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普天間の百年 その1

今回は、何かと基地移設の話題て事欠かない沖縄県宜野湾市の普天間基地(MCAS FUTENMA)を国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」で地図を検索してみた。

普天間地区は沖縄市南部(泡瀬、コザ市南部)と大謝名(牧港)の大正08年(1919年)測量からの地図があった。



宜野湾市普天間基地の周辺を南西の方向からGoogle Mapで見ると次のようになる。


緑文字は宜野湾村(現在の宜野湾市)の地区域名を記載した。一方、赤文字は第1(大山)ゲート、第2ゲート、第3(野嵩)ゲートの場所を表した。

確かに滑走路周辺まで市街地が迫り、私の知る限りかつての羽田空港や横田基地、厚木基地、伊丹空港、福岡空港などとも似ている。

それにしてもリスクを恐れない日本人の逞しい生活力には唯々敬服に値する。


それではどのように市街地が広がっていったか?・・・を地図と航空写真で振り返ってみよう。

イメージ 5

上の画像(440x330pxs)は、探し出せた地図と航空写真を大正08年(1919年)からつないで、アニメーション化したが、主に航空写真は、米軍の偵察機の撮影と思われる昭和19年(1944年)から残っている

興味のある方は、下記フォルダに少し大きな画像(920x690pxs)が有りますので、ダウンロードして使ってください。

Futenma100.gif (5.5MB)



イメージ 1

大正08年(1919年)当時の普天間地区は、後の国道58号線と数本の幹線道路に沿って数十戸の集落が点在している程度で、大きな市街地は存在していなかったようだ。
大正09年(1920年)の国勢調査で宜野湾村の人口は12,704人。

大正11年(1922年)3月には沖縄県営鉄道(沖縄県軽便鉄道)嘉手納線が開通し、宜野湾市内は大謝名、真志喜、大山の各駅が有った。

現在の国道58号線沿いの安仁屋、大山、現在の県道81号線沿いの喜友名、普天間、現在の国道330号線沿いの宜野湾、野嵩、また牧港に流れ込む比屋良川と牧港川の周辺に点在する宇治泊、大謝名、嘉数に集落と耕作地が見られる。

イメージ 2

上画像は米軍沖縄攻略作戦が決定する直前の、昭和19年(1944年)09月29日に米軍によって撮影された画像で、大正08年当時の地図と比較すると、集落や耕作地の位置と規模、道路などに、大きな変化は見られないようだ。

昭和17年(1942年)に陸軍飛行場を建設する目的で普天間地区の買収を行ったが、完成を見ずに沖縄戦を迎えた。

米軍は、慶良間諸島の渡嘉敷島、前島、神山島へ進み、沖縄本島は、嘉手納を中心に読谷から普天間までの西海岸線が、本土上陸の場所に定めた。
後の普天間飛行場が設置される周辺には、集落らしき家屋は見られない。

昭和15年(1940年)の宜野湾村の人口は12,825人で、これも大正期と大きな変化はない。


イメージ 3

昭和20年(1945年)04月08日〜16日には、宜野湾南部「嘉数の戦い」は沖縄戦最大級の戦闘の1つと云われる激戦があり、米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。この時すでに、空襲、艦砲射撃、戦車火砲などで、周辺一体はほとんどが壊滅していた。

昭和20年(1945年)06月23日から米軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を開始する傍ら、飛行場の建設が行われた。
嘉手納は日本陸軍航空隊の中飛行場を、読谷は同じく北飛行場を米軍が接収して使ったが、普天間飛行場は、米陸軍が新たに設けた施設となった。

この画像の撮影日は昭和20年(1945年)12月10日となっているが、この時に米陸軍の滑走路はすでに完成している。
画像では、海岸線は焦土化し米軍の補給施設と道路が作られている。大山、大謝名、野嵩などに新たな道路が整備されて、焦土となった道路沿いに、前年には見られなかった家屋が建ち始めている。

イメージ 4

この昭和22年(1947年)は、現在の国道58号線沿い、海岸沿い、大山、野嵩など基地につながる道路の周辺、激戦地の嘉数、大謝名などに、わずかながら民家の集落が増えていることが解る。

前年の昭和21年(1946年)には沖縄県立普天間高等学校宜野湾市立普天間中学校宜野湾市立大山小学校、宜野湾市立宜野湾小学校が設置された。
昭和25年(1950年)の人口は15,930人と戦前より増加してている。

昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発した事を切っ掛けに、沖縄の戦略的価値が見直された。基地の恒久化を目的とした建設が進められることになった。

イメージ 6

昭和36年(1961年)に縮尺50000分の1の地図があったので、解像度は劣るが前後が離れているので、経過は理解しやすいと思われる。

大山、真志喜、宇地泊、普天間地区に新たな街並みが形成され始めている。その他、嘉数、我如古、赤道、野嵩地区に集落が蘇り始めていることが解る。この時点で、基地と民家は離れていることが解る。
昭和35年(1960年)の調査では人口29,501人。

昭和32年(1957年)04月には陸軍から空軍へ管理が移管された。ベトナム戦争の始まった昭和35年(1960年)05月、施設管理権が米空軍から米海兵隊へ移管された。



以下「普天間の百年 その2」に続く

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