ここから本文です
キリスト的ビジネス思考
イエス・キリストの教え、聖書の理念をビジネスに活かす、様々な考察と試行のページ。
日本のクリスチャン実業家(5)
小倉昌男(1924-2015)
ヤマト福祉財団理事長。東京都出身。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。
1937年幡代小学校卒業。同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科に入学。1942年秋、東京高等学校高等科卒業。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。
入社後半年で肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復。退院後静岡県の子会社の再建を手がけたのち本社に復帰し、1961年に取締役となる。
1971年、康臣の後を継いで代表取締役社長に就任した。1976年、オイルショック後に低迷していた大和運輸の業績回復のため、『宅急便』の名称で民間初の個人向け小口貨物配送サービスを始めた。サービス開始当時は関東地方のみだったが、その後、配送網を全国に拡大し、ヤマト運輸(1982年に商号変更)が中小の会社から売上高一兆円の大手運輸会社に発展する基礎を築く。1987年、代表取締役会長に就任。
宅配便の規制緩和を巡り、ヤマト運輸が旧運輸省(現・国土交通省)、旧郵政省(現・日本郵政グループ)と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をした。理不尽な要求に毅然として立ち向かう様子は一貫しており、1979年には創業以来の取引先である三越が、岡田茂社長の就任以後運送費の大幅引き下げ・映画チケットの大量購入など理不尽な要求を繰り返す様子に耐えかね、同社に対し取引停止を通告した事もある(詳しくは三越事件を参照)。この様子は両社のシンボルマークに引っ掛けて「ネコがライオンにかみついた」として話題となった。
一方、1974年から1984年まで旧建設省(現・国土交通省)の道路審議会の委員、1985年から1996年まで道路審議会基本政策専門委員を務めた。陸運業である事から、採算性が疑われる高速道路の建設を推進したが、後に日経ビジネス誌にて自らを「国賊」と反省の弁を述べている。
1991年に代表取締役相談役。1993年に名誉会長を経て、1995年に退任した後は、ヤマト福祉財団理事長として障害者が自立して働く場所作りに取り組んでいた。また、「郵政民営化」を唱えた小泉純一郎首相との親交でも知られていた。
老年になってから足が弱り、杖を使用して歩行をしていた。股関節骨折を発症し金属製のボルトを挿入して大腿骨頭を固定する外科手術を受けている。飛行機などに搭乗する際に金属探知機に毎回反応するため、その度に説明をすることが億劫になり、金属で補強された部位のレントゲン写真と同じ画像をテレホンカードに加工してもらい常に携帯。分かりやすい写真を提示して最小限の言葉を添えれば十分説得力があるから、と語っていた。
2005年6月30日、アメリカ・ロサンゼルスの長女宅で死去。享年80。
個人の信仰としては、救世軍の信徒であり、妻はカトリック教徒であった。
(Wikipediaより)

この記事に

日本のクリスチャン実業家(4)
松本 望(1905-1988)
パイオニア株式会社の創業者。牧師の息子として神戸の教会で生まれる。関西学院中学部中退後、文房具店で丁稚奉公、楽器店、ピアノの調律師、無線技師、電機商などを経て、1936年に独立、日本初のダイナミックスピーカーをつくった。1938年に福音商会電機製作所を創設(1961年パイオニア株式会社に改名)。セパレートステレオをヒットさせレーザーディスクの開発、商品化に成功した。
以下、松本 望著「回顧と前進」から抜粋。

「自分の意志で学校は中退しましたが、そのことがいつまでも、私の心のどこかにわだかまっている、ふたしかな心理状態でありました。
学校教育を十分受けていない自分が、どんなに頑張っても、しょせん社員止まりにすぎない。頭角を現すためには、どうしても自分で企業を興す以外にないのではないか。そういう考えなんです。
それに、安逸に流れたくないという、心の虫があるのですね。
だから、同じ年配の人たちがたとえ大学を出てもたいしたことはないじゃないか、という傲慢と意地っ張りがあるんです。
現在、私はそういう考え方に対して反省していますが、その頃は正直いってそう思っていたのです。
当時としては破格の待遇を受け、何不自由のない生活を送っていた私に、癖というか、虫というか、あるいは業(ごう)というのか、これがまた頭を持ち上げ出してきたのです。
こうなると、もう駄目なんです。
ほかのことではわりと平静な私ですが、この事に関してだけはどうすることも出来ないのです。
小さくても一国一城の主になることを夢見ていました。
もう30歳にもなったのに、こんな人生を送っていてよいのだろうか。なんとか独立の道を探さないと、とり返しがつかなくなるのではないか、といった焦りがありました。
そうかといって、生活にいく分ゆとりが出てきてから、まだ2年余りしか経っていませんでしたから、独立資金にするほどの貯えもありませんでした。
その頃、私の友人に西村 正夫という人がいました。
聖書館時代、他の教会の人でしたが、心やすくしていたのです。
身体が病がちで養生をしていたのですが、その頃はいくらか元気を取り戻していました。
この人に、私の独立のことを話すことなく話しましたら、
「資金は出してくれるところがある。ぼくが紹介するから、独立してみなさい」
そして「自分にも手伝わしてくれ」というのです。
資金を融通してくれる先というのは、別に何派とも呼ばれていない、ある教会の収益事業団体である福音商会というところでした。
ここでは、米、材木、倉庫業などの事業部が、それぞれ別組織になって運営されていました。
これらの事業収益を元に福音伝道をしているユニークな教会だったわけです。
ここの教会に集まってくる人々は、すごく純情で感激しやすいのか、お祈りをするとき、みんな涙を流して号泣するのです。
私にはとてもついていけそうもありませんでしたが、それはともかくとして、私と西村君の新しい事業のために、応援してくれることになりました。」

参考・引用:パイオニア株式会社ホームページ、松本 望著『回顧と前進』電波新聞社
(以下Web上でほぼ全文が閲覧できます。感謝)
イメージ 1

この記事に

ギブ&ギブ

最近、あるコンサルタントの対談を聴いておりましたら、こんなことを話されていました。
「ビジネスで大切なのは『ギブ&テイク』ではない。テイクはいらない。『ギブ&ギブ&ギブ...』である。」
与えて与えて与えまくれ!というわけです。
「テイクが無ければビジネスにならないでしょう!」と突っ込みを入れたくなるお話ですが、基本的には同感です。

売らんがために、利益を得ようとするあまりに一方的に強引に売り込むのは論外。
しかし、何の報酬も見返りも想定せずに、情報やサービスを与え続けて良いものでしょうか。

『ギブ&ギブ&ギブ...』はすばらしい考え方なのですが、残念ながらその話には論拠が無い。その対談では聖書の言葉を持ち出してもおられました。

「『与えよ、さらば与えられん』でも『与えよ』だけ考えれば良いのだ。」と。

良い話ですが、与えてばかりでは、いつか自分が参ってしまいます。
「与え続けていれば、そのうち誰かが付き合いで買ってくれるさ。」というレベルを脱していない気がするのです。

『与えよ、さらば与えられん』は、新約聖書のルカによる福音書6章38節「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」という言葉のことです。

それは、「そのうち誰かが買ってくれる。」とか、「めぐりめぐって、自分にも与えられるさ。」という意味ではありません。
あるいは、与えたことにより、良いことをしたという満足感が得られる、という感覚的なものでもありません。

あなたが相手に(顧客に)与えるものは、神様があなたに与えたものだ、ということを、まず知るべきです。

あなたがそれを独り占めにせず、必要としている人に惜しみなく与えるなら、神様はさらに多くの、よりすばらしいものを与え続けてくださるということです。

ですから、与えない人には、それ以上のものがあなたに与えられる余地が無くなってしまうのです。
あなたのお財布はいつもパンパン。そこに隙間を作らず、維持することに夢中になるようでは、神の恵みに感謝することができなくなってしまいます。

『与えよ、さらば与えられん』の論拠は、ただ、「神の恵み」にあります。

『(神から与えられたものを惜しみなく)与えよ、さらば(神はあなたにより多くのものを)与えられん』
と、解釈できるのではないでしょうか。

・・・・・「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイによる福音書 10:8)  アーメン。

イメージ 1
            【エメ・モロー 善きサマリア人】

この記事に

顧客を切る...

良い営業マンは「悪い顧客を教育する」と言います。
もっと良い営業マンは「悪い顧客を切る(整理する)」そうです。
ようするに自分に都合のいい、効率的な顧客だけを相手にする、というわけです。
私も営業の仕事をしておりましたので、気持ちはよく分かります。ビジネス、取り分け営業は効率です。まさに「タイム・イズ・マネー」ですね。
もしあなたが営業マンなら、考えてみてください。「悪い顧客」というのは、どういう顧客のことをを指すのでしょうか?
わがままな顧客?  
あまり買ってくれない顧客?  
それとも・・・
もしかしたら、あなたと「気が合わない顧客」ではありませんか?
誰しも「苦手」、「気が合わない」という人はいるものです。そのこと自体は自然なことです。
でももし、「苦手」、「気が合わない」からという理由だけで、その顧客を切ろうとしているのなら、その人は良い営業マンとは言えません。
そして、その顧客がわがままなのは、あなたと気が合わないからではないですか?
あなたはその顧客の何を知っていますか? その顧客はあなたの何を知っていますか?
「悪い顧客を切る」その前に、あなたが提供しようとしているものとその顧客が必要としているものを、もう一度照らし合わせ、考え直してみませんか。
あなたはその顧客に対して、全てを出し尽くしましたか?
イエスは、多くの民衆の心を惹きつけました。それは聖霊の働きだけではないと思います。
イエスが人々の心を掴んだのは、一人一人、必要なものをご存じだったからです。
そしてイエスは、ご自分の敵にさえ、持っておられる全てを惜しまずお与えになりました。
ご自分を殺そうとしている人々にさえ、その人々に今一番必要なもの、つまり「赦し」を父なる神に願い出たのです。
・・・ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。・・・(ルカにより福音書23:32〜34)
イメージ 1

この記事に

信じて差し出す...

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」(マタイによる福音書14:14〜20)
 イエスが、たった五つのパンと二匹の魚で5千人もの人たち(男だけでです!)を満腹にさせるという新約聖書に登場する有名なお話です。
五つのパンと二匹の魚で5千人の人が満腹になるなんて普通では考えられません。イエスの弟子たちも当然そう思っていました。しかし、夕暮れ時、疲れて空腹をおぼえている群衆に食事も与えずに帰すわけにはいかない。しかし自分たちには「五つのパンと二匹の魚」しか手元になく、到底足りるはずがない。どこかで買ってこようか・・・?弟子たちの中には会計係りをしている者もいるはずですので、5千人を満腹にするほどの食料を買うためにはいくらお金が必要か、すばやく計算したかもしれません。しかし人里離れたところにおりましたので、すぐに買うことはできない。ついに弟子たちは「群衆を解散させてください」とイエスに進言します。
このことをビジネスに当てはめると、どんな状況になるでしょう。
「すばらしいビジネスプランを思いついたが、資金がない。自分には無理だ」あるいは「とうとう資金が底をついた。もうビジネスが続けられない、倒産だ。」といったところでしょうか。絶望的な思いになる人もあることでしょう。
 しかし、絶望からイエスの奇跡の業は始まります。ほんの僅かだが、自分に残されたもの。。。とても問題の解決に役立つとは思えないもの。。。イエスは「それをここに持って来なさい」と言われます。
弟子たちの、そして私たちの人間的な計算では、到底およびもつかない出来事が、イエスの恵みによって実現します。ここにいる群衆にだけ起こるのじゃない、弟子たちにだけ起こるのでもない、私たちにも起こります。“どうせダメだ”とあきらめないでください。信じるなら、信じて差し出すなら、私たちもイエスのすばらしい恵みを受けることができるのです。私もあなたも、この群衆の中にいるのです。

この記事に

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事