愛媛の海 小旅行

愛媛の海で楽しんでいます。

無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

・(3)豊後水道 − 伊方町 町見

   現在の伊方町のまん中あたりに位置します佐田岬半島全体でもほぼ中央で、北を伊予灘に、
  南を宇和海に面しています。(写真は旧九町と二見で宇和海側)のみ
   中央には南北に佐田岬半島を形成する山地が東西に横たわっています。
  東に伊方に、西は三机に接しています。
   この付近には中央構造線近くの断層崖海岸が続き、とりわけ伊予灘側はけわしい海岸が
  続き平地は宇和海側の亀ヶ池の周辺にわずかにみられる程度です。
   旧九町には立派なお寺や神社があるのにはびっくりしました。

●亀ヶ池
  亀ヶ池は加周地区にあり、佐田岬半島では、珍しく大きな池です。
 周囲が2km、面積8,7ha、最も深い所では12mもあるそうです。
  波によって打ち寄せられた砂礫が、だんだんと積もって海が塞き止められてできた池です。 
 入江の時代には、対岸の田畑へは、伝馬船で行き来していたそうです。
  亀が池には、鰻、鯉、鮒、鯊(ハゼ)、公魚(ワカサゲ)草魚、カニ、エビ等、四季を通じて
 楽しませてくれます。
  加周の対岸には、亀の子神社が祀られていたことから池の名を「亀ヶ池」というようになった
 そうです。
  亀の子神社の下の池の底からは、気泡が上がり湧き水が湧き出ているところがあり、「亀ヶ池
 大ガニ」伝説が伝わっているそうです。
  また、池のそばに希少種で絶滅の恐れがある「コバノウシノシッペイ」というイネ科の植物も
 自生しています。


●見所 町見郷土館
    
    旧町見中学校の校舎を利用した町見町郷土館は伊方町内の古文書や民具・生活資料などを
   展示しています。
    そしてこの地域の歴史や人々のくらしぶりを分かりやすく紹介しています。
    入場料は無料で学芸員の方が親切丁寧に接してくれ楽しく学ぶことができます。
   地域の歴史や昔の文化を見ることによりその地域の本当の姿を見ることができると思います。
    オススメです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

(2)−3豊後水道 − 保内ー磯崎(二宮敬作編)

       二宮敬作の歌   作詞・作曲 妻鳥堯寛
      
    一 磯崎の春の波しずか
      やさしい心で人々の
      やまいをなおし励まし
      愛の人 ああ 愛の人
      敬作先生
      わがふるさとの誇りです
      偉業をたたえ学びます

    二 磯崎の冬のしお風の
      きびしい心で日本に
      文化のあかりつけました
      信の人 ああ 信の人
      敬作先生
      わがふるさとの光です
     
 ●保内郷磯崎の偉人 二宮敬作
 
   文化元年(1804)保内郷磯崎浦の半農半商の家に生まれました。
   文政二年(1819)16歳の時に医者になろうと志して生まれ育った磯崎を離れ、九州に出張
  する大洲の商人手成屋に同行して憧れの長崎に向かい、時代の先端的な蘭学に触れることとなり
  ました。
   そして、渡り苦学すること三年、オランダ語、西洋医学を身につけやがてドイツの医師シーボルト
  の鳴滝塾に入ってその教えを受けました。
   文政十一年(1828)シーボルト事件に連座し逮捕され江戸立ち入り禁止、長崎からも追放の
  判決を受けました。
   こうして27歳になった敬作は、10年ぶりに故郷磯崎に帰りその年、大洲の女性西イワと結婚
  30歳の時、宇和島藩主の伊達宗徳の知るところなり、同藩卯之町に開業しました。
   卯之町における二宮敬作は乳癌の外科手術も行うなど蘭方医の名医の評判が広まり多くの人名
  を救い、世人を驚かせました。
   そして患者に対しては貧富の別はなく、手当方懇切を極め、急病と聞かば深夜山中にも往診し
  薬価謝礼などはほとんど念中にないようで書付の帳面などもなかった。という誠実で清廉無欲な
  人柄によって名声はますます高まりました。
   天保十一年(1840)シーボルトの娘イネを長崎から呼び寄せ、オランダ語、西洋医学を教え
  日本最初の女医に育てました。
   安政二年(1855)には、敬作は宇和島藩より御徒士各に任じられ準藩医として宇和島に住居を
  移しました、イネも宇和島に居を構えて村田蔵六のもとで蘭学を学びました。
   敬作は高野長英(シーボルト鳴滝塾出身)や大村益次郎とも交流がありました。
   安政六年(1859)、国禁(追放令)を解かれたシーボルト(63歳)は長男アレキサンデル(14歳)
  を伴って30年ぶりに再び日本の土を踏みました。
   出迎えたのは、53歳の妻、滝、33歳のイネ、8歳のタダ、さらに中風で体の不自由ながら
  鳴滝塾門弟唯一人の56歳の敬作と甥の三瀬周三でした。
   敬作はシーボルトの来日後も右手が使えない不自由な体で医師を続けました
  万延元年(1860)シーボルトの所へ化膿性腫瘍の患者が訪れたが、シーボルトは手術は不可能と
  断りました。
   しかし、敬作は左手でメスを取って患部摘出の手術に成功し完治したのでシーボルトは「西洋
  にもかかる豪胆にして妙技なるものはなし」と敬作の腕前を称賛したといわれました。
   文久二年(1862)三月一二日、二宮敬作、長崎において死去(59歳)
                      ↓
  平成三年(1991)生家跡の近くの近くの高台に「二宮敬作記念公園」が完成し銅像が立てられ
  ました。
         

  ☆写真は上半分が現代の二宮敬作出身地の磯崎周辺・敬作公園・敬作生家です。
      下半分が西予市宇和町卯之町旧町並・開明学校跡です。     
   

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

(2)−2豊後水道 − 保内町ー磯崎〜長浜

 ●豊後水道伊予灘側景色です。けっして宇和海に負けない海景色だと思います。   
   背後には山が迫り、南に瞽女峠を境として川之石に接しています。
   海岸線に沿って東は喜多郡出海に、西は西宇和郡伊方に接しています。
   このあたりは中央構造線近くの断層崖海岸が続いています。平地は乏しく磯崎(いさき)集落
   付近にわずかに、平地がみられ、民家や公共施設もこの付近に集中しています。
   (写真は出海ー櫛生ー長浜大橋の間)

 ◇見所
  国道378号線 通称 夕焼け小焼けラインというらしんですが、海岸線がすべてエメラルドの
  宝石でできているのではないかと思うくらいエメラルドグリーンですばらしい!!!
  この海岸線をエメラルドラインとよぶことにしました。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

(9)豊後水道 - 真穴 ⇔三瓶

 ●佐田岬半島湾奥部に位置する真穴(まあな)地方は、北東がほとんど標高300mの高さの
  急傾斜地に囲まれ、西南西に向けて宇和海が開けています。
   もともと平地の少ないこの地方では、耕地の大半が南予地方特有の急傾斜地の開発による
  段々畑です。

 ●巴里島(びりしま)と周木地区(ニホンカワウソの生息地で特別保護区)
   四国西南部地域に、ごくわずかであるが生息しているといわれるニホンカワウソですが、
  昭和三十八年(1963)10月、愛媛県が特別調査班を編成して三瓶町須崎・周木コテイ島
  八幡浜市大島・明浜町大崎など調査をおこなった際の基地として、又、捕獲の協力者として
  捕獲に成功した三好寅一の網に掛かったのが、三瓶町での最後の報告でした。
   このことから、須崎・巴里島一帯が、ニホンカワウソの特別保護区として指定されましたが 
  現在は、生息を確認されていません。
   このあたり最近ではカレイ・ヒラメ・タイなどの養殖場になっています。
  
  ◇「ニホンカワウソ」
   ニホンカワウソは哺乳類食肉目のイタチ科に属し、頭胴長約70cm、尾約50cm位です。
   夜行性の動物で水に潜って魚やカニを食べます。
   愛媛県立博物館のニホンカワウソの標本には、三瓶町で捕獲されたものが数点展示されています。 
   
 ●勢観世音菩薩 通称:須崎観音様
  
  三瓶湾の北の須崎に身の丈3.3m、総高11.5mの須崎観音が宇和海を見渡しています。
  観音像建立の目的は、三瓶の人々の極めて旺盛な進取の気性が、三瓶の漁業や海運の発展に
  つくしました。
  そのおかげで現在がありますが、その陰には船と運命を共にした殉職者や異郷で志な
  かばで他界していった人々の鎮魂と供養、さらには船の航行の安全と漁業の繁栄を願って建立
  されました。
  境内には三瓶町出身の詩人、宮内雲子さんの「須崎観音賛歌」が建っています。
         
         
        須崎観音賛歌
     
     あまねく宇和海を見わたして
     いつくしみの眼差し
     聖観世音大菩薩
     海に眠る霊を御胸に抱き
     永遠のやすらぎに導き給う
     海に生きる人々の
     心の翔ける驕を戒め
     日毎の航海能安全を守り給う
     ああ鐘の音よ潮風に溶けて
     遥かなるひろがりを
     御仏の慈悲に満たせ


 ○そこから見える景色は絶景としか表現ができないくらいすばらしく晴れた日には遠く
  佐田岬半島から九州、左手には戸島、日振島等の宇和海の島々が見渡すことができます。
  又、真近な所では養殖の魚に餌をやっている様子等も見ることができます。


◎◎◎愛媛の釣り情報はこちらからどうぞ!リアルに釣果情報もわかります。
        愛媛の遊漁船   
        http://dayzi.com

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

 豊後水道 - 八幡浜⇔ 真穴・三瓶 八幡浜から海岸沿い

主な見所
・諏訪崎
八幡浜港から海岸沿いに三瓶方面に行くとすぐ諏訪崎の入り口に着きます。
諏訪崎はは宇和海に突き出した約4kmほどの小さな岬です。正式には「自然休養林諏訪崎」と言います。「四国20景」に選ばれています。 
駐車場をおりて自然道を通って海岸へ降りて行くと展望台があります。
対岸(佐田三崎側や真網代側)から小さく見える赤い灯台と白亜の塔が真近に見えます。

・冒険とロマンの浜 源蔵前
大正2年、今から80年以上も前のことです小さな入り江、八幡浜市真穴地区の真網代源蔵前。アメリカに夢を馳せた川上の浦人15名が、太平洋横断を期し、小さな入り江真網代源蔵前からわずか15メートルほどの打瀬船と呼ばれる帆船でこの地を出航したのです。
北針(きたばり)と呼ばれる木枠の磁石を頼りに、伊豆大島から日本海流に乗った航海は、まさに死と背中合わせの危険をはらんでいました。
 途中何度も暴風雨に遭うなど、沈没の危機にもさらされたといいます。
苦難を乗り越えた船は日本を発ってから58日目、ついに憧れの地アメリカ、サンフランシスコ北のアレナ海岸に到着しました。。距離にして1万1000キロの移動――まさに大偉業でした。
 残念ながら数日後、乗組員一行は密航者として日本へ強制送還されました。
わずか50トンの小船で太平洋を横断し、勇躍新天地へと向かった15人の行動は、全米の新聞に「コロンブスのアメリカ発見にもあるまじき奇蹟なり」と報道された。また、そのことは真穴村の地元民にも勇気を与え、翌年、翌々年と夢を求める多くの若人たちが航海に挑んだといいます。そして、現実にアメリカで一旗揚げる者もかなりの数に上ったそうである。
この話は北針物語として浦人に語り継がれ、真穴の船出の浦に顕彰碑が建っています。
又、この話は「北針」 (1982年): 大野 芳著という本にも書かれました。
 八幡浜市保内町川之石の吉田亀三郎を始めとする5人が川之石港出航してアメリカ、サンディエゴ市北郊のフラットロック海岸に着いてから3年後のことでした。

・愛媛の海にあった巴里島

須崎鼻(須崎観音がある)北側に平行している島ですが地図で調べて見るとなんと!!島の名前は巴里島
一見ひょっこりひょうたん島の形にそっくりでまたびっくりです。
名前の由来をご存知の方いましたらご一報下さい。


 ◎愛媛の釣り情報はこちらからどうぞ!リアルに釣果情報もわかります。
        愛媛の遊漁船   
        http://dayzi.com


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事