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最近わたしは狩猟やジビエのうんぬんについて
あまり書かなくなりました
自分なりに理由はいろいろ
あるのですが
自分の中にある矛盾のコマが大きくなったとでも申しましょうか・・
食のサービスに関わるわたくしは
そもそもがいろいろな矛盾と向き合って仕事をしてきました
たとえばクジラ問題
ですが
イルカを殺すなクジラを殺すなという方たちの気持ちが
充分に理解出来る一方で
クジラを食べることを止められない自分と
あえて止めない自分がいたりします
日々の暮らしの中で豊富な材料に恵まれ
余るほどの料理を作り続ける自分
しかし一方では内戦や飢餓に苦しむ
子供たちを想い
ユニセフの募金活動なんぞを続けている
わたしですが
eBayでつまらないモノを買うヒマがあったら
もっと寄付に回せよって自己嫌悪な自分もいたりします
世の中のジビエ料理ブームで一番の恩恵を受けている
わたしのクセに
有害鳥獣駆除の名の元に無慈悲に殺される野生動物のコトが
かわいそうに思えたりする反面
自分の仕事のためには野生動物を狩る
自分の身勝手さ
正しい答えなど無いコトは
分かっているのですが
これらの矛盾がわたしを苦しめ
むしばんでいることも事実
こんなに食材が豊富に買える日本なのに
食べるための狩猟って果たしてなんなのだろうと感じる自分
しかし猟期になると狩猟税を納め
狩猟の許可を頂くわたし・・
そこにわたしは仕事であるという殺しの言い訳をくっつけているに
過ぎないのでは・・
世間で続けられている有害鳥獣駆除なる
殺戮に関しても
こころの中では焼け石に水と位置づけている
自分がいます
なぜならば駆除数と毎年生まれる野生の個体の比率が
相反するから・・
つまり
イタチごっこというやつです
しかしそれら駆除個体を売りたい人たちが
ジビエジビエと宣伝してくれ
銃砲業界が狩猟ブームだ狩りガールだと
やってくれるものだから
わたしの店としてはまさに追い風を受け
極めてありがたい状態に・・
しかしありがたいと思える
反面
命に対する思いが重くなるという副作用も
現れてきたりして
みごとなまでの身勝手な自分に嫌気がさすので
あります
しかしそんな自分がいる
一方
ミニチュア料理を作って楽しむなんて
お気楽な自分がいたりします
神に言わせればわたしはきっと
極悪な生き物に位置するのでしょうね
しかしそもそも神なんてものがいるのなら
こんな矛盾のプールのような世界を作るなよって思いもあります
市場に於いて国産の"森林どり"なんてブランドを
仕入れながら
帰り道の田園地帯に
キジの家族を見つけたりすると
一度でいいから合法的にメスキジの肉で料理を作ってみたいなぁ
などと思う自分が
いたりするのです(^_^;)
これらは自分の中にある狩猟本能とでも 申しましょうか
どうしてわたしはこんなにも豊かな国で暮らしているのに
狩猟本能が退化しないのでしょう・・
銃を持って生き物を殺す野蛮なわたしは
間違いなく進化の進んでいない人種なのでしょうね(^_^;)
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狩猟の本質
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狩猟の本質とは
何か・・
それは食べるために獲物を
狩り
残った毛皮や骨などを
余すところなく利用することにある
古来よりその本質と意義は
変わることがない
しかし現代は
民族の歴史や習慣の違いから
国々によってその本質が
変わりつつある
日本で言えば狩猟はほぼ100%に近く
趣味の一環となり
もはや娯楽の域を
出ない
狩猟の主たる目的は
捕殺にあり
狩猟を趣味とする者たちは生き物を殺すことに
どこかうしろめたさを感じ
殺すことへの正当性をジビエ料理と称して
食べることや
有害鳥獣駆除活動なる地域貢献に
その抗体を作り出したと言って
あながち的外れな論理でも
無いだろう
しかし
ひとつだけはっきりしていることは
野生の動物を殺す趣味を
ブームとして煽ったり
行政が駆除活動に従事する者の増加をもくろむために
狩猟者の増加を企ててはならない
狩猟は本来自ら
湧き起こる
野生の生き物と真摯に対峙したいという心によって
行われなければならない
趣味として生き物を殺すことが楽しいことなどと
ゆめゆめ思ってはいけないのである
ゆえにわたしは狩猟を人には
勧めない
なぜならば生き物を殺すことは
極めて罪深いことだからだ
生き物を殺すことが趣味となることには
いささかばかり抵抗がある
いまや世の中はジビエ料理だ有害鳥獣駆除だと
生き物を殺す感覚に麻痺をしている
いまいちど
野生の生き物を殺すことはどういうことなのかを
国民全体でよく考えるべきで
あろう
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本日のブログでは
森林ジャーナリスト「田中淳夫」氏の記事を紹介します
(出典元:Yahooニュース)
ハンターではない一ジャーナリストという立場で見つめ書かれた
この記事は
いまの狩猟界の現状と有害鳥獣駆除事業の世界と問題点を
見事なまでに透視しています
かつてわたしは狩猟と駆除に関する
これほど的確な記事を読んだ記憶がありません
ゆえに今回は図々しくも
著者ご本人に許可をいただき
転載させて頂く運びと
なりました
獣害対策に猟友会は不向き?狩猟と有害駆除の違いを考えるこのところ獣害関係で取り上げられることの増えた猟友会。有害駆除の最前線に立つ組織として期待を集めているのだが、よろしくない事件も次々と報道され始めた。
奈良県の猟友会では、総額約2900万円の使途不明金が出たことが発覚した。5月に心不全で亡くなった73歳の前会長が流用していた疑いが持たれている。
鹿児島県霧島市では、ハンターがイノシシなど有害鳥獣の捕獲数を水増しして、報償金をだまし取った疑いが出ている。2013年度からの3年間で、不正受給は少なくとも300件以上とみられ、その額は数百万円に達すると思われる。
報償金の受給には、写真付きの報告書のほか個体の尾と耳の現物を提出するのが普通だが、同じ個体を別の角度で撮影して複数の個体に見せかけるほか、尾と耳は、駆除ではなく猟期に捕獲したものを保存しておき提出するという手口らしい。
ほかにも猟友会の会員が報償金申請に、虚偽報告していたケースは全国で発覚しており、問題は広がりそうだ。
さらに駆除個体を山林内や河川敷で解体して埋めずに放置するケースも報告されている。腐乱して周辺環境に悪影響を与えるだけでなく、クマなどの餌になり誘引してしまうと言われる。
なぜ、こんな事件が発生するのか。改めて整理したい。
そもそも猟友会とは何か。
基本的には、狩猟愛好者の団体だ。市町村レベルの地域の猟友会があり、それをまとめた都道府県猟友会、そして全国組織の公益団体である大日本猟友会というような構造になっている。
狩猟愛好者と記したとおり、本来は趣味の団体なのだ。ハンターの加入は任意であり、専門的な教育や訓練を受けるわけでもない。そのうえ地域の猟友会はたいてい任意団体で、会計も不明朗になりがちだ。
大日本猟友会は、組織の役割として狩猟の適正化や共催事業、野生鳥獣の保護などを掲げている。しかし今注目されているのは、有害駆除の担い手としてだろう。
増えすぎた野生鳥獣を駆除するには、狩猟のできる人が必要であり、その適格者のほとんどが猟友会の会員なのだ。それに有害駆除は、役場からの依頼がなければならない。現状は、依頼先のほとんどが猟友会になっている。
狩猟と有害駆除は別物という声は強い。
狩猟は、たとえば巻狩などは複数のハンターが獲物を追いかけて仕留めることを楽しむわけだが、1日中山を駆けずり回って仕留めるのは1頭か、せいぜい2頭。しかし有害駆除は、もっと効率よく獲物を仕留めなければならない。また出没情報に合わせて平日でも急遽動員がかかることもよくある。
猟友会にとって、有害駆除は仕事を休んで出動するボランティアなのだ。趣味のハンティングとは別の社会貢献に近い。また狩猟ではなくワナにかかった獲物の処理を頼まれることも多い。これは楽しくもない作業だ。それでいて命あるものを殺すことへの世間の白い目もある。それでも地域のためにと思って出動しているのだ。加えて銃の所持や資格維持の手続き、犬の飼育……など経費も手間もかかる。
風向きが変わったのは、獣害がひどくなる中で報償金の額が膨れ上がったことだろう。最近まで鹿1頭で5000円にもならなかった報償金がどんどん値上げされ、自治体によっては2万円、3万円近いところもある。国からも補助が出るようになったからだ。これなら利益が出ると駆除に積極的になる人も少なくない。
ただし駆除の数を増やすため容易に捕れる場所を選びがちだ。それは必ずしも被害の多い地域とイコールではない。
それに駆除個体の処理に手間がかかる。報償金申請のための写真撮影などに加えて、仕留めた個体を処理施設に運ぶか、埋没する義務がある。また最近とみに期待されているジビエ(野生鳥獣肉)も、野外で解体したものを売買するのは食品衛生法に触れるから止めねばならない。
一方で駆除を依頼する自治体の立場から見ると、あまり厳しく不正がないかチェックすると猟友会との関係が悪くなり、肝心の有害駆除に出動してくれなくなることを心配する。
そんな背景が不正を産むのだろう。
猟友会は、あくまで狩猟愛好者の会であり、有害駆除はボランティアであるという原点に還ると、有害駆除の主戦力には向いていないのかもしれない。
2015年の改正鳥獣保護法では、環境省が認定事業者制度を設け捕獲の専門事業者を認定する制度も創設された。獣害対策を進めるためには、猟友会とは一線を画した明確な義務と責任を負って役割を定めたビジネスとして駆除事業を担う専門家を養成し、プロの組織を設立することも考えるべきだろう。猟友会と上手く棲み分けた方がお互い禍根を残さないのではないか。
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田中淳夫プロフィール 日本唯一にして日本一の森林ジャーナリストとして、自然の象徴としての「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで執筆活動を展開。主に森林、林業、そして山村問題に取り組む。自然だけではなく、人だけでもない、両者の交わるところに真の社会が見えてくる。主な著書に『森と日本人の1500年』(平凡社新書)、『樹木葬という選択』(築地書館)、『森は怪しいワンダーランド』(新泉社)など。またYahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』もある。
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以上が全文ですが
記事の内容についてはまったくもって同感と感じ
わたしがこれまで表現してきた考え方と
見事なまでにシンクロしています
しかしわたしは
仕事としての狩猟の側におり
ある意味問題点が見えやすい
立場におります
ですがこの著者は
自然の中に身を置き自然の側から私たち人間の側を見つめるという
今までにない手法でさまざまなテーマを
取りあげています
このようにどちらにも偏らない中立な視点を持ったジャーナリストが
居ることを
日本の狩猟の世界に於いて
わたしはとても心強く感じています
著者近著
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昨今野生の動物が増えて
困るということで
国を挙げて狩猟者を積極的に増やそうという
試みがある
つまりハンターが増えれば
野生の動物が減るだろうという発想が働いてのコトだ
はたしてコトは
そんな単純な話なのだろうか?
そうであればハンター密度の濃い地域と
そうではない地域に極端な温度差があっても良いことになる
ところがエゾジカが爆発的に増えた北海道と
津軽海峡を隔てた本州以南では
野生動物の増加傾向に
ほぼ同じような現象が見られる
このことは単に
ハンターが減ったからとか
地域性だとかで片付けられるような
簡単な話ではないと思うのだが
わたしのような一個人がああだこうだ言ったところで
誰かが納得する話でもない
しかし今行われている有害鳥獣駆除という
業務には
狩猟者である立場から疑問を覚えることも
少なくない
ところで行政は本気で個体数の調整を
考えているのだろうか
今現在駆除の業務を担っているのは
狩猟免許を持った私と同じ立場の狩猟者である
ところがそれらの者の中には本来の狩猟期になると
狩猟をやらなくなる者がいると聞いた
嘘か本当かは
確かめるすべもないが
理由としては狩猟期に捕獲しても
報奨金が得られないかららしい
だがこの話自体が信頼の於けるものかどうか
分からないし
全員が全員そんなタイプでは
なかろう
だがそんな話が飛び交うほど
駆除イコール報奨金にまつわる話はあちこちで耳にする
これらは一般人には分からない話かも
知れないが
自治体から依頼を受けたハンターが駆除で仕留めた鹿や猪などに
一頭あたり一万円ほどの報奨金が
税から支払われているという
システムの話である
自治体から依頼を受けて
駆除を行うのだから
弾やガソリン代や労務費などが
報奨金によって賄われるのはごく当たり前の話で異論はない
問題はそこでは
ない
重要なのは
駆除事業自体に効果があるのかないのかというコトだ
自治体がいつの頃から報奨金を
開始し
そして今日現在までの全国での支払い総金額は
いくらになるのか
そのあたりをしっかりと
検証した上で
実際の駆除効果による経済損失の回復度を
明確に指標化するべきでなのではと思う
そこで効果があるのだとすれば
継続性が必要で
もし無いのだとすれば
次の方策を早急に模索するべきである
なぜならば税は
国民が平等に負担しているものだからだ
つまり税の使途は国民が平等に受益出来るものに 当てられるべきであり
そのためには有害鳥獣駆除について
効果が上がっていることの根拠が重要にねるのは言うまでもない
無駄な税の使途は
国民全体にとって誰のためにもならないことは明白であり
そこには役人も一般人もなく
みな同じ立場なのである
そこでもしハンターの減少が野生動物増加の一端であると
唱えるのであれば
このような試みはいかがな
ものだろう?
1月から12月の通年すべてを
一般狩猟者も含め
対象となる鳥獣を狩猟許可
するのだ
それを数年継続してもし減少効果が見られないのだと
すると
現在特定の者だけが行っている駆除事業は
まったく効果がないことの裏付けとなる
駆除は本来の狩猟では
ないが
しかしハンターの力を借りなければ駆除が成り立たない
現状を考えると
駆除事業に「通年狩猟」を
当てはめ
一般狩猟者の協力を仰ぐことも
必要な時期に差し掛かっているのではなかろうか
そうすれば一頭あたりの報奨金を支払うシステムは
一時凍結出来るし
まさに
一石二鳥となる
写真は記事とはまったく関係ありません
これは自治体や政治家が真剣に考えるべき
事案であると
わたしは思うの
だが
ここに何か反論を頂く余地は
あるのだろうか・・
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この記事は2016年11月4日に書いたものを一本の記事にまとめた
再投稿です
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山形の
友人宅で
友人自ら作った熊汁を
ご馳走になった
旨い
じつに滋味深く美味い料理である
熊肉はもちろん友人自身が仕留めた
ツキノワグマだ
食うために獲り
獲った獲物は自分でバラして調理する
タカが空中から獲物を見つけ
急降下で捕えて食べる
まさにそれと同じで
そこには食物連鎖のすべてがある
クマを仕留めるのは
そうたやすいことではない
難易度で言えば
狩猟の世界の最高難度だろう
熊汁からはそのすべてが味わいとなり
伝わって来る
それがジビエであり
ジビエ料理の真価でもある
巷では昨今
ジビエを害獣と称し
一般に流通させようとする動きが
目立つ
ジビエは野生鳥獣だからこそ貴重であり
希少なのだが
どうもそこには重きが置かれていないように
感じられる
確かに農作物を荒らされる者にとっては
迷惑な存在に違いない
しかしだからと言っての
害獣呼ばわりは
本来のジビエの持つ価値を
損なうことにつながる
有害鳥獣駆除・・・
殺処分した駆除個体の食用利用・・
イコール流通体制の確立・・
農林業被害が軽減され
かつ食材としてそれらの個体が利用されるという話だが
一見すると
とても良いことのように思える
だがいろいろな角度からより深く
このことを見つめると
大きな矛盾と問題点が
浮かびあがる
有害鳥獣駆除・・
つまり様々な面で
人間社会に損害を与える鳥や獣に対して
用いられる
見事なまでの攻撃的な
手段の事である
そしてそのほとんどは
結果的に殺害となる場合が多い
つまり
邪魔者は消せの論理だ
拡大解釈すれば
人の首を跳ねるISISの発想と
そう大きくは
変わらないとも言える
自分らの意にそぐわない
邪魔者は
この地球上から消し去るという
発想だ
などと書くと
それとは意味が違うとクレームが付きそうだが
どんなきれいごとを並べようと
邪魔者は消せ(殺せ)という発想にさほどの違いは無い
しかしここでひとつ
きちんと整理しておかなければならない
それは
有害鳥獣駆除は一般概念の狩猟ではないというコトだ
狩猟の最たる目的は
獲物の有効利用でありその活用にある
それは食べものとしての
摂取であったり
衣服や履物としての
毛皮利用
古代には骨による釣り針の製作や
儀式的な用い方もされて来た
あるいは皮や内臓によって水筒さえも
作られて来たのである
だが有害鳥獣駆除は初めから
邪魔者を殺すことにあり
昨今の有効利用を
唱える声は
後から取って付けた理由以外の
何ものでもない
このように
鹿や猪を捕獲する行為は
一見すると同じ行為のようにも
思えるが
実は取っ掛かりの意味が
まったくもって真逆であるコトを知らねばならない
狩猟はその利用に於いて必要だから殺すのであって
駆除は人にとって必要が無いから殺すのである
ここにこの問題の
大きなゆがみがある
しかしこの事に対し
声を上げる者は少ない
いや気付いている者は相当いるのだろうが
あえて黙認していると言った方が妥当かも知れない・・
だが自らジビエを狩り
そしてそれを自ら調理して提供する立場として
あえてこのじじいめが
その矛盾を突き詰めてみたいと思う
その前に私の考え方を
述べておこう
ジビエは狩猟者が獲った貴重な
獲物であり
それを利用することが
ジビエなる言葉を使う一義と考えている
言い換えれば狩猟によって仕留められたものが
ジビエなのであり
先にも書いた
有害鳥獣駆除による殺戮は
狩猟では無い
このことを
私は明確にしておきたい
人間にとって勝手に不必要と判断した動物を殺すことが
もし狩猟であると定義されるなら
飼い主の特定出来ない猫や犬を捕獲し
無慈悲に殺処分する行為も狩猟となってしまう
ならば狩猟法で捕獲して良いと明記されるノイヌやノネコは
それこそジビエそのものとなってしまう事になる
少なくともこの日本に於いて
ハンター一般人を問わず
ノラネコやノライヌを
ジビエと称して食べたい日本人などいるだろうか?
私はフランス人が長い歴史の中で培ってきた
ジビエという食文化を
現在の日本で行われている有害鳥獣駆除の
世界に於いて
安易にその表現(ジビエ)だけを利用しないで頂きたいと
感じている
国が認めた狩猟期間内に
国からライセンスを受けた狩猟者が捕獲したもののみがジビエであり
その呼称を正当に謳えるべきと
思っている
これは今のところフランス共和国が定めるジビエの定義に
のっとるものであり
そこに矛盾はない
それは歴史が築いたフランス文化であり
崇高な精神論でもある
もしこの精神論に敬意を払わないのなら
ジビエという名前だけを安易に利用する日本人はじつに陳腐であり
ミッキーマウスをマッキーマウスと称する赤い国の人々と
なんら変らなくなる
もっと解りやすく
言えば
一年中邪魔ものとして殺した鹿や猪を
ジビエとして流通させて良いのであれば
自分が車で跳ね殺してしまった鹿や猪でさえ
ジビエと呼んで良いことになる
駆除であれ事故であれ
確かに鹿や猪には変わりはない
だがそれをジビエとすることに
私の中には何とも言いようのない違和感がある
そこで私は
ジビエの定義はハンターによる狩猟行為でのみ
得られたモノのみとし
駆除個体についてはその利用及び流通に於いて
別のブランドを用意すべきと思っている
せっかくの命であるのだから
何も駆除個体の利用について異を唱えているわけではない
一ハンターとして
そして一調理人として
フランス文化の築き上げてきた
ジビエという存在に対し
わたしはその存在意義を
日本でもきちんと確立し固定したいのである
ハンターが苦労をして捕獲した獲物だからこそ
獲物に価値が生まれ
ありがたいという精神的な概念も
生まれる
ところが狩猟期間外に邪魔者として捕獲されたものに
そのような精神的リスペクトは生まれるだろうか?
生まれるはずもない
一方では大がかりな駆除個体の流通体制を築こうとする
動きも見られるが
これらは俗に言われる有害鳥獣が
このまま一定の数で推移していくことを暗に意味している
有害鳥獣駆除の最大目的が自然環境下に於ける
野生鳥獣の適正個体数調整にあるならば
駆除をやり続ける先に見える結果は
野生鳥獣の適正頭数の達成にあらねばならない
適正頭数達成までの一時的な流通体制の確立ということであれば
納得も出来るのだが
それが未来永劫続けられる経済行為と
錯覚させることは
それらの環境に職として勤務する者にとっても
決して未来ある良い労働環境とは思えない
保健所の職員は犬猫の殺処分ゼロが達成されても
職を失うことは無いが
野生鳥獣を商業利用した場合
獲れなくなったら職を失うどころか
会社なり施設なりが経営出来なくなり
姿を消す事となる
いま盛んに商業利用を唱える者たちは
そのあたりにもきちんとした責任を負うべきであろう
いわく私は自分の力でジビエを獲ることが
叶わなくなった場合
店で売る肉類は
牛や豚で良いと思っている
いや私には正当な狩猟者精神を持ったハンターの友人も
多いので
私はその者たちから正当なジビエを正当な手段で
分けてもらって使い続ける道もある
たかがジビエ
されどジビエなのである
ゆめゆめ野生の命をそう簡単に扱っては
いけないと思う
そこには最低限
自然に対するありがたみが無ければならない
自然から得られる
ありがたみ
それがジビエであり
決して邪魔にされ忌み嫌われて排除されたものではない
※元記事先
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