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本日、GW明けの会社に行くと宮城県の南三陸町出身の知り合いから
わかめをいただきました
元々知り合いの実家は、わかめを含め漁業で生計を立てていましたが
震災により壊滅的な被害で「廃業か」という考えが頭をよぎったそうです。
それが2年と言う月日が過ぎやっと漁が出来るところまできたそうです
そんな思いの詰まったわかめをいただきました
その思いを受け止めながら頂きたいとおもいます |
東日本大震災
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前回のがんばれ東北!!の続きです
山形県の米沢から会津若松に移動し、鶴ヶ城へ
その前に会津若松の酒蔵「宮泉銘醸」を見学
ちょっとカメラの調子が悪く、下の方が赤くなっていますが
気にしないで下さい
駐車場からの入口には、大きな樽が展示
この中に入って見ると・・・・マウスのように走りたくなりました
そして、酒蔵の入口と言えばこれ
「杉玉」!!
杉玉とは、
スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。
日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、
新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。
吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。
この色の変化がまた人々に、新酒の成熟の具合を物語る。
この「杉玉」の枯れ具合をみると美味しいお酒が出来ているようです
とは言っても運転があるので、試飲もできませんが
なので早速移動
そこで、歴史的展示物発見
それが
ん 戊辰戦争に使用された銃弾です
歴史を感じ・・・・いざ 鶴ヶ城・・・・の入口
向かって右に「ソースかつ丼」屋さん
ソースかつ丼屋さんは、スル―をして
城内に
お目見えしたのが、鶴ヶ城歴代城主家紋
そしていよいよ見えました 鶴ヶ城
昨年、改修したので外壁が綺麗になっています
いよいよ城内へ
途中の展示物は、撮影禁止なので鑑賞のみ・・・。
そして鶴ヶ城から飯盛山を見てみました
赤矢印が飯盛山です
飯盛山と言えば・・・・・・
次回最終回につづく。 |
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東日本大震災から約1年5ヶ月が過ぎました。
年月が経って何が自分に出来るか・・・
そんな事を考えて・・・・・
出た答えが・・・・・
そうだ
とういう事で、今年の旅行は東北に行って来ました
まず初日は、福島の穴原温泉天王寺 能と謡の宿 おきな旅館 に宿泊しました
ちなみにこのおきな旅館・・・
穴原温泉天王寺地区に、摺上川に面して建つ大正12年創業の老舗宿。
料理自慢の宿として地元でも評判で、
親子の板前が仕入れから調理、盛り付けまでを受け持つ和食膳は絶品。
地元の素材を贅沢に使った料理の数々を、目と舌で楽しみたい。
また、皮膚病に効能が高く「医者に行っても治らない時は天王寺へ行け」
とまで言われる天王寺の名湯は、もちろん源泉かけ流しで。
ポリタンクやペットボトルで持ち帰ったり、リピーターになる湯客も多いのだとか。 四季折々に変化する渓谷美と美食、
名湯が織り成す旅情をたっぷり堪能できる。
お出迎えは
ペットも宿泊可能と言う事で、宿の猫ちゃんがお出迎えしてくれました
でもこの時期なので、猫ちゃんも夏バテ気味だそうです
この宿で出た食事が
米沢牛があり、刺身があり
そして
カニまであり、凄い量でした
もちろん全部、美味しゅう頂きました
そして次の日は、米沢に行き
上杉神社に行きました
この上杉神社は、
明治9年、上杉謙信公、上杉鷹山公を祭神として、米沢城本丸跡に建立されました。
明治35年に別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ=明治政府が定めた神社の位置づけ、 分類を表す。国に尽力した人物を祀る神社)に指定され、
このとき祭神は謙信公のみとなり、鷹山公は摂社に祀られ松岬神社となりました。
大正8年に起こった米沢大火で類焼、ほとんどの建物が焼け落ちてしまいましたが、 その後国からの援助金や米沢市民の労働奉仕などにより、
大正12年、現在の神社が完成しました。
設計は米沢出身で、神社建築の第一人者伊東忠太博士です。
上杉神社は今でも米沢市民の心の支えとなっていて、初詣やお宮参り、 結婚式や安全祈願など、四季を問わず多くの市民が訪れています。
神社内には、上杉神社の宝物殿である稽照殿があります。 そしてこの稽照殿の展示物が凄いんです
直江兼続公の「愛の兜」が展示してありました
もちろん撮影禁止なので画像はありません
代わりに
直江兼続公とそして大河ドラマの
何だか悩んでいるようです
そしてもう一人
上杉鷹山公です
上杉鷹山公と言えば、このお言葉
この言葉を読み返していると、鷹山公の血液型はO型?と思ってしまいました その理由は
ただ、なんとなくそう思っただけです
そしてその後、米沢ラーメンを食しにいきましたとさ
シンプルラーメンでした
続く |
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一昨日のテレビ番組で高校生達が避難所で
非常に良い動きをしていると取材をしていました。
その高校生は、配膳の準備から避難所の掃除・物資の積み下ろしまで・・。
何から何まで。
これが当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。
ただその高校生達の中には、未だに親が行方不明の状況にも関わらず一生懸命仕事をしている
その一人の高校生
なるべく気がまぎれるようにしてします。」
他の高校生は、「震災の事は聞かないでほしい・・・。
なぜなら傷口をえぐられるようで辛い
言われればそうだ。
震災に遭った方々は、辛い状況から何とか脱しようとしている。
我々は、その状況を思いクヨクヨしても何も変わらない
辛い状況から脱する為に何が出来るのかもう一度考えたいと思う。
もっとメンタルな部分の手助けが出来ないものか…。
そう思うと無力な自分を感じる・・・。
でも自分なりの本当の復興の手助けを改めて考えたいと思う今日でした。
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今回の東日本大震災で、安否情報が良くでています。
連絡手段が途絶えている中で、非常に頼りになる情報だと思っています。
自分の知人の親・兄(南三陸町)の安否は、安否情報では確認が取れず
内陸に住んでる姉が確認をしたようです。
いくらこちらから連絡しても中々確認が取れずヤキモキしていた所の連絡でした。
そこで気になる事が一点・・・。
いろんな所で安否情報が出ていますが、あの情報は共有化されているのですか
疑問です。
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