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お好きなドラマは、どんなものでしょう。サスペンス、悲恋、スポ根、ラブコメ、あるいはウンチク物でしょうか。
どのようなシチュエーションであっても、ドラマには対立軸というものが必要です。
これまでも、主人公に批判的な“鏡”となるキャラクタを動員することはありました。小説「白い巨塔」の中で、財前に常に批判的であった親友、里見のようなキャラクタは、表現者として、あたかもシーソーのように物語世界のバランスを取るために必要なものです。里見の視点が、読者のそれとシンクロするように、作家山崎豊子は巧妙に仕掛けを作ったわけです。
カリカチュアとして取り上げるわけではありませんが、漫画「巨人の星」では、星飛雄馬のキャラを立たせたのは伴宙太ではなく花形満でした。
それが、従来の我が国における世界観の構図であったわけです。切磋琢磨しあう好敵手を配置することで、緊張感を持たせました。「君のやろうとしていることは間違っている」と、堂々と言える間柄。ここには、損得抜きの友情の存在が欠かせません。
ある時、黒船がやって来ました。
Snoopy(Peanuts)に登場するルーシーは、チャーリー・ブラウンに結構冷たい。彼の批判ばかりします。でもあの娘、ちょっと気になりませんか。
テレビ映画「スタートレック」には、マッコイという人物が登場し、主人公であるカーク船長を事ある毎に揶揄します。放映当時、なんでこのような不協和音を呼ぶキャラクタが存在するのか、理解に苦しみました。
皮肉屋というキャラクタの登場です。
皮肉屋は、場面に緊張感をもたらしません。主人公にとって、ある意味で耳障りな存在です。しかも身内。それだけに扱いが厄介です。何故そのようなキャラを立てなければならないのか。
皮肉屋は、主人公が辛い時、存在感を発揮してくれます。いつも皮肉ばかり言っていても、皮肉屋の一言で主人公が救われるというシチュエーションを演出する。その最後の最後のために、いつも文句を言わせる。これは、表現者にとっても鑑賞者にしても、とても忍耐のいることです。しかし、皮肉屋は、実はもっとも大切な主人公の理解者なのです。その存在感は、とても大きい。
元々、我が国にもシニカルな文化が存在しました。暗に体制を皮肉るというのが、大衆芸能の粋というものです。ただ、「仮名手本忠臣蔵」のように、初演当初、実在の人物とはかけ離れた形で、お芝居として演出したのは、当局の弾圧を逃れるためであった便法でした。そのうえ、いわゆるガチンコ対決という構図をとったため、主人公である大石蔵之助は誰にも本心を明かすことなく、孤独な闘いを強いられました。もしそこに、皮肉屋がいたら、物語の様相は全く違ったものになっていたはずです。
現在制作・放映されている美少女系テレビアニメーションでは、必ず皮肉屋が登場します。しかし、彼ら彼女らはバイプレーヤーとしての意味付けしかされていないことに、すぐに気付きます。20年前のアニメ「機動戦士ガンダム」に出ていたカイ・シデンというキャラクタは、サイドストーリーとして語られることがありますが、皮肉屋としての資質に欠け、消化不良となりました。ジャパニメーションは世界ブランドとなりましたが、皮肉屋という重要なポジションをまだ、操ることが出来ていません。
文化の違い、と片付けてしまうのは、表現者の一人として、とても寂しいことです。
チャールズ・チャプリンのように、反骨精神で自ら一人二役・三役をこなせるエンターテインメントもいいのですが、悩める主人公をそっと支える皮肉屋の存在は、我々日本人の琴線に触れる可能性を秘めたフロンティアであるということを、指摘せずにはいられません。
皮肉屋というキャラクタ。使わなければ、ソンですよ。
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