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写真上=恒清地区での最南端(糸永より)にたてられた幟
写真中=神社から50メートルの位置の幟(左側の柱石と合成)
写真下=恒清の八坂社・大鳥居前の幟は全国どこでも式
場所http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.30.35.531&el=131.38.4.019&la=1&sc=3&CE.x=230&CE.y=117
なおこの地図では上(北)へと大分の県道《651》をのぼって路の西側に「●西武蔵出張所」、東側に「両子〒」と描いてある地域が、明治から昭和29年までの行政区画であった西武蔵村の中心部。近くのJA・同ガソリンスタンドは2005年ごろまでに廃業し空き家に、さらにここの両子(ふたご)川にかかる小さな学校橋を渡った西武蔵小学校も2008年3月に廃校、約20キロ下流、国東市安岐総合支所そば安岐中と並んだ安岐中央小に統合されてしまいました(2010年追記)。
前の記事で、安岐町の富永・宮畑神社と表記しましたが、明治の初頭に富永村と、その南の恒清(つねきよ)村が合併し、現在までも「富清(とみきよ)」という大字を使っていたのでした。
でも杵築藩時代までさかのぼれば、富永村の庄屋さんが集めた年貢は杵築の藩主に献上され、恒清村は南につらなる糸永村と同じく、寛永年間に藩主・松平家の弟に分地された領土で、ちょっと違いがあったのです。それだけに恒清村の神社は、糸永村の八坂神社から宝暦13年(1763)年に勧請してきたとか(昭和42年『安岐町史』867頁)。
それでも大字が「恒清」となっているからか本来は、7月の夏祭りで富永から恒清へと神輿の神幸があり、逆に11月30日は恒清から富永へと神幸をしていて、その神輿の通路に神幟がたてられていた、とか(恒清・八坂社の氏子総代様からの伝聞)。
やはり今では11月29・30日の富永・宮畑神社の例祭で、神社から離れた道路の左右に、幟(のぼり)をたてる風習は、失われてしまったようです。それだけに、旗を縛りつける石柱らしきものが、富永地区で一般道の右と左に残されている、なんてことを見た覚えはありません。
ところが恒清地区は違ったのです。特にその南方、糸永との境。この秋の収穫まで、「ここだけ、まさに農道、なんで1車線のままで狭いの? (ここのジイさん、道路拡幅のためなんかで我が田を売るような人じゃないのネ)」と思いつづけてきた箇所があるのです(地図の998番地付近)。とうとう、平成17年の収穫後(「わらこづみ」あり)、道路拡幅工事が始まりましたが。そしてこの箇所を通勤のために毎日通るのですが、「車幅2メートルちょっとまでが通行できる限界ですよ」と訴えているとしか思えない、高さ1メートルほどの木の杭(くい)が、道の左右にゲートのようにつきささっているのです。
それが、なんと11月30日の朝には、幟たての添え棒として活用されていたのです。上の写真をご覧あれ。木綿に書かれた聯は、糸永地区の下流域で揮毫されているのと同じ文句ですが。
神威無辺恰六合 平成九年三月/今在家組中
萬物豊民生安康 (同 上)
次に「11月29日の昼すぎにはたてましたよ」、と氏子総代様から教えられたノボリ。撮影時は11月30日(水曜)の朝8時、曇り空に、墨痕もにじみ系。でも驚いたのは、道路の拡幅工事が1年ちょっと前に完了して、立派な2車線の幅広ロードになったのに、田んぼへと耕運機をおろす側道に、しっかりもとの旗立ての石柱をコンクリで固めて再生していたこと。
神威照國家 平成二年一月/寄進者【個人名】
神徳護蒼生 (同 上)
これって業者さんに発注したな、と思えたのは、当の八坂神社の大鳥居前。全国区のノボリであり、漢字を再現する必要な〜し。むしろ、鳥居銘そのものの書体が、きわめて雄渾。
(右柱)威哉徳澤被兆民
(同裏)正四位勲三等巖谷修書
(額束「八坂神社」)
(左柱)赫矣威靈光萬世
(同裏)明治三十年丁酉十一月建
文字の彫りも深く、この地区での戦後、元気のいい子供は文字が刻された穴に、今言うフリークライミングの要領で手をかけ足をかけ、よじ登って遊んでたそうです(退職されるまで警察官だった立派な人物の談)。揮毫したら、そんなふうに遊ばれるなんて、巌谷修(いわや・おさむ 1834〜1905、貴族院議員に勅撰された人物で号は「一六」)ご本人も、そのご子息の児童文学家、巌谷小波(さざなみ)先生も、思ってもいなかったでしょうが……。でも、明治30年に、この恒清地区のどなたが、大政治家に鳥居銘の揮毫を依頼したんでしょうか。
ついでに石段を登りかけた奥、安永8年(1779)の鳥居も、銘のみ紹介。
(右柱)神門一宇謹獻廣前
(額束「祇園社」)
(左柱)安永八年己亥季春
(同側面)夫力 總氏子中/願主 渕上想左彳門
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