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太宰治が小説「津軽」を執筆する前に津軽を訪れている 青森の母校や津軽半島を巡り、小泊村や金木町の生家に遊んだ その時に兄夫婦と弁当を持って遠足気分で出かけたのが ここ「鹿の子滝」である! 滝周辺は急峻なため空き地が無く 「祠」は林道を挟んだ山側にひっそりと建立されていた 林道を横切り滝へ下りかけた時、足元から走り去るものを見た 体色が金色で頭部がまだ白かった、テンだ! この穴から逃げたようだ 細い踏み跡を進むと滝口に出た、水は少ない さらに進んだが滝の全容が見えない、5m程崖を下っての1枚だ 帰りに気が付いたのだが、ダルマウツギにシジミが群れていた。
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☆ 一つ 大事なねぷたを紹介します 私の好きな唐糸御前公園にまつわる悲話です 「唐糸御前の伝説」とは鎌倉の五代執権・北条時頼に愛された女性「唐糸御前」の悲しい伝説です。 唐糸御前は、鎌倉の執権・北条時頼につかえる心根の優しい才色兼備の女性で、やがて時頼の愛を一身に集めるようになりましたが、それが周囲の女性の妬みを受けることとなり、鎌倉を逃れ生まれ故郷である津軽の藤崎に隠れ暮らしていました。 時頼は病により執権職を退いた後、仏門に入り諸国行脚の旅に出ました。そしてやがて津軽を訪れることになり、唐糸御前は一瞬胸をときめかかせましたが、田舎に落ちぶれ 見る影もなくやつれた自らの姿を悲しみ、近くの柳の池に身を投じてはかない生涯を閉じました。 村人たちが唐糸御前の死を泣き悲しんでいる折、北条時頼がこの地を訪れて唐糸御前の死を深く悲しみ、唐糸御前が通っていた平等教院という寺院に墓を営みました。 ☆ その唐糸御前がモデルの見送り図です 現在 弘前の禅林街にある「万蔵寺」に位牌が安置されています。
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☆ 津軽の昔ながらの、小さな町の小さな祭りです リンゴの町 板柳町の一大イベント ☆ 「りんご山笠」 行政、町民一丸となって盛り上げる夏祭りだ 有名歌手や局アナが声高に盛り上げる中、祭りは町内を駆け巡っていた 一巡してメインの役場前に次々に凱旋 ☆ 先ずはメィンシンボル 「りんご山笠」 役場職員の意気込みだ〜 ☆ アクセントのためか、人形ねぶたも登場 ☆ 見送り図の美人画は哀愁を誘う ☆ 津軽の「ねぷた」の原型、扇ねぷた! 電線などで高さを調整するためセパレートになっている ☆ 見送り図の美人画も美しい ☆ 扇ねぷたの美の表現をとくとご覧あれ ☆ 見送り図も逝く夏を惜しむかのような哀調を感じます 「青森ねぶた」のような豪華さは無いが、津軽の「わび さび」を感じて欲しい。
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尾上町の猿賀神社に行って来ました お盆休みも終ったようで、参拝客もまばらでした ☆ 尾上町を検索してみました 尾上町は、緑と花の美しいまちづくりを進め、全国でも珍しい生け垣条例がある。 猿賀公園は、猿賀神社に隣接した風致公園で岩木山が一望でき、美晴ヶ池では ボートも楽しめ、鏡ヶ池では8月中旬に蓮の花が一面に咲く。 ☆ 猿賀神社を検索してみました 猿賀神社(さるがじんじゃ)は、青森県平川市(旧南津軽郡尾上町)猿賀にある神社である。 旧社格は県社。戦後に別表神社となった。 主祭神の上毛野君田道命(かみつけののきみ たみちのみこと)は、蝦夷討伐の将であった。 仁徳天皇55年(367年)、田道は伊寺水門(いじのみと)で敗死し埋葬された。 後に墓を暴いた蝦夷が毒気にあたって死亡したとも伝えられる。 蝦夷征討に苦戦していた坂上田村麻呂が田道命の霊に導かれ、延暦12年(793年)現在地西方の 猿賀野の地に田道命を祭神とする神蛇宮を創建したのが本社の始まりである。 大同2年(807年)、勅命により現在地に遷座した。 後に、仏教の守護神である深砂大王(じんしゃだいおう)と習合、深砂大権現と呼ばれるようになった。武神として信仰され、藤原秀衡、北畠顕家ら附近にかかわった武将たちの崇敬を集めた。 江戸時代には津軽藩の祈願所となり、猿賀山長命院と号する修験道場となった。 明治の神仏分離により、明治4年 (1871年) に神社となり、地名より猿賀神社に改称した。 現在も、境内にはかつての別当寺である神宮寺が残る。明治16年 (1883年) に県社に列格した。 ☆ と 有りました http://www.geocities.jp/love_dead_bear2005/kototoro_bound.gif 鏡ヶ池の島に有る日吉神社に架かる橋から 蓮の華 日陰の華 鏡ヶ池の東側に有る見晴ヶ池
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平川市・猿賀神社境内・北限の蓮群生池です
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