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当社のダンスの先生が久しぶりにリサイタルに出るという事で舞台を見に行きました。
ここの所、沖縄出張ばかりなので
琉球の民謡や、エイサーなど沖縄地方のヲドリはよく見る機会があったのですが、
久しぶりのバレエやジャズダンス系の舞踏観賞となりました。
日本の「舞踏」の世界を少し図で整理してみました。
今はもう随分細分化されて色々なものが混ざっているケースもあります。
実は結構世界の中で「日本の舞踏」の世界は注目されている部分もあります。
そういえば同級生の中に「山海塾」のメンバーがいます。
鍛えられたガリガリの肉体で表現する舞踏の世界はフランスやニューヨークでも
多くの支持を得ました。
カラダを使って、カラダを動かしながら「何かを表現する」事の喜びは、多くの芸術的活動がそうであるように、どこか、自分の内なるものから出てくる「表現欲求」によっているのでしょう。人はたぶん、なにかしら自由な表現の発露に対して原始的な欲求を持っているように感じます。
その表現欲求自体は、なにも「ダンス」の技術を持っていなくても自然と沸き立つものであるように感じます。人がコトバを覚え、単語を発し、だんだんとコトバになり、文章になっていった時、文学が生まれました。それは人の感情を奮い立たせ、あるいは感傷に浸らせ、あるいは激怒し、あるいは喜び、そして悲しみに沈めることさえあります。たとえばそれは文学のチカラです。
それと同じように、カラダで表現できる世界も実は深い世界があるように感じています。腕を伸ばし、あるいは屈伸し、その連続的運動をある種の優雅さを持って、あるいはいくつかのストップモーションとともに空間の中で表現していったとき、まずは人にはどうであれ、自分の中に一つの喜びが生まれ始めるのです。それは初原的にはまずは自分の中での喜びです。その喜びの感情や、色々な感情までもが人に伝わるような動きが出来るようになったとき、まるで文学作品のようにDANCEにおける世界が構築され始めるのだろうと思うのです。それに伴うのは文学作品と同じように、文学ではそのレトリックが大切なように、ダンスの世界では「動き」をコントロールする技術を持つ必要が出てきます。それは表現のための技術ということが出来るでしょう。そんな技術を少しずつ覚え、自分自身の中にダンスの喜びが生まれてくることはうちの先生を見ていてもわかります。そして少しずつ表現力の世界へ入っていき、その喜びを伝えられるレベルになると、人はそれを一つのアートとして認めるようになるのでしょう。
「生活にアートを」
それは当社の事業目標です(爆)。
私は踊れません。現場管理の度に膝がくがくでんがな。
うちの先生のカラダは体脂肪率ヒト桁、女性ですけど・・。
かつて私が学生時代に体育会の体育会系部活をしていた時の全盛期状態です。
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