|
日本国民は、横並び体質、個が無く無責任な存在であり、常に集団における関係でしか物事が考えられないとされている。どんな教育を受けた人々も、社会では非常に冷や飯を食っている現実が、先進国中であまりにも顕著に見られる。これはなぜかと言えば、学校教育がまず「おかしい」、「おかし過ぎる」、「問題だだらけ」であるからである。
40人学級というとてつもなく過密な教室で、画一的な教育を集団で一糸乱れず行っていて、集団行動が善であることを叩き込もうとしている。ところが、現実の社会では、集団行動は単なる悪事の正当化にしか利用されていない。人々は集団に埋もれ、考える力をないがしろにしている。だから、いつまでも個人が貧しいのである。
日本の学校教育は、人間教育としてはまさに、あらゆる負の側面を抱えている。そこには、人間の創造性よりも、人間社会の圧制的側面ばかりを強調・賞賛していて、子供の能力を伸ばすことが全く軽んじられているのである。あらゆる子供の問題は、この無意味な日本の学校教育の産物であると言ってまず間違いない。
日本の学校において不適応でかつ真面目な子供がいるなら、実はその子供の方が正しい。日本の学校で楽しそうにしているのは大体が、ろくでもない考えをしている子供である。たいていの真面目な子供は我慢しているだけである。そういう場合、真面目な親なら日本の学校は見限るべきである。そんなところに通わせるのは、子供の人生をつぶすようなものである。
塾や予備校の存在はまさに、いかに日本の中央集権的な画一教育が破綻しているか、という証拠である。日本の学校教育が作り出すのは、単なる無である。多くの人々は、学校の先生の能力の無さに気づいているはずである。ただ、先生たちの評価を恐れているだけである。実際、先生たちも、かなり思い上がっていて、かつずるいことは確かである。
さらに、この全国一律の画一教育はどうみても異常だ。運動会などの無駄な行事、給食のようなわけのわからない食育(テーブルマナー一つ教えていないのに何が食育だろうか)、無意味な自由研究や宿題。とにかく、子供の学習意欲を殺ぎ、子供の興味を殺ぎ、子供の遊んだり熱中したりする時間を奪い、何一つ子供の能力の発展に寄与していない。やっていることは、単なる集団主義の押し付けである。さらに、この日本の学校制度は、役所の利権以外何ものでもない。つまり役所の存立のために、国民の教育や人的資源の開発が阻害されているのである。
これからは、今のままの日本の学校に子供を通わせるべきでない。通わせたいなら、こうすべきである。授業時間を午前中で終わらせ、教科は最低限にする。教師が足りないなら午前・午後に分けて通わせてでも、20人学級にする。親や教師の自己満足でしかない運動会などの無駄な行事は一切廃止。できるだけ子供は、親の教育方針に従って学校以外で様々な能力を磨くべきである。
日本国民がダメな理由は、既に今までの集団主義的教育に染まり、考える力を全く身に着けていないからである。だから、むやみと醜い問題が発生するのである。社会にはびこる主体性の無さ、無責任、ただただ集団の流れに流されるしかない人々。なぜ日本国の様々な分野で、指導的能力のある人々がいないのか。それはまさに、集団主義的な思考しかできないため、自ら何かを提案して実行する能力に欠けるからである。
日本国民は、まともな指導者がいないことをよく文句を言うが、それはつまりはそういう人物を見出す能力がない自己自身の問題なのである。自らの集団主義的・全体主義的な思考・行動をやめない限り、決して日本の問題は解決しない。天皇制の無意味な存在がいかにかつての国民学校などに見られる集団主義の産物であるかということ、靖国体制を支えているのが誤った経済政策へと容易に誘導されている集団主義的な人々であることなど、いたるところに指摘できるのである。さらに、人権の軽視、法の無視、無秩序な開発など、集団主義では解決できない問題があまりにもこの国には噴出している。
日本の学校教育は、まさに日本社会の問題の根源であると言えよう。
|
薩長政府を作った幕末の主体者は、伊藤などの出自の身分の低さに劣等感を抱いていた連中でありました。彼らがその自信のなさを補完する物として、天皇の権威を利用する事を思いつき、さらに明治時代になって、憲法を制定するに当たりキリスト教的基盤の代わりとして国家神道を作り出しました。 これが今日にいたるまでカルト教団的天皇教のすべてです。未だに多くの国民が薩長政府の作り出した嘘に満ちた日本の歴史とそれを利用したい権力者の笛と太鼓で踊っています。その事実を自覚もしていない・・・北朝鮮以上に変な国だね。
2013/5/15(水) 午前 10:14 [ gon*e5*5* ]