岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます

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「デフレの原因(その1)」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/34032730.html )の続き。

 第2の批判は,クルーグマン教授は岩本とは違う考えをもっていて,「日銀はデフレの原因」と断定している,というもの。ここでは何が争われているのかが複雑なので,まずその整理を丁寧にしておきたい。まず,私のブログの文章は,
「クルーグマン教授の立場は,効果が確実かどうかはわからなくても,デフレ脱却のためにそれを試すべきだ,というものである。したがって,日銀がそうした行動に出ないことを舌鋒鋭く批判する。しかし,効果が不確実であるという立場からは,日銀が行動を起こさないからデフレが続いている,と断定はできない。デフレの原因が日銀の失政にある,とも断言できない。」
である。「…舌鋒鋭く批判する」までは,クルーグマン教授の持論を私が要約したもの。それ以降は,私の論評になる。「日銀がデフレの原因とは断定できない」とは,クルーグマン教授の考え方から私が敷衍したものである。しかし,クルーグマン教授の文章や発言に私がすべて目を通しているわけではないので,「クルーグマン教授は,日銀がデフレの原因と断定した発言をしていない」と私が言えるわけではない。
 つまり,私の考えをまとめると,
(1)因果関係の標準的な推論を適用すれば,日銀はデフレの原因とは断定できない。
(2)私が参照したクルーグマン教授の文章では,クルーグマン教授は原因と断定していない。
となる。
 問題になった「because文」の場合は,原因と断定しているとしか読めないわけではないから,私は原因ではないと解釈した。「because文」の意図を曲げているという批判には,曲げていないと答えている。しかし,個別例と一般論は違うものだ。クルーグマン教授の全文章について,彼が原因と断定していないと保証するつもりはない。「because文」は私が引用したブログ記事のなかに登場するので,そこで原因と断定していることを見落としていたら私が相当不注意だから,それは批判になる。しかし,他の個所で彼が原因と断定としているのを私が見落としていたら,それは私のブログ記事への批判ではなく,指摘になるだろう。
 かりに私が参照しなかったところでクルーグマン教授が原因と断定していることがわかったならば,(2)は変更が必要で,
(2’)私の考え方に反して,クルーグマン教授は原因と断定している。
にしなければいけない。そして,私は当然に,
(3)クルーグマン教授の原因の用法は,混乱を招くものであり,不適当である。
と言わなければいけない。
 Twitter上でも発言しているが,そういう材料が見つかれば,私の考えに(2’),(3)を加えることにまったくやぶさかではない。
 というわけで,第2の批判(指摘)は,もしかしたら正しいかもしれない。しかし,正しいとしても,その可能性は私も最初から念頭に置いていることである。

 ここからはTwitterでのやり取りになくて,「岩本康志氏との論争のまとめ」(http://reflation-jp.net/?p=374 )で新しく持ち出された材料の検討である。『週刊現代』誌に掲載されたインタビュー記事「独占インタビュー ノーベル賞経済学者 P・クルーグマン 「間違いだらけの日本経済 考え方がダメ」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/994 )では,「日銀が原因」に間接的に言及しているかのような個所がある。このインタビューは当然に,不況下の日本が何をすればいいか,の意見が期待されている場面である。医者が病気の原因を説明するときと同じことが期待されていると考えていいだろう。一方,注意しておきたいのは,日本語化されたインタビュー記事であるから,クルーグマン教授の真意が記者のまとめ方や翻訳で歪められている可能性があることである。文献の扱い方としては,このインタビュー記事は傍証には使えても,これだけを根拠にすることは危険である。
 さて,「日銀が原因」に関係する個所は2つある。順に見ていこう。結論から言えば,どちらも「デフレの原因は日銀の失政にある」という意味ではない。

―マクロ経済学的には打つ手はもはやないと?

クルーグマン いや、まだまだあります。実は、日本の不況の原因は、マクロ経済学がやるべきだと説いていることを実行しないことにあるのです。
 まず必要なのは、経済を回復軌道に乗せうる、大型の財政刺激策です。これはアメリカではまだ行われていないし、日本でもまだまだです。1990年代を通して、少しずつやったに過ぎません。
 また金融政策面では、日銀自体にやる気がないので大変難しいことですが、インフレ・ターゲット政策を採用させる必要がある。本当に人々が今後、年間1・5%でなく、4%の物価上昇率になると信じれば、景気回復に向かう可能性が大きいからです。4%はほぼ市場の期待値でもあります。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/994?page=3

「原因」の記述を金融政策だけ抜き取ってまとめると,「日本の不況の原因はインフレ・ターゲット政策を採用しないことです。この政策を実行すれば景気回復に向かう可能性が大きいです」という発言になる。これは,おやっ,という感じである。医者から「めまいの原因は高血圧です。血圧を下げればめまいが治る可能性が大きいです」と言われているようなものだ。こういうときは,医者は「めまいの原因は高血圧かもしれません」と言うべきだというのが,私の主張である。
 ここでクルーグマン教授が(私の立場から見て)変なことを言っている,または記者が変なまとめ方をしているかというと,そうとは言えない。原因に言及した直後に来るのは,財政政策だからだ。財政支出の拡大をとことんやれば,GDPギャップはすべて埋まって,不況は脱出できるだろう。したがって,財政政策をとことんやらない(あるいは,とことんやれない政治的制約がある)ことが不況の原因である,との言い方は適切である(今回の記事の本筋とは関係ないが,財政政策をそこまですべしというのはクルーグマン教授個人の政策に対する考え方であって,学者の誰もが支持するわけではない)。
 金融政策だけ抜き出すとおかしくなるが,全体の大意からは,おかしいとまでは言えないだろう。

 もう一箇所は,「銃殺」に関係する個所である。今回の記事の本筋ではないが,「日銀が重い腰をあげないというなら、(その責任者たる総裁は)銃殺に処すべきです」という発言も波紋を呼んでいるので,まず,それに触れておきたい。
 この記事を最初に読んだときの私の第一感は,誤訳ではないか,というもの。発言の原文を『週刊現代』編集部に問い合わせて確認した人によれば,
「クルーグマンの「銃殺に処すべきです。http://j.mp/dijtpS 」の件、電話で確認が取れた。" then it's time to bring out the big gun. "だったそうな。日本語のニュアンスもクルーグマンさんに確認した上で、あの表現になったとのこと」(http://twitter.com/naokigwin/status/22074414646
だそうだ。
 この方のツイートが正しくて,原文が「bring out the big gun」だとすれば,意味が通る。これは直訳すれば「大砲を持ち出す」となるが,「切り札を出す,奥の手を出す」という意味である。例えば,2007年2月のSydney Morning Herald紙の記事
「Obama about to bring out the big gun: his wife」(http://www.smh.com.au/news/world/obama-about-to-bring-out-the-big-gun-his-wife/2007/02/09/1170524304065.html )は,大統領候補者レースの前面にミシェル・オバマ夫人が登場する場面を伝えている。ここは「オバマ氏が切り札(ミシェル夫人)投入」であって,「オバマ氏がミシェル夫人を銃殺」ではない。
 そこで,該当個所を原文に置き換えて,やりとりを見てみよう。

―今回の参院選で躍進した「みんなの党」の渡辺喜美代表は、2%のインフレ・ターゲットを掲げるとともに、これを達成できない時は日銀総裁の解任を国会で検討してはどうかと言っていますが、どう思いますか。

クルーグマン 我々は中央銀行の独立性をずいぶん擁護してきました。しかし今や、この独立した中央銀行が、失敗による面目失墜を恐れるあまり、自国経済のためになることすら、やらない存在となっていることが不況の大きな原因なのです。
 それは日銀だけではなく、FRBも同様です。国を問わず、根本的には組織に問題がある。自分の仕事、その本分を果たすのではなく、自分の組織上の地位や組織そのものを守ろうとしている。
 中央銀行の独立性への介入に関しては、もはやあれこれ躊躇すべきではありません。日本のGDPデフレーター(名目GDPを実質GDPで割った値。経済全体の物価動向を示す)は、ここ13年間、下がりっ放しです。それなのに今、日銀が重い腰をあげないというなら、then it’s time to bring out the big gun。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/994?page=4

 クルーグマン教授の回答は,まず質問が中央銀行の独立性に介入することになることから,まず独立性に意義があるとする学界の見解を踏まえた上で,中央銀行の行動に非常に問題がある場合には,介入もやむを得ないという認識を示そうとしている。その結びとして,日銀が重い腰をあげなければ,「最後の手段(中央銀行の独立性への介入)を行使すべきです」という流れなら自然だ。
『週刊現代』編集部が,銃殺で良いことを本人に確認済みだと言うなら,それを覆す材料を持たないが,ちゃんとした翻訳者が「bring out the big gun」をわざわざ「銃殺」に訳して本人に確認を求める状況というのはちょっと想像しがたい。

 さて,本題の「原因」に戻ろう。FRBも言及されているが,日銀だけを抜き取れば,大筋として「日銀が行動しないことが不況の大きな原因である」と断定されている。大小の原因がいろいろあって,そのなかで大きいもの,だということだろう。これは,「デフレの原因(その1)」でのべたように,私の文章の対象外である(本筋から外れるが,この大きな原因を除いたら不況はどうなるのだろうか,というのは少し気になる。このインタビュー記事の読者は,不況が終わると受け止めるかもしれないからだ)。
 なお,ここで引用したやりとりは,私がブログ記事で書いた「日銀が行動を起こさないという批判と,デフレの原因は日銀にあるという批判の間にある空隙は見落としてしまいがちであるが,非常に大事である」そのものを指している。「日銀が目標を達成しなかったら,日銀に責任をとらせる」ことをどう思うか,という質問に対して,クルーグマン教授は直接答えず,「日銀が大胆に行動しなかったら責任をとらせるべき」と回答している。聞き手の考え方は,日銀が大胆に行動すればデフレは脱却できる,という状況で成立する。最善を尽くしても目標を達成できるかどうかわからなければ,最善を尽くした者に対して,目標が達成されなかったことを責めることはできない。それとは別に,最善を尽くさないことは責められるべきである,というのがクルーグマン教授の回答になっている。
 この違いに無頓着なことは,中央銀行に与えるインセンティブの設計を誤ることにつながる。

「クルーグマン教授が日銀擁護?」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33716324.html )」では,
「クルーグマン教授の立場は,効果が確実かどうかはわからなくても,デフレ脱却のためにそれを試すべきだ,というものである。したがって,日銀がそうした行動に出ないことを舌鋒鋭く批判する。しかし,効果が不確実であるという立場からは,日銀が行動を起こさないからデフレが続いている,と断定はできない。デフレの原因が日銀の失政にある,とも断言できない。」
と,クルーグマン教授の考え方をまとめた。
 最後の1文は,「デフレの原因が日銀の失政にある」と言い切ってしまうと,デフレの「原因」を取り除いても(日銀が行動を起こしても)デフレが続く可能性が生じて,おかしなことになる,という意味である。

 この最後の1文だけを抜き取られて,クルーグマン教授(および同じ立場をとる人)はどんな時でも「日銀がデフレの原因だ」と言ってはいけない,と解釈されてしまうと,私の趣旨に反する。私の記事の主題は,デフレ脱却の政策論をめぐる日銀批判であって,その範囲内での議論だ。この範囲外の議論には私の文章は及ばない趣旨で書かれている。
 範囲外の「デフレの原因」の用法として私が思いつくのはつぎの2つである。
 まず,デフレは物価上昇率に現れる現象だから,これを「デフレである」,「デフレから脱却する」に2分するのではなく,連続的な数値ととらえる議論がある。「デフレが強まる」,「デフレが弱まる」という状態も入ってくるから,議論がまったく変わってくる。このときは,物価上昇率を変化させるような要素は,いずれも「原因」と呼ぶことのできるものである。一般物価は経済の様々な要因によって変動しているから,この場合はデフレの「原因」はたくさんあって,どれが大きい,どれが小さい,という議論になるだろう。現状のデフレを終わらせるほど効果をもつかは不確実だと考えても,最小の効果がゼロでなければ,日銀の行動も物価上昇率に影響を与える原因(のひとつ)である。これは,私のブログ記事の主題から外れた領域であって,このような「原因」の使い方は排除するつもりはない。そのため,私のブログ記事では「日銀の失政はデフレの原因」という表現はせずに,「デフレの原因が日銀の失政にある,とも断言できない」と書いた。「いろいろ積み重なっている原因のうちのひとつ」と言うことは構わない,ということである。
 もう一つの状況は,日本経済がデフレになった原因とデフレが続いて脱却できない原因が違う可能性だ。例えば,骨折した原因は階段から落ちたことであっても,骨折の治療法はその後に階段から落ちないようにすることではない。私のブログ記事の対象は,デフレが続いている原因の方である。クルーグマン教授の発言の理論的基盤となっているKrugman (1998)のモデルは,デフレになった原因とデフレが続く原因が違うような構造にはなっていない。この理論に基づいている限りは,両者を区別する必要はないだろうという見込みをもっている。しかし,かりにクルーグマン教授がモデルに組み込んでいない事情も考慮していて,デフレになった原因は別物であって,それが日銀の失政と考えるのならば,それは問題ない。

 つぎに,私のブログ記事の本題である,デフレ脱却の政策論での議論に入る。この範囲内では「日銀の失政はデフレの原因」という言い方でも紛れは生じないので,以下ではこの表現も許容する。
「【改題】「クルーグマン教授が日銀擁護?」をめぐるTwitter上のやりとりについて」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33960440.html )で紹介したやりとり(http://togetter.com/li/40045 )は,この最後の1文をめぐるものであるが,その性格については,
「対立点は,「原因」という言葉の,専門的な用法と日常的な用法の差に起因する。因果関係の推論はどの研究分野でも重要な要件であり,専門家は厳しい手続きによって吟味することが求められる。[2010年9月13日:誤記修正]一般の人が日常会話で使う「原因」は,これに比べてもっと曖昧なものである。この相手は,専門的な手続きの知識をまったく持たないまま,日常の用法がどこにでも当てはまると思って,私にぶつけてきているのである。」
と指摘した。
 やりとりの相手の論点は,「岩本康志氏との論争のまとめ」(http://reflation-jp.net/?p=374 )にまとめられているが,やりとりの中にある私の考え方を以下に整理する。

 日銀が大胆に金融政策を繰り出した結果が明確であったならば,専門的用法と日常的用法の間にずれは生じない。
 日常生活での例として,「めまい」をとって説明しよう。ある人がめまいに悩まされているとする。この人が調べてみると,いろいろな原因でめまいが起こるらしい。そのうち自分に心当たりがあるのは,高血圧である(耳や脳に由来する原因は,なかなか自分では調べられない)。めまいの原因は高血圧だろうか。この人が降圧剤を処方されて,血圧が正常値になったとする。それでもめまいの症状が残ったとしたら,どう考えるか。
(A)めまいの原因が消えて,めまいが残った。
(B)高血圧はめまいの原因ではなかった。
 私がブログで示した条件関係による吟味は,(B)の考え方になる。つまり,原因の定義は,「高血圧があれば,めまいがある」と「高血圧がなければ,めまいがない」の両方が成立していること。前者はこの人の症状として成立しているが,後者は成立していない。
(A)の考え方は,「高血圧があればめまいがある」のみをもって,高血圧をめまいの原因と断定していい,ということである。
 日常的にも,(A)ではなく,(B)で考えるのが普通であるというのが,私の考えである。普通である,と断定してもいいと思うが,相手は「違う」と言いたいみたいなので,「私の考えである」と付け加えておく。(B)の考え方のもとでは,原因は治療法を示唆することになる。つまり,その原因を除けば,めまいがなくなるからだ。
 そこで,かりに血圧が正常になってもめまいが残っていれば,医者は「私の見立てが間違っていました。もう一度,何が原因かを考え直しましょう」と謝らなければいけない。これに対して,(A)の考え方では,その必要はない。

 さて,原因と考えられる要素を取り除いたときに結果がどうなるのか不確実な場合には,問題が生じる。金融政策の効果にもどると,まず,クルーグマン教授は,日本はなぜデフレになっているのかについて,
「(persistent deflation is) what has happened because conventional monetary policy has lost traction and the BOJ isn’t willing to be more adventurous.」
と説明している。クルーグマン教授の考えを自然言語で表現すると,こうとしか言いようがない。つまり,日銀があらゆる手立てを尽くせばデフレでなくなる可能性があるから,単に伝統的金融政策が効かなくなったことでデフレが起こったと表現するのは間違いになる。これを「because」だから,日銀が大胆でないことを「原因」だと理解することになると,上の「めまい」の例で考えたような(B)の用法に反してしまう。つまり,日銀が大胆でない,という要素を除去(あらゆる手段を尽くすと)しても,デフレが終わらない可能性があるからだ。幸いにデフレが終われば,とくに問題は生じない。しかし,「日銀が大胆に行動しないのがデフレの原因である」とした後で,その「原因」を取り除いてもデフレが終わらなかったら,どうなるのか。こういう事態が生じた場合,「原因」は(B)の考え方ではなく,(A)の考え方になっている。
 あちら立てばこちら立たず。つまり,「becauseなら原因」と「それがなくなれば結果がなくなるならば原因」のどちらかが譲らないと,整合性がとれない。それとも無頓着に違った意味に「原因」を使って,混乱を招くか,だ。
 私がブログで前提にしたのは,問題解決のために使われる「原因」の用法を維持して,because文の方を「原因」の意味を含まないものとして解釈することである。becauseの日常的用法としても,とくに問題はない。これとは違って,「becauseなら原因が日常的用法」を押し通すと,「原因」の考え方を,(A)の考え方で一貫するか,あるときは(A),あるときは(B)と使い分けることになってしまい,混乱を招くのではないか。

 という私の考え方に対する批判の論点は,大きく2つになる。第1は,(B)を維持する考え方はおかしい,という批判。第2は,クルーグマン教授は岩本とは違う考えをもっていて,「原因」と断定している,という批判。
 第1の批判に対しては,すでにここまで説明したように,問題解決のために原因を究明する際の日常的な理解に反することが,その反論になっている。
 それに対する相手の反論となっているのは,刑法総論に登場する「択一的競合」の事例(じつは誤用である)である。かりに「BがなければCがない」とはならなくても,別の要素Dがあって,BとDが同時になくなればCがなくなるかもしれない。この場合,BはCの原因である,という議論である。
 しかし,この議論は根本的に誤っている。択一的競合も含め,因果関係の吟味では原因と疑われる要素は最初から明確であるべき,という約束事に反している。刑法では,個人が罪に問われるかどうか,という問題になる。条件関係で無罪であっても,今はわかっていない別の要素Dがあるかもしれないから有罪,となるのはあまりにも危険な論理である。科学的な原因究明の場面では,要素Dが突き止められるまでは仮説として扱うべきで,はっきりしてから断定することになる。
 デフレ解消策や病気の治療法を探す場面でも,今は見つかっていないが,このような別の要素Dが必ずあるから,Bが原因であるという主張も通らない。もし,こうした主張が通るとしよう。ある医者が「病気の原因がBだ」と言ったとする。Bの原因をのぞいても病気は治らない。すると,医者は「いやBだけが原因だと言っていない。BとDが原因だ」と言う。続けてDも除去しても病気は治らない。医者は「いやBとDだけが原因だと言っていない。BとDとEが原因だ」と言う。続けてEを除去しても同じこと...。このような医者がいてもいい,という論理だ。
 単なる当て推量でものを言っている人間やペテン師と,真摯に原因を究明しようとする人間を区別するには,「Bが原因だ」というのは,(B)の考え方に沿ったものにして,後から「いやBだけが原因だとは言っていない」という言い分は通らないというルールにしなければいけない。かりにBとDを一緒に除去すれば病気が治るなら,最初から「BとDが原因だ」と言わなければいけない。

 以上が,第1の批判についてのやり取りである。
 第2の批判については,Twitterのやり取りに出てこなかった新しい材料が加わるとともにスペースも必要なので,別の記事に回したい。

(参考文献)
Paul R. Krugman (1998), “It’s Baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap,” Brookings Paper on Economic Activity, No. 2, pp. 137-187.

[2010年9月3日追記]タイトルを穏やかなものに改題し,本文の1文を削除しました。

 ここ(http://togetter.com/li/40045 )でまとめられている通り,8月は延々とTwtter上で匿名のある方(私はその方のこと何も存じ上げない)とやりとりをしている。すでに常識的な長さを超えてしまっており,複数の方からご心配いただいている。まとまったご意見を紹介すると,「Wrong, rogue and booklog」の柏野雄太氏からの

「いやもうこの岩本康志氏のTweetなんだけれど、岩本氏はいい加減にこのリフレ派のerrorworldなる人物に関わらないほうがいいですよ。
この人、形式論理学の入門的知識以外はまったく持っていないようなので、蓋然性論理や因果関係の推論論理を使うことができないのだ。因果関係がすべて形式論理の「ならば」で説明できるという信念をもっているらしいのだが、これって典型的な無知蒙昧のたぐいだよね。こういうのを
“If you only have a hummer, you tend to see every problem as a nail.”
っていうんだよ。この複雑な世の中をすべて形式論理で説明できるわけないじゃん。
こんな無知な人に関わっていたら、日本の稀少な知的リソースの浪費だと強く思う。」

がある(http://kashino.tumblr.com/post/1034525239/via-gyazo-com)。
 私の相手は,以前に池尾和人・慶応義塾大学教授とも延々と不毛なやりとりを続けて評判になった人である。ブロックすればそれで終わり,なのは承知している。以下は,なぜこうなっているのか,の私の釈明です。

 発端は,私のブログ記事「クルーグマン教授が日銀擁護?」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33716324.html )にご批判を頂いたことである。論点の性格はこの記事の後半部に譲るが,私がクルーグマンの発言を捏造した,と面と向かって批判されているので,私も簡単には退けない。たまに報道されるので読者がご存知かと思うが,研究者の論文に意図的な捏造があれば,職を失う。捏造批判は,それほどの重大事である。事実として私の捏造はないのだが,柏野氏の言う通りそれが相手に通じていない。
 対立点は,「原因」という言葉の,専門的な用法と日常的な用法の差に起因する。因果関係の推論はどの研究分野でも重要な要件であり,専門家は厳しい手続きによって吟味することが求められる。[2010年9月13日:誤記修正]一般の人が日常会話で使う「原因」は,これに比べてもっと曖昧なものである。この相手は,専門的な手続きの知識をまったく持たないまま,日常の用法がどこにでも当てはまると思って,私にぶつけてきているのである。
 職業柄,こういう性癖の人にたまに遭遇することがある。こういう事例はどこの分野の専門家でも経験することであろう。知識と論理が欠落していて対等に議論する資格がないから,そもそも実のある議論にならない。普通はここまで相手をしないのは,当然にわかる通り,それに費やす時間の機会費用が大きいからだ。今回は私が暇だからでは決してなく,早急に収めてしまった場合の費用を勘案してのことである。捏造云々については私がきちんと説明した上で相手をブロックすれば,それで応対は終わせられる。後はわかる人にはわかってもらえるとするのが常套手段であるが,金融政策の場合はそれでは危険な面がある。それは,相手に勝手に勝利宣言されて,それがネットのなかで風評として広がってしまう懸念である。相手が私とのやり取りの最中に,(直接に私宛のツイートではないが),私を指して,
「はっきり言うけど岩本さんの議論のレベルはイケイケコンビと大差ない事がよく分かった。経済学理論の方は知らん。」(http://twitter.com/errorworld/status/20921734692
と言っている。池田信夫氏と池尾教授がネットでリフレ派の中傷にさらされていることはご存じの方も多いだろうが,そのなかに私も仲間入りされかねない(私が池田・池尾両先生と議論のレベルが同列だということを問題視しているわけでは決してなくて,言われなき中傷に結びつくことへの懸念ですので,両先生にはなにとぞご了解願います)。
 現在のやりとりの途中では,ある方から
「リフレが好きな素人方々は専門家の時間泥棒とイメージダウンしたいんだろうな @iwmtyss 先生も@kazikeo 先生も @ikedanob 先生のように徹底無視がベスト」
とご忠告を頂いたが,
「ごもっともです。」
と無難にご返事しておいたところ,
「今日の岩本先生はあまりにもリフレ派に失礼でしょ」
というツイートも出て,なかなか振る舞いが難しい。
 リフレ派の考えでは,リフレ派が世界標準の経済学で,リフレ政策に懐疑的な日本の経済学者は国際的に通用しないトンデモだということのようだ。事実に反する決めつけだが,それにかぶれてしまって,リフレを理解すれば素人でもトンデモ経済学者を論破できるという風潮があるかのようだ。もちろん専門家が間違っていて素人が正しいことがないとは言わないが,統計的には逆の場合が多いだろう。金融政策の議論も生半可な理解で,正しいが複雑な議論をトンデモと決めつけ,仲間内で確認しあって悦に入っていることを見かける。典型的な例としては,私がブログで指摘した生産性成長と生産性の混同(「「生産性の低下」と「生産性成長率の低下」」http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33657643.html )や現在の貨幣の増加と将来の貨幣の増加の混同(「「インフレ目標」をめぐるネット議論の陥穽」http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32325439.html )などがある。

 こうした事情があるので,私に非がないことを相手に納得してもらうのが一番良い収拾策だが,心配してくだってる皆さんの予想通り,その気配がない。
 字数制限の厳しいTwitterにはもともと向かない議論であって,始めはやりとりが噛み合わなかったが,何とか論理の共通の土台を造ることができたので,今は私が議論に負けることはない。私に対して執拗に批判を浴びせるのだが論理に無理があるので,私の方からは,それは誤りだ,とか,以前に言ったことを理解していない,と返せばいいだけになっている。[1文削除]
 私の論理構成はおそらく相手には理解できないだろうから,私からのツイートは今は観客を意識して,論理を直接出した言い回しになっている。そういう私の物言いは,受け取る相手には精神的・感情的にかなりこたえるものになる。普通の議論ならもう少し柔らかな表現を使うべきだが,今回は環境がそれを許さない。その意味でも,このやりとりは早目に終わらせるのがいい。Twitter上で彼と親しいリフレ派の人は,彼を応援するのではなく,止めるようにしていただけないものだろうか(やりとりに便乗する形でそういうメッセージを暗に送ったのだが,気づかれた方は気づかれたと思う。今度は大っぴらにお願いしています)。
 自分でいうのも何だが,不幸な状況だ。

【論点の性格】
 追加的な金融緩和でデフレ脱却をできるか。クルーグマン教授はあるブログ記事で,それが確実ではないとしている。私のブログ記事では,
「クルーグマン教授の立場は,効果が確実かどうかはわからなくても,デフレ脱却のためにそれを試すべきだ,というものである。したがって,日銀がそうした行動に出ないことを舌鋒鋭く批判する。しかし,効果が不確実であるという立場からは,日銀が行動を起こさないからデフレが続いている,と断定はできない。デフレの原因が日銀の失政にある,とも断言できない。日銀が行動を起こさないという批判と,デフレの原因は日銀にあるという批判の間にある空隙は見落としてしまいがちであるが,非常に大事である。」
とまとめた。「しかし」以下は,私の論評になる。
 ここで,因果関係としての「原因」は,「BがあればCがあり,BがなければCがない」という条件関係として定義している。条件関係での定義では不都合なことが生じる場合があるが,デフレ脱却の議論の文脈では不都合は生じない。つまり「Bがあればデフレであり,Bがなければデフレが終わる」とデフレの原因が見つかれば,Bをどけよう,という話になる。Bを「日銀が非伝統的な金融政策を大胆に繰り出さない」というクルーグマンの批判に置くと,Bをどけても(日銀がありとあらゆることをやっても)デフレはなくなるかもしれないし,なくならないかもしれない。Bはデフレの原因であるかもしれないし,デフレの原因ではないかもしれない。つまり,Bはデフレの原因とは断定できない。
 デフレ脱却の手段を探す議論の共通の土台に,クルーグマン教授のブログ記事の主旨をそのまま載せただけであり,論理的な誤りはないはずである。

 ところが,私のブログ記事で紹介したクルーグマン教授の別のブログ記事のなかには,サムナー教授が「日本がデフレなのは,日銀がデフレを選んでいるからだ」という主張に反論して,
「But persistent deflation isn’t a target, it’s what has happened because conventional monetary policy has lost traction and the BOJ isn’t willing to be more adventurous.」
とのべている。つまり「伝統的金融政策が効かなくなり,日銀がもっと大胆に動かなかったから,日本のデフレは起こった」ということだ。
 これを「日銀がデフレの原因」と言っているというのが,相手の主張だ。
 問題は,この文に「伝統的金融政策が効かなくなったときに,日銀がもっと大胆に動いていたら,デフレは起こらなかった」という意味,さらに現状で「日銀が大胆に動いたらデフレは終わる」という意味が込められているかどうかである。
 そのことを検証するために,かりにこの文が条件関係を意味しているとどうなるか,を考えてみよう。A「伝統的金融政策が効かない」,B「日銀が非伝統的な金融政策を大胆に繰り出さない」,C「デフレ」であると置くと,クルーグマンの見解は「AとBがCの原因」(AとBがあればCがあり,AまたはBがなければCがない)となる。さて,現在のデフレの現状を議論するときにはAは存在するので,Bのみがなくなったときは,Cがどうなるかを見ればいい。上の文が条件関係を意味しているとすると,AがありBがなければCがない,となる。ここでCがない,を「デフレでない」とすると,「日銀が大胆に動けばデフレが終わる」ことになって,クルーグマン教授の別のブログ記事全体の主旨と矛盾することになる。
 クルーグマン教授は矛盾しているかというと,そうではない。クルーグマン教授の見解では,日銀の大胆の行動の効果は不確実だというのだから,じつは,Cの帰結には「デフレである」,「デフレでない」,「結果は不確実」の3通りがある。だから「デフレである」でないことは,「デフレでない」か「結果は不確実」のどちらかであることを意味する。後者はクルーグマン教授の意図なので,この文を条件関係であると読んでも,矛盾はないのである。
 もちろんこれは自然言語の1文であって,サムナー教授との見解の違いを意図しただけであって,条件関係の「AまたはBがなければ」という意味が込められていないと考えてもよい。この文章を読む目的としては,条件関係のことまで考える必要はないからだ。

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 11日の参院選の結果,国会のねじれ現象が再来した。
 昨年の衆院選前のねじれ国会は,国会審議に大きな影響を与えた。しかし,日本が二大政党制の定着を目指すなら,ねじれ国会を一時的に困ったことが生じる現象とみなすわけにはいかない。
 二大政党制のもとで,衆院選の結果で政権交代が起こるとしよう。すると,交代前に政権党が両院で多数をとっていた場合,新しい政権党は参議院で少数党であるので,ねじれ国会になる。政権交代前にねじれ国会であれば,政権をとった政党は両院で多数党になる。つまり,政権交代の前後のどちらかは,かならずねじれ国会になっている。すると,半分の期間は国会がねじれていると考えないといけない。
 半分の期間で国会が機能不全になっては,国はもたない。ねじれ国会でも与野党が協力すべきは協力して政策を決めていくことができればいいが,すでに悪しき前例を作ってしまった。民主党と自民党が簡単に行動を変えられるかどうか。楽観的な見通しは立てにくい。

 長期的には,国会の制度から見直す必要がある。問題は,参議院の力が強すぎることである。日本国憲法の規定する統治機構は,議院内閣制[2010年9月12日追記:タイポを修正]をとることで権力を内閣に集中させようとする一方で,内閣とは距離を置いた参議院が大きな力をもっているため,権力を集中させたいのか分散させたいのか,意図が不明確になってしまっている。この問題を是正する方法は,いくつかある。
 ひとつは,一院制。「上院は下院と一致するなら無用であり、下院に反対するなら有害である」とはフランスの政治家シエイエスの言葉。私も最終的には一院制とすべきと考えるが,憲法改正が必要となるので,未来永劫無理とはいわないが,当面は実現が困難だろう。その他,憲法を改正して参議院の力を弱める改革も同様に,実現までの道のりは長い。
 もう少しハードルが低いものに,憲法を改正せずに選挙制度を改革する方法がある。私の提案は,衆議院を完全な小選挙区制,参議院を完全な比例代表制とするものである。
 1994年の政治改革で衆議院に小選挙区制を導入して以来,わが国が目指してきたのは,二大政党制による政権交代が可能な政治体制であった。その趣旨を尊重するならば,それと調和する形での参議院の構成を考えなければならない。つまり,衆院選で政権交代が生じたとき,参議院で新しい政権党が多数を占めることができる制度を考えるということである。参議院を完全な比例代表制にすることが,そのための方法になる。現在の国会で小政党が存在していられるのは,両院に比例代表制による議席があるためである。参議院の比例代表制による議席を増やせば,小政党との連立でねじれ国会を解消する確率を高めることができるだろう。
 選挙制度に最善のものはなく,小選挙区制は「民意の集約」,比例代表制は「民意の反映」と呼ばれ,それぞれ一長一短がある。現状は,衆議院も参議院も両制度を併用している(参議院の一部の議席は中選挙区制であるが)。
 併用することにはそれなりの意義があるが,両院が同じ方式をとることで二院制の意義が損なわれている。私案は,この2つの方法を両院に割り当てることで,それぞれの院の特色を出そうとするものである。また,最終的に一院制に移行する場合は,両院を単純に合わせると両制度併用の一院が実現できるので,その移行過程とも考えられる。
 私案は,二大政党の片方が両院で多数のときは,民意の集約で大きな改革を進められるが,そうでない場合には連立政権で多様な民意を反映して政治が進められる形になる。意図が不明確な憲法の構造を,法律で何とか工夫することによって,民意の状況によって統治機構の働きが変わる柔軟な仕組みとして活かそうとするものである。

 私案にも懸念材料はいくつかある。
 連立政権において小政党の意見に大政党が従属する形になるのではないか,ということだろう。昨年の衆院選後に誕生した,民主党,国民新党,社民党の連立政権では,小政党の極端な政策に連立政権が振り回されるように受け取られた。私案では,参議院の議席すべてを比例代表制にするので,穏健な小政党が複数個存在できるのではないかと考えている。ただし,実際にどうなるかは民意の分布に依存する。
 政権交代前後で連立の組み替えによってねじれ国会が出現しないということは,旧与党から新与党に乗り換える小政党が存在しなければいけない。そうした小政党の行動が,政治を安定させる行動として好意的に国民に受け止められるか,与党であることが目的の行動として否定的に受け止められるかは未知数である。
 また,小政党がまったく消滅してしまうと私案は機能しない。しかし,この状況では,二院制ではどうあってもねじれは避けられないので,私案だけの問題ではない。

 ねじれ国会でも政策を決めていくという運用上の工夫も必要であるが,憲法の抱える問題を正しく認識して統治構造を見直すことは放置しておくことのできない問題だ。関心がより高まることを望みたい。
 また,この問題を考える視座は,わが国の統治構造の基本は衆院選が政権選択選挙だということにある。参院選の結果が国政の動向を決めてしまう展開は本末転倒であることを銘じておくべきだろう。

(参考文献)
「ねじれ国会の政治経済学」,『日本経済新聞』(経済教室),2008年6月2日朝刊
「『ねじれ』前提の意思決定を」,『日本経済研究センター会報』,第968号,2008年6月

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日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)
日本の統治機構に関する基本的な解説書

 野党時代の民主党のやっていることは,ままごとだった。
 政権をとれば,ままごとは終わる。政権党として,厳しい責務を果たさなければいけない。
 しかし,相変わらずままごとを続ける民主党の政治家に,ずっと政権を見てきた人間の多くはあきれ返った。当初は不慣れなので,百日間は寛大に見守る「ハネムーン」期間がある。しかし,百日過ぎての,ままごとは許されない。

 政権党の仕事の重さに目覚めた政治家もいれば,あいかわらずままごと気分の政治家もいる。
 来月には参院選。本来は早期に衆院選もあるべきである。衆院選(政権選択選挙)で首相を選ぶ時代が始まった今,新しい首相は衆議院を解散して,国民に信を問わなければいけない。
 選挙を通して,本当にまつりごとのできる政治家を見極めたい。

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