|
↑ヨーロッパの墓地は日本のお墓より明るいイメージがありますね
死生学を勉強しています。 死生学と言っても、分野が広くて、たとえば、「死とは何か」と概念を扱う分野や、死に関する倫理を扱う分野・・・例えば生命倫理、死生教育を考える分野などなど、様々な分野があります。 で、死生学で死を考える時に、人称を通して考えると分かりやすいようです。 一人称の死・・・・自分の死 → リビングウィルなど 二人称の死・・・・愛する者の死 →見取りやグリーフケア(愛する人の死から立ち直るためのケア)なんかが入ってくるね。 三人称の死・・・・客観的な死 → 病院の死(死の判定)、臓器移植、ホスピス、介護施設などなど 昔はみんな自宅で亡くなったので、二人称の死は日常で経験できました。そして、自分もいつか死ぬんだなと一人称の死を自覚していったかもしれませんね。 ところが、今は、80%の人が病院で亡くなります。病院の死は、医師や看護師など、三人称の人たちによって担われます。医師の判断で死の時が決まることもあります。たとえば、家族が駆けつけるまで医療機器によって何とかいのちを持たせることもできますよね。病院では事務的に、客観的に、死が迎えられ、処理されていきます。今は看護師さんたちはターミナルケアをよく勉強されていて、本当に良くしてくださるところも増えてきましたが、それでもやっぱり家族じゃないから、三人称です。 脳死は、臓器移植を前提として作られた概念ですから、人間の死とは何か、という議論なしで、人の死を臓器としてしか見ない三人称の死の代表です。 三人称の死を客観的に理論的に知ることも必要なことだと思います。でも、三人称の死ばかりになったらこれはとっても危険なことではないかしら。 客観的に死を学ぶことと、それを自分と深い関係にあることとして認識するのは別のことです。 自分のこととして、あるいは、愛する人のこととして死を考える時にだけ、本当の意味で「新しい生」を学んでいくのだと思うのです。 死生学とは、「死を知って新しく生きる」ということを知る学問だと私は思います。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



学問としてはよくわかりませんが身近な人が亡くなったときなど自分はこれからどういう生き方をしていこうかと考えさせられることがよくあります。
2011/8/5(金) 午後 8:09 [ kanbarahujiwara ]
父が亡くなる前には、痛切に感じたことですね。
脳梗塞を起こしてから病院を移ったのですが、新しい病院の医者や看護士さんにしてみれば、父は初めから、意識があるのかないのかもわからない状態で接しているわけです。ほんの何ヶ月か前は普通に話せたし、動くこともできたというのに、そういう姿を全く見ていないのです。
だから、かえって何の感情を交えずに淡々とお世話ができるのだろうと思いました。それも必要なことではあるけど、そればっかりになっては、あんまりだなという思いがしますね。
2011/8/5(金) 午後 8:40
もうひとつ思ったことは、父は他に3人の脳梗塞の方がいらっしゃる相部屋に入れられたのですが、それぞれの方にそれまでの人生があったはずだということです。
赤の他人である私からすると、この人たちは、初めからその状態であったかのように錯覚してしまいがちです。でも、それはとんでもない話で、皆さん、前までは父と同様、あるいはそれ以上に、社会人として元気一杯に活躍されておられたはずなのです。 そういうことにも思いを馳せる必要がある、それが人間の尊厳ということかなとも思います。
2011/8/5(金) 午後 8:50
何だか、私には難しいです〜
ただ思うのは、病院での死が今は普通になっている事ですよね。
やはり、自宅で死にたいのが本音ですよね。
2011/8/6(土) 午前 11:52 [ - ]
藤原さん、そうですね。亡くなる人は残る人に何かを教えながら去っていきますよね。
2011/8/6(土) 午後 9:57
サビアさん、ほんとですね、ずっとベッドの上で生きてきたのではないのですよね。その人の人生に思いを馳せること、大切ですね。
人間の尊厳ってそういうことですね。
2011/8/6(土) 午後 9:59
お魚さん、自宅で死にたい・・・・やっぱりそうですよね。
病院の死は独特ですよ。みんなが機械に注目して死を迎えるんですよ。なんか違うよな〜って思いました。
2011/8/6(土) 午後 10:00
私は「死」についての問題に悩みます。私は死そのものは経験できないと思うのです。それでも他者の死は理解できるのではと思われますが、他者の外見の行動や状態でしか推測するしかないのではと思うのです。それなら他者の死にゆく苦しみなら理解できるのかというと、それは私のミラーニューロンが発火しているからであるということになるかもしれません。それのことが他者理解や他者への同一の可能性としての証拠として取り上げる人もいますが。反応しているのは「私」のミラーニューロンであって、他者そのものの苦しみとは関係ないのです。他者そのものの理解不可能性こそ、他者の尊厳ではないでしょうか。話が死から他者に移ってしまって変なコメントでごめんなさい。
2011/8/12(金) 午前 0:56 [ fwp*w*49 ]
ゆうじさん、ありがとうございます。誰も一人称の死は経験できないのですよね。私は、ミラーニューロンは、生きている世界(此岸)の共感の道具であると思います。そして、死は、彼岸と関わるまた別の次元の世界であると思います。だから、送る人と送られる人が別の次元にいるということを理解しないとイケマセンね。ゆうじさんが教えてくださったような、死における「他者の尊厳」は重要なことと考えています。つづく
2011/8/12(金) 午前 9:05
たとえば、「死にゆく苦しみ」は、実は、そう見えるだけであって、本人はそんなに苦しんではいないかもしれないという説はたくさんありますよね。だから、やっぱり、死を考える時には、一人称の死と2人称、3人称の死を分けて考えることが必要なんだなぁと思うわけです。
ちなみにアインシュタインは、死んでいった人たちについて、
「Those who have gone from us, are not very far from us. They are merely in different frequency」
と言っているそうです。死んだ人たちは消えてしまうのではなくて、この世とは違う、もっと別の次元(振動数の違う世界?)に生きているので見えないけれど、私たちの側にいるのだ、と科学者の立場で結論づけているってことですよね、おもしろいなぁと思って読みました。
あれ、ゆうじさんのコメントからずれましたか?ごめんなさい!
2011/8/12(金) 午前 9:14
あ、死を考える時は別の次元で考えなくちゃいけないと感じたのは、何度か記事にしたのですが、私の父の死で経験したことでした。特に父が亡くなる前に痛感しました。その時、とっても苦しかったんんです。彼岸と此岸ってこんなに隔たりがあるのか・・・って。こっちの世界でしか考えられない私は、父の尊厳を侵しているんじゃないかって。
↑
このことは、信仰にも関係あるんですけれど、今は、ゆうじさんの教えてくださった「他者の尊厳」を第一に考えるべきだったのだと心静かに思っています。
またまたそれちゃいました、ごめんなさ〜い。
2011/8/12(金) 午前 9:30
一人称二人称三人称と別けるのは我々の頭脳とその分別意識でじゃないだろうか。本来我々は肉体的に死にゆく生命であるけれども構成されていたものは元素に帰っていく。その元素は存命中の者も持っている。とするなら死と生存は物質的には別けられない。さて問題はその精神とか霊魂とかの問題に一人称の場合は移行せざるを得ない。肉体誕生のときに
個霊が懐妊受胎のときに入って死ぬときに出て行って存続するのだろうか❗もし掛かることあるなら其を誰が証明するのか。誰も現在の処、証明出来ない。そのような意味では論議すべきではないと思う。我々の生命は宇宙に生命が生まれて依頼関係性や原因結果の法則の中で生かされ消滅していく。その証拠は生者死者含めて今此処で現認されている。だから何の心配もないと思う。父母であれ兄弟姉妹であれ今貴方の中で生きている。感謝以外に何があろうか❗
2018/11/11(日) 午後 5:59 [ RUUNN ]