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岩井渓の自然と遊ぼ!
今まで使っていたカスタム背景が突如消えてしまったので、新たに作り直しました♪

書庫漫画家への道

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デザイン学校時代の漫画仲間に田中くんがいた。

一緒に同人誌を作った。

ふと、その田中くんがどうしているか気になった。

富山県西砺波郡福光町出身だった。

西砺波郡は南砺市と合併して今は南砺市。

で、検索してみたら

なんと!
富山県南砺(なんと)市長でヒットした♪(^^;)

ん? 年齢が違う! 同姓同名か!!


当時彼が使っていたペンネーム、『早坂七瀬』で検索してみた。

見つからない・・・


おっと、そういえば彼の作品を雑誌で見かけたことがあったっけ。

『早坂未紀』
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プロになって『早坂未紀』で活躍してたんだ。

その名で検索したら、Wikiに出ていた。

高校時代に美大を目指すも全滅する。
その後は千代田デザイナー学院に入学し、
学校のクラスメイトの影響で同人活動を始めるが、学校は中退。
1980年代前半を代表するSF美少女漫画家として知られる。
1980年代末には引退し、故郷の富山県にてサラリーマンになったと言う・・・


学校のクラスメイトって私のことか!
80年代末には引退したのかぁ・・・


『早坂未紀』のファンサイトがあった。
早坂未紀の世界
この中の〈対談記事とか〉を見ていたら・・・


 Comic Box Jr.創刊準備号には「小特集:早坂未紀ランダムトーク」というページの記事が載っていた。

−本文−

(編集):早坂さんはこっちの出身でしたっけ?

(早坂):富山です。

(編集):というと上京してきたのはいつごろですか?

(早坂):18の時だからもう10年近くになりますね。

(編集):じゃ高校を卒業なさって・・・。

(早坂):卒業して千代田デザイナー学院に。

    多摩美と京都芸術大学受けてすべって、で、無試験の千代田デザイナー学院というのに

    一応願書出してあったんで。グラフイックデザインの方です。

    入学金を10万ぐらいとられて、その上寄付金も10万かな(笑)。

(編集):で、そこを無事、卒業なさって・・・?

(早坂):いや、中退です。字を描くのがだめでレタリングの課題をため込んで一つも提出

    しなかったら進級できなくなったという(笑)。

    いいかげんなものでも出しとけば良かったんだけど。で、やめて。

    その時、同じクラスに今、矢口高雄のチーフアシやってる人がいて、学校で一緒に同人

    誌
作ってたんですけど、青焼きのコピーとかゼロックスとか5号ぐらいまでつくってて

    
それがまあ学校やめたのと同時ぐらいですね。

    そのうち、やっこさんの方はアシスタントになりだして、こっちもアシスタントの仕事

    
入り出して、まんがもいいなあ・・・とか。

(編集):じゃ最初からまんが家志望というわけじゃあ・・・。

(早坂):そういうわけではないんです。まあ、まんがは描いてましたけどね。

    絵が描ければよかったんです。美大めざしたのもそんな感じで。

(編集):やめちゃった後は?

(早坂):ちょっとアシスタントをやったりしながら・・・。

(編集):どの辺の・・・?

(早坂):あーそれはちょっと・・・バレると(笑)。

    そーでもないか。少女まんが系の方を少しやってて・・・。

(編集):誰です?

(早坂):言ってもいいのかなあ、いいんだろうな・・・和田慎二さんとか。

    8か月間ずっとカンヅメだったですねえ。

    ちょうど「スケバン刑事」をはじめた時で、アシスタントの募集があったんです。

    で、その募集の条件の中に背景がかける人とか男女は問わないとか年はいくつまでとか

    あって、最後に一番下に「ゴレンジャーごっこにつきあえる人」とあって(笑)。

    それで応募する時にカットを同封して最後に「ゴレンジャーごっこなら自信があります」

    みたいなこと書いて、それで通ったというみたいな感じがあるんですけど。

    なんかいいかげんなアシスタントだったですねえ。



同じクラスに今、矢口高雄のチーフアシやってる人がいて、
学校で一緒に同人誌
作ってた・・・
やはり、私のことだ!!


『早坂未紀』のファンは、プロになる以前の作品を見たことが無いだろう。
で、
彼と一緒に作っていた同人誌みだれがみをUPしよう

この当時、私は髪を肩まで伸ばしていた。
そして
『早坂未紀』こと田中くんも肩甲骨下まで延ばしていたのだった。


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同人誌みだれがみ』創刊号
当時私のペンネームは『風間真理』
そして田中くんは『早坂七瀬』


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同人誌みだれがみ』VOLⅡ
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高校の美術部のS木先輩も、その先輩のみっちゃんもその当時は都民だった。

あ〜あ、みんな青春してたなぁ♪(^^;)


昆虫切手
第1集 1986.7.30

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郵便局でみっけたので買ったシート

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アカスジキンカメムシ

いつか見っけたいと思っていた♪

幼虫は何度か見っけたけど・・・

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なかなか成虫は見っけられずに居た。
(必死で探索したわけじゃないけど・・・)

幼虫が越冬中に落ちて行くものが多いそうだね。

で、先月

某場所でドバミミズを掘った帰り、原チャリ走行中信号で止まった時、
ふとズボンを見たら

ちゃっかりしがみついてるムシ
居るじゃぁ有〜りませんか!


w(・o・)w オオー!


アカスジキンカメムシじゃぁ♪(^o^)ノ

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緑色地に赤色の模様が美しい大型のカメムシ


実は・・・

私は小学生のときの色盲検査(色合わせ法という検査)で

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引っかかり、色盲と診断されました。
中学のときも引っかかり、色盲!
いや、この時の先生は、
色盲では商業高校や工業高校への受験は難しいので、
色弱としてくれました(?)。

色弱!
赤と緑の識別が出来ない(しにくい)ということらしい・・・

小中の美術の先生は、何も言ってはなかったし、
美術の成績は、ずーっと5だったのに・・・
ま、それに関係なく普通高校に行きましたけど・・・。

しかし、
色盲・色弱という烙印を押されて以来、
私の心の奥底に「色が苦手なんだ」というのが、
ズゥ〜〜ンと沈んでいました。

高校で美術部に入ったときも、油絵は意識的にか、
赤と緑はほとんど使いませんでした。
途中から油絵からデザインの方にチェンジして、
白と黒のみのイラストで市内展と県展で入選しました。

矢口プロに入ってからも、
「マンガは白黒の世界だし、問題ないや♪ 」と、思っていました。
しかし、マンガも色ページはあるのでした・・・
矢口プロで、はじめて色ページを任されたのは、
月刊マガジンの三平で、「太郎沼の巨鯉の巻」の
見開きタイトルページでした。
正直、色ページはやりたくはなかった。。。
しかしサブチーフとなって、任された以上はやらなきゃ・・・
「冬枯れの寒々とした沼にしてくれ」
との先生の指示で描き上げたのが、これ!

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枯れアシなので緑は使わなくても良かったし、
赤は三平のシャツの袖のみ。
(当時の切り抜きなので、ちょっと黄ばんでいます)


そういえば、普通運転免許の更新の時に、
鮫洲で
色盲検査に引っ掛かり、検査員に
「外に出て信号機を見てこい!」と言われた事がありました。
信号の赤と緑はちゃんと識別出来るのに・・・


2005年に眼科用語として、色盲・色弱を使わなくなりました。
世間一般の感覚として、
「色盲」という言葉は「色が全くわからない」、
「色弱」という言葉は「色彩に弱い」
というような誤解があります。
「盲」「弱」の字のイメージによるものです。
そこで、色盲、色弱という用語をなくそう、という多くの声があがり、
眼科用語の改訂が行われたそうです。


6/13
仙台育英の美術部仲間と三茶で飲み会。
去年秋に41年ぶりに再会した2個下の後輩黒ちゃんと、
同じ世田谷に住んでいる同期のY部くんと3人で。
黒ちゃんが美術部に入った時、一番お世話になった先輩が
Y部くんだったそうだ。
私が美術部の部長であったにもかかわらず、漫研の部長も兼ねていて、
漫研の方に入り浸っていたので、後輩の指導をY部くんがやっていてくれたのだ。
Y部くんと黒ちゃんは42年ぶりの再会になる。
5時間ほど飲み語った。
いや〜楽しかったねぇ♪(^o^)ノ


上京した1974年春
東京上野に『モナ・リザ』がやって来た。
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東京国立博物館で開催された『モナ・リザ展』

もっと大きな絵を想像したが77×53cm
多くの来場者で、約2m離れた所からちらっと見ただけだった。
が、『モナ・リザ』の瞳に吸い込まれる感覚を憶えた。


2002年
集英社の学習漫画『世界の歴史』の9巻めは
私が担当して描いた物だった。
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その中の第1章は「花ひらくルネサンス」で、
ミケランジェロを主人公として描いた。

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このレオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」と
ミケランジェロの「カッシーナの戦い」は、
ルネサンスを代表する巨匠による競演だったが
幻に終わってしまった・・・



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そして今年
八王子の東京富士美術館に
ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」の軍旗争奪場面
を描いた「タヴォラ・ドーリア」が
やって来た!
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近所の35年来の友人・現代アート作家やイラストレーター達と
6/14に「タヴォラ・ドーリア」に逢いに行って来た♪(^o^)ノ

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いや〜2時間以上も観賞してしまったよ♪(^o^)ノ

すんばらすい!


以前の記事で・・・

私が矢口プロに入る切っ掛けとなった、1974年8月21日の
漫画家訪問。

その時、最初に尋ねた石森プロ。
そこで、石森章太郎せんせから描いて頂いた「ジュン」の色紙。

その記事を書いた時、その色紙はどこかに片付けてあって
見当たらず、その色紙の画像をUPすることが出来なかった・・・



で、その色紙が見つかったので、ここでやっとUPします。











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筆で、ささっと描いてもらったけど、今見てもイイ!!!

タバコのヤニでちょっと黄ばんでいますけど・・・(;´Д`)








で!



これといっしょに出て来たのが・・・













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サイボーグ009のサインだ!


1974.3
と、なってる。。。

この時期私はまだ田舎の仙台にいた。
上京する準備と持ち込み用漫画を描いていた頃だ。
しかし・・・・
これを描いて頂いた記憶が消えている。
これは当時私が使っていたクロッキー帳で、
誰かに預けて描いてもらうなんてことはないはず。

う〜〜っ 思い出せない。。。

石森せんせが来たサイン会に、私一人で行くことは無いはず。
行くとしたら、後輩のY内くんとY田くんもいっしょのはず!
今度彼らに聞いてみよう・・・


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加速装置!
w(・o・)w オオー!


先々月の10/27

映画『009 RE:CYBORG』が公開された。

009こと島村ジョーは
ずーっと高校生だという。
ギルモア博士によって 30年間、3年に一度、記憶を リセット され、
高校3年間を繰り返していたのだ。


終わらせなければ、始まらない!






来週の日曜は・・・


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私が矢口プロに入った1970年4月。
当時矢口先生は週刊マガジンで釣りキチ三平『第6章・O池の滝太郎』と
双葉社の漫画アクションに『おらが村』を連載していた。
上の頁は、私が入る一週前に上がった原稿だった。

入って最初のアシスタントとしての仕事は、コマの枠線引きだった。
それまで自作での枠線は、カラス口を使っていた。
これは石森章太郎著『マンガ家入門』に、
コマの枠線はカラス口で引くと書いてあったからだ。
しかし、矢口プロでは、普通にペンで描いていた。
矢口プロはタチカワのGペンを使用していた。
他のメーカーのGペンより、ちょっと固めのペンだ。
作画もキャラから背景まで、このGペンで描いていた。
カラス口は常に一定の太さで線を引けるデザイン用具だが、
ペンで枠線を引くとなると、均一のペン圧で引かなければならない。

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③④は独立してからの自作の枠線を引くのに使っている。


矢口先生が鉛筆でコマ割りして、三平などのキャラや魚などがペン入れされた原稿に、
枠線を引くのだ!
めっちゃ緊張するのだ !!
枠線が曲がって原稿を台無しにしたら、どうしよう・・・
定規を支える左手・腕が、ずれないようにと力が入る!
墨汁を付けたペンを持つ右手も力が入る!
息を止めて慎重に線を引いた。

それが、最初の仕事。
それは木地師・四代目滝太郎の家に
一平じいさんが釣ったムカシ岩魚を持って三平が訪れるシーンの週の20頁。
それから、数コマの背景も描かせてもらった。

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『おらが村』では、アバへの土産の反物の柄。

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きものの資料を見ながら・・・
しかし、どう反物風に表現したら良いか悩んで、なかなか進まない・・・(;´Д`)

チーフの早瀬さんのアドバイスで、ベタとアミトーンとホワイトでやっとのこと出来た。

今では、いろいろな柄のスクリントーンが売られている。
それをペタっと貼れば、出来ちゃう。


しかし、矢口プロで先輩から様々な表現方法を学んだ。
そして私も開発していった。



訂正
私が矢口プロに入った1970年4月」と書きましたが、
1975年4月」の間違いでした♪m(__)m

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