(そらい)学を重視したことや、家臣が藩主の専横をいさめる制度などを明らかにした。幕末期の藩主の質素な食生活の内容も詳しく伝えている。
彦根城博物館は「これまで十分に分かっていなかった大名の教育制度や生活を新たに解明することができた」(学芸史料課)と話している。
「武家の生活と教養」(サンライズ出版)はB5判、436ページ、5775円。彦根城博物館TEL0749(22)6100でも販売している。
(京都新聞) - 2月11日
■彦根城博物館

上野彦馬家の墓地など、3カ所を史跡に指定−−長崎市教委 /長崎

長崎市教委は、幕末の長崎に国内初の写真館を開くなど日本における写真術の祖とされる上野彦馬(1838〜1904)家の墓地=伊良林3▽皓臺(こうたい)寺の唐通事呉家墓地=寺町▽唐通事潁川(えがわ)家初代墓地=曙町=を文化財(史跡)に指定した。
上野氏は代々絵師の家系。彦馬は銀屋町(現・古川町)生まれ。医学伝習所に入門し、化学を学ぶ中で写真のことを知り、研究に没頭。1862年に写真館「上野撮影局」を開業した。幕末〜明治、坂本竜馬や伊藤博文、トーマス・グラバーら国内外の著名人を撮影したほか、多くの弟子を育て、写真技術を広めた。彦馬の父、俊之丞は蘭学者・絵師・長崎奉行所の御用時計師。日本で初めて銀板写真やカメラを輸入した。
呉家は中国・福建省出身で、長崎に居住する唐人「住宅唐人」の取りまとめ役の事務方「唐年行司」を務め、後に唐通事(通訳)となった。初代は家屋風中国様式で、2代目は五輪塔と立派な墓碑。当時の呉家の地位と財力を物語っている。
潁川家は陳道隆(1617〜76)が創設。35年間にわたって唐通事を務め、初期の長崎貿易で活躍した。隠元禅師の招請など黄檗(おうばく)文化の振興や、慈善事業にも貢献した。墓は馬蹄(ばてい)型の石壁に囲まれ中国式の形態を良く残している。
(毎日新聞) - 2月10日
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■「写真は長崎から」写真術の始祖・上野彦馬

長州藩の大砲づくり紹介 鋳型や洋式砲など80点 萩博物館

萩市堀内の萩博物館で、激動の幕末期に、日本の伝統的な鋳造技術で、どのようにして洋式大砲をつくるに至ったかを探る企画展「幕末長州藩の科学技術〜大砲づくりに挑んだ男たち」が開かれている。和式大砲やオランダ製の大砲、大砲の鋳型など約八十点が展示されている。四月九日まで。
萩市で二〇〇〇年、県道萩川上線改良工事に伴う発掘調査で、郡司鋳造所跡から、長大な洋式大砲を鋳造した国内唯一といわれる石組み遺構が発掘された。同鋳造所は江戸期、鍋や釣り鐘などを生産していたが、欧米列強に対する危機感が強まると、藩は洋式大砲の鋳造を命じる。
展示会では、郡司家に関する文献や発掘された遺物などを通じ、同家の鋳物づくり、砲術との関係、日本の鋳造技術で洋式大砲をつくる応用事業にどう立ち向かったか、その苦闘の軌跡に迫る。
会場には、砂と粘土を使ってつくられた大砲の鋳型をはじめ、郡司鋳造所当主の郡司喜平治作の和式青銅砲、天保十四(一八四三)年に佐賀藩が入手したオランダ製の大砲などが並ぶ。
また、洋式大砲を発射する際の角度を測るために使われた器具「象限儀(しょうげんぎ)」なども出品され目を引く。
入館料は大人五百円、高校・大学生三百円、小中学生百円。問い合わせ先は、同博物館=0838(25)6447。
(西日本新聞) - 2月10日
■萩博物館

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シーボルト日記を初翻訳 幕末の風俗や自然を記述

ドイツの医師シーボルトが再来日した際に書いた日記が初めて翻訳され、「シーボルト日記」(八坂書房)として1日、出版された。幕府の外国方顧問として奔走する様子を記しながら、当時の江戸や横浜の風俗、自然などを冷静な視線で観察し、記録している。
翻訳者は石山禎一・東海大講師と牧幸一・早大高等学院教諭。1859年8月に長崎に到着し、62年5月に離日するまでを整理した。日記の存在は知られていたが、癖のある肉筆で書かれ内容が多分野にわたるため、翻訳に4年もかかった。
当時、米公使通訳官ヒュースケンの殺害事件など攘夷(じょうい)派浪士らによる外国人襲撃事件が頻発。シーボルトは、外国奉行やイギリス公使オールコックらと会合を重ね、「暗殺事件についての手紙を書いた。真夜中、私の文書が幕府から若干の所見とともに戻ってきた」と記すなど、折衝に明け暮れた様子がうかがえる。
(共同通信) - 12月1日
■シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記(Amazon.co.jp)

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その時歴史が動いた

日本に新聞が生まれた日
〜幕末維新・ジョセフ彦の挑戦〜

その時…元治元年(1864年)6月28日 
出来事…日本で初めて新聞が発行される

幕末、日本初となる新聞を発行し、庶民の近代化に貢献した、ジョセフ彦。アメリカ国籍の日本人である。播州の漁師の家に生まれた彦は、13歳の時に時化(しけ)で遭難。52日間太平洋を漂流後、アメリカ船籍に救助される。異国で教育を受け、9年後、領事館の人間として再び祖国の地を踏んだ彦は、日米の格差に愕然。日本の近代化には幕府役人だけではなく、庶民一人一人の意識改革が必要と、横浜で日本初の新聞の発行に挑み始める。しかし、その道のりは困難を極めた。
民衆にも知る権利があると主張する彦は、幕府に厳しく監視され取材活動は全くできない状態であった。攘夷派の浪士からは、アメリカ文化を持ち込む危険人物とみなされ、命をねらわれる。しかし彦は『事実を正しく民衆に伝える』という強い信念のもと、命をかけて新聞発行へと突き進む。
民衆に時代の変化を伝え、自らの力で国を動かすことも出来ると説いたジョセフ彦。番組では、彦の生涯を追い、幕末維新に新聞が果たした役割、ジャーナリズムの原点とは何かを描く。 

その時歴史が動いたでジョセフ彦が紹介された。

1863年、アメリカでリンカーン大統領が奴隷解放の演説をした。
翌日にはその内容を新聞で知ることが出来た。
「人民の、人民による、人民のための政治・・・」

新聞を読んだヒコは、アメリカでの新聞の情報の速さと、公共性におどろいた。そして、
日本でも新聞をつくろう!と決心した。という。

のち、リンカ−ン大統領と会見をし、握手もしている。
リンカ−ンと握手したただひとりの日本人でもある。

江戸時代には「瓦版」という読み物はあっただろうが、どうしても検閲にかかってしまう
から内容的にも読み応えがなかっただろう。

新聞発行に命をかけたジョセフ・ヒコ。
ここまでやった男だとは知らなかった。
見直した!
「海外新聞」は日本におけるジャーナリズムが産声をあげた「その時」なのだ。

ジャーナリズム【journalism】 
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。
また、その機関。(大辞泉)
 

飲めば幕末の英傑気分?=日本人初醸造のビールを復元―キリン

キリンビールはこのほど神戸工場(神戸市)で、ペリー来航の1853年に日本人の手で初めて醸造されたビールを復元、27日に試飲会を開いた。同社が展開する「ビール5000年の旅」プロジェクトの一環。
このビールを造ったのは、三田藩の蘭学者、川本幸民(1810―1871)。「化学」という語を初めて使用し、多くの書物を著述・翻訳。またマッチやカメラを初めて作った日本人でもある。川本も江戸・浅草でこのビールの試飲会を開催、桂小五郎(後の木戸孝允)、緒方洪庵、大村益次郎、橋本佐内らが参加し、杯を挙げたという。 
(時事通信) - 1月27日
■ビール5000年の旅"日本のビールのルーツを探る"

幕末にゆかりのあるKIRINらしい試みかもしれない。
日本人が書物を見ながら最初に作った幕末味のビール。
飲めるのかな。飲めるものなら飲んでみたい!
期待大。そのままの味で発売して欲しい!

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ときは幕末、ところは長崎。坂本龍馬の仲立ちによって、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎と
英国人グラバーが出会い、意気投合した二人は、以後、長く協力関係を結ぶことになりました。
それから21年後、弥太郎の実弟・弥之助とグラバーの協力のもと、ジャパンブルワリー社で、
キリンラガービールが誕生。
このジャパンブルワリー社を前身として、明治40年に設立されたのが、麒麟麦酒株式会社です。
鎖国の世にあって、国境など意に介さなかった龍馬の自由な心があったからこそ、麒麟という名の
ビールは生まれたのかもしれません。偉大な恩人に恥じることのないように、これからもラガーは
ビール本来のうまさに、磨きをかけていきます。
■岩崎弥之助とグラバーの写真
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川本幸民 (1810―1871)

1828年に江戸に出て蘭医学を学び、
1834年、三田藩医として江戸の芝露月町に開業。
1851年に物理書『気海観瀾廣義』ついで『遠西奇器述』などを著わす。
そのころ、写真術や、マッチ、ビールの製造も試みている。
島津斉彬の知遇を得てその顧問となる。
1861年、わが国に初めて化学という言葉を導入し、
原子説を紹介した稿本『化学新書』を著わした。

追記
復元ビールは28日〜2月5日、3月17〜26日までの午後2時と同3時から
(土日祝日は午前11時、正午、午後1時も)同工場で各回先着40人に無料で提供する。予約不要。
キリンビアパーク神戸(078・986・8001)
(毎日新聞より抜粋)
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「待たせたな」―。

明治2年(1869)5月10日夜、新政府軍の総攻撃を翌朝に控えた箱館五稜郭。絶望的な状況で、箱館政府総裁・榎本武揚(片岡愛之助)、陸軍奉行・大鳥圭介(吹越満)ら幹部は別れの杯を交わしたが、その場に土方歳三(山本耕史)の姿はなかった。歳三は、京からの新選組の同志、島田魁(照英)らと共に奇襲をかけ、敵の兵糧を巻き上げていた。歳三は、一緒に戦いたいと言う島田たちを説得して皆に箱館の港と街の警備を命じ、世話役を務めていた市村鉄之助(池松壮亮)を密かに呼んで、故郷の多摩に送り出した。新選組と別れ、永井尚志(佐藤B作)から榎本の決心を聞いた歳三は、再考を促すべく榎本を訪ねようとするが、大鳥が立ちはだかった。立場と価値観が異なる三人の話し合いは、言葉を重ねていくうちに意外な方向に展開していく…。やがて総攻撃が開始され、敵の本陣を目指していた歳三は信じられない光景を目にした。そして、歳三が一本木関門を通過したとき敵の銃声が響く―。

(NHKドラマHPより)

土方歳三(箱館政府陸軍奉行並)…山本耕史
榎本武揚(箱館政府総裁)…片岡愛之助
永井尚志(箱館政府箱館奉行)…佐藤B作
大鳥圭介(箱館政府陸軍奉行)…吹越満
島田魁  (新選組隊士)…照英
尾関雅次郎(新選組隊士)…熊面鯉
相馬主計 (新選組隊士)…小橋賢児
蟻通勘吾 (新選組隊士)…山崎樹範
山野八十八(新選組隊士)…鳥羽潤
市村鉄之助(新選組隊士)…池松壮亮


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正月時代劇「新選組!!土方歳三 最後の一日」のDVDが4月21日に販売される。

特典
・メイキング
・『新選組!!土方歳三最期の一日』トークショー IN 京都(出演:山本耕史、照英、片岡愛之助)
http://www.geneon-ent.co.jp/movie/topics/hijikata.html

NHK大河「新選組!」の続編でもあるこのドラマは申し分なかった。
土方役の山本耕史がやはりいい。顔がなんとなく土方似で、演技も自然でうまい。
幕末・明治の初めはめまぐるしく状況が推移していく時代だから、どうしても万人が見る
ドラマには背景の説明が必要になってしまう。
それを今回は、対話で上手に成立させたと思う。
土方と榎本のちょっと長めの会話がそれだろう。
大鳥圭介がすこしズッコケ脇役で登場してたが、あれは違うだろう〜と扱いにちょっと残念だったが、
おもしろかったからありかなと、許容範囲内。楽しませてもらった。

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土方歳三肖像

五稜郭のセットや、山本耕史扮する土方歳三の肖像写真の細部にもスタッフのこだわりがよく出てて
おり、映像的にも出来のいい作品だったと思う。
■松平容保:不明の書状を発見 知事が郡山の古本屋カタログで /福島

会津藩最後の藩主・松平容保(かたもり)が幕末、軍事総裁職を引き受ける際に家臣にあてた書状を県が入手し、4月から公開することになった。困窮する藩の現状を考えてためらいながらも、朝廷や将軍家への忠義から決意した容保のかっとうがうかがえる内容。長い間、行方不明になっていた貴重な史料だが、佐藤栄佐久知事が昨年末、古書店のカタログで見つけた。
県立博物館によると、書状は全長519.5センチ、幅15.7センチの巻紙。文久4(1864)年、容保が筆記係に書かせた。この時、容保は京都守護職を解任され、幕府から軍事の最高職に当たる軍事総裁職を命ぜられている。容保は家老にあてたこの書状で、「新に大役を引き受けたならば、会津領内も私も共に困窮し、先々どうなるか苦心千万なことだ」と戸惑いを明かしている。それでも「朝廷から厚い御信頼を頂き、幕府からも度重なる命令を受け、また他のことと違って武事で辞退するのは道理に合わない」と拝命の決意を述べ、藩の守りを固めるよう指示している。同博物館の若林繁主任専門学芸員は「容保の並々ならぬ決意と時代の雰囲気を読み取れる一級品の史料」と評価する。
書状は戦前、会津若松市内で展示されたこともあったが、その後、行方不明となっていた。佐藤知事が昨年末、郡山市の古書店のカタログで発見。県立博物館で真贋(しんがん)を確かめ、約50万円で購入。戊辰戦争で「賊軍」とされた会津藩について佐藤知事は「会津藩はこれだけ国を思ったのに靖国神社に祭られていない。今の時代、一つの問題提起になる」と話す。4月から福島市の知事公館で一般公開(予約制)するほか、秋には会津若松市の同博物館で開かれる企画展で展示する予定だ。
(毎日新聞 - 1月19日)

関連リンク
松平容保 (フリー百科事典ウィキペディア)
福島県
福島県立博物館 

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