ジャムおばさんのニコニコ日記

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2007秋の章

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前回に引き続き、共済農場懇親会に出席してくれたなつかしいメンバーの一人を紹介しよう。

東京在住の小松 真君

大学4年生の彼はすでに大手企業への就職も決まり、今回久し振りの再会であった。

いつのことであったか思い出せないが「将来共済農場へ就職を希望するのなら、

民間会社に入って、しっかり世の中の事を勉強してから来て欲しい」と語った事があった。

高校の英語の先生のお父さんと、数学の先生のお母さんの影響でしょうか。

一時は教員への道を歩もうかと考えて事もあったらしいが、民間を選んでくれたという事に

将来に大いに期待しているところです。

その真君がまだ小学校に入るか入らないか位の頃から、よく当園にお父さんの夏休みを

利用して一緒に来ていた。

真君というとすぐ思い出すのは、虫が大好きで、よく昆虫の標本をつくっていた事。

また、当ジャム園のまわりは畑なので、甘いジャムの香りに誘われてハエが集まりやすいことに

頭を悩ませていた時、虫好きの彼に「ハエを100匹捕まえたらジャムを1つあげるよ」

と言ったら、1日も経たないうちにハエ100匹捕まえてきたという事があった。

確か小学校1〜2年生の頃だったろうか。

最終的に、滞在中ジャムを6〜7個ゲットして行ったように記憶している。

近年では高校を卒業した年、自分の将来をじっくり考えてみたいという事でアルバイトに来た。

ご両親と離れて初めて一人でのジャム園での暮らしだったと思う。

同じ年頃の仲間達の面倒を良く見てくれる頼もしい青年に成長していた。

そんな彼も、本人の志望とご両親の思いとが一致しないということに起因してか、

何回目から反抗期であったのか、家出をしてしまった。

お母さんからSOSの電話、あれは冬の凍てつく寒い頃であった。

話しでは「北海道へ渡ったらしい」という事。

アルバイト当時は少し年上のお姉さん方に「まこっちゃん」と可愛がられていた事を思い出し、

その時のアルバイト仲間達に当たってみたところ案の定、お姉さん達の家に

バトンタッチでお世話になっていた。

それを知ったお母さんは飛んで迎えに来たが、彼はその冬は自力でスキー場をかかえている

ホテルでアルバイト。ベルボーイとして、また季節労働者用の寮での暮らしなどを通じて

現実社会の厳しさを味わったようだ。

そして、大きく大人へと脱皮していったのではないだろうか。

ジャム園の前社長が亡くなる時は、まだ家出の最中で、ひとりリュックを背負って

前社長に会うために病院の待合室に来ていたとの事。

その時、結局は会えなかったらしいが、、別れを惜しんでくれたと後で聞いた。

そんな彼も来春からいよいよ社会人一年生となる。

当園での経験を胸に新たな船出に旅立とうする青年を、自分の子の様にいとおしく思う。

※写真上〜真君がまだ小学生の頃に来園した時の写真
※写真下〜高校3年生でアルバイトに来た時の写真(後方右側)

共済農場 懇親会を実施

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みなさんお久しぶりです。

約1ヶ月振りの更新となりますが、よろしくお願い致します。

10月16日、神奈川県小田原市にて「共済農場 懇親会」を開催した。

南は九州から、北は札幌まで30名弱が参加する会合となった。

当農場も今年は開設34年目。

この日は、思い出深い方々との再会に、心暖まる楽しい時間を過ごさせて頂いた。

34年前、富良野市麓郷中学校をお借りし、全国の会員、地元方々合わせて700余名の方々の

出席の下、盛大に農場開きをさせて頂いた。

その時には「農村文化に新しい息吹を…」と地元紙にも大きく取り上げられた。

その後、開墾・作付け・収穫と最初の10年は苦労の連続であったが、

「自分たちの農場」として、全国から応援してくれる会員の方々に励まされて今日あるのもと、

改めて感謝の気持ちで一杯になった。

今回の懇親会には、この農場開きに出席された方が数名参加されており、

当時の思い出話しも一汐であった。

収穫された人参が形が悪いというだけで、畑におきっぱなしにされていたものを

ジャムに加工してから共済農場の動きが大きく変わった。

ジャムの種類もパンプキン・山ぶどう・ハスカップ・ハマナス等、数が増えて

全国の北海道物産展では無くてはならないアイテムとして、有名デパートからの呼びかけに

応じなければならない時を迎えた。

今回の懇親会に出席された内の一人である藤井良子さんはもともとは女医さん。

ご結婚・ご出産後は現役を引退されて、ご主人の転勤で札幌から九州へ移られてから

百貨店での販売等の全く経験のない立場でありながら、福岡の井筒屋デパートで

販売のリーダーとして当たってくれた。

最初は素人ばかりのグループにデパート側も随分戸惑ったようだが

「自分たちの農場で自分たちが造ったジャムです」

と、真心から語りかけてくれたのでデパートのバイヤーから

「すばらしい方々です。ベテランのマネキンにはない新鮮な訴えがあります。

是非造っている富良野の工場を見たい」

と早速飛んできました。「また次回もお願いします」と、トラばさみにでも会うとは、

この様な事を言うのかもしれないと思った。

九州ばかりではなく、神戸・大阪・名古屋・横浜・東京・仙台・札幌のデパートでと

会員の方々には、本当に助けて頂いた。

藤井良子さんには3人の子供さんがいらっしゃって、次女の真美ちゃん・長男の創君とは

アルバイトとして農場に訪れ寝食を共にし、ご家族ぐるみでのお付き合いを深めさせて頂いた。

そんな藤井良子さんと当時の思い出話しに花が咲き、この会自体も盛大のうちに終える事が出来た。

また次の懇親会までに、日々努力を重ね、また皆さんに喜んでもらえるようなお話が

出来るように、と思いを新たにした1日であった。

※上の写真は昭和49年8月29日に麓郷中学校で行われた農場開きの様子
※下の写真は約10年前に藤井真美ちゃん(一番左端)と創君(右から2番目)がアルバイトに
来ていた時のもの。(夕食後にみんなで卓球大会をしていた時の写真)

韓国からの農業研修

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先日、韓国の女性農業人のご一行様17名の研修を受け入れた。

日本の農業も窮地に陥っているが、韓国もそのあとを追っているとの事で、

「日本農業の先進事例を見たい」との事で訪れられた。

いつも当社では朝礼の時、全員で練習している韓国語のあいさつ。

たった4つの言葉であるが、この様な時には大変役に立つ。

「アンニョハセヨ」と挨拶をかわすと、一気に互いの距離が縮まる。

「第一次産業」としての農業から、ジャム製造という「二次産業」としての加工、

更に観光へと広げて来たことが認められ、道内のグループの研修は時々受けるが、

海外は今回が初めてのことである。

自分でつくったものに自分で値段をつけられない農業の厳しさは、日本のみならず

韓国も同じとのこと。

引率して来られた北大大学院の助教授「徐 在院」氏の通訳に助けられながら、

なにか一つでも役に立たせてもらいたいという思いで真剣に語らせてもらった。

最も興味を示してくれたのは、ハスカップの栽培とハスカップジャムであった。

すでに収穫期も過ぎて、取り残しの実がまばらに残っていて、しかもひからびている

ハスカップ畑の実ではあったが、つまんで食べてみるとまだすっぱくて美味しい。

ハスカップの実の機能性とジャムの人気、その上アイスクリームにかけたハスカップジャムの

美味しさに感動してくれて、何とか韓国でも栽培できないものかと、熱心な質問をあびた。

それと共に、当社の会社理念

共産(共に生み出し)
共助(共に助け合い)
共栄(共に栄える)

に対する関心も多く示され、うれしい限りであった。

更に個人的なことではあるが、もう一つ嬉しいことが。

何やらハングル語で盛り上がって話しをされており「何の話しをしているのだろう?」と

思っていたら通訳さん曰く「あなたの肌が白くてキレイなのでみんなが驚いている」との事。

韓国の女性は肌がキレイで有名であるが、その彼女らにそんな事を言われると嬉しいやら

恥ずかしいやらで…。

普段から年齢や体質にあった食生活を心掛けているので、ちょっと自信はあった(?)が

こうやって言ってもらえるとやはり女性としては嬉しいもの。

その後の研修で益々張り切ってお話しさせてもらえたのは言うまでもない(笑)

麓郷展望台への上り坂

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ふらのジャム園 共済農場は47ヘクタールの畑を所有し、標高500mのところに位置している。

この高さは農業をする限界と言われた。

晩秋ともなると、麓郷市街が雨でも当ジャム園の畑では雪。

市街に住む人達は真っ白になった当園の畑を見上げて「共済農場は雪だ。間もなく冬になるなぁ」と

肩をすぼめて見ていると聞く。

この標高500mの高台から眼下に見下ろす麓郷の里、まわりの東大演習林、そして屏風(びょうぶ)の

ように立ちはだかっている芦別岳、夕張岳、富良野岳の景観がすばらしいと「北の国から」の

ドラマにも登場し、多くのファンを魅了してくれた。

100m下の「ふらのジャム園」の店舗から登る道すがら、五郎さんが熊に出会ったところ、

純と蛍が家路につく林の小路、五郎さんが井戸を掘るためのボーリングに使われた鉄塔などが、

ロケに使われた場所とあって、多くの「北の国から」ファンが車で上ってくる。

上り坂は傾斜がきついため、途中止まって写真を撮り、また車を再発信させるときに傾斜を削り

(北海道弁では「かっちゃく」という)、道路はガタガタになる。

その道が、長年の念願叶って今年の秋には傾斜のひどい一部分のみ舗装する計画となっている。

顧みるとこの30数年間、この道でどれ程苦労した事か…。

火山灰で出来ている農道、雨の日には泥でスリップして車が前に進まなくなることが常であった。

ましてや雪にでもなったら全く上れなくなる。

かつてはこんな事もあった。

もう30年前になるかと思うが、当時はまさに「百姓」といわれる程に何でも栽培していた頃。

晩秋を迎え降雪の情報が飛び交う頃、最後に残したビートの収穫、確か11月上旬頃だったと思う。

天気予報では、今晩は雪との予報。近所の方々が心配して手伝いに来てくれた。

お陰で夕方にはすべてビート抜き終わったが、しかし勝負はこれから。

このビートの山を下までおろさなければ、最悪の場合、来春まで雪の下に…。

手伝いに来てくれた方々が帰ってから、今は亡き夫と、アルバイトの男性と二人で夜通しかけて

なんとか下までおろした。そして全ての作業が終わった時には、白々と夜が明け始めてきた。

それと同時に空から白いものがチラチラと降り始め、間もなく辺りは一面真っ白。

そしてそのまま根雪となり、来春まで上の畑には行く事が出来なかった。

本当に農業とは厳しいものだ。身体を張ってしなければならない。

そして春になると、暇さえあれば畑から出た石を肥料袋に詰めて、その石を滑り止めに

傾斜に敷いていく。あちらこちらの畑の周りに石の詰まった肥料袋が積んであるのが当園の風物詩。

雨が降って上り坂がドロンコになれば、またその袋の中の石を敷いては踏みかため、

また雨が降れば石を入れて踏みつぶす事の繰り返し。

誰かが「賽の河原」と呼んでいたが、よくいったものだと思う程に、どれだけの石をあの傾斜地に

入れたものか。お陰で今では雨が降ったからと言って登れなくなる事はなくなった。

しかし、途中写真を撮るために止まる観光客のスリップで道はガタガタになり、そこを走ると

車内ではゆりかごにでも入っているかのようで面白い…と言えば聞こえがよいが、

「何とかしなければ…」と思い続けていた。

その念願を果たせるのもあと少し。

舗装の見積もりを立ててもらった時に「地盤は固くがっしりしているので、林道舗装の経費は

安く出来そうだ」との事だった。

当時、故人と共に苦労をした簗田さんらの長年にわたる地道な作業のお陰で、

今では地盤は固くがっしりしているので、舗装の経費はそれほど掛からなそうだと…。

ふと当時の苦労を偲び、感謝の念で涙があふれそうになった。

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