児童文学と音楽の散歩道

8月13日 新ブログに移行しました。これからもよろしくお願いします。

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先週は三日間の宿泊行事の仕事あり。
生徒たちの面倒見も大変だったが、職員間で迷い、悩む場面が多くあった。
夜はさながら合宿研修の様相となり
生徒たちの成長を支えるためには、教員も成長が必要ということを感じさせられた。
「みんながすばらしい生徒になれば、私たちも今よりずっとよい教師になれます。
これからも共に成長していこう」
解散式で話した言葉である。


明けて土曜日。
名古屋大学で行われた
映画「王と鳥」上映会・高畑勲監督講演会に出かける。
大学祭たけなわのキャンパスは、模擬店、ステージ立ち並び大賑わいである。そんな中
本企画は、教育学部の一教室を使用。
内容人選から想像して入りきれないほど多数の参加者があるのではと予想していたが、
百人入らないかの中教室で八割の入り。
祭の喧騒とは打って変わった静かな熱気漂う時となった。

「王と鳥」はポール・グリモー監督、ジャック・プレヴェール脚本による
1979年度制作のフランスのアニメーション映画。
かつて53年に制作され、製作スタッフ不本意の形で公開されてしまった伝説的作品「やぶにらみの暴君」の改作完成版とのことである。

プレヴェールは学生時代から愛読する詩人であり、
往年の名画「天井桟敷の人々」をはじめ多くの脚本も書いた。
「やぶにらみの暴君」も題名だけは知っていたが、これまで見る機会がなかった。

84分の作品を見終わって感じたことは
映像の巧みさはもとより
ストーリー
寓意性
音楽
言葉の練り上げられた見事さ
どこをとっても驚くべき高みにある作品であること

日本のアニメーションに一時代を築いた
高畑勲 宮崎駿を核とするスタジオジブリの作品の源流は
すべてこの一本にあるということである。とくに
宮崎駿の初監督作品である「ルパン三世 カリオストロの城」は
この作品の転生、もしくは「本歌取り」と断言してよいほどだ。

高畑監督の講演はまずこの映画を見ることを前提としておこなわれたもの。
ポイントを絞って紹介するのは難しいが
少数の聴衆のみが知るには惜しい内容と思う。
私の主観を通したメモからではあるが、報告してみたい。



「王と鳥」は日本にはない類の映画である。「乗れない」人も多いのでは。
なぜなら、今日本でヒットするのは「乗れる」「思い入れのできる」映画だから。
「王と鳥」を見た人は、登場人物のだれに思い入れをすればいいのか、と当惑するかもしれない。
それは、日本特有の現象。「カタルシスのある映画作り」が主流で、ヒットすれば作り手も同じような作品作りが上手になっていく。
「ドキドキ」は心臓の鼓動 日本はこのドキドキが発達、肥大している国だ。
擬態語。精神心理状態を言葉にしたもの。明治時代は「下品」とされたが、日本人は基本的にこれが好きである。「ルンルン」なんて擬態語は、最近できたもの。作るのも好きなのだ。
「ドキドキ」と「ハラハラ」は分けられる。
日本人が見たいのはドキドキするものだ。
ハラハラとは、一歩引いて外側から見ている状態をさす。
落とし穴はハラハラ。観客は知っていて登場人物は知らない状態。
暗闇はドキドキ。主人公といっしょに迷う。
アニメを世界に広げたディズニーはハラハラの作り手だった。
「ピノキオ」は初期にしてディズニー映画の到達点を示した作品と考えるが、
最後に出てくる主人公がクジラに追いかけられる場面は典型的な例。
視線はずっと横からであり、観客はハラハラし続ける。今の映画なら主人公の目線でクジラが眼前に迫り、食われるアップ、つまり縦のカットを入れるところだがそれがない。
映画はあくまでハラハラの作り。それを補いドキドキの体験を提供するために作ったのがディズニーランド。乗り物に乗せて別世界に観客を送り込む。そこで物語の世界を観客が直接体験できるようにしたのだ。

日本のアニメの主人公は暗闇に足を踏み込んでも、ためらわず前に進む。ドキドキだ。そんなときはじっとしているのが得策なのに、無謀にも進むのだ。
多方向から襲い来る敵。それを主人公は次々に倒してしまう。なぜわかる? なぜ倒せる?
どこでその技を身につけたのだ。
身につけなくていいのだ。それは「愛と勇気の力」だから。

泣けた! それは強い興奮からのカタルシス。
鳥肌が立った!いまではよい意味に使われている。
癒し…昔は病気が治ることだ。私の大きらいな言葉だ。みんな病気か。

日本の長編アニメから「笑い」が消えつつある。宮崎アニメからも。
たとえば「千と千尋の神隠し」
笑いの要素はあるのに、それを見ないで千尋の目でしか見ていない論、観客が多い。
豚にされた両親を豚の群れの中から見つけ出そうとする場面があるが
そこに両親がいないことを千尋は見抜く。
なぜいないとわかったか。みなさんはわかりますか。
それはわかること自体が「観客の願望」だから。
これでは乗り損ねたらついていけない。
あの作品にはそういうところがある。

「王と鳥」はそう簡単にはついていけない。しかし、楽しむ方法はある。
登場人物に肩入れしてみるのではない見方、
われを忘れない見方、覚醒して見る見方を要求する映画なのである。
「小説」に近い。例外もあるが言葉を媒介にするだけ客観的なのが小説。
そんな覚醒あって理解できるすばらしさなのである。(以下次回)

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天空の城ラピュタともののけ姫の監督が火垂るの墓のように高畑勲だとしたらどのような作風に仕上がっていたのでしょうか?

2018/1/15(月) 午後 9:33 [ パズー ]

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> パズーさん
両作品とも原作脚本が宮崎駿自身。高畑勲はどちらかというと絵の人ではなく文字の人なので、宮崎駿のビジュアルな原作を映像化することはできないのではないかと思われます。

2018/1/15(月) 午後 9:50 [ yositaka ]


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