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岩井渓の自然と遊ぼ!
今まで使っていたカスタム背景が突如消えてしまったので、新たに作り直しました♪

書庫漫画家への道

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 男子校の育英に入学したとき、普通科には数名の新任教師がいた。

 私のクラス担任も、大学を出たばかりの新人教師だった。

 国語を教えていたが、一学期、授業ではほとんど教科書は使わなかった。

 先生は、ある文庫本を皆に買わせ、それで授業を進めた。

 その本は、北條民雄の『命の初夜』である。

 クラスのあるものは、『初夜』という響きで興奮した。

 しかし話の内容は、興奮どころか、ズシ〜〜〜ンと重い・・・

 ライ療養所に強制的に収容された体験的小説だった。

 ライ病という病があることも、人権を無視した国策があったこともこの時に知った。

 その後、ロードショウで上映された『パピヨン』でライ患者が出てきたとき、

 この話を思い出した。

 過去の記事で、ライ病〈ハンセン病〉回復者のことにふれたコラムを載せた。
http://blogs.yahoo.co.jp/iwaikei55/22692790.html

 
 新人教師の中に、女性教師もいた。

 育英にいる200数名の教師の中で、唯一の女性教師だ。

 K子先生といった。

 苗字がこの学校の理事長・校長と同じなので、その親戚だと専らのウワサだった。

 2〜3年生は「K子ちゃん」と呼んでいた。

 K子先生が階段を昇るときは、階段下にはゴキブリのようにワンサカ黒山が出来た。

 このK子先生は、育英では一年は持たないだろうと、友達と話したものだった。


 ・・・・・以上はまったく美術部とは関係のない話だ。


 S木先輩。美術部の2年の先輩だ。

 漫画を描いているということで、すぐ親近した。

 S木先輩は美術部ではないSさんと、育英の「家庭通信」(タブロイド版4頁)に、

 イラスト・カットを描いていた。

 スクリーントーンを始めて見せられた。

 学校から「家庭通信」に描く材料は好きなだけ買っていいということらしい。

 私はそれまで漫画本のアミ点は、アミ点を掛けたい部分に青の鉛筆で薄く色を塗って指定する、

 と「漫画家入門」で教えられてきたのだった。

 それが今では「スクリーントーン」を貼ればいいのか!

 しかし、当時の「スクリーントーン」は、一度貼ると剥がせなくなるし、削ることも出来なかった

 オイルショックのチョット前で、1枚150円だった。

  
 同じ趣味を持つ仲間として、いずれ「漫研」を立ち上げようということになった。

 いつしか私はS木先輩を、苗字ではなく下の名で「シゲハルさん」と呼ぶようになっていた。

 S木先輩もまた「岩井」から「岩井くん」に変わっていた。
 
 ところで、前出の担任とK子先生は私が上京した後、結婚されたという・・。

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 仙台から市電が消えたのは、私が上京した後だった。

 S51年、朝日グラフに「杜の都を走り続けて50年・・・仙台市電消え去る」

 という記事を見た。その夏、帰郷した時に買った 仙台市交通局が発行した

 「昭和史とともに・仙台市電ーその50年ー」

 私の家から仙台駅までは歩いて10分ほどだが、交通の手段としては、

 よくこの市電を利用した。


 育英美術部では、美術を教える教師はいなかったが、

 とても上手い先輩方は揃っていた。

 市内展(仙台市内高等学校美術展)や、県展(宮城県高等学校美術展)で、

 常に入賞していた。
  
 その先輩達が、絵を指導してくれる。

 一っこ上のO寺先輩は、いつも市電をテーマに描いていた。


 仙台の高校は当時、男女共学の学校は無かった。

 我が美術部は、他校(といっても勿論、女子高ではあるが)との、交換会なるものをやっていた。

 といっても、私はそういうことをしていたことさえ知らされていなかった。

 よって私は、一度もそれに参加したことがない・・し、私の代でも行われ無かった・・。
     
 卒業後、帰仙した時必ず美術部の皆と飲み会をもうけたが、
      
 そういう時に出る話題がこの交換会だ。

 私と同級の部員も、交換会に参加していたのだった。

 私が真面目な生徒として、先輩達には印象付けられていたようだ。その為、

 私には声が掛からなかったのだった。

   (あ〜〜〜っ、皆して青春を謳歌していたのか〜〜〜・・。)

 ちなみにO寺先輩は、この時知り合った女子高美術部員と結婚している。
 

 

育英美術部にて・・・

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 育英に入学したとき、部活は「漫研」か「美術部」と決めていた。

 担任の先生に聞いたら、育英には「漫研」は無いという。

 校舎内で、部活の勧誘が行われていた。

 「さ〜〜て、美術部はどこかな〜・・・?」

 キョロキョロしていたら、背後から肩をたたく者が居た。

 「な、美術部に入んねが?」

 2年生の美術部員だった。(私が美術部に入りたそうな顔していたのか・・・)

 なんやかんやで私を含め新入部員30名ほど集まった。

 
 仙台育英高校は1学年、普通科15クラスと商業科(経営と経理)15クラスの

 マンモス男子校だ。つまり1学年約1500人。教員もそれだけの人数がいるのだ。
   (実は、私が卒業した中学の校長が、なぜか地理の教師として教壇に立っていた。
     え〜〜〜・・?この学校って、何なのぉ〜〜?)

 しかし、美術の授業がないため、美術の教師はいない。

 美術部の顧問の先生はいるが、美術の‘び’も教えられない形だけの顧問であった。
 
 私がいた3年間、一度も部室に来たことがなかった。


 この年育英は創立50周年を迎えていた。その為新しい校舎が建てられていてた。

 美術部の部室は、古い木造校舎の片隅にあった一室。
  
 部室にはベニヤと垂木で造ったロッカーがあり、イーゼルと椅子が片隅に整理されてあった。  

 やはり美術部らしく、石膏デッサン用の石膏(ラボルト、マルス、ブルータスなど)が、

 ドーーンと鎮座していた。
 
 しかしなぜか、バットと竹刀と車のタイヤもあった。 
     (これは何に使うのか?デッサン?いえいえ・・・。)
 

 先輩は、3年生が3人、といってもいつも来るのは部長とSサンの2人。

 そして2年生が7人。


 私達新部員はなぜか、床に正座させられた。

 京本正樹風の部長・Nサンが徐に竹刀を手に持ち話し始めた。

 「え〜〜っ、今日より君達は、美術部員になった。そこでまず、先輩に対して礼をつくすこと!

  その為、毎日授業が終わったらすぐ部室に来て、先輩達が来るまで掃除をして、

  正座して待ってるように!」

 「・・・・・・・・・・」・・。

 「どうしたぁーーっ、返事はーーーーっ!!」

 「は、はい」

 「声が小さーーーい!!」

 「はぁーーーーいっ!!!!」

 「それからぁ〜、ロッカーの横にある、その部屋には入らぬようにぃーっ!」

 と、竹刀で差したので、私達は一斉にそこに目を向けた。

 一畳にも満たないベニヤで覆われた小部屋があり。小窓も付いていて、中はカーテンで隠れていた。

 ベニヤには油絵でピカソ風の絵が描かれてあった。 (禁断の部屋と私達は呼んだ)

 「わかったかぁーーーっ!!」

 「はぁーーーーいっ!!!!」
  

 それから先輩達が、それぞれ自己紹介した。

 2年のS木先輩は漫画も描くという。(やったーーっ、同好の士を得た♪)


 こうして私の高校生活が始まった。


 *ちなみに上の画像は、「童夢」や「アキラ」の大友克洋の初期作品だ。

  これが「漫画アクション」に載ったとき、ん?どこか記憶にあった名前だった。

  そう、私が高2の時の「第25回宮城県高等学校美術展覧会」(1973)で、見かけた名前だ!

  「大友克洋」そうだ、あの人物画を描いた人の名前だ。

  その絵を見て「げっ!!う、上手い!!」と思って、チェックしておいたのだ。
 
  私もその時入賞して、地元新聞に入賞者の名の一覧が出ていて切り取っていた。

  やはり、あった!まぎれもなく「大友克洋」だ!

  この漫画で、「浅沼高」とある。あ〜〜「佐沼」だぁ〜〜〜っ!!

  




 

 

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 高校時代、「釣りキチ三平」と出会った時から、矢口作品をスクラップし始めた。

  (へ〜〜、こんな風にコマ運びをするのか・・・)
  (こういうアングルだと、迫力でるなぁ・・・)
  (場面転換は、こうするのか・・・)
  (キャラを描かずに、背景をバックにセリフだけで構成するのも、なかなか良いなぁ・・・) 
  (漫画のコマは、右から左に流れるから、人物などの動きも、右から左に動かすのか・・・)   

 等々、矢口作品から学んでいった。


 私の通ったデザイン学校には、『漫画科』というものもあったが、

 漫画のいろはは、学校で学ぶものじゃない、と思って『Gデザイン科』に入ったのだ。


 学校で何を学んだか・・?

 探したら、当時のノートが出てきた。

 「図学」「色彩学」「デザイン概論」「表現技法」「レタリング」「印刷概論」「美術史」など・・・


 私は、復習する意味でも、授業内容を書き写し、毎週「育英漫画愛好会」の後輩に送っていた。

 漫画家訪問した時の2人は、三代目会長のY内クンとY田クン。

 この年、私の弟も、育英に入学して「育英漫画愛好会」に入っていた。
       (ちなみに弟は、四代目会長となるのだが・・。)

 三代目会長のY内クンを中心に、手広く活動していたようだ。

 他校(女子高)の漫研との交流、地元仙台のテレビ局への出演、等々・・。
   (私の代の時は、他校に打って出るなど余裕がなかった。
    50人あまりの美術部も抱えて居たから・・・。)


 漫画家訪問の翌年の春。Y田クンから電話があった。

 「岩井先輩、高校卒業したら、矢口プロに行くことになりました。」

 「えっ?Y田クンが・・・」

 「はい!実は、マガジンに矢口プロでアシスタント募集している記事があって、

  応募してみたのです。そしたら受かっちゃって♪テヘヘ そんなわけで先輩、

  もう一度矢口プロまで連れて行ってもらえませんか?」

 「・・・おう、わかったわかった!いや〜〜おめでとう♪♪」


 Y田クンが上京する日が来た。

 矢口先生とは、あの日以来だ。
   
   (石井先生とは、あの後一度会っている。伺った時、○月○日○○でサイン会があるので
    もし時間があったら来てくれ。というので、また会ったのだ。
    実はその時、石井先生の他にあのマンガの巨匠・手塚治虫先生も来ていたのだ〜〜!!
    二人並んでのサイン会。
    手塚治虫先生のサインも喉から手が出るほど欲しかった。
    その手塚治虫先生が、目の前にいる。ああ〜〜〜〜欲しい〜〜〜・・。
    しかし、石井先生のファンとして来ているのに、手塚先生のところに行ったら・・・
    うううう〜〜〜っ・・。出来ませんでした・・。
    ちょっとだけ「こんにちわ〜」と、挨拶しただけでしたぁ・・。
    石井先生の休憩時間にコーヒーを御馳走していただきました。)

 あの懐かしの「シャトウ自由が丘」102号室 矢口プロの表札が掛けてある。

 新しいスタッフも入っていた。
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 「後輩のY田クンが入ったのだから、是非、岩井くんにも入ってもらいたい!」
          (また矢口先生から、懇願されちゃったよ〜〜♪)
  

 「あの〜〜。デザイン学校は後一年あるのですが、通いながらではダメですか?
  学校の授業が終わった夕方からでは・・?」
          (あちゃ〜〜っ、注文付けちゃったよ〜〜・・。)

 「おおっ、いいとも!!早速アパートの手配をするから、こっちに引っ越しておいで♪」


   ・・ということで、矢口プロのスタッフになっちゃいましたぁ♪


                  ・・・つづく

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  デザイン学校(グラフィックデザイン科)で、

 イラストレーションの授業があり、その課題で

 模写(名画) B4ケント(orイラストボード) 位置自由 アクリル系絵の具

 人物、風景など。というのがあった。

 ピカソの絵を模写する人が多かったが、(簡単に描けると思ったのだろう)

 私は、ルノアールが好きだったので「桟敷席」を模写した。
      http://art.pro.tok2.com/R/Renoir/Renoir.htm


 私の部屋に唯一自分の絵が飾ってあるのは、これのみ。

 はじめて使ったアクリル絵の具での作だ。(模写ではあるが・・。)

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