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NHK(日本放送協会)がインターネット配信業務に本格的に参入して、スマートフォン、カーナビゲーションシステムなどに課金する体制を確立しようとしています。

こうした動きに基づき『放送法施行規則の一部を改正する省令案』と『日本放送協会のインターネット活用業務の実施基準の認可に関するガイドライン案』、『日本放送協会の子会社等の事業運営の在り方に関するガイドライン案』について、総務省-情報流通行政局-放送政策課がパブリックコメントを7月31日まで意見募集しています。

放送法施行規則の一部を改正する省令案
日本放送協会のインターネット活用業務の実施基準の認可に関するガイドライン案
日本放送協会の子会社等の事業運営の在り方に関するガイドライン案



ここで、放送法施行規則、ガイドラインの基になる『放送法』だが、中でも日本放送協会(NHK)を規定した第15条(目的)と第20条(業務)である。

第15条  協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送(国内放送である基幹放送をいう。以下同じ。)を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うことを目的とする。

第20条 協会は、第十五条の目的を達成するため、次の業務を行う。
一 次に掲げる放送による国内基幹放送(特定地上基幹放送局を用いて行われるものに限る。)を行うこと。
【註:一号業務=電波による国内基幹放送、衛星基幹放送
イ 中波放送
ロ 超短波放送
ハ テレビジョン放送
二 テレビジョン放送による国内基幹放送(電波法の規定により協会以外の者が受けた免許に係る基幹放送局を用いて行われる衛星基幹放送に限る。)を行うこと。
三 放送及びその受信の進歩発達に必要な調査研究を行うこと。
四 邦人向け国際放送及び外国人向け国際放送を行うこと。
五 邦人向け協会国際衛星放送及び外国人向け協会国際衛星放送を行うこと。
2 協会は、前項の業務のほか、第十五条の目的を達成するため、次の業務を行うことができる。
【註:二号業務=国際中継、放送番組の理解増進に電気通信回線を使い一般利用に供する、放送番組及び必要な資料を外国放送事業者等に提供
一 前項第四号の国際放送の放送番組の外国における送信を外国放送事業者に係る放送局を用いて行う場合に必要と認めるときにおいて、当該外国放送事業者との間の協定に基づき基幹放送局をその者に係る中継国際放送の業務の用に供すること。
二 協会が放送した又は放送する放送番組及びその編集上必要な資料その他の協会が放送した又は放送する放送番組に対する理解の増進に資する情報(これらを編集したものを含む。次号において「放送番組等」という。)を電気通信回線を通じて一般の利用に供すること(放送に該当するもの及び協会のテレビジョン放送による国内基幹放送の全ての放送番組を当該国内基幹放送と同時に一般の利用に供することを除く。)。
三 放送番組等を、放送番組を電気通信回線を通じて一般の利用に供する事業を行う者(放送事業者及び外国放送事業者を除く。)に提供すること(協会のテレビジョン放送による国内基幹放送の全ての放送番組を当該国内基幹放送と同時に提供することを除く。)。
四 放送番組及びその編集上必要な資料を外国放送事業者に提供すること。
五 テレビジョン放送による外国人向け協会国際衛星放送の放送番組及びその編集上必要な資料を放送事業者に提供すること。
六 前項の業務に附帯する業務を行うこと(前各号に掲げるものを除く。)。
七 多重放送を行おうとする者に放送設備を賃貸すること。
八 委託により、放送及びその受信の進歩発達に寄与する調査研究、放送設備の設計その他の技術援助並びに放送に従事する者の養成を行うこと。
九 前各号に掲げるもののほか、放送及びその受信の進歩発達に特に必要な業務を行うこと。
3 協会は、前二項の業務のほか、当該業務の円滑な遂行に支障のない範囲内において、次の業務を行うことができる。
【註:三号業務協会保有の施設又は設備の一般利用又は賃貸、委託により放送番組等を制作する業務
一 協会の保有する施設又は設備(協会がその所有する土地についてした信託の終了により取得したものを含む。)を一般の利用に供し、又は賃貸すること。
二 委託により、放送番組等を制作する業務その他の協会が前二項の業務を行うために保有する設備又は技術を活用して行う業務であつて、協会が行うことが適切であると認められるものを行うこと。



ここで大きな問題が二点ある。

まずワンセグ放送の受信機の現状である。スマートフォンやカーナビゲーションシステムに組み込まれたワンセグ放送の受信可能範囲、受信安定性、画質の性能について、放送法第15条中の「あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送」に適合するか否かである。

ちなみに『あまねく』とは「すべてに広く行き渡るさま。すみずみまで。漏れなく。」(三省堂 大辞林)とある。

現状で受信可能範囲は限定的である。

電波を使用したワンセグ放送は、スマートフォン、カーナビゲーションシステムなど移動形受信装置では、市街地のビル影、山岳部など電界強度の変化により、安定した受信は極めて困難である。

また普通のハイビジョン放送が17Mビット/秒のデータ量に対して、ワンセグ放送は300Kビット/秒と約1/50であるため、画像中の文字が判別できない事が多い。言替えれば「画質が悪い放送方法」となる。

ワンセグ放送が放送法第20条の一号業務に当たるか否かである。スマートフォン、カーナビゲーションシステムが、その機能、性能を有していないのであれば、単独で利用料金を支払う必要が生じないからである。
一般受信契約をすれば、スマートフォン、カーナビゲーションシステムなどへの別契約は不要なのだそうだが、テレビなどの無いお宅でも無理に受信契約を迫るケースも有る様だ。



ワンセグ放送への課金に付いては、相当無理が有るので、第二点に出てきたのが、インターネットに対する受信料課金に関する点である。今回のパブリックコメントでは、『放送法施行規則の一部を改正する省令案』、『日本放送協会のインターネット活用業務の実施基準の認可に関するガイドライン案』、『日本放送協会の子会社等の事業運営の在り方に関するガイドライン案』が対象になっている。例えば以下は『受信料財源インターネット活用業務』の部分である

総務省は『放送法施行規則の一部を改正する省令案』に第十二条の四を新設する。
【4ページ
第十二条の四 法第二十条第十三項の実施計画には、同条第九項の認可を受けた実施基準の項目ごとに、当該事業年度に実施するインターネット活用業務に関する次に掲げる事項をできる限り具体的に記載するものとする。
四 インターネット活用業務の当該事業年度の実施に要する費用に関する次の事項
イ 協会のテレビジョン放送による国内基幹放送の全ての放送番組を当該国内基幹放送と同時に電気通信回線を通じて一般の利用に供する業務(当該業務に伴い協会が放送した放送番組を電気通信回線を通じて一般の利用に供する業務を含む。以下「常時同時配信等業」という。)その他の受信料財源インターネット活用業務(インターネット活用業務のうち、専ら受信料を財源として行うものをいう。以下同じ。)の実施に要する費用及び別表第三号の二に定める
様式による当該費用の明細
ロ 有料インターネット活用業務(インターネット活用業務のうち、受信料財源インターネット活用業務以外のものをいう。以下同じ。)の実施に要する費用及び別表第三号の三に定める様式による当該費用の明細
五 法第二十条第二項第二号の業務(以下「二号業務」という。)に関する料金その他の提供条件に関する事項
六 インターネット活用業務に関する苦情その他の意見の受付及び処理に関する事項
七 インターネット活用業務の経理に関する次の事項
イ 第三十二条各項の規定によるインターネット活用業務その他の業務
の経理に関する区分経理の実施方法
ロ 第三十二条第五項の費用の整理に関する計算方法
ハ インターネット活用業務の実施に要する費用の開示方法
ニ 区分経理の実施の適正を確保するための措置
ホ その他インターネット活用業務の経理に関し必要な事項
八 その他インターネット活用業務に関し必要な事項



この『放送法施行規則の一部を改正する省令案』に基づき『日本放送協会のインターネット活用業務の実施基準の認可に関するガイドライン案』も変更、新設される。中でも気になる点は『実施基準の認可要件(現行、「許可基準」)』の部分だ。

第3 実施基準の認可要件(現行、「許可基準」)その他の関連条文の解説
【4ページ

3 業務の種類、内容及び実施方法並びに2号業務に関する料金その他の提供条件に関する事項が、協会の放送を受信できる受信設備を設置した者について、法第64条第1項の規定により協会とその放送の受信についての契約をしなければならないこととされている趣旨に照らして、不適切なものでないこと(法第20条第10項第3号関係)

【ガイドライン第3に関する総務省の解説
本号は、インターネット活用業務の種類、内容及び実施方法並びに2号業務に関する料金その他の提供条件に関する事項が、法第64条第1項で規定されている受信料制度の趣旨に照らして不適切なものとなっていないことを認可の要件とするものである。
インターネット活用業務は、協会がその目的達成のために任意で行うものであるが、その実施によって協会の存立基盤である受信料制度自体が毀損又は形骸化することとなれば、「受信料制度に支えられた公共放送」という法の基本的枠組みに大き影響を及ぼすこととなる。
例えば、インターネット活用業務の種類、内容及び実施方法並びに2号業務に関する料金その他の提供条件に関する事項が、受信料徴収の対象となる協会の国内テレビ放送を視聴できることと同等又はこれに準ずるものとなっている場合に、テレビ等の受信設備を設置していない者であっても、事実上、受信設備を設置している者と同等の放送番組を同等の条件で視聴できてしまうこととなれば、受信料の公平負担の確保が困難となる等、受信料制度の趣旨との整合性がとれなくなるおそれが生じることとなる。本号は、こうした事態を回避するものである。



利用者側の利益をよそに、日本放送協会(NHK)の利益が一方的に優先された内容にも思える。

パブリックコメントの入口は下記から



パブリックコメントを提出しました。

以下、四点について疑義が有るため、NHK(日本放送協会)の受信料財源インターネット活用業務の実施に反対します。

1.『放送法施行規則』に第十二条の四を新設する件(4ページ)について、「四項のイ」にある常時同時配信等業務、その他の受信料財源インターネット活用業務の費用の妥当性を事前審査する審査機関及び審査基準が不明確である。「四項のロ」にある有料インターネット活用業務も同様である。

2.『放送法施行規則』に第十二条の六を新設する件(4ページ)について、「六項」にある「苦情その他の意見の受付及び処理」については、公平な第三者機関による透明な処理と結果の開示が必要。

3.『実施基準の認可に関するガイドライン案』の「第3 実施基準の認可要件(現行、「許可基準」)その他の関連条文の解説」(4ページ)について、以下の論拠が明確に提示されていない。
3−1.「二号業務に関する料金その他の提供条件に関する事項が、法第64条第1項で規定されている受信料制度の趣旨に照らして不適切なものとなっていないことを認可の要件とする」との中で、国外からの受信者の取扱いが不明。
3−2.「受信料制度に支えられた公共放送という法の基本的枠組みに大きな影響を及ぼす」との影響が不明。また前項同様国外受信者の取扱いが不明確。
3−3.「テレビ等の受信設備を設置していない者であっても、事実上、受信設備を設置している者と同等の放送番組を同等の条件で視聴できてしまうこと」とは、誰が視聴性能の判断するのか不明確。

4.複数の新聞情報と比較して、NHK(日本放送協会)の報道内容には明らかに放送法第四条の一から四に抵触しているばかりではなく、昨今では「報道しない自由」で国民の知る権利を侵害している。特に国際放送では、極めて偏向した番組を世界に発信している。


戦争責任者は誰だ

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によるWGIPWar Guilt Information Program)も同様だが、NSAアメリカ国家安全保障局)が公開したベノナファイル、ソ連崩壊によるKGB機密資料の公開などで、闇に葬られていた、70年以上前の歴史の真実が明らかになりはじめた。
戦後は、一貫して「陰謀論」で一笑の元に片付けられていた「左翼の暴走」「コミンテルンの工作」など、様々な出来事が、裏付けられる結果となった。

戦争責任とは、開戦、継続、終戦の責任に分類する。開戦責任とは戦争を回避できる立場の者が、回避を怠り、または世論を形成、誘導した」と考える事が出来るだろう。

私的に最も重い開戦責任は、第二次近衛文麿内閣のブレーンであった昭和研究会」が大きな役割を果たしたと思う。

戦前に戻って正確に知るには、ナチスやソビエト連邦と同じように作られた大政翼賛会」と、その理論を形成した昭和研究会」の存在である。



ところで「昭和研究会が目指した「新体制運動」の骨子は以下の通りであった。

★一国一政党制
労働組合の大同団結
私有財産の廃止
学校制度の廃止

三度の近衛文麿内閣の裏で暗躍した側近の後藤隆之助風見章、社会大衆党の蝋山政道、企画院(内閣調査局)など革新官僚の賀屋興宣後藤文夫青木一男勝間田清一稲葉秀三、朝日新聞の佐々弘雄笠信太郎尾崎秀実大阪毎日新聞出身の正木千冬、などが昭和研究会」に中心にいた。更に実効部隊に陸軍軍務局、満洲権益を守る財界、金融界の大物が加わって組織された
そして彼等は新体制運動」を推進し、第二次近衛内閣で「大政翼賛会」を結成し、「日独伊三国同盟」の締結に邁進した。

しかし、新体制運動を謳った大政翼賛会」では、ナチス・ドイツやソビエト共産党の様な一党独裁には至らなかった。

戦後教育の影響か、「大政翼賛会」と云うと右翼傾向の政党に見られがちだが、実際には左翼の学者と政治家、企画院を中心とした革新官僚、企画院に近い参謀本部将校、新聞社、一方で満洲の財界、金融関係者などが牽引したリベラル色の強い組織であった。

終戦後、昭和研究会」のメンバーは愛国心を隠して、GHQに取入ったのだろう。名前を見れば明らかなように、戦前、戦中の主義主張をオブラートに包んで、ほとんど政界、学界、財界、言論界などに復帰している。

東京裁判(極東国際軍事裁判)で「戦争責任」は、最も国民に忠誠を尽した軍人、特に陸軍軍人に負わされ、主要な将校は絞首刑になった。

改めて、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦前後の主要な関係者をまとめてみた。


近衛文麿 Konoe Fumimaro 総理大臣
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明治24年1891)〜 昭和20年1945
京都大学時代に、共産主義者の経済学者・河上肇、被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学んだ。
第二次近衛内閣は「昭和研究会」の推進する「新体制運動」に基づき日米開戦に備えて「基本国策要綱」を閣議決定し、一国一政党を目指す大政翼賛会」を設立、「日独伊三国軍事同盟」を締結した。
終戦の年には自らの左傾化を悔いて「近衛上奏文」を奏上するが、終戦後にA級戦犯に指名され自殺。

東條英機 Tōjō Hideki 陸軍大臣
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治17年(1884)〜昭和23年(1948)
陸軍大学校を首席で卒業、陸軍歩兵将校、陸軍省動員課長、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次近衛内閣で陸軍大臣。第三次近衛内閣が総辞職後、首班の裁可が下りる。世論の「開戦止む無し」を抑えきれず開戦を決断。米国が絶対国防圏を突破した事で、東條は責任取り辞任。
気配りの人、現場主義の権化、カミソリ東條、一種の恐怖政治、華族になりたかったなど評価は分かれるが、昭和天皇の「東条を非常に高く評価している」とのお言葉もある。A級戦犯で絞首刑。

木戸幸一 Kido Kōichi 内大臣
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明治22年1889)〜 昭和52年1977
京都帝国大学卒業後は農商務省へ入省。近衛文麿の抜擢で、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。二・二六事件では陸軍統制派と連携して事件処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、文部、厚生、内務大臣を歴任。開戦後、東條内閣を支えていたが、戦局不利と見ると東條を見限り、和平派重臣と提携して和平工作に邁進した。
東京裁判での「木戸日記」は、責任を軍人だけに押付ける結果となった。終身禁固刑の判決を受けたが、健康上の理由で仮釈放された

松岡洋右 Matsuoka Yōsuke 外務大臣
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明治13年年(1880)〜 昭和21年1946
オレゴン大学法学部卒、外交官及領事官試験に首席合格して外務省入省。外務省退官後、満鉄の理事、副総裁を歴任。衆議院議員総選挙に当選(政友会)。満洲国承認を巡って国際連盟総会に首席全権として「十字架上の日本」で参加各国の共感を得たが、日本は脱退する結果となる。開戦前の日米交渉で突然「ハルノート」を突付けられ断念。
敗戦後はA級戦犯容疑者に指名され、一度の出席で罪状認否で、全被告人中ただ一人無罪を主張。結核悪化で加療中に病死。

賀屋興宣 Kaya Okinori 大蔵大臣
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明治22年1889)〜 昭和52年1977
大蔵省に入省し、主に主計畑。陸海軍予算を担当し若手軍人と親交。昭和研究会常務委員、第一次近衛内閣で大蔵大臣となり、「賀屋財政経済三原則」を発表。東條内閣大蔵大臣時代には戦時公債を濫発、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。
戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となったが、昭和33年1958)に減刑された。第28回衆議院議員総選挙に立候補し当選。米中央情報局(CIA)、蒋介石政権に広い人脈を持っていた。

鈴木貞一 Suzuki Tēichi 国務大臣兼企画院総裁
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明治21年1888)〜 平成元年1989
陸軍大学校卒業後、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。第3軍参謀長から興亜院政務部長、第三次近衛内閣で国務大臣兼企画院総裁に就任。
極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている。終身禁固の判決を受け服役。昭和33年(1958)に減刑された。

風見章 Kazami Akira 司法大臣
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明治19年1886)〜 昭和36年1961
早稲田大学政経から朝日新聞記者など経て信濃毎日新聞主筆。岡谷製糸争議で共産党員を擁護、共産党宣言を賛辞する記事を連載。その後、衆議院議員になり第一次近衛内閣で書記官長に抜擢。盧溝橋事件で政府の不拡大方針に反して、報道関係に「近衛の北支派兵声明」と発表して和平交渉を壊す。昭和研究会」世界部門委員。
戦後は、政界復帰して左派社会党。憲法擁護国民連合代表委員、日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長などで活動。

石黒忠篤 Ishiguro Tadaatsu 農林大臣
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明治17年1884)〜 昭和35年1960
東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省、農林次官を務めて退官、農村厚生協会会長、産業組合中央金庫理事長などを歴任して「石黒農政」と呼ばれた。昭和研究会常務委員。第2次近衛内閣の農林大臣に就任。
公職追放解除後、第2回参議院議員補欠選挙に立候補して当選緑風会憲法調査会委員、全国農民連合会会長、全国農業会議所理事、全国農業協同組合中央会理事等を歴任。

板垣征四郎 Itagaki Seisirō 朝鮮軍司令官
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明治18年1885)〜 昭和23年1948
陸軍士官学校は第16期、関東軍の高級参謀、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。第一次近衛内閣改造で陸軍大臣。朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与。板垣の「桐工作」では、汪精衛、蒋介石政府の合作を仲介を試みた。
第七方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束。極東国際軍事裁判では死刑判決を受け絞首刑。


武藤章 Mutō Akira 陸軍省軍務局長
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明治25年1892)〜 昭和23年1948
陸軍大学校卒、参謀本部作戦課長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長で、最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くす。開戦後は戦争の早期終結を主張して東條らと対立。終戦前年に山下奉文の希望で第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任。
東條英機は判決後、「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と武藤に漏らしたと云われる。武藤は巣鴨はプリズンで絞首刑。

後藤隆之助 Gotō Ryūnosuke 近衛の側近
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明治21年(1888)〜 昭和59年(1984)
近衛文麿の側近。ヒトラー、スターリン、ルーズベルの政策に感銘を受ける。その後昭和研究会」を設立し、左翼から右翼まで広い人脈を結集した。戦後は公職追放の解除後、参議院議員に当選して、山本有三らと貴族院議員からのスライド組、官僚出身者、文化人などを集めて「緑風会」を結成し、参議院最大会派となった。師弟には社会主義インターナショナル副議長の永末英一、日本社会党の滝井義高、後の総理大臣・宮澤喜一、新日本製鐵社長になった武田豊らがいた。

後藤文夫 Gotō Fumio 貴族院議員
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明治17年1884)〜 昭和55年1980
内務省官僚出身で「天皇陛下の警察官」を自称。「新官僚」の代表と見られる。台湾総督府総務長官時代に台中不敬事件で総務長官を引責辞任。貴族院勅選議員に勅任。「国維会」を近衛文麿らとともに発起し理事。昭和研究会常務委員、大政翼賛会事務総長。
戦後はA級戦犯に指名され巣鴨拘置所に拘置るが不起訴により釈放。参議院議員一期(緑風会)、日本青年館理事長、名誉会長。日本の原子力発電導入に尽力。

蝋山政道  Rōyama masamichi 衆議院議員
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明治28年(1895)〜 昭和55年1980
東京帝大在学中に大正デモクラシー・吉野作造の影響を受ける。社会主義的論評雑誌「改造」に出稿。昭和研究会常務委員、衆議院議員(大政翼賛会
戦後は中央公論社副社長「中央公論」編集主任に就任。公職追放にあうがまもなく解除。公益事業学会理事長に就任、日本行政学会を設立理事長に就任。お茶の水女子大学学長に就任、国際基督教大学教授に就任。民主社会主義連盟理事長として社会党をサポート。

大蔵公望 Ōkura Kinmochi 鉄道院官僚
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明治15年1882)〜 昭和43年1968
東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、渡米してミズーリ・パシフィック鉄道、タイドウォーター鉄道などに勤務。
帰国後、鉄道院官僚で南満州鉄道運輸部次長を経て理事に就任。男爵号を継いで貴族院議員、満洲移住協会理事長、拓殖大学専務理事。東亜旅行社の総裁。昭和研究会常務委員に就任。
戦後は、東亜旅行社から日本交通公社に改称して会長就任。貴族院議員を辞職して公職追放。

稲葉秀三 Inaba Hidezō 企画院官僚
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明治40年(1907)〜 平成8年(1996)
東京帝国大学を卒業後、企画院に就職。昭和研究会常務委員。
企画院事件」で治安維持法違反容疑で投獄
戦後、日本初のマクロ経済系シンクタンク「国民経済研究協会」を設立して理事長に就任。サンケイ新聞論説主幹、日本工業新聞社長、サンケイ新聞社長を経て、国策研究会会長。戦後の経済安定本部(後の経済企画庁)の三羽ガラスと言われた。


勝間田清一 Katsumata Sēichi 企画院官僚
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明治41年(1908)〜 平成元年(1989)
宇都宮高等農林学校でマルクス主義に触れ、社会主義的思想を持つ。京都帝国大学から労資協調のための「協調会」に就職。更に内閣調査局に転職し、内調は企画院に組織変更。大政翼賛会九州班長に就任するが「企画院事件」検挙。
戦後は左派社会党で党内の理論派、日本社会党委員長に就任。元KGBの職員が持ち出した「ミトロヒン文書」により、勝間田はソビエト連邦の工作員であることが裏付けられた。

正木千冬 Masaki Chifuyu 企画院官僚
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明治36年(1903)〜 昭和57年(1982
東京帝国大学在学中はマルクス経済学を学び、セツルメント運動に没頭。大阪毎日新聞社に入社し「大阪産労」に参加し、野坂参三と知合う。共産党員一斉検挙で4回以上投獄。友人の迫水久常の勧めにより企画院に移って企画院事件で逮捕。獄中では尾崎秀実や宮本顕治との交流もあった。
戦後は、内閣統計局次長を経て國學院大學教授に就任。昭和45年1970年)に日本社会党と日本共産党の連携で鎌倉市長に当選。

青木一男 Aoki Kazuo 大蔵官僚
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明治22年1889年) 〜 昭和57年1982年
東京帝国大学法学部から大蔵省に入省。近衛文麿首相の要請により企画院の創設に携わり、その後総裁となる。貴族院勅選議員となって阿部内閣で大蔵大臣として初入閣。東条内閣で初代大東亜大臣。
戦後はA級戦犯容疑者として収監されるが、その後釈放される。参議院選挙に吉田自由党から立候補して当選。
革命勢力の集団的暴力活動に対処する方策や、日教組の偏向教育と勤務評定対策などの攻究と是正に尽力した。

高橋亀吉 Takahashi Kamekichi 企画院専門委員
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明治24年1891) 〜 昭和52年1977
早稲田大学商科から久原鉱業に就職するも馴染めず、石橋湛山が主幹を務める東洋経済新報社に入社。欧米視察を経て「前衛」「マルクス主義」「社会主義研究」で資本主義研究を執筆。高橋経済研究所を創立して「高橋財界月報」を刊行。昭和研究会常務委員、企画院専門委員、大政翼賛会政策局参与。
戦後は、日本経済研究所の創設、通商産業省顧問、産業計画会議委員等を歴任。拓殖大学教授を務める。

田島道治 Tajima michiji 日本銀行参与
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明治18年1885)〜 昭和43年1968
東京帝国大学時代に新渡戸稲造家に書生として住込み、無教会主義キリスト教徒。愛知銀行に入行し調査部長を経て鉄道院総裁・後藤新平の秘書となり、外遊後に愛知銀行で常務取締役。昭和金融恐慌後の収拾策で昭和銀行が設立され常務取締役、頭取。昭和研究会常務委員、日本産金振興会社社長、日本銀行参与などを歴任した。
戦後は、昭和天皇が宮内府の交代に難色を示したが、宮内府長官に就任。初代宮内庁長官となり、宮中の民主主義教育の促進に努めた。

東畑精一 Tōbata Sēichi   植民政策教授
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明治32年1899年) 〜 昭和58年1983年
東京帝国大学農学部で農業経済学を専攻し、ドイツ留学で数量経済学を学び、学友の蝋山政道昭和研究会常務委員、農業問題担当東大植民政策講座主任教授を兼任。満洲開拓政策に影響を与えた。戦時中は、比島調査委員会委員として占領地運営の社会調査を行った。
戦後は、米価審議会、経済審議会、国民生活審議会、税制調査会、農政審議会など政府諮問機関の委員・会長を歴任。アジア経済研究所初代所長に就任。

三木清 Miki Kiyoshi 京都学派哲学者
イメージ 13
明治30年(1897年) 〜 昭和20年(1945年)
京都帝国大学で西田幾多郎に師事した京都学派の哲学者。法政大学文学部哲学科主任教授となる。日本共産党に資金提供をした事で逮捕。その後、ジャーナリズム活動の傍ら昭和研究会常務委員として哲学的基礎づけ作業を担当。
治安維持法違反の高倉テルが仮釈放中に逃亡し、三木が逃走の幇助を行なった事で検事拘留処分を受た。豊多摩刑務所に収監されてから、疥癬(かいせん)に起因する腎臓病の悪化により死亡した。

那須皓  Nasu Shiroshi 満蒙開拓移民推進役
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明治21年(1888)〜 昭和59年(1984)
東京帝国大学農科大学教授。「日本農業経済学会」を結成。小作争議や農村の貧困問題の研究を行い、「農政の神様」と称された石黒忠篤農林大臣の側近、ブレーン。昭和研究会常務委員、国内農業問題解決のための満蒙開拓移民の推進役を果たす。
戦後は、公職追放から復帰。駐インド兼ネパール大使となり、帰国後「アジア救ライ協会」を設立して理事長に就任。国連食糧農業機関の総会議長に就任するなど国際交流に貢献した。

緒方竹虎 Ogata Taketora 朝日新聞主筆
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明治21年(1888)〜 昭和31年(1956
大阪朝日新聞社に入社、朝日新聞社主筆、代表取締役となり、一時は「緒方筆政」と云われた。一方で「昭和研究会常務委員として、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実らを送込んだ。ゾルゲ事件で尾崎秀実の逮捕と、親友の中野正剛が憲兵隊に身柄拘束され釈放後の自殺で、東條内閣と対立する結果となった。
戦後、公職追放の解除されてから、第25回衆議院議員総選挙で中野正剛の地盤を引き継いで当選し、内閣官房長官、副総理に就く。

前田多門 Maeda Tamon 朝日新聞論説委員
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明治17年(1884)〜 昭和37年(1962
内務省官僚から、東京市の助役、朝日新聞論説委員、米国の日本文化会館館長、新潟県知事などを歴任する。朝日新聞時代に「昭和研究会」政治部門委員。
戦後、貴族院議員となり、東久邇宮内閣の文部大臣に就任するが、公職追放になり、娘婿の井深大が起した東京通信工業を、田島道治と田島の友人の全国銀行協会々長の万代順四郎の力を借りて応援し、自ら東通工の社長に就任した。

佐々弘雄 Sassa Hiroo 朝日新聞論説委員
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明治30年(1897)〜 昭和23年(1948
東京帝大時代は、美濃部達吉吉野作造の薫陶を受ける。欧州留学から帰国後は、新設の九州帝国大学法文学部教授に就任。中野正剛の「九州日報」で論説、上京して雑誌「改造」や「中央公論」の常連執筆者として政治評論を書いた。東京朝日新聞社に入社、次いで論説委員、昭和研究会」常任委員。
戦後は、参議院議員(緑風会)となり、熊本日日新聞社の社長兼主筆に就任。次男は内閣安全保障室長の佐々淳行

笠信太郎 Ryū Shintarō 朝日新聞論説主幹
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明治33年(1900)〜 昭和42年(1967
東京商科大学(現、一橋大学)を卒業して朝日新聞社に入社し、後に論説委員、昭和研究会委員。戦時中、スイスのベルンで米情報機関OSSの欧州総局長アレン・ダレス(後のCIA長官)を仲介とした、対米和平工作に協力。戦後もCIAとのつながりが継続。
戦後は、朝日新聞論説主幹、常務取締役・論説主幹を歴任。第一次安保闘争で改定反対、岸内閣退陣の論陣を張ったが、死者が出ると一転「暴力を排し 議会主義を守れ」という7社共同宣言を起案。

尾崎秀実 Ozaki Hotsumi 朝日新聞記者
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明治34年(1901)〜 昭和19年(1944)
東大大学院で、大森義太郎教授によるブハーリン「史的唯物論」の研究会に参加して共産主義者となる。東京の朝日新聞社に入社。社会部に同輩の田中慎次郎がいて尾崎の協力者になった。
開戦の直前にソ連スパイのゾルゲ事件が発覚し、首謀者の一人として尾崎が逮捕された。日独の情報を取ると共に、日米開戦に仕向ける情報を流し、世論を誘導していた事が判明した。ゾルゲと尾崎らは、裁判で死刑になった。


旭日旗への疑問

5月28日、大韓体育会が東京五輪組織委員会に2020東京オリンピックで「旭日旗の使用禁止」を要求した・・・と伝わった。
そもそも、第二次世界大戦の対戦国から旭日旗を「戦犯旗」と言われた経緯はなく、加えて日本が韓国と戦争した事実も全くない。

A "war" is the WWII (Second World War) by this page.

冷静に歴史の事実を検証すれば明々白々なのだが、わずかながら日本人の中にも韓国の主張に同調する人もいるようだ。



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元々、AFC(アジアサッカー連盟)アジアカップ2011の準決勝日韓戦で、韓国の奇誠庸(キ・ソンヨン)選手が、カメラ前で日本人を侮辱する猿真似した事を注意された。
その言い訳に「旭日旗見えた」と言った事が韓国報道で取上げられ、韓国内で旭日旗騒動は広がった。

実際、この試合映像を検証したネット・ユーザーの間では、「旭日旗は見つからなかった」と云う声もあがっていた。

This turmoil has started with excuse to
Haight of Japan by a soccer game in 2011.

竹島の領有権プラカードの件も同様だが、そもそも「スポーツに政治を持ち込まない」と云う基本的な概念が欠落しているのだろう。

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韓国の奇誠庸(キ・ソンヨン)選手の発言に、反日活動を生業とする、誠信女子大学校客員教授の徐敬徳(ソ・ギョンドク)氏がこの旭日旗騒動に火を点け、ナチスドイツの鉤十字(Hakenkreuz)と同じだと言出し、韓国内では「戦犯旗」と云うレッテル貼りが定着した。

こうした韓国の動きに、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などが、彼等に同調する一部日本人の意見を大々的に取り上げた。
旭日旗=鉤十字を流布した徐敬徳氏   

徐敬徳(ソ・ギョンドク)氏は、日本国内での炎上を狙っているとの声もあるので、あまり取上げる必要もないのだろうが、少なくとも日本人は、この騒動を改めて正確に知っておくべきだろうと思った次第だ。

そもそも「戦犯旗」をWikipediaで参照すると「2012年ごろに韓国で作り出された新造語で戦争犯罪者の略称に「旗」を合わせた単語」とある。
また「法的・学術的な根拠を有する概念ではなく、2018年の時点では日韓の学術論文で用いられた例は存在しない」ともある。

The word of "War Criminal Symbol" was created in 2012.

マスコミが使う「従軍慰安婦」、「性奴隷」(sex slave)などの言葉と同様に、戦犯旗」は特定の政治的な目的を持って、戦後に作られた新造語なのである。



では徐敬徳(ソ・ギョンドク)氏の主張する「旭日旗鉤十字(Hakenkreuz)」について、順序立てて分析してみよう。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党旗であったハーケンクロイツは、第二次世界大戦前の1933年に国旗になった。

一方、日本の国旗は白地に赤い丸の「日章旗」だが、大化元年645年)頃から脈々と使われてきた。また旭日旗は明治時代初期に日本の軍旗なった。

しかし日本人へのヘイト・クライムは、国外勢力だけではない。むしろ日本人の中に外国勢力を焚きつける人々も見逃せないのでる。

Why "Japanese liberalist" is the anti-Japan ?

ナチス・ドイツの鉤十字(Hakenkreuz)と対比するのであれば、日本では一国一政党を目指した「大政翼賛会」の党旗がこれにあたる。

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ナチス・ドイツの鉤十字(Hakenkreuz)         大政翼賛会の党旗    

The close Symbol as a flag of "the Nazis" was
a Japanese "Taisei Yokusankai" flag.

戦争を知らない世代は、深い意味も理解する事もなく、国旗掲揚、君が代斉唱に抵抗を覚え、旭日旗への憧憬も薄れてしまった。しかし多くの日本人は、違和感を感じていた事も事実であった。



ところで軍旗であった旭日旗に対比する、当時のナチス・ドイツではどの様な旗だったのだろうか。

1813年にプロイセン王国フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって制定された鉄十字(黒十字)はドイツ帝国を経て、ナチス・ドイツ軍でも使用されていた。

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ナチス・ドイツ軍の黒十字と鉄十字           日本帝国海軍の軍艦旗   

"Flag of the Rising Sun" is used up to now from the
19th century like a German vexillum of "iron cross".

一方、旭日旗は、明治2年(1870年)に大日本帝国陸軍の陸軍御国旗(軍旗)として初めて使用され、明治22年(1889年)に大日本帝国海軍の軍艦旗としても採用された旭日旗が、国旗になった歴史はまったくない

"Flag of the Rising Sun" was never used for a national flag.



ドイツの鉄十字、自衛隊の旭日旗について、現在の軍旗はどの様に使われているのだろうか。鉤十字(ハーケンクロイツ)が禁止されているドイツでも、鉄十字と黒十字は正式な記章に使われている。

昭和29年(1954年)6月、陸上自衛隊では旧陸軍時代の軍旗を元に考案された八条旭日旗の「自衛隊旗」が、同じく同年発足の海上自衛隊では旧海軍時代の軍艦旗と同じ意匠の「自衛艦旗」が採用され、旭日旗の使用が復活した。
ドイツ、日本の何れも、全世界から軍章、軍旗として認められているからだ。

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 独軍ユーロファイタータイフーンの鉄十字  ウラジオストク入港中の海上自衛隊 艦隊旗
     Iron cross of a Euro fighter typhoon      JMSDF during Vladivostok arriving in port

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      独軍レオパルド戦車の黒十字    シャンゼリゼ通りを行進する陸上自衛隊 連隊旗
       Black cross of Leopard 2                    JGSDF marching the Champs Elysées

その他、両国民の一般人に広く定着している様子は以下の通り。特には旭日模様は江戸時代後期から「縁起物」の紋様として、日本人の生活に密着してしている。

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 ドイツのサッカー場で振られる鉄十字  スペインのアトレティコ・マドリードの旭日旗

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福神江の嶋もうで      甲子園球場の始球式                    洲本市旗屋の大漁旗           

結論としては、少し歴史を紐解けば、誰にでも理解できる問題であった。ナチス・ドイツの鉤十字(Hakenkreuz)は党旗であったものが国旗となり、旭日旗は只の一度でも国旗であった事はない。

旭日旗騒動は、リベラルを気取る日本国内の議員、官僚、学者、マスコミが拗らせた典型だとも云えよう。第二次世界大戦の開直前から戦意高揚を図った昭和研究会新体制運動に、積極的に加担した事を覆い隠す目的で、戦後の歪んだリベラルの自己弁護が生み出した珍現象とも云える
言い換えれば彼等の自己弁護の為に、「軍人」特に「陸軍」をスケープゴートにする必要があった訳だ。

The people of a political authority who incited
strife heart uplift before a war.
And Soviet and China fitted into communist's
spokesman after a war.
The military personnel who did loyalty for the people
were buried as the scapegoat.

一方、小学校の教育から洗脳された韓国の国民はこうした事実を知っても治まらないだろうが、結局は初代大統領になった李承晩が作り出した建国神話を清算しないと、まともな国際関係は築けないのだろう・・・と感じる。

I think Korean people has to investigate
a "myth of the founding country"
why was distorted by Syngman Rhee.

When not ending your fake stories,
you must stray into the more deeper maze.



遅れ馳せながら、日本政府が公式見解を発表した。早い時期(2011年頃)に発表しておけば、大騒ぎにならずに済んだのだろうが・・・。

Japanese Government announced an official view.

外務省 旭日旗について
MOFA The Rising Sun Flag As Part Of Japanese Culture




君が代の源流

多くの国民が祝賀に包まれ、令和の御代を迎えて、国書である「万葉集」梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、あわせて序)が出典となって話題になった。


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梅花の歌三十二首の序文の中に、ハイライト部分の「令和」の文字が含まれている。

于時 初春月 氣淑風
梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

漢文の授業ではないが、これを読むと次の様になるようだ。

時(とき)に、初春(しよしゆん)の月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く、風かぜやはら)ぎ、梅(うめ)は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す

初春の「美しい月」、「澄んだ空気」、「やわらかな風」とは、何とも気品の漂う優雅な響きを持っていると感じる。



ところで、英国の文学者トーマス・ハーディ」の研究で著名な「山本文之助」先生に高校と大学で教示頂く機会があった。高校時代は授業中に東北訛りの英語を真似して怒られた記憶が有るが、大学(文学部英米文学科)では、先生に研究室に呼んで頂きお話を伺った事を思い出す。

先生は「英国や欧州では、源流であるラテン語を今でも大切にしているが、最近(1968年頃の事)では、歴史的な日本語を学ばない学生が多いのではないか?」と、当時は貴重だったゼロックス・コピーの一枚を拝見した。
そして「歴史の積み重ねを知らずに、文学を語る事は実に不遜だ」と言って、コピーの中身を説明して下さった。
旧仮名文字が並ぶコピーは「古今和歌集」の一部で、全く読めなかったが「君が代」の基になった和歌で、「わか君は 千世にやちよに さされいしの いはほとなりて こけのむすまて」と読んで説明された。

当時は、70年安保の直前で学校中が盛上っていて、引きずられた大多数の学生が大声で「安保反対」「闘争勝利」などと連呼して、デモを繰返していた時代である。
それまで当たり前に歌われていた「君が代」や「国旗掲揚」も、世間的にはばかられる風潮が蔓延しつつあった。

従って山本先生の説明も、その場では失礼ながら「胡散臭い」とまで考えてしまったと思う。今にしてみれば「もったいない」の一語に尽きるのだが・・・。



元号「令和」が発表されて、出典が国書「万葉集」である事を知り、50年前の師、山本文之助の言った事を思い出した。
そこで師の言葉を思い出し「古今和歌集」を検索すると貞応2年(1155年)7月22日の「貞応本」を、文明8年(1476年)9月に猪苗代兼載(いなわしろ けんさい)の銘の入った写本が見つかった。


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古今和歌集 巻第七
賀哥
題しらす
読人しらす

わか君は ちよにやちよに さゝれ石の いわほとなりて 苔のむすまて

賀哥(賀歌)は御めでたい時の歌で、「題知らず」、「読み人知らず」は、和歌集作成の以前から詠まれていた歌が多く、言わば広く歌われ「定番」的な存在だったのだろう。

古今和歌集は、醍醐天皇の命により「万葉集」に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑が撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上されたようだ。

発句の「わか君は」は、歌集によっては「君か代は」との表記もある。貴族だけでなく武士や平民まで素読に使われた「和漢朗詠集」の中で、1400年頃の「室町中期写本」には下巻「祝」に下記の記載があった。


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和漢朗詠集(室町中期写本)
下巻

君か代は ちよにやちよに さゝれ石の
いわほとなりて こけのむすまて

この和歌は現在の「君が代」の歌詞と全く同じである。

また、こうした朗詠に使われる以外に、田楽・猿楽・謡曲などにも登場し、一般には宴会のお開き、舞納めとして歌われていたようだ。

曽我兄弟の仇討ちをテーマにした「曽我物語」の中にも「弁財天の御事」の場面にも登場している。

曽我物語
巻第六
辯才天の御事

「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。
義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに・・・

16世紀頃、戦国武将島津忠良が作り、武士に歌われていた琵琶歌に雰囲気が伝わると思われるので薩摩琵琶「蓬莱山」を取上げてみた。

蓬莱山
作詞:島津日新斎(忠良)
作曲:淵脇了公

目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に
不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに
峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ
君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへば
また堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば
千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ
下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ
君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と
国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして
鳥もなかなか驚くようぞ なかりける

薩摩琵琶「蓬莱山」 正伝士風薩摩琵琶士弦会さん

Youtubeの経過時間「9:10」付近から「君が代」部分が登場する。



明治2年1869年)4月、エディンバラ公アルフレッド王子が来日する事で、急遽国歌が作られた。当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)らが、琵琶歌「蓬莱山」から歌詞を選び、これに英国公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが曲を付けた。これが国歌としての最初であったが、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。

明治13年(1880年)10月、宮内省伶人長林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲した。この曲にドイツ人海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。これが現在まで続く「君が代」である。

国家「君が代」独唱 野々村彩乃【高音質】 DearAngel2010さん

甲子園で歌った野々村彩乃さんの歌唱は抜群だが、両手を脇に伸ばした挨拶の仕方は誠に清々しい。

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余談ながら最近は、歌手、テレビのキャスター、コマーシャル画像、デパートなどで、両手を手前で合わせる挨拶の仕方が、蔓延しているのを苦々しく思っていた。
だらしなく腕(かいな)を開いて、指先まで技土地なく相手に媚びる様子は、誰が流行らせたのか全く見苦しい限りだ。

マニュアル依存、紋切型の挨拶は、心のこもった日本人の自然な振舞いが損なわれているとしか思えない。前で手を合わせて会釈するなら、せめて脇を締めてヘソの下で自然に手を組んで欲しいものだ。



君が代が制定された翌明治14年(1881年)発刊された「小学唱歌集 初編」では、英国人ウェッブが作曲した別旋律で2番まである「君が代」が載っていた。
明治24年1891年「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定されるまで、学校ではウェッブ版「君が代」が教えられていたが、ほとんど普及しなかった。

鳩山一郎と岸信介

前回「優柔不断と呼ばれた近衛文麿」で近衛文麿対峙して、昭和26年1951年)9月8日のサンフランシスコ講和条約の締結後、主権を回復してから「自由民主党」を起ち上げ、戦後政治の骨格を作った二人を挙げざるを得ないだろう。

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鳩山一郎は、東京帝国大学法科大学英法科を卒業後、衆議院議員兼東京市議であった父の鳩山和夫の弁護士事務所に勤めた。
明治44年1911年〉10月、和夫の死後、補欠選挙で東京市会議員、次いで衆議院議員になった犬養内閣、五・一五事件後も斎藤内閣で文部大臣として入閣した。
左翼色の強い「昭和研究会」の影響を色濃く反映した近衛文麿国家総動員法や大政翼賛会に対して、鳩山は「コミンテルンのテーゼに基く」と反発した。

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一方岸信介東京帝国大学法学部法律学科(独法)の優等生であったが、当時は二流官庁と思われていた農商務省に入省。
近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請されたが固辞。
東條内閣で商工大臣として入閣して商工経済会(経団連の前進)設置法を成立させた。
昭和17年1942年)の衆議院議員総選挙で当選して、初めて政治家になったが、商工省が廃止され軍需省へと改組された事から東条英機と対立を深めていった



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開戦直前から、近衛文麿に正面から対峙した鳩山一郎は、戦後GHQから一旦公職追放を受けた後、離合集散の中で自由党緒方竹虎総裁)と日本民主党鳩山一郎総裁)が保守合同して自由民主党を結成し、総裁選挙を経て初代総裁となった。

鳩山は、首相になってから「日本の独立確保という視点から再軍備」を唱え憲法改正を公約にしたが議席が達せず成し遂げられなかった。一方で、日ソ国交回復を成し遂げ、エネルギー政策では、日本社会党と共同提案で原子力基本法を成立させた。
鳩山一郎(左)、孫の由紀夫(中央と邦夫{右)



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岸信介は、近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請されたが固辞。東條内閣では商工大臣として入閣して商工経済会(経団連の前進)設置法を成立。

その後戦局激化で、岸が大臣を務める商工省が廃止され、東條との関係が次第に乖離していく。
東條内閣 2列目左2人目が岸信介

日本軍の敗色濃厚となると、木戸幸一内大臣を中心に岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、早期和平、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。

閣内(無任所国務相)にいた岸は、東条英機首相に即時停戦講和を求めて、恫喝にもひるまず東条内閣を閣内不一致で倒閣に至らせた。



岸はA旧戦犯として巣鴨拘置所に収監されたが「東條内閣の倒閣の功労者」として極東軍事裁判で不起訴のまま無罪放免となった。

日本民主党の幹事長の岸信介は、鳩山一郎三木武吉らと保守連合として自由民主
直後の石橋内閣で外務大臣に就任するが、1か月後に石橋が脳梗塞で倒れ職務不能となったため、首相臨時代理を務めた。を結党し初代幹事長に就任した。

石橋湛山の遺志を継いで昭和32年(1957年)2月25日、岸は総理大臣に就任した。

直前の昭和32年1957年)1月に日本人主婦を射殺したジラード事件で米軍の裁判管轄権(地位協定)に対する世論が沸騰し、日米安保条約の不平等性を解消する端緒となった。実際には日米の協議で日本の裁判に服することで決着した。

また岸は首相として「対米自主外交」を目指し、「国防基本方針」を閣議決定した。
昭和32年(1957年)5月にアジア歴訪に出て、インド、パキスン、セイロン、タイ、中華民国(台湾)等六カ国を訪問。5月23日にはインドのネール首相と核実験禁止問題を討議した。

6月には訪米し、アイゼンハワー大統領と首脳会談、安保改定の検討を約束させた。6月20日のアメリカ議会での演説では国際共産主義の脅威を唱えた。その後も豪州などアジア各国を歴訪した。

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昭和35年1960年)1月に訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。
過激化する一方の日本教職員組合(日教組)政治闘争の封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を決定。

日米安保条約の承認をめぐり国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾で国会外での安保闘争も次第に激化した。60年安保については、米ソの謀略、共産党、社会党のプロパガンダなど虚々実々が入り乱れ、未だに事実関係の多くは定まっていない。
岸信介の膝に抱かれた安倍晋三首相

昭和35年1960年)7月14日、後継首班に池田勇人が指名された直後、岸は暴漢に刺されて重傷を負った。岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残している。



保革の馴れ合いとなった「55年体制」の確立、フリーメイソン、友愛など理論が先行した鳩山一郎と、外交と国内法案整備で一歩ずつ確実に実行力を発揮した岸信介の違いは、各々の孫世代に継承されているのだろうか?

下の2枚の写真が、それぞの生き方を象徴しているようで、現代の政治情勢まで想起させて実に興味深い。
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   音羽町の鳩山邸(鳩山一郎築)     南平台の旧岸信介邸(その後三木武夫邸)

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