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国立大学の予算は、どのように賄われているでしょう。高額な入学金および授業料でしょうか。違います。過半数は、国庫からの補助金により成り立っています。私立大学の場合は、自助努力で何とか財政を賄うようですが、ここにも、公的資金が名目の如何にかかわらず投入されています。
研究成果を実績(論文もしくは実用化モデル)として上げる大学と、目に見える形で成果を事実上発表していない大学とが、同じ補助金の支給を受けていいのか。昨今、こうした議論が一部で行われており、限られた財源の配分に相応の差をつけるべきであるという意見が出始めています。
【補助金の意味】
政府が国庫から各国立大学に無償で給付する補助金は、科学研究費補助金(以下「科研費」)と言われるもので、これは直接費と間接費の総体を指すものです。この補助金の法的根拠は、法律上存在しません。国立大学法人法(改正法平成一八法八○)のどこにも科研費なる記述は出てきません。これは、いわゆる行政裁量の範囲内で常態的に執行される財政出動により行われている制度ということになります。つまり、独立行政法人化された国立大学は、事実上“匙加減”により、自らの財務・会計責任を負わされた挙句、大学運営上必要な原資を自由に決められないという、いびつな構造になっているのです。これは、大学の独立性を脅かしかねない状態と言えるでしょう。
昨今、国内外で、実際には研究成果を上げていないにもかかわらず、多額の補助金を受け取る教授・大学の問題が取り沙汰されているのは、誠に残念なことです。実際の末端の研究者は、まともな収入も得られないまま、今夜も不眠不休で研究を続けています。自らが所属する研究機関に、必要な試料・資料が無い場合は、他の研究機関に「申し訳ありませんが、分けてもらえませんか」と、頭を下げてお願いして、手に入れているのが実状です。その場合、実費はかかりますが、先方もそれ以上の出費を求めることは、まずありません。みんな、相御互い、ぎりぎりのところでやっているのです。
補遺)科研費は、文部科学省の外郭団体(独立行政法人)である“日本学術振興会”が事実上所掌しています。この団体職員は、国税から給与を得ています。
【格差とは何か】
少し生臭いお話をしましょう。旧2期校の学部出身者の場合、大学院に進学して、何が、どこまで出来るでしょうか。頼りにするのは、出身校の指導教授と、大学の図書館、そして研究機材です。指導教授はどこから来た人でしょうか。天下り元官僚でしょうか。大学の図書館は、学部学生が直接立ち入れない書庫まで利用出来ますが、必要な資料は揃えられているでしょうか。研究機材は、何年前のものでしょうか。全てにお金が掛かるのです。例えば、科学雑誌「Science」を年間購読すると、日本円で\27,649-掛かります(対ドルレート\122-と仮定した場合)。安いと思われるかも知れませんが、国内の大学が発行する研究紀要を全て揃え、研究者から購入依頼のある書籍を全て揃え、足りないと司書が判断する文献を全て揃え、その上教授陣が自分の研究室に長年死蔵して返却しない本の補充を行っていては、とてつもない金額になります。しかも、それは各学部毎に異なり、全ての学部・研究科の要望に応えることが、半端なことではないと、素人のわたくしでも思います。
そこに、実績が上がっていないと看做される大学への補助金は削減すると言われたら、地方大学の院生・研究者は、資料を漁るために、東京の永田町(国立国会図書館)まで行かなければなりません。もし、半日かけて、ここにも必要な文献が無いと判れば、都内のあらゆる大学に出向いて直接かけあうしかありません。「このデータなら、筑波にあるかも知れませんね。照会してみましょう」。また移動です。
ここに示した例は、非現実的なものではありません。「必要な情報は、幾らでもインターネット上から得られるじゃないか」。果たしてそうでしょうか。研究の元になる情報が全てデータベース化されているのならば、それでも良いでしょう。しかし、データベースの構築には、時間とお金が掛かり、日々更新する必要があります。この経費を誰が負担するのでしょう。研究機関はボランティア(無償の奉仕)ではない。そのお金はどこから出るのか。学生から徴収する授業料ですか。そのようなことを言っていては、全ての大学は破産してしまいます。
わたくしはここに、危機感を抱くものであります。
【若手研究者の現実】
現実問題として研究者は、自らの身銭を切って必要な書籍購入、旅費・宿泊費、研究機材購入など賄えるはずがありません。一般に、オーバードクター(最短4年の博士課程修了者)が助手職を得て、大学に残るという段階になっても、生活自体が不安定です。助手では、予算計上する権限がありませんので、必要なものは、学外に求めるしかありません。助手にもなれないオーバードクター及びスーパードクター(大学院に在籍できる最短年限を越えた修士乃至博士)は、アルバイトをしなければ研究活動を継続出来ません。当然、公的負担である税金、国民年金保険料ならびに国民健康保険料の支出を強いられています。
【わたくしの立場】
ここで、わたくしの立場を表明します。教育機関としての最高学府について、入試偏差値、学生数、地域的格差等の諸条件を数値化して国庫支出金の配分に格差を設けるという姿勢には、承服致しかねます。この格差を誰が付けるのか。文部科学省の役人です。苟しくも、教育研究機関である最高学府たる大学への、こうした事実上の不当なランク付けの名を借りた介入は許すべきではなく、研究成果が今、見えないからといって、杓子定規の役人仕事で片付けられたら堪りません。
確かに、こうした考え方には一定の支持が得られるものと思われます。これは小泉メソッドと指弾されるべき“悪しき格差社会主義”と呼ぶべきものであって、うだつの上がらないところに国税を投入するのは正義に反するという考え方です。成績は数字で出せ、出せないなら、補助金減額を覚悟しろ。努力しない奴に、国税は配分しない。
基礎科学の分野は、実用科学とある意味で上手く連携が出来ていません。基礎科学は、膨大な予算と時間、マンパワーが掛かる上に、実用的な即効性を期待できません。そこにムダ金を使うのか。
もしこのような見識を有する官僚・代議士がいるとすれば、貴方達はもう一度大学に戻りなさい。基礎研究の成果をどう使ったらいいのか。それは、産学連携のうえに新しいテクノロジーとして結実する可能性を秘めているということを理解できない者に、文部科学行政を担って欲しくはありません。
学問・研究の場に、経済原則を持ち出すのは、如何かと思われます。我が国は、軍事力を放棄した国であり、その上資源小国であるという現実を踏まえ、国家が何に投資したらいいのかを、ここで厳しく問います。法的根拠も無く、地域格差や学術的な過去の実績により、補助金の配分比率を役人が勝手に決めるという姿勢には、わたくしは納得出来ません。
具体名を出すのは避けますが、北九州の某旧一期校に集まってきたのは民間企業です。これは、アジア及び首都圏へのアクセスが容易であるということにも起因していますが、“日本のシリコンバレー”と呼ばしめるに至ったのは何故だったのか。現在、北九州には国内主要自動車産業が軒を連ねています。
特に社会科学の面で、当該大学は、一般に認知されていないものの、革新的な研究を行ってきた実績があり、それらは、法律・経済・行政に至るまで、「これは使える」という発表が少なくありません。これらは、一切金にならない研究ですが、そこから新しい発想が得られる。多くの研究者は、お互いの知恵を無償で出し合って、次のディメンション(dimention:次元)へと、歩を進めてゆくことになるのです。
役人は、どこまで知っているのでしょう。小さな研究室で、今、何が動き出そうとしているのかを。
【蛇足】
1871年12月の岩倉使節団は、何のために欧米に旅立って行ったのでしょうか。ビジネスのためですか。違います。政治的意図を持って国費を使う理由としましたが、彼らが持ち帰ったのは、近代社会科学的な思想でした。それは、1890年11月に施行された大日本帝国憲法の礎となりました。
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