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クリスマスメッセージ
楠堂由美牧師
ヨハネによる福音書一章十四節
ことばは人となって私たちの間に住まわれた。わたしたちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
「この方」が来られたことを喜び祝うのがクリスマスの意味であると考えます。
ユダヤ教は旧約聖書のみを信じて、それを宗教としています。ユダヤ教徒にとってはメシア(救い主)はまだ到来してはいないというのです。
しかし、真実は、「イエス・キリスト=救い主」は確かに来られたということです。そして不完全な人間の罪すべてを十字架で購ってくださったのです。人間は、どこまでいっても、完全を求めて修行し、努力し、わが力で自己を変革しようと、必死に前進する存在です。いわば、宗教を生きてしまうのです。けれども、どんなことをしても、不完全な存在である人間が完全に罪のない者になることなどできません。けれども、イエス・キリストを救い主として受け入れた者には『神からの義を受ける特権』が与えられます。2000年以上前に、十字架の上で、私たちの罪の処罰はすべて完了しました。これを信じて受け入れるなら、救われた人生を生きることが可能なのです。
ヨハネの手紙第一章九節
もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにはありません。
この御言葉にあるように、自らの偽りを言い表すならば、清くなるのです。神は光です。光は闇を照らします。そして光は暖かく、そこには救いがあるのです。これに反してこの世は闇であり、ここには死があり、病があり、憎しみと責めがあります。
もし私たちが光の中を歩むならば、信じる者たちとの交わりを楽しむことが出来ます。世の交わりは。えてして相手の罪を意識し、どこかで責め心、憎しみ、ねたみが介在してしまいます。しかし、キリストを中心に据えた交わりには、赦しがあり、そこには平和がもたらされるでしょう。人間にはみんな罪がありますが、それをキリストに在って告白し、キリストに在ってへりくだるとき、平和な交わりが可能になるのです。
キリストを心に招けない人には理由があるでしょう。おそらく、一点のシミも傷もないきよい方=キリストを自分の心に招いたら、自分の汚さが見える・・という怖れがあるのかもしれません。しかし、怖れる必要はないのです。自分の中にある悪を告白するならば、十字架の恵みの力によって、その悪は即刻取り除かれるからです。
また、私たちは苦手な人というものが存在します。しかし、その人のためにもイエス様が十字架で血を流し死んでくださったのだと理解するとき、その人を愛せるようにはならないでしょうか?
ここに、神の命の結実を見るのです。
クリスマスのこの時期、この愛と命のキリストをみんなに伝えましょう。
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