児童文学と音楽の散歩道

8月13日 新ブログに移行しました。これからもよろしくお願いします。

児童文学の部屋

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講演会がひと段落した後は、場所を教室に移し、茶話会形式でトークイベントが行われました。

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聴講者から寄せられた質問にほそえさんが回答するというもの。
寄せられた質問は多種多様でした。形で会は進み、編集者の仕事から本のつくり方まで、さまざまな質問が寄せられました。そのなかから特に印象に残ったやり取りを紹介したいと思います。

■24時間編集者

「編集者はやった仕事で評価される」
昔は女性編集者は少なく、本当の打ち合わせは飲み会ということが多かったのです。しかし、付き合いではなくやった仕事で信頼を売る方法を編み出すうちに、状況が変わり、最近では昼間の打ち合わせも増えました。この業界はとにかく、まず潜り込むことが大事。あとは経験と実績です。
ただ、出版社は景気が悪いとすぐに人を切ります。フリーランスでもやり切る覚悟も必要です。
自分の興味が仕事になる。会いたい人に会えるのはこの仕事の大きなメリットです。でも、いつもネタを考えているのでまわりのことがおろそかになりがち。私の場合、夫が作家(いとうひろしさん!)なので24時間編集者みたいなものですが…

「作品には伝えたいことが必要なのか?」
読み手も書き手も“伝えたいこと”を限定的に捉えがちだと思います。伝えるとは、心を動かされたことを形にするということ。何かを生み出そうとすると、伝えたいことは自然と形を帯びるものです。漫画の線一本取っても、そのスピード感で主人公の思いなどを表すでしょう。その線のタッチを見てほしいと思うのも、十分“伝えたいこと”になりえます。そのとき、読者を自覚する。その自覚が伝達の力を伸ばします。

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「おもしろい文を書く人の共通点」
五感の発達している人。対象を観察する力が鋭い人。他人の事を自分のように、自分のことを他人のように書ける人。

「グレード(対象年齢)について」
子どもの本はグレードで内容が決められます。出版社は気にしますが、作り手は一般に気にしないことが多い。そこでグレードに関しては編集者主導で進められることも多いですね。
絵本よりも読み物の方がグレードの問題は難しい。
病気の女性の話もネコと動物が出てくると児童書になったり。連載から本にするときに子ども目線で書き直してもらうこともあります。すると、一般向けの小説が、中学生向けの本に変わることも。
もちろん話の根本は変えません。でも「中学生向けの器に落とし込む」ことで、読み手の世界を広げる可能性もあるのです。
作家というのは、自分が思っているほど、自分の作品世界が分かっているわけではありません。むしろすぐやりやすい形で、楽にやりたい傾向が強い。書きたい事ばかり書くが大事なことが抜けていたりすることがある。それを指摘することも編集者の役割です。

格差社会で、親からも子どもが阻害される状況で、子どもが本を読むトレーニングが不足しているのは深刻です。学校でのアクティブラーニングもこのままでは低レベルにとどまりかねません。

癒されない、可愛がられないでくすぶっている母親も多い。そこで子ども向けの名目で、実は母親を癒すための本も多くなっています。本の売り方も変わり、作り手の方も、だんだんとグレードを意識しなくなっているのが現状です。
学校司書や教員は、子ども向けの振りをしている本を、決して子どもに紹介したり読んであげたりしてはいけないと思います。
そういう本が出回るのも編集者の責任ではありますが、逆のケースもあります。一般書から発見し、子どもの本に「救い上げる」ようなケースです。「やましたくんはしべらない」も、そうでした。

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■ネコパパ感想

第一線の編集者の観点は、作家や評論家とは一味違いますね。一般読者の視線に近く、かつ「世に広げたい」という意欲が、前のめりの熱気を感じさせます。
参加者が就活中の学生さんというのも、お話にリアリティをもたらしていました。

講演で特に印象的だったのは、デザインの洗練に走りがちな子どもの本の現状に対し「必要なのはクリエイトの力」と主張されていること。ネコパパも大いに同感です。人を魅了する、センスに満ちたビジュアルデザインの本が書店には溢れていますが、ネコパパも老いたせいか、それだけで手に取ろうとする気にはなかなかなれません。何かありそうな本は、デザイン以外にも必ず何らかの「ピンとくる感触」というか「匂い」があるもので、それは「クリエイトの力」が滲みだしているのかもしれませんね。

後半のトークイベントでは、席が近いうえに質問形式、一層ほそえさんの「生き方」に迫るお話が聴けました。とりわけ「作家は自分が思うほどには自分の作品が分かっていない」の一言は素敵でした。このあたりのお話は、「子どもの実存を表現する作家」いとうひろしさんを夫とするほそえさんならではの実感が込められていたと思います。学校では「作者の言いたいこと」を読み解くのが金科玉条の真実とされがちですが、編集者、そして読者あってこそ作品は成立するのだと思います。子どもの読み方はいつもポストモダンなのでしょう。

「出版社はすぐ編集者を切る」という厳しい現実も語られました。
同席の学生の中にはその道を目指す人もきっといたはずです。その厳しさを承知のうえで、この業界に果敢に歩み出す人が一人でも多いことを願わずにはいられません。
前回に続いて、ほそえさちよさんの講演記録からの抜粋です。
講演の後半は、作品をプロジェクターで提示しながら、子どもの本のビジュアルデザインとクリエイトの違いについて解き明かす試みがなされました。


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■作品に沿って―交錯するデザインとクリエイト

最近はビジュアル面でかっこいい本が多く、イラストのセンスも優れたものが多いのです。
「シャクルトンの大漂流」

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ウイリアム・グリルはベテランの広告イラストレーターで本書が初めての子どもの本。ビジュアルのすばらしさも手伝って、とても好評。高価ですが売れています。

「サルって、さいこう!」

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これもイラストがすばらしく、内容は図鑑に近い、科学的な解説ですが、勉強の本という感じがまったくありません。

「MAPS 新世界図絵」

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原著者コメニウスと同じポーランド出身の作家による、エッチングの手法を用いた本。実は内容に違和感があり、個人的には日本語版が出るとは思いませんでしたが、徳間書店から出て、ヒットしました。どちらかというと大人が楽しむ傾向。
でも私には、やはり違和感があります。詩人の長田弘さんも同様の意見でした。
世界を俯瞰する愉しさの一方、アウシュヴィッツなど負の遺産がかかれていない。ポーランド人なのに。また、文化のステレオタイプが見受けられセンスの古さも感じられます。本の評価は、書かれているものだけでなく、書かれていないもの、その理由を考えなければできません。「批評」の大切さがそこにあります。
デザインは”ものごとを分けて指し示すこと”を、クリエイトは”ゼロから生み出すこと”を意味します。
ゼロからかたちづくる”クリエイトの力”を発揮した作品づくりは本当に難しく、新しい表現や考えほど、現代では理解が得られにくい節があります。デザインとして優れていても、それだけでは不十分。「クリエイト=見えないものを見えるようにする力」が必要なのです。しかし、デザインの良し悪しはわかりやすく、クリエイトの良し悪しはわかりにくい。その本が「児童文学」かそうでないのかは、子どものクリエイトの力を信じているか、そうでないかにかかってくると思います。

「クリスティーナとおおきなはこ」

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1971年刊行としては、古風なつくり。でも、描かれているクリスティーナのダンボール遊びの様子は、すばらしい!しかも、繰り返して読めば読むほど新しく感じてきます。「お話」がきちんと書けているのです。子どものクリエイトの力も。
現代には、それがかけている本は、ほとんどないとさえ言えますね。

「はこははこ」

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2006年刊、「クリスティーナとおおきなはこ」とは違って、日本語版はすぐ翌年に出ました。
キャラクターのウサギがかわいい。文字の色分けや人物ごとに白抜き文字の色を変える工夫。内容は一種の認識絵本で、絵に語らせる高度なデザイン技法が使われています。読み聞かせている大人は、おそらくそれを理解しないでしょうが、細部の工夫に敏感な子どもは瞬時に見分けます。
現代絵本のビジュアルの高度さを示している一冊です。すばらしいけれど、何かが欠落しているようにも思えます。

次に、読み物。

「あたらしい子がきて」

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出産のためにお母さんが入院。
訳知り顔にその状況をやりすごす主人公は、そんな自分を「すてき」と思う…
8歳か9歳の語彙だけで、子どもの心の屈折を描き出しています。
岩瀬成子は、そのときの、その子のボキャブラリーでどこまで表現できるかを追及しています。「子どもにわかるのか」と議論が分かれていますが、これこそ児童文学だと私は思います。

「おさるのよる」

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はじめて「夜」に向かい合うおさるの、おそるべき実存が描かれた「子どもの本」です。
「死」を乗り越えたり、受け入れたりすることが書かれた本は数多くありますが、「ここに存在する」とはどういうことか、を真正面から書いた本というのは、そうあるものじゃないでしょう。これが、対象年齢5、6歳向けの本として出ているのです。
子どもは無防備に「問い」を撒き散らすことで、ここにいるという安心を確保しています。そんな子どもの姿をとらえているのが、本書を含む「おさるシリーズ」です。

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3月26日に拝聴した講演会の報告です。ゼミの学生さんを交えた会で、出版関係の進路を希望している若い人たちが大勢参加していました。
講師のほそえさちよさんは児童書編集者で、
ご主人はなんと「あの」絵本作家の…
それは読んでのお楽しみ。
以下、ネコパパの、当日のメモを元にした報告です。

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子どもの本づくりのおもしろさとその重層性

2019326日 愛知淑徳大学長久手キャンパス
講師 ほそえさちよ(編集者・書評家)
 
■初めて編集した絵本
 
1989年バーバラ・クーニー「ルピナスさん」が初編集です。
出版社に入社して三か月目に編集部に入り、そこにあった原書の山から選び出して企画書を書いたところ、採用されたのです。ところが作家の情報もなく、元出版社との連絡もなかなかうまくいかず、アメリカンセンターで調査しました。

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この本を選んだのは、まず絵がきれいだったこと、「女の一生」を描く絵本だったことです。たった32ページの中に一生が詰め込まれている。それに驚きました。子どもに読めるか、ではなく、私自身が読者に読んでもらいたいと思いました。
訳は掛川 恭子さんに依頼。
岩波書店から出ていたペイトン著「フランバーズ屋敷の人々」が好きだったので、まっさきにお名前が浮かびました。連絡すると早速来社され、作品をご覧になり、承諾いただきました。
掛川さんの訳文は「深さ」が違っていて、多くを学びました。
 
しかし、出版当時の批評はあまり好意的でなく、「子どもには難しくて読めない」という意見が多かったようです。それから30年が経ち、今では古典として扱われているのがうれしい。この絵本が出版された1989年は、いわゆる「大人の絵本」の出始めの時期で、子どもよりも若い女性からの支持が多かったのです。
これが私の子どもの編集者としての第1歩でした。
 
出版社に入社するまでは、学生の同人誌を作った経験しかありませんでした。それでも運よく出版社に拾ってもらえたのは、その少ない経験をもとに「私は編集の仕事ができます」と、自分を売り込んだからです。出版社というところは、ストレートな入社は難しいが、「すぐ使える人間」を求めているため、そういう小ワザでルートが出来たりする。面白い業界です。
 
■「出会い」から編集が始まる
 
一冊の本が生まれるには、多くの人がかかわります。
アメリカでは著者から営業まで、10のセクションを通るといわれます。日本なら、アメリカにない「取次」という役割もありますね。
一方、アメリカが日本と違うのは、デザイナー、アートディレクターの力が強いことで、テキストからの制作の場合、画家を選ぶところからがディレクターの仕事になります。画家が決定して仕事に入ってからも、ラフスケッチの段階から積極的に意見を出してかかわります。
その役割を、日本では社外の人がやることが多い。制作過程に責任を持ち、必要に応じて意見を出すのはもっぱら編集者です。そのため。本に対する深い認識が求められます。
 
子どもの本と大人の本との違いは、読者(子ども)が自力では買えないこと。購入権限は親。読者に二つの層がある点が一般書とは大きく違います。親意外にも、教師、図書館司書も購入にかかわります。学校図書館では教師の教育的意識が選書に大きく影響します。そんななかで、子どもに受け入れられる読みやすさと、編集者の作りたい内容の、どちらも高めていかなければならないわけです。

さて、編集の始まりは「出会う」ことです。
例えば、私はこれまでに新人賞の下読みを随分やってきました。そんなとき、「はっ」とする作品に出会うことがあります。5年か10年に一度、人数にすると500人に一人くらいの割合でしょうか。「天山の巫女ソニン」の菅野雪虫さんの作品との出会いもそれでした。これを読んだときは衝撃と直感が働いて「必ず本にしよう」と感じました。

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日本ではまだ紹介されていない本との出会いも、人との出会いと同じくらい重要です。
インターネット時代の現在、古い本も随分見つけやすくなり、復刻版を出すことも「実物が一冊」あれば可能な時代になりました。
例えば平凡社から出版された19世紀ドイツの絵本作家ジビュレ・フォン・オルファースの「ねっこぼっこ」シリーズは、現代に通用する大変美しい絵本ですが、原画は失われていて、すべて当時の印刷物から起こしたものです。 

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■本作りは「読む」「待つ」「広げる」
 
子どもの本、とくに絵本作りには時間がかかります。
長くて5年。その間ずっと考え続ける作者たちと伴走することで、本当に面白いものが生まれてくる。
壁にぶつかったと思っても、待つうちにふっと、つながらないと思っていたものがつながる。ものづくりは、そういうものです。待つ力が大事です。
つくる立場を目指す場合でも、それは言えます。
編集部にラフスケッチを持ちこんで売り込んでくる人は多いのですが、私が内容について感想を言うと、修正しないで没にして、次にはまったく新しい作品を持ってくる…そういう人が多い。でも、これでは成長がありません。
 
読者がいなければ、本はないものと同じです。少しでも多くの読者に、広げ、手渡すことも編集者の仕事だと思います。
そのために、ブックガイド作りの仕事にも積極的に携わりました。
「明日の平和をさがす本」「多文化と出合うブックガイド」(読書工房)などです。

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これは、毎年膨大に出される出版物を縦の線(時系列)と、横の面(ジャンル別)に整理するという、自分にとっての意味もあります。
時系列なら、作者にとってこの年の作品は…と、キャリアを通しての足取りを確かめることにもなり、ジャンル別では、この年にはどんな傾向の本がよく出ていたのかを確認する意義もあります。ジャンルの構成要素は毎年移り変わっていくのです。多様な視点で未知と既知、それぞれの本を読む深さが違ってくる。その結果を、読者に広げる。これは、ブックガイドを編むことでしか表現できないことです。
 

 

追悼 谷内こうたさん

画家・絵本作家の谷内こうたさん死去 71歳
7/23(火) 14:54配信 オリコン

画家・絵本作家の谷内こうたさんが7月2日、自宅にあるフランスのルアーン病院で、脳溢血のため死去した。71歳。葬儀は7月12日にルアーンで近親者で執り行われた。偲ぶ会などの予定はない。

谷内さんは、神奈川県川崎市出身。多摩美術大学中退。本名は鋼太。叔父の画家・谷内六郎のすすめで絵本制作にはいり、1971年『なつのあさ』でボローニャ国際見童図書展グラフィック賞、79年『のらいぬ』、81年『つきとあそぽう』でブラチスラバ世界絵本原画展 金のりんご賞、83年『かぜのでんしゃ』で講談社出版文化賞、絵本賞、98年『にちようび』でスイス、エスパースアンファン賞を受賞。

80年よりタブローに取り組み、92〜95年週刊新潮表紙絵を担当。画集に『木かげに』『ノルマンディー便り』『緑と風の丘』など。丸善、飯田画鹿、日本橋高島屋で個展。2017〜19年栃木市サンルートアートギャラリー、2011〜19年銀座ギャラリー杉野にて個展を開催。

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切り詰めた言葉と、絵に語らせる表現で孤独な少年の内面世界を描き出した絵本作家でした。
高校生の頃、名古屋栄の丸善で開催されていた絵本原画展で「のらいぬ」に出会い、ネコパパの絵本観は大きく揺さぶられました。
いわゆる「カルチャーショック」を受けたのです。
こんな絵本があるのか。
若い世代の絵本作家が、日本でこんな作品を生み出し、「本」として立派に流通している。
とすれば、これからの絵本というのは、決して子どもだけが楽しむものではなく、あらゆる年齢層に「自分の中の子ども」を発見する表現媒体になっていくのかもしれない…

谷内さんの「のらいぬ」について、今江祥智はこんなふうに書いていました。

いわゆる物語(ストーリー)そのものはほとんどなくて、絵自体が語りかけ、一冊の絵本の展開の中で物語が語られ閉じますが…絵本を閉じたあとに、物語が、絵が残り、広がります。けれど、まことに感覚的なこの絵本群は、それを手にした読者との順応が鋭ければ実に柔らかくその脳裏に染み込み、おそらく生涯心に残る一冊になりましょうが、反応がなければ、突き抜けられない鏡に似て読者の前に立ちふさがってしまうものかもしれません。(今江祥智「至光社の絵本」1973.12−『絵本の新世界』所収 1984大和書房)

大勢の子どもたちに広く受け入れられるのではなく、「100人にひとりの子ども」の生涯の友となる作品…今江祥智は谷内作品に、日本の絵本の多様な広がりへの可能性を見ていました。読書運動の文脈で「おすすめする」「読み聞かせる」「みんなで楽しむ」のではない、「ひとりのための」作品群の始まりを予感していたのです。
それからおよそ半世紀が過ぎて、いまや「なんでもあり」の盛況ぶりを呈している絵本の「業界」ですが、作品の多彩さに反するように、読書運動の文脈は相変わらず強固に揺るがないようです。
そんな中で、谷内さん描く「砂山に佇む、ひとりぼっちの子ども」は元気でいるのでしょうか。そして、そんな登場人物を必要とする実在の子どもたちは、この作品群にちゃんと出会っているでしょうか。
心配になります。

思えばネコパパも、この訃報を目にして初めて、谷内さんの作品を随分長く紐解いていないことに気がつきました。
いまいちど読み返し、いや見返して、昔日の感性が錆び付いていないか、作品が「突き抜けられない鏡」になってしまっていないか、おそるおそる確かめてみたいと思います。

谷内こうたさんのご冥福を、心よりお祈りいたします。



ネコパパの漫画読みは「厳選主義」(ゆきあたりばったり)なので、優れた作品を随分読み逃していたりするのですが、そんななかでもとりわけ注目している作家さんが何人かいるのです。
藤田和日郎は、その筆頭にあげられるひとり。
そんな氏の原画展が開かられるというので、喜び勇んで行ってきました。

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小さなコミックスの版形で見ても、襲いかかってくるような勢いのある筆致は、原画で見るとますます冴え渡っています。
ライヴペインティングの「大壁画」も展示され、そこからもわかるのですが、「筆のしなり」を生かした描線が生きている。
着彩された扉絵、表紙絵の色使い、ことに青色の階調の多彩さも、原画を見て初めてわかったもので、水彩画修業中のアヤママも、随分と感心していました。「一枚絵」としても、素晴らしいのです。

今回展示されたのは「週刊少年サンデー」に連載された4作品からで、
これらは氏の代表的な作品と言えるものでしょう。
ネコパパが全て読んでいるのは、そのうちの二作品、「からくりサーカス」と「月光条例」だけですが、はっきり言って、これだけの作品の後に、次に来る作品がありえるのだろうか、と思うほどの渾身の作品でした。

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「からくりサーカス」は、「子どもの本」のジャンルの一つとしてみても、歴史的な作品で、ちょっと大げさかもしれませんが
「ここに少年漫画の醍醐味の全てがある」と言っても、言い過ぎにはならないと思っています。
ジャンルとしては「SF要素の強いファンタジー」。時間的、空間的な広がりの中に、多数の人々の生き様が交差する中で「人間」と「人形」の葛藤のドラマが展開する。その面白さは、読んで初めてわかるもの、詳述は避けます。
ただ一言だけ。ネコパパがこの作品にこれほど惹かれるのは、「子ども」への過剰なまでの加担と、期待感が感じられるからです。

これを読んで、作者藤田和日郎は、ディープな児童文学の読み手ではないかと感じていたのですが…それは、次に書かれた「月光条例」で、一層はっきりとした形を取って現れました。

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これもまた、気宇壮大なファンタジー作品なのですが、
コミックス上端の惹句「世界の童話・新約」からもわかるように、全体が「世界名作童話」のパロディになっています。「青色の月光」の作用で実体化・凶暴化し、人々を襲う童話の登場人物たち。それに立ち向かい、本の世界に戻すという使命を帯びた「月光条例」のメンバーたち。彼らもまた、本の中のキャラクターなのです。

噂では、あまりにエキセントリックな「赤ずきんちゃん」の表現に、編集部にはかなりの苦情が舞い込んだとのこと。

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「三びきのやぎのがらがらどん」が「子どもに恐怖をあたえて危険」なんていう大人たちが本書を読んだりしたら、それこそ「めまいを起こして、しばらく吠なって、それから泡を吐いて死んでしま」うかもしれません。
ですがこれは、多くの子どもたち、そして「子どもの本」に関心のあるすべての大人たちに読んで欲しい本です。
宮澤賢治論をも内包した、上質の児童文学論といってもいいくらいです。

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原画展でひとつひとつの絵をじっくり見ているうちに、これらをまたまた、再読したくなってきました。
60過ぎたジジイでも、時間を忘れて熱中し、人生への希望や情熱を再燃させる力がある作品、こんな作品が生み出せる藤田和日郎という人、いったい何者なんでしょう。




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