児童文学と音楽の散歩道

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季刊『飛ぶ教室』22号(東京書籍)に収録されている連載
『神宮版 戦後児童文学史⑨』は、刺激的な論考だった。
 
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筆者、神宮輝夫は、英米児童文学の権威。前の記事『オックスフォード物語』でも見事な訳文をものしている人。『アーサー・ランサム全集』はじめ、アラン・ガーナー、タウンゼントなど現代英米児童文学翻訳の第一人者で、岩波書店から翻訳が出るずっと以前に『ゲド戦記』を日本に紹介していた人でもある。
実績は英米作品にとどまらない。当連載は、氏の日本児童文学論の総決算として書き継がれていると思われ、児童文学史への思い切った考察が打ち出されている。本誌で、私が最も楽しみにしている連載だ。
 
第9回は『リアリズムの実験』と題されている。1960年代、日本の児童文学界を席巻した、いわゆる「テーマ主義」について論じている。
論の柱としてまず例示された作品は、二作。
 
道子の朝』砂田弘 1968
絵にかくとへんな家』さとうまきこ 1972
 
砂田作品については、これ一編に
余命一年と宣告された母親
父のかかわる三池炭鉱の労働争議
ベトナム戦争反対運動
という深刻な社会問題を三点も取り上げていることを挙げ、作者はこれらを特にテーマとして打ち出すことなく、主人公の日常の部分として取り扱うことで自然に読者に伝達できることを意図しているが、そのためにストーリーもテーマも印象を弱める結果になったと読む。
一方、さとう作品については、表現力の豊かさと新鮮さで読者を引き込む力をもっているとしながらも、ベトナム戦争中のアメリカ軍脱走兵という存在を尖鋭に取り上げていることがひとつの原因となって、過去の作品となってしまっている事実を伝える。
 
戦後、膨大に書き続けられた「政治的、あるいはイデオロギー主体のテーマを含む」作品群。神宮は、これらが子どもの文学に相応しいのかという議論は当時からあった、としながらも、「相応しかろうとなかろうと、これからも必ず繰り返し登場する」作品傾向に間違いない、と述べる。
本文から引用する。
 
>子どもに向かってイデオロギーを説き、それを基礎とした政治を子どもに教える創作は無意味だと思う。それでも、わかるように様々に工夫して語る大人の作家は後を絶たないだろう。子どもにそうしたテーマを語りたい大人は必ずいるからだ。そして、いつの時代でも、子どもに無用、無縁と批判され、非難されるだろう。それでもポリティカルな、あるいはイデオロギカルな作品は必要である
 
なぜなら、それでも、これらの作品は子どもの文学を良い方向に向け、面白さを高める力になってきたからだ…と神宮は述べている。
「無意味だが、そういう作品は必要だ」
思い切った文言だ。要するに、書き手の必然が読者の必然とは限らない。それでもなお、作家たちは書きつづけてきた。これからもそれは変わらないだろう、と言っているのだ。
 
神宮輝夫の考察は、ここで終わらない。彼は続けて児童文学におけるリアリズム作品そのものの存在意義に疑問を投げかけていく。
 
戦後日本児童文学におけるリアリズム作品の傾向は、日本独自のものではない。当時のイギリスの文学の潮流とも共通し、文化の違いを超えた普遍性の高い発展ぶりを示しているとしたうえで、戦後1945年から2000年までの創作は、「童話」という貧弱な基盤しか持たなかった日本の児童文学を「メッセージ、主張」を表現するに足る密度の高い、面白さを持つ作品を生み出す媒体「リアリズム」へと進化させる「実験」であったとする。
1970年代の今江祥智、灰谷健次郎、竹崎有斐らの長編小説群は「主張」が「作品」として力を獲得した実験の成果であったと神宮はみている。
 
私が児童文学の魅力を知り、その充実ぶりに驚き、毎日夜を徹して読みふけったのは、これらの作品だった。そのとき、確かに児童文学は「童話」から「リアリズム小説」に生まれ変わろうとしていて、私は、これらの作品の「誕生のエネルギー」に、圧倒されていた。
 
しかし、神宮は、その後十年の状況を見渡したうえで、こんなふうに語らざるをえない。
 
>子どもの文学は基本的には物語なのかもしれない
 
長編群出版が一段落した70年代末から80年代にかけて広がっていったのは「小説」ではなく「物語」だった。那須正幹、三田村信行、舟崎克彦による「シリーズ」が次々に登場し、子どもたちに広く受け入れられていったのである。
 
>これは、子どもの文学の中心にリアリズムが収まってよいのかという強烈な問いかけになっているのではないだろうか。リアリズム作品と物語とは本来モティーフが違うからである。
 
子どもの文学は基本的には物語、という判断は、「広がりと深まり」を目指して長編作品を世に問うてきた作家たちには酷な問いかけとも見える。
しかしここで思う。70年代に私が熱中した長編群は、はたして真に子ども読者の心をつかむことができたのだろうか。
理論社を中心に次々に出された、長編の山脈に含まれていた作品は、今や、(少なくとも子どもの本の体裁では)見かけることが少なくなった。あの、いつも前を向いて歩んでいた今江祥智までが、90年代のエッセイの中で
>こんなはずではありませんでした
と慨嘆するのを読んで、私はずいぶん驚いたものだ。
 
それでも、神宮輝夫はリアリズム作品の存在価値を否定してはいない。
「悲劇に耐えうる健全な精神に裏付けられた」筆の力によれば、「ごく些細な出来事でも、特別珍しくない平凡な情景も、どこにでもいるような人たちも、…まるで眼前に動いているようなみずみずしい出来事、情景、そして人間たちに変わる」からだ。
 
そうした作品の最良の例として、二度にわたって名を挙げられている作品がある。
 
ざわめきやまない』高田圭子 1989
 
私もこの一冊には魅かれた。「小説」と「物語」の接点がここにあるのだとすれば、もう一度読み直してみなければ…

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