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(6)豊後水道 − 瀬戸町三机港は、佐田岬半島のほぼ中央で伊予灘に面した半島の北側最大となる
入り江・三机湾の内にあります。
三机湾最奥の小振と宇和海側(南)の塩成との間は半島の幅が約700mと最も狭く、藩政期には
御鼻(佐田岬半島突端)回りを回避し、危険を避けるとともに経路短縮しようという宇和島藩主、 富田信高による壮大な構想の堀切の計画もあったようですが信高の改易1612年(慶長17年)に
ともない工事は中止されました。
◇富田信濃守の堀切工事
この工事は慶長十五年(1610)、今から400年位前の事、信濃守は、半島の浦里から男女
を問わず人夫を集めて掘らせました。
芋の茎を集めて乾燥させ、これに火をつけて岩を焼き、岩をもろくしのち、金つきなどで崩
して堀進みました。
この工事は難工事で、犠牲者が数万にも及だと言われ、3年後3%の工事をしただけで中止
されました。
このような無謀な工事をしたことから藩主は改易となり、その為運河とまではいきませんで
したが、尊い先祖たちのお陰で、現在車で三机から塩成間は5分とかかりません。
此処にはこの工事の犠牲者を祭る(供養様)と称する塚があり、供え物をする人も見かけられ
ます。
●「三机」の由来と、港の成り立ち
「三机」の地名の由来は諸説ありどれが本当かは?定かではありませんが語り継がれています。
第一説
「その昔、神武天皇が九州征伐を終えて御東征の途中、伊予灘で暴風雨と高波に逢い舵はとられ
櫓も折れて幾日間も漂流を続けられたそうで、ようやくのこと三机湾に入港されて遭難を免れた
そうです。
荒れ狂う外海とはうって変わった湾内の静けさに天皇御一行は大変御気に召され、しばらく
ご滞在になれた由、この古事にちなんで御着江と呼ぶようになりそれがなまって三机に変じた。
第二説
七・八世紀のころ九州方面から朝廷への貢物を送る船が三机の入江に出入りしていたので貢江
(みつぐえ)と称した。
第三説
九州の宇佐八幡の御分霊がある年の正月元旦須賀の沖の浜辺に机三脚が波にゆられて流れ着い
たのを当地の古沢家の御先祖の方が発見され祀られたところ一夜のうちに現在の須賀の砂洲一名
ゆりあげ浜ができたので三机と名付けたという。
第四説
三机湾の底に机状の岩が三つあるので三机と名付けた。
●天然の良港
藩政時代、宇和島藩主の参勤交代は、原則として宇和島を出た船が三崎浦から鼻を迂回して
瀬戸内海に出るコースをとっていましたが、天候の都合その他で塩成浦に着き船のみを迂回さ
せ藩主は塩成浦から三机浦へ山越えをしてそこで再び乗船したそうです。
また、西国大名も佐田岬半島唯一の寄港地として利用し各地の文化が集積する町として繁盛
しました。
明治以降は下記の通り
●1907年(明治40年) 三机港−三津浜港の定期航路開設
●1913年(大正2年) 三机港-宇品港の定期航路開設
現在は両航路とも廃止されています。
※1937年(昭和12年) 海軍特殊潜航艇の訓練地となる(終戦まで)
三机湾は、ハワイの真珠湾に地形が似ていることから、太平洋戦争の開戦に備えて、海軍の特殊潜航艇隊の訓練生が滞在していました。実戦に参戦し、戦死したとされる9名の兵士は「九軍神」として奉られた。1966年(昭和41年)には公園内に「九軍神」の慰霊碑が建てられ、毎年12月8日には追悼式が行われています。
特別攻撃隊
http://jp.youtube.com/watch?v=LhrnrKdpvTs
緒戦の大勝の蔭に特別攻撃隊の尽忠がある
http://jp.youtube.com/watch?v=1GoVuE0R3pw
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愛媛の遊漁船
http://dayzi.com
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