幕末・明治

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山田方谷 河井継之助が学んだ藩政改革の師 
著者:童門冬二(学陽書房)
 
農民出身ながら、怒濤の時代に、幕政を担う老中の代行役として、備中松山藩(岡山県高梁市)を赤字から黒字経営に転換させ、藩政改革を見事に果たした山田方谷。改革成功の秘訣は何か?民の幸福を願い
「人としての誠を貫く」生き方の中に見えてくるものは…。
行財政改革に混迷する今の世におくる啓発の一書。

山田方谷を知る手始めにと思い購入した一冊。
"まえがき"に『この本は山田方谷の学術的な史伝ではない。あくまでも経営者やビジネスマンの参考に
なれば、と願って「月刊総務(H5年4月号〜12月号)」に連載したもの(誠は天の道なり)に全面的に
手を加えた。』とある。

本の前半は備中松山藩での財政改革について書かれている。
このあたりは面白い。なかでも以下の2つのネタが面白かった。

1、高瀬舟は京都のものと思いがちだが、実は備中に端を発している。
角倉了以の高瀬川・高瀬舟は、了以が親戚を備中松山に訪ねた際、高梁川の高瀬舟を見てヒントを得たという。
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高梁川の高瀬舟
山田方谷は〔元祖〕高瀬舟を大いに利用して産業を発展させている。

2、方谷が殖産興業のために新しく設けた「撫育方(ぶいくがた)」は、方谷の独創ではない。
実は、長州藩に先例があった。長州藩7代目毛利重就(1751〜1764年に活躍した)が産業奨励のために
設置したもので、幕末には「越荷方」に発展。桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、井上馨らはこの
「越荷方」の経済官僚だった。この経験が明治新政府の屋台骨を支える力を養わせた。
方谷が「撫育方」を設けたのは、明らかに長州藩の先例に学んだといっていいだろう。

後半は老中になった藩主・板倉勝静のブレーンとして活躍する際の話。
この辺から、残念ながら山田方谷についてのネタがすでに尽きてくる。
勝静の政治的ライバルである松平春嶽のブレーン横井小楠の政治改革論が中心になってきて、
それに対しての山田方谷の考えは、こうこうで違う、という感じになってくる。
横井小楠の話は他の本でもう知ってるから早く山田方谷の話をしてくれよ・・・。
河井継之助の話も知ってるから・・・
と、じれったいまま、終わってしまった。

たしかに内容的には伝記でもなく小説でもなかった。
山田方谷独自のネタが思ったより少なかったので、山田方谷に学ぶ、とまではいかないものの、
幕末期の徳川幕府ネタを使った、ビジネスマン向け啓発書 である。
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方谷という人はこの藩におけるこれほどの要人でありながら、その俸禄は下級侍程度しか受けず、それをもって財政と制度の大改革をした。みずからむさぼらぬために、家中の不平は少なかった。
が、方谷は藩経済をすくうために藩士に開墾させる政策をとった。そのことが、不平を買った。開墾を命じられた連中が方谷を仇のように憎んだため、方谷みずからも開墾に従事し、その不平を封じようとしているのだという。
(いよいよおもしろい)
と、継之助はおもった。
(「峠」司馬遼太郎著より)

司馬遼太郎の「峠」は7−8年ほど前に読んだ。この小説に出てくる備中松山に是非とも行きたいと
前々から思っていたが、今回ようやくそれが実現した。
せっかくだから、備中松山へ行く前に継之助が生涯の師と仰いだ山田方谷について少し予習をしておいた。
史跡の場所などは、備中高梁観光案内所の山田方谷マニアックスというサイトが一番詳しかったので参考にした。
それとそこで紹介されていた一冊の本を購入して読んだ。

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山田方谷に学ぶ財政改革−上杉鷹山を上回る財政改革者
野島透 著

江戸時代における藩の財政建て直しにおいて知名度が一番なのは、米沢藩の上杉鷹山だろう。
この本はそれを上回る財政改革者とうたっている。
山田方谷は上杉鷹山の改革方法を学びそれをさらに自藩にあうように磨きあげ改革を行った。
質素倹約はもちろんだが、流通貨幣のしくみをしっかり学んだ上で、産業を興し、その販売方法、
物流コストの削減までも行っている。短期間で結果を出さなければならない現代の株式会社にも合致した方法で
あり、それを見事に実現している。当時としてはかなり斬新だっただろう。数値で比較しても差は歴然だ。
鷹山を上回るの意味がはっきりした。

米沢藩15万石 上杉鷹山(改革期間:1767-1867年)
借財20万両(約1,200億円)を約100年で返済し余剰金5,000両(30億円)を残した。

備中松山藩5万石 山田方谷(改革期間:1836-1849年)
借財10万両(約600億円)約8年で返済し余剰金10万両(600億円)を残した。

(1両=60万円で計算)

河井継之助が山田方谷に財政改革を学びたいと思ったのも良く分かる。
のち彼は長岡藩でそれを実行し財政面における成功をおさめている。

この本がおもしろいのは、著者が山田方谷の子孫ということもあるが、
なにより現役の財務省勤務ということで分析の仕方も的確ということもある。

江戸時代の1両がいくらかについて、いろいろな見方があるがその説明にも納得した。

米:1両で150KG→現在は8万〜9万円
掛けそば:1両で6,000杯→200円/杯で計算すると12万円
1両で下女1人を住み込みで1年間雇えた。
→お手伝いさんは1ヶ月10万〜20万として1年間で120〜240万円
これでは1両8万円〜240万円の幅がある。

そこで、用いたのが、行政地区の予算決算歳出額。
当時の備中松山藩に相当する高梁市等の行政地区:450億円→5万石相当
米沢藩に相当する米沢市等:1,200億円→15万石相当
1849年当時の備中松山藩の支出額は7.6両(2.6両の臨時支出含)
これらのことなどから1両=60万円での換算としている。
【竹久夢二】
明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日

岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。ただし、兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。
明治35年(1902年)早稲田実業学校入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』等に投書。
明治38年(1905年)に、友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは、最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。
同6月、『中学世界』に「筒井筒」が第一賞入選、このとき初めて夢二を名乗る。
同年、早稲田実業専攻科中退。
明治40年(1907年)岸たまきと結婚。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当。翌年、長男・虹之助をもうける。
明治42年(1909年)たまきと協議離婚。この年、最初の著書『夢二画集−春の巻』発刊、ベストセラーとなる。なお、離婚の翌年、たまきとは同棲しその後、二児をもうける。
大正3年(1914年)笠井彦乃と出会う。
大正6年(1917年)京都二寧坂に転居し彦乃と同棲。
大正7年(1918年)『宵待草』に多田亮が曲をつけセノオ楽譜から発表。
大正9年(1920年)彦乃25歳で病没。翌年にはモデルのお葉(夢二が名付ける 本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)で所帯を持つが、6年後には離別。
大正13年(1924年)アトリエ兼自宅・少年山荘(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。
昭和6年(1931年)5月7日に横浜を出航しホノルルを経由して渡米。
同年と翌昭和7年(1932年)、アメリカ各地にて個展を開き、同年に渡欧。
昭和8年(1933年)神戸に帰国し、10月には台湾に渡り、体調を崩し帰国の後、病床につく。
昭和9年、長野県の富士見高原療養所に入院。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に永眠。享年51(数え年)。有島生馬らにより東京・雑司ケ谷墓地に埋葬される。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

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11月12日(土)
夢二郷土美術館」に行ってきた。
彼女が岡山に行ったら是非寄りたいといってたところだ。
夢二の絵は以前からなんとなく知っていたが、岡山出身とは知らなかった。
大正ロマンといった風な絵、あのモデルの女性の顔はインパクトが強くてすぐ夢二の絵だと分かる。
洒落れた絵。
館内は主に30〜50代の女性が観に来ていた。みんな一生懸命?みてる。
夢二の絵は、男よりも女性のほうが引かれる、という感じがする。
ミュージアムには小粋な柄の小物があってみんな記念に買っていた。

女性にはオススメの場所だろう。
「その時歴史が動いた」
 奉天会戦、各国記者への謎の対応  
「日露戦争、児玉源太郎のメディア戦略」
その時歴史が動いた◇日露戦争最大の激戦となった奉天会戦の日本側の勝利を世界中に知らしめた参謀本部次長、児玉源太郎のメディア戦略をたどる。開国以後、日本は不平等条約の締結など欧米列強との格差が深刻化していた。児玉は、世界で初めて戦場の様子がリアルタイムで報道される日露決戦をアピールの好機ととらえ、外国記者団との懇親会を何度も開催。これまでにない情報公開に努め、苦しい戦況でも軍の情報を記者に発表し続けた。そんな中、最高の舞台となったのが最大の陸戦となった奉天会戦。ロシア軍に兵力で劣る日本軍を見事な陽動作戦で勝利に導き、世界における日本の立場を大きく変えた。
 

なかなかおもしろい内容だった。
旅順における乃木はお世辞にもいい指揮をしたとはいえなかった。
旅順が落ちたあと、乃木をおろせという意見があったが児玉はそれを一蹴。
それが思わぬいい方向に向かった。
結果、メディアにより乃木の名前が世界に知れ渡る。
その武勇伝が、奉天での大勝利に結びつく。
ロシアの兵士としても「あの(何万人討ち死にしても、突き進んでくる)乃木軍だ〜。」
てな具合で怖かっただろう。
それにしても、児玉源太郎。すごい男だ。
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【日露戦争 東郷平八郎と露艦隊司令長官のひ孫同士が対面)

日露戦争の日本海海戦(1905年)で相まみえた旧海軍連合艦隊の東郷平八郎・司令長官と、ロシアバルチック艦隊司令長官のひ孫同士が5日、長崎県佐世保市で対面した。かつて国家の命運をかけ火花を散らした両指揮官の子孫は、同市の旧海軍基地(現・米海軍佐世保基地)でそろって植樹し、両国の友好と平和を祈った。
2人は、海上自衛隊自衛艦隊司令部(神奈川県横須賀市)に勤める東郷宏重さん(46)=同県鎌倉市=と、ロシア・サンクトペテルブルク在住のジノビー・スペチンスキーさん(66)。海戦後に東郷長官が佐世保に凱旋(がいせん)するなどゆかりが深いことから、海戦100年を機に地元商工会議所などが招いた。
東郷長官は海戦後、負傷して佐世保海軍病院で療養するロジェストウェンスキー長官を見舞った。スペチンスキーさんは「曽祖父の病院での様子を伝えるロシアの新聞の切り抜きを家に飾っていました」。東郷さんはスペチンスキーさんの手を握り「曽祖父は戦いの後に握手を交わしましたが(ひ孫の)私たちは平和な時代に固い握手ができます」と笑顔を浮かべた。
(毎日新聞 - 11月6日)

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