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日本の現近代史

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今後100年の日韓関係(その3)
 
両国による今後の協力関係
 
さてここで、私は両国の政府、企業そして個人などが将来においていくつかの分野で協力することを提言します。今の時期は将来の協力について考えるには、最適な時期である。それは、過去の悪い記憶はかなり彼方のものとなり、両国間に協力の基礎ができてきているかららです。より正確に表現するならば、「強烈な憎悪」、「恨み」や「軽蔑」が少なくとも部分的に「好意」、「中立」や「尊敬」によって置換されてきているからであります。両国の人々は、いまや同等のパートナーとして協力する用意ができていると思います。
 
さらに、協力は極めて望ましいものであり、両国の人々の幸福のために必要なものであります。私は、四つの分野における協力について述べます。それは、教育、文化、経済、そして政治の分野であります。
 
教育の分野では、日本の中学や高等学校の生徒は自国の20世紀前半の歴史を教わっていません。全く不当なことです。[i]その結果、日本の若い世代はその時期の日韓関係についての正確な知識を持っていません。おそらく、それについて学んだことは、「日本が侵略者であった」ということくらいでしょう。しかし、これは、極度に間違った知識で、より正確な知識を生徒には与えるべきです。韓国の方では、この期間には日本は日本国の利益のために朝鮮をとことんまでに利用したと生徒は教えられています。これも歪曲された歴史です。両国は、若い世代に対して、事実に基づいた、まじめな研究の成果を取り入れた歴史を教えるべきです。両国における歴史教育は今後改善されるべきです。この過程では、アメリカなどの第三国の学者などを招いて行うことも適切でしょう。
 
この両国は、宗教、言語や行動様式において、程度の差こそあれ、北東アジアの伝統を共有しています。我々は共に、過去においては、儒教、仏教、漢字の使用や特定の社会的な階層性や組織の構成などにおいて共通のものを持っていました。近年においては、西洋やアメリカの文化の影響を受けて、これらの事情はかなり変貌してきました。しかし、この両国は下記の点で同じ過程をたどってきました。両国は、民主主義を固持し、原則的な言論の自由や女性の権利を守っています。若年層と老年層の間では、行動様式にかなりの相違があります。若年層は、伝統的な縦社会的な生活様式と西洋的な上下関係の無い生活様式の間で、新しいものを求めています。若い人たちを交流すれば、彼らが現在の世界により適合した生活様式を見出すのに役に立つでしょう。学校間で学生・生徒の交流をすることが望まれます。
 
経済の分野では、両国間には物資やサービスの交流について今では、ほとんど制約がありません。しかし、今でも他方の国から輸入することに対して精神的な抵抗がある場合があります。例えば、自動車の場合には、つい最近トヨタが韓国に導入さましたが、現代自動車はまだ日本には、入っていません。両国共に、他方からの輸入を受け入れるべきである。アメリカで見られるように、それぞれの国でトヨタ、ホンダ、日産、現代、キア、サムソン自動車が入手できることが望ましいと思います。人々は、自分のために、これらを比較して購入する機会を与えられるべきです。二つの市場の統合は、生産者にも、消費者にも多大の便益を与えることになります。この両国は文化的にも、生活様式においても共通性が大きいので、一方の市場で捌けるものは、他方の市場でも受け入れられます。このことは、南カリフォルニアの市場で日常的に見られることであります。韓国系のスーパーは、日系の買い物客にも重宝がられています。両国は、輸出入への制限や関税を撤廃や軽減する経済提携の合意を正式に締結することが望まれます。
 
さて、相互協力のもっとも重要な分野は、政治的、防衛的な問題です。両国は政治理念として共通のものをもっています:民主主義です。これは非常に重要なことです。この二国に隣接した国は、中国と北朝鮮であり、それは明白に異なった政治理念をもっています:共産党による支配である。計画経済を堅持してきた中国は、1978年以降、市場経済に移行してきました。しかし、その政治組織は変わっていません。アメリカを含む西側の多くの国は、中国の市場経済化を歓迎し、そこで製造した低価格の品物にこの数十年依存してきました。しかし、両国は、中国の国際的な場面での政治的な動きに細かく注目する必要があります。事例を挙げますと、中国は日本の尖閣諸島の領有権を主張していますが、それはその近海の海底に天然ガスや石油が大量に埋蔵されていることが判明してからのことであります。それ以前は、実質的に日本の領有権を認めていました。最近、中国の漁船が日本の領海に侵入し、日本の監視船に破損を与えたことで、監視船員が漁船の乗務員を逮捕した件で、日中間で緊迫した状態になっています。しかし、韓国はこの問題に対して、毅然たる態度をとり続けています。韓国は領海に侵入してきた中国の漁夫は逮捕し、罰金を課してきています。中国はそれに対して、抗議はしていません。日本は韓国に学ぶべきです。[ii]
 
同様なことは、北朝鮮、朝鮮人民共和国についても言えます。この国は、核爆弾の製造能力を持っているし、独裁体制にあります。市場経済は許されていません。この国は、今年の初めに韓国の領海内で、その軍艦を沈没させたことが明らかになっています。さらに、近年は北朝鮮はミサイルを日本列島越に飛ばせて、日本を威嚇している国です。
 
防衛に関しては、両国は共通の同盟国をもっています:アメリカです。この強大国とそれぞれの国は、防衛協定を持っています。しかし、この二国は、北朝鮮や中国から攻撃された場合に、どのように対処するかをより緊密に協議すべきであります。中国は、軍事的に強くなればなるほどに、当然この国が主張すべきでないことを主張してきています。現在、中国は、黄海は自国の領海であると言明して、黄海内の公海での米韓海軍の演習の実施を退けています。このような中国や北朝鮮の要求に対して日韓両国は共通の課題に直面しています。日韓が一致団結して対処すれば、その力は極めて強力になります。
 
この両国にとって、第一に、まずもって行うべき緊急の課題は共産主義の隣国に対して軍事的、防衛的な結合をなすことであります。もちろん、米国とは親密な同盟国としての関係を維持することが必要です。私は、この緊急な課題が今後100年継続することを望むものではありませんが、来る2・30年間は極めて重大な課題であると思います。
 
ご静聴、ありがとうございました。 


[i] この時期の歴史が放置されている一つの理由は、20世紀前半の日本役割について教育者の間で合意がされていないことである。あるグループは日本は侵略者であったとし、他のグループは日本は自衛のために戦ったと解釈している。
 
参考文献
 
Bess, Michael (2006), Choices under Fire: Moral Dimension of World War II. Alfred Knopf.
Breen, Michael (1998), The Koreans, Thomas Dunn Books.
崔基鎬 (2004), 「日韓併合」、祥伝社
Cumings, Bruce(1997), Korea’s Place in the Sun: A Modern History, Norton.
歴史教育研究会(日本)・歴史教科書研究会(韓国)(2007)、「日韓交流の歴史」 明石書店
深田祐介(2004)、「大東亜会議の真実」、PHP新書
姜尚中(2010), 「母 オモニ」、集英社
金完燮, (2006) 親日派のための弁明2」、扶桑社
黄文雄, (2007) 「韓国・北朝鮮を永久に黙らせる100問100答」Wワック
呉善花, (2000), 韓国併合への道」、文春新書
Park, Soon-won (1999), Colonial Industrialization and Labor in Korea, Harvard University Asia Center
 
 
 
 
 
 

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第一回在米韓国歴史会議
次の100年を展望する
基調演説
今後100年の日韓関係(その1)
 
2010年10月29日
ロス・アンジェルスにて
目良浩一, Ph.D.
 
 
緒言
 
この会議の主催者諸氏、出席者の方々、ここで皆様方に今後100年の日本国と韓国の関係についてお話をする機会を与えられたことにを光栄に感じますとともに、特別の権限を与えられたように思います。このテーマは私の永年の深い関心事であります。私はここで、韓国側からこの会議の申し出があったことに対して、この会議の主催者を祝福したいと思います。それは現在の韓国や韓国系米国人の態度を反映したもので、日本や日系の人たちよりも前向きなのです。
 
まず最初に、私の個人的な背景を述べさしていただきます。私は日本人の中では、韓国好きなほうです。私と韓国の関係は、1933年に遡ります。その年に、今はソールといわれている当時の京城に、日本人の親から生まれました。私の祖父は、そこでサイダーの会社を経営していました。ご存知のとおり、当時は朝鮮は日本の一部でした。私は南山や竜山に近い三坂小学校に通っていました。今でもソールにおける生活を懐かしく思っています。そして、1945年に他の日本人と同じく、家族ともども朝鮮を離れ、日本に移住しました。父の故郷である九州に行きました。そこでなじみの無い土地で新しい生活をすることになりました。後に、東京へ出て大学に通い、さらにその後で米国に来て勉学を続けることになりました。
 
次にソールへ行ったのは、世界銀行の大韓民国への都市開発使節団の一員として訪問した1970年でした。そこで私はソールが大きく変貌しているのを目撃しました。都市は大きく拡大していました。そして、人々は昼夜を通して働いていました、本当に昼夜を通してです。私はソール市の市長さんと市の将来について話す機会がありました。そのときに市長はこの職についてから一日の休暇もとっていない、週7日の勤務が続いていると話してくれました。さらに、ポハンに新しく設立された現代造船所に行きましたら、その会社の重役はここでは皆一日20時間働いていると語りました。その後、韓国にはしばしば訪問しました。一番最近の訪問は、2008年で、南カリフォルニア大学のエクゼクティブMBAの学生を引率してサムソン・エレクトロニック、現代自動車、ポスコ、ハナ銀行や大韓航空などを訪問しました。これらの経験豊かな大学院学生も、これらの会社の経営手法に深く感銘していました。私は、韓国は訪問するたびに、以前に訪問したときよりも洗練されていますと、皆様に申し上げることを喜びとします。さらに、私は著名な大学で教えていた韓国の友人がいますし、南カリフォルニア大学で教えたことのある多くの韓国の学生との接触があります。彼らは優秀な学生で、かなりの人は今は世界各地の大学で教鞭をとっています。
 
過去100年の日韓関係
 
今年、われわれが日韓関係の今からの100年を議論するひとつの理由は、100年前の1910年に、日本が朝鮮半島の全部を併合したからであります。このことについては、国によって違った解釈がされています。多くの韓国人はそれは日本帝国による朝鮮への過酷な植民地政策の始まりであると理解しています。多くの日本人は、それは北からの、主にロシアの、侵略の脅威に対する朝鮮および日本に対する必要な防御手段であると理解しています。これは、大いに議論が分かれる問題であり、ここでは異なった意見があることを述べるだけにとどめておきます。
 
しかしながら、19世紀から20世紀の初めにかけては列強が弱小国を軍事力で植民地化した時代であると述べることも正当でありましょう。ロシアは東に進出し、満州や朝鮮を視野に入れていました。イギリス、フランスやドイツはヨーロッパ外の、特に東アジアで、また中国の内部に、領土や各種の特権を獲得しようとしていました。アメリカは、ハワイ諸島を併合し、1898年にはスペインからフィリピンを獲得しました。日本は、1853年に米国から開国を強要され、政府は仕方なしにその要求に応じました。[1]しかし、その際に、列強の圧力に抵抗するためには、強い軍事力が必要であることを悟りました。日本が朝鮮を併合したときには、日本は列強の地位に近づいていました。しかし、日本の朝鮮の併合は通常の植民地化ではなかったことを思い出してください。朝鮮の人たちは差別されていたと感じたかもしれませんが、日本人と同じ権利を与えられていたのです。朝鮮人の中には、国立大学に受け入れられた人もいて、政府の公式の職員になった人もいました。併合に対しては、朝鮮の政府は公式に合意をしたのです。しかし、もしその時に朝鮮の人々が意見を表明する機会があったとすれば、多くの人は同意しなかったかもしれません。
 
われわれは、歴史を長期的な観点から見ることが必要です。日本と韓国は数千年に亘る関係を持っています。特に韓国の南部は日本と深い関係を持ってきています。あるときは、一方が優れた文化や武力を持ち、別の時には他方がより強力でありました。朝鮮は日本に、文化の基礎になる漢字、仏教、陶芸技術などを提供したと言われています。より近い過去においては、逆の流れがしばしばあでありました。長期の歴史の中では、両国の相対的な地位は変化します。そして、実際に変化してきています。歴史には、周期的な動きがあります。それについて今から述べましょう。
 
日本の場合   
 
ただ長崎だけを例外として鎖国をした徳川時代の日本(1603−1868)は、独自の文化を築きあげ、19世紀末に米国や他の列強に対峙したときには、軍事力を強化することによって外敵から国を防衛することにしました。日本はロシアが極東を支配することを拒否して、1904−1905年にロシアと戦いました。1910年には、朝鮮半島の政情を安定するためにそれを併合しました。日本は併合した領土内の生活を向上させるために、最新の知識を提供しました。韓国や他の国の学者や評論家の中には、併合時代に朝鮮は識字率の向上、交通網の改善、衛生状態の改善、法による統治など、日本政府は朝鮮に各種の便益を提供したと主張している人がかなりいます。[2]しかしながら、韓国人の受け取り方は異なっています。私は、韓国の人々が学校で、日韓併合の時代は朝鮮にとって暗黒の時代であったと教えられていることを存じています。朝鮮の人々は、当然のこととして、自分の国の支配を自分で行おうと欲したのでしょう。この時代に、日本が狙っていたことは、アジアから西洋の列強を排除することでした。日本が西洋の列強に圧迫された結果として、日本は連合国を相手にして、1941年から1945年まで戦争をしました。当初は、日本は目的を達成しかけていました。日本政府は、1943年に大東亜会議を開催しました。[3]それが、日本の力の頂点でした。しかし、1945年には、硫黄島や沖縄での壮烈な戦いに敗れ、日本は連合軍に降参しました。
 
戦後、日本は苦難の道を歩みました。しかし、やおら経済力を回復し、ソニー、トヨタ、ホンダやミツビシなどの世界的に知られる会社も出てきました。経済成長の絶頂には、10%の成長率も達成しました。20世紀の末頃には、次の世紀は、「日本の世紀」であるとも言われました。しかし、1990年から経済は、急激に下降の道をたどり、日本はまだ「失われた20年」から脱出していません。
 
従って、日本は過去100年の間に1943年と1990年の二つの頂点を持ったといえましょう。第二次世界大戦での失敗は、多くの要因があると思いますが、基本的には、日本政府の誤算でした。1990年以後の経済の衰退の主な要因は、自己満足、すなわち、目的意識の喪失です。1945年以来、日本国民は極めてまじめに励みました。最初は、単に生き延びるためでしたが、そのうちに当時の先進国に経済的に追いつくために努力したのです。この「追いつけ、追い越せ」の目的は、1985年に米国がニューヨークのプラザホテルでG-5の蔵相会議を開催して、アメリカ経済を助けるために、円とマルクの切り上げを相談しようと呼びかけた時には、完了していたのです。これは「プラザ合意」といいます。その直後に円の価値は100%近く上昇し、日本の不動産価格は高騰しました。その結果、1980年代の終わりには、東京の中心にある宮城の不動産価値は、カリフォルニア全体の不動産価値に匹敵すると言われました。日本の企業は、米国の都市にある著名な不動産を買占めようとしました。ロックフェラーセンターが一例です。このようにして、日本は、長く汗して稼いだ資産をかなり失いました。一度、「追いつけ、追い越せ」の目的が達成されると、日本人は共通の目的を喪失してしまいました。しかも、日本の人口は年老いてきて、また国内で製造して輸出するには賃金水準が高すぎるようになりました。経済成長への熱意が冷めると、なかなか戻ってきません。今でも、日本の人々は、豊かであり、高度に成長しているという満足感に浸っていて、国の経済や政治的な改善のために懸命に努力をしようという意欲がありません。これは、1979年にマーガレット・サッチャーが出現する前の英国病と同じものです。現状では、日本は発展の周期の下降の時期に置かれています。人々は、現況に満足しているわけではないのに、正しい解決策を見出せないのです。
 


[1] マシュウ・ペリー提督が1853年に江戸湾に来訪し、日本に対して、もし米国の商人と貿易を始めなければ、米国軍は、日本を攻撃すると宣言した(Bess, p.44)。
 
[2] 韓国の著者はこれらの主張が一般の韓国人の認識と異なり、このような主張をすれば韓国の熱狂的愛国者から暗殺や身体への攻撃を受けることを承知で書いている。これらの著者には、パーク・スンヲン、呉善花、崔基鎬金完燮などがいる。パークは、朝鮮で20世紀前半に稼動していた小野田セメント工場を詳細に観察して、当時の朝鮮には、工業技術と生産のための規律がある層の勤労者に拡散した状態があったとして、それを植民地的近代性と称している(Park、1999)。呉は、李朝末期の朝鮮の近代的変化に対する準備不足が、日本による併合を招いたとしている(呉、2000)。崔は、他にもいろいろあるが、日本統治時代には、朝鮮の総督府の収入の3分の2は、日本から持ち込まれ、学校の数は、150から5000に増え、朝鮮の人口は、1910年から1943年までに倍増したとしている(崔、2004)。金は、1936年以前に朝鮮に生まれた人の99%は、日本の統治の時代の方が良かったと答えたとしている(金、2006)。その他に、非韓国人も同様な主張をしている。例えば、Cuming(1997)は、「開発的植民主義」という言葉で、日本政府の朝鮮に対する工業プロジェクトの実施や、教育や基盤整備による意識的な日本の朝鮮への開発努力を表現している(pp.162-174)Breen(1998)も朝鮮に対する日本の政策を「開発指向」という言葉で表現している(p. 104)。台湾出身の黄(2007)は、日本が併合しなかったら、朝鮮の発展はかなり遅れていたであろうとしている。
 
[3] この会議は1943年の11月に東京で開催され、満州、中国、タイ、フィリピン、ビルマ、インドと主催国である日本の代表が出席した。「大東亜共栄宣言」が11月6日に発表され、参加国は、以下の目的を持って協力することが誓われた:西洋の支配から開放すること、相互の協力によって安定と安全を維持すること、各国の独立を尊敬すること、各国の伝統と創造的文化を尊敬すること、人種的な差別を撤廃すること、そして、大東亜共栄圏内での文化の交流をすること(深田、2004、p.131-136)。
 
 
 
 
 

講演 長谷川毅教授による「日本の降伏とその背景」#4


●8月22日付け、スターリンから回答を送った。トルーマンのクリールにおける航空基地の着陸権の要求は断る。このような要求はソ連を侮辱することである。このような要求は、征服された国か、さもなければ自分の領土を自分の軍事力では防衛できないので、その同盟国に適当な基地を与える用意があるというような国にたいしてなされる性格のものである。ソ連はそのような国家ではないと断言した。

* 著者(長谷川氏)の見解:8月16日から23日の間に、スターリンとトルーマンが書簡を通して起こった重要な変化、即ちスターリンが目論んでいた北海道作戦を諦らめざる方向にトルーマンに駆け引きしたことは、やがて、日ソ関係に大きな影響を与えることになったようだ。8月23日に国家防衛委員会は命令9898号「50万の日本人を拘束、捕虜として受け入れ、労働使役につける」を採択した。この使役役を北海道北部から動員しょうとスターリンは企てていた。これがトルーマンによって阻止されたため、満州、朝鮮、サハリン、クリールで捕らえた日本人捕虜の運命は、北海道占領作戦の身代わりに、極寒のシベリアとソ連極東の強制労働収容所で、64万人が十年以上の強制労働に強いられ、6万人以上が異国で死んだ。これは日本人捕虜のソ連への送還を禁じた8月16日のベリアの命令とは矛盾するものである。

<今森氏が一番関心をもっているのは、日本兵のシベリヤ抑留問題である。上記のように、64万もの人が不法にも連れて行かれ、過酷な労働を強制された。日ソ中立条約を一方的に破り、戦闘状態に入ったことを50歩譲って了解しよう、一応宣戦布告を行っているので。ところが終戦を境に、日本兵(一般日本人をも含めて)を捕虜としてシベリアに連れていき、動物以下の扱いをし、6万人以上の死者をだしたことは絶対許せない。私の知人のロシア人は少しは日本人への同情心があるのかと思ったが、「日本人だけではないのだ。ドイツ人もそれにロシア人だって多くシベリヤに送られたのだ。その数に比べると日本人の数は少ないほうだ」の感覚である。これがロシア人の意識である。国際法とかそんなものはどうでもよい。国家建設のためには、どこの国の人間であろうが、利用するものは利用する。人権や生命の尊厳などどこにもない。ついでにこのロシア人に聞いてみた、「スターリンは貴方にとってどういう人だ」。「グレート、ソビエトを世界一級の国にした貢献者だ」。「しかし、多くの人を粛清しただろう」。「だから、偉大なのだ。多くの人を殺したから偉大なのだ」。まともに彼の言うことを聞いていると頭がおかしくなる。しかし、これがロシアをリードする人間の本音なのである。彼は27代ほど続いた軍人の家系に生まれた。彼の話によれば、ロシアは資源がない、特に食糧を自給できない。だから南方に行って略奪しなければ生きていけなかった。男の仕事は、闘いに勝つための武術の訓練をすることであった。男の人生の目的はどれだけの人間を殺すかである。そして、いつでも死ぬ覚悟がある。日本の武士道と通じるところがある。ところが、日本の武士道にある道徳律や美学はロシアにはない。あるとすれば家族への思いである。どのような手段を使ってもよいから勝つことが大事になる。戦場で死ぬとき、どれだけの敵を殺したかによって家族への保障が違ってくる。家族のためにもぶざまな死に方は出来ない。北方領土についても尋ねた。「ソビエトは北方領土を還す気があるのか」、「全くない。日本人は領土の意味を全然理解していない。領土とは武力で勝ち捕るものだ。ソ連が戦争によって勝ち捕った領土はロシア人の血によって得たものである。もし、還して欲しければ腕力で捕り返したらどうだ。日本人の北方領土返還運動なるものは、女がただ泣いているように見える」。一人のロシア人の意識を紹介したが、この意識をより強くしたのがスターリンである。ゾフトフスキーの時代から、否それ以前から、無実の人間をシベリヤに送るのはお国の伝統である。我々日本人の常識から理解できない全く次元の違うところにスターリンの思惑があったことを先ず考えておかなければならない。国民の意識というものは歴史によって培われる。日本の歴史が世界の中でも希に見る常識的展開があった。たとえ戦争に敗れても、まだ日本人の意識は坊ちゃん的意識である。本当に奴隷にでもされない限り、ロシア人の屈折した、それでいて逞しい心を理解などできないだろう。N>

●8月27日のトルーマンから、スターリンの22日付け書簡に返書。クリールへの着陸権を要求をスターリンが拒否したことへのコメントを述べ、特にこの書簡では、トルーマンは反撃にでた。
「貴下はこの要求が征服された国か、自分の領土を防衛することのできない同盟国にたいする要求であると述べているが、貴下は明らかに私のメッセージを誤解している。私はソ連共和国の領土について言及したのではない。私は日本の領土であるクリール諸島について言及したのであり、その帰属は講和会議で決定されなければならない」。 それは、スターリンが8月22日の書簡で、クリールをソ連の領土であるとほのめかしたことにたいする直接の回答であり、トルーマンはクリールをソ連の固有の領土であることを認めるのを拒否して、これが日本領土であることを明確にした。さらに、この究極的な帰属は軍事行動の結果でなく、将来の講和会議で決定されると釘を刺したのである。
トルーマンからの返答はスターリンに、アメリカはヤルタ協定の約束履行義務から後退するのではあるまいかという疑惑を深めさせたに違いない。そして、その疑惑こそが、スターリンに、日本の正式の降伏までに何としてもクリール全島を占領する必要があったのだろう。

<Nの知人の言った、「領土は軍事的行為で勝ち捕る」という意識がまさしくスターリンの意識そのものである。それに対して、トルーマンの「千島列島の帰属問題は将来の講和会議に委ねられる」というのは、常識的である。非常識と常識の駆け引きである。ただ言えることは、非常識を唱えるものにそれを咎めなければ、それ以上の非常識を唱えてくる。その点トルーマンはよくやったと思うのだが、近頃のアメリカの指導者は常識的見解をもって非常識な国にもの申していないのではないか。N>

結論の部
●原爆とアメリカ人の神話と倫理
アメリカ人の多くの広島・長崎に投下した原爆の使用にたいして、ある神話のストーリを信じている。あの原爆投下の決定は、戦争が継続されていれば多くのアメリカ兵の犠牲のみならず、日本国民の命も救ったのだとされている。この神話はトルーマンの決定を正当化し、アメリカ人の中にある後ろめたい意識を取り除く役割を果たしてきた。8月10日に日本の政府は、スイス政府を通じてアメリカ政府の原爆投下に抗議する一声明文を送った。この原爆の使用は、不必要な苦痛を与える兵器、投射物そのたの物質を使用することを禁じた “ハーグ会議の陸戦の法規” に違反している。
「米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ残忍性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁じせられおる毒ガスそのたの兵器を遥かに凌駕しおれり・・・本件爆弾を使用せるは人類文化にたいする新たなる罪悪なり。帝国政府は全人類及び文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求する」
   トルーマンはもちろんこの講義文に回答はしなかった。その後、日本政府もアメリカの占領を受け入れ、加えて、アメリカの安全保障体制(日米安保条約)の庇護を受ける立場になり,この一回の抗議文以降、日本政府は原爆投下に関してアメリカ政府に抗議したことはない。

<ここで、誤解を受けることを覚悟であえて述べる。トルーマンが原爆投下の後、アメリカ国民に対しての言い訳はある意味で当たっている。というのは、アメリカが原爆を使うことによって、結果として日米の人々の節命をなしたことになる。原爆を投下しなければ、日本は終戦を決意することなく、九州上陸作戦にまで発展しただろう。そうなると、沖縄戦以上の被害があったことは間違いない。それ以上に問題なのは、終戦を遅らせソビエトの参戦を誘導し、侵攻がより進むことになる。戦争のやり方として日本軍が一番国際法規を守ったという見方がある。その次にアメリカということか。日本海軍戦船が撃沈され、日本兵士が脱出して漂流しているとき、多くの場合アメリカ海軍は無慈悲にも射殺したという。東京などの大都市への爆撃によって一般市民を殺害したことも国際法違反であった。また、広島長崎の原爆投下は最悪のものであった。しかし、この選択がなければアメリカ以上に極悪なソビエトの悪行を許すことになっただろう。悪のアメリカが最悪のソビエトの日本への侵略を阻止してくれた。それも人類史上最悪の原爆投下という悪行によって、日本が最悪の敗戦処理を受けることを阻止したことになる。悲しいかな、それが現実的日本敗戦に至るシナリオであった。ガン細胞をやっつけるために放射線を使ったということだろうか。相対的に善良な日本という国が極悪非道のソビエト、アメリカに勝つことが出来なかっただけでなく、アメリカによって敗れ方が最悪にならなかったということである。残念なことに世界は弱肉強食で動き、正義が勝つとは言えない。しかし、その現実と、日本政府が非人道的なアメリカの原爆投下に対する抗議をしなければいけないこととは、別問題である。N>

講演 長谷川毅教授による「日本の降伏とその背景」#3

*著者(長谷川氏)の見解:ソ連政府は宣戦布告のなかで、連合軍がソ連政府にたいしてポツダム宣言への参加要請を参戦の理由としているが、これは真っ赤な嘘である。スターリンには、中立条約に違反して、一時間後に始まる戦争を正当化する理由づけが必要であった。また、戦争が始まれば、連合国はこの大きな嘘を暴くことは無いであろうと予想したスターリンの賭けであった。
<スターリンの賭けというほどの大それたものではないだろう。ポツダム宣言前のヤルタ会談で、スターリンはルーズベルトから参戦を要求されている。それに沿った行動であり、またポツダム宣言にスターリンが署名していないとはいえ、ポツダム宣言を広い意味で解釈すれば参戦も当然と考えたのだろう。それに、日ソ中立条約とポツダム宣言を比較すれば後者が優位にたつと解釈できる。ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソビエトを攻めた。だからスターリンにとっても、日ソ不可侵条約などそれほど重きを置いていなかったに違いない。日本サイドでも、ドイツが独ソ不可侵条約を破った段階で、日ソ不可侵条約を一方的に破りソビエトを挟み撃ちにしようという考えがあったのではないか(?)。なお独ソ不可侵条約の有効期間は1939年8月23日から1941年6月22日のドイツがソビエトを一方的に攻めた時までである。ところで、1939年というとノモンハン事件(1939年5月11日〜9月15日)の最中であった。平沼内閣はドイツ政府の本条約締結を日独防共協定違反行為とみなし、8月25日に日独同盟の締結交渉中止を閣議決定し、8月28日に「欧州情勢は複雑怪奇である」と声明し、責任をとって総辞職した経過がある。
 日ソ中立条約は1941年4月13日に締結されているが、独ソ不可侵条約をドイツが一方的に破った日の約2ヵ月前にあたる。はたして、この段階で日ソ不可侵条約を日本が一方的に破りドイツと共にソビエトを挟み撃ちにすることが現実的に可能であったのかという議論があるが、もしそれを実行していたとするなら、その後の展開は全く違ったものになっていたことは間違いない。というのは、そうすればソビエトは敗れていただろう。この戦法を日本がとれなかったところに、日本指導部の戦略的狡猾さがスターリンに及ばなかったことになる。平沼が「欧州情勢は複雑怪奇である」程度にしか、奥が読めなかったことが日本の限界であった。ところで、日ソ不可侵条約が結ばれた背景についてウイッキペディアに次のような記述がある。N>

「当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使であった東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、ドイツ、アメリカ、中華民国の三者を牽制する事による戦争回避を考え、日ソ不可侵条約締結を模索していた。
ところが、松岡洋右が外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶ(「日独伊蘇四国同盟構想」。松岡自身は「ユーラシア大陸同盟」と呼称)ことで、国力に勝るアメリカに対抗することが目的とされた。
当初、ソ連は応じなかったものの、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから提案を受諾し、1941年4月13日調印した。同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した。ドイツ軍は、ソ連軍の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連を崩壊させることを狙ったバルバロッサ作戦は、失敗に終わった。
また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡にドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告している。」

<結局、日ソ中立条約はソビエトに利用されたことになる。日本は日ソ中立条約により満洲の兵力を南方に移動させるというメリットがあったが、ソビエトは日本を警戒する必要がなく、ドイツ戦線に集中できるというメリットがあった。結果として、ドイツに勝利し、その後日本(満洲、樺太、千島)にも攻めてきた。歴史を冷静に見れば、日ソ中立条約は日本の国益に適っていなかった。日独伊軍事同盟を結んだことを是として、なぜドイツと日本によるソビエト鋏討ち作戦をしなかったか。松岡はチャーチルからドイツがソ連に侵攻することを事前に伝えられたていた。このことはチャーチルからの「日本もソ連を攻めろ」というメッセージであったという解釈もできる。松岡自身この時がソ連を破る「絶好のチャンスである」と思ったはず。しかし、実行出来しなかった。そのことが悔やまれる。またドイツに組したことも悔やまれる。アメリカを敵に回すのではなく、アメリカ・イギリスに組する選択があったはず。日本の体質なのだろう。日本はアメリカよりドイツを好む国民的気質が当時あったようである。#3で述べたように、親英米、反英米、親独、反独、親ソ、反ソの日本国内の力関係によって、国家の選択がなされたのは間違いない。日本が日ソ不可侵条約を結んだ背景に親ソグループの影響があったものと考える。このあたりの実証的な研究がもっと必要だろう。また限られた資料の中で当時の動きをみるのに、研ぎ澄まされた想像力を働かす必要があるだろう。N>

●ソ連政府の対日宣戦布告に対し、日本の外務省や関東軍はソ連に宣戦布告を出すように要求したが、大本営は「まだ、日ソ間には中立条約がある」ので、対ソ宣戦の布告はしないと決定した。
<大本営の甘さとみるか、#3で述べた親ソグループのソビエトを有利に参戦させるための工作があったと見るか、論考が必要だ。N>

●8月14日、統合参謀本部は、マッカーサがポツダムで合意された軍事行動の範囲で、発すべき「一般命令第一号」の草案を作成し、日本軍が連合軍のいかなる司令官に降伏するかを規定している。それは、第一項bである。「満州、緯度38度線以北の朝鮮、樺太における陸・海・空とこれに付属するすべての日本軍と日本の上級司令官は極東ソ連総司令官に降伏する」と規定され、この項で重要なのは、日本軍がソ連軍に降伏する地域にクリール諸島が含まれていなかったことである。
<クリール諸島とは、千島列島のことである。千島列島は日本軍が降伏する地域ではなかったが、ソ連軍は8月9日午前0時から満洲、樺太、千島列島に攻撃をしかけ、8月15日の段階でも千島を攻撃し続けている。なおも9月2日のミズリー号での調印の日にも歯舞は攻撃されていた。マッカーサーの「一般命令第一号」とは、連合軍の一員であった蒋介石軍が台湾の日本軍の軍事解除を命令したものと同じ系列に入るものであろう。N>
●8月15日にトルーマンは、ハリマン(在ソ駐米大使)を通して、「一般命令第一号」をスターリンに送った。翌日16日、グロムイコ(在米駐ソ大使)よりスターリンの回答あり。即ち、第一に「日本軍がソ連軍に降伏すべき地域に、ヤルタ協定に従ってすべてのクリール諸島(千島)を含む」こと。第二の修正案は「日本軍が降伏すべき地域に、釧路と留萌を結ぶ線を境界として北海道の北側のすべてを加える」 ことを提案。 このスターリンの意図を明瞭にする査証として、マニラにあるマッカーサーの司令部に8月17日、ソ連軍代表が訪れ、スターリンの訓令を伝えた。スターリンは北海道の北側を、ソ連の占領地域に含め、さらに、東京にソ連占領地区を設置して、日本占領の東京はベルリンのように米英中ソの四つの占領地区に分断されるべきであると考えていたようだ。
<8月15日とは終戦の日である。この段階で日本が分割統治される可能性があったということだ。N>

●8月18日付けで、トルーマンがスターリンに返答した。「全クリール諸島を極東ソ連軍司令官に降伏させる地域に含めること修正する」 ことに同意する。換わりに、大統領は 「軍事的、商業的利用のため、クリール諸島の一つの島、できれば中央にある島に、アメリカの飛行機が着陸できる基地の権利が与えられるよう要求したい」。さらに、「要求のソ連軍が北海道の一部を占有することは拒否する」。
<8月18日あたりでも、千島列島、北海道の帰属がまだソビエトになる可能性があったということである。日本はもはや敗戦国、何等力が及ばないが、トルーマンとスターリンの攻防はなおも続く。N>

講演 長谷川武教授による「日本の降伏とその背景」#2

第三のストーリーは、7月26日、正式外交ルートではない短波放送でポツダム宣言を流し始めた。その後、8月14日に日本が受諾するまでの政府内における和平派と継続派との間の命がけの角逐(かくちく)である。スターリンとトルーマンが日本を降伏させるために息詰まる駆け引きを行っているとき、日本の為政者たちは、天皇制を維持するためには、いち早く戦争を終結させることが必要だと判断した和平派と、国体を維持するために、本土で敵の侵攻を迎え撃ち、最後の決戦を遂行すべきだとする継続派に分裂した。天皇の終戦の聖断にいたるまでを、当時の主要関係者の言質・証言を集めてドラマ仕立ての検証がなされている。
<スターリンとトルーマンが具体的にどのような駆け引きをしたのか知りたいところだ。所謂詰め将棋で、相手の攻め具合によって、こちらの攻めも変わるという緊迫したものがあったのだろう。ただ言えることは、反則技、原爆という駒をこっそりトルーマンがもったことである。この駒が入ったことにより、展開が急に変わったことだろう。またスターリンにしてもまさか最後の最後にこの駒を使われるとは予想もつかなかったのではないが。このあたりのやり取りを講演会で、長谷川氏は具体的に述べている。長谷川氏の講演の内容の紹介のとき、もう少しこのあたりを深めていきたい。N>

(全編読んで、今森が耳新しく注目したい記述部分を、以下ランダムに羅列しました)
●日本政府はポツダム宣言には、スターリンの署名がないことに真っ先に注目した。そのため政府は、ポツダム宣言を受諾して降伏するよりも、ソ連の仲介を通して戦争を終結する従来の政策を継続した。スターリンが必死で共同宣言に参加し、署名もしょうとする試みは、トルーマンの意図で惨めな失敗に終わってしまった。しかし、この失敗がむしろ、日本がいっそうソ連の斡旋を頼みの綱とする政策に、スターリンが目論む、日本軍を油断させ、奇襲侵攻のできる機会、棚から牡丹餅というラッキーな結果を齎したのである。

<スターリンがポツダム宣言に署名しなかったことは、戦後の世界情勢に大きな影響を与えた。日本サイドはスターリンの署名がないことに注目し、連合軍が一枚岩でないことを分析した。この分析は正しかった。しかし、敗戦処理の斡旋をソビエトに委ねようとしたのは、現在の観点からするとあまりにも甘い考え(?)であった。ここの解釈が人によって違う。長谷川氏は日本の首脳が「願望的思考」に陥っていたと考えているが、果たしてそのようなことが簡単に言えるのだろうか。戦前を代表する超エリートの戦争遂行軍人にはそのような甘い考えはなかったという分析もありうる。それより、日本の軍部の中に親米英派(たとえ米英と戦争をしていてもこの一派が消えたとは考えられない)、親ソビエト派、反米英派、反ソビエト派というものがあり、これらの駆け引きが大きかったのではないか。特に木庵が注目するのは、親ソビエト派である。親ソビエト派は表面上反米英派という衣を着ているが、心の底に、どこかソビエトに引かれるところがあったのではないか。木庵はアメリカにやってきてから一人のロシア人と深いつながりを持つようになった。彼はアメリカ人が持っていない人間的な魅力と頭脳明晰さに、木庵は相当彼にのめりこんで行った。そしてようやく近頃、彼は詐欺師であることが大体分かってきた。戦前の日本の知識階層の中に親ソの人間が多くいた。例えば岡田何某という女優はソビエトに亡命している。また在米日系共産主義者の中にソビエトに流れた人間が相当いる。彼たちの多くは、ソビエトでスターリンの粛清の渦中で消されてしまった。戦前、戦中という時代を深く考えると、世界に親ソビエト派なるものが意外に多く浸透していた。ルーズベルトの側近の多くが親ソ派であったことはもはや常識になっている。そして、日本の知識人の中の親ソ派についても相当解明されている。近衛などの政治家、特に木庵がもっと分析しなければいけないと思うのは軍人である。例えば、米内海軍大臣は親ソであるという見方がでてくる。長谷川氏が講演会で述べた敗戦処理に大きな力を発揮した高木惣吉海軍大佐(?)なども、親ソであるとするなら、日本がソビエトに斡旋するというあまりにも甘い処理の仕方が理解できるように思う。実は甘いやり方ではなく、もっと深いとことで用意周到に練られたソビエト歓迎のシナリオであると解釈できるからである。このことは後でもっと詳しく分析する。N>

●佐藤尚武大使は、8月9日午後5時、時間通りにモロトフ外相の執務室に入った。それは近衛特使派遣の件の回答をもらうためであった。モロトフはこれをさえぎり、いきなり、ソ連政府の日本にたいする宣戦布告の声明文を読みはじめた。
「日本がポツダム宣言を拒否したので、そのため日本政府が極東での戦争について、ソ連政府の斡旋を依頼していたことのすべてが根拠を失った。連合軍はソ連政府にたいして、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の平和の確立に貢献するために日本の侵略にたいする戦争に参加することを申し入れた*。ソ連の参戦こそが、平和の到来を早め、今後おこりうる犠牲と苦難より諸国民を解放し、危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と述べた。
想像もしなかった声明文に佐藤は、モロトフに述べた。「日本国民を破壊から救うために戦争に参加するとは理解できない。とりわけ日本政府が戦争を終結させるためにソ連政府の斡旋を要請している時に、ソ連政府が参戦しないことこそが日本国民の犠牲を少なくすることであると思っていた」 と。

< スターリンはポツダム宣言の署名をしなくても、日本が宣言を拒否したことをポツダム宣言の立場で述べている。つまり日本が拒否したことによって、日本もしくは連合軍の犠牲が増大する。これは人民により一層の苦難を強いることになり、日本国民を救うためには、ソビエトが参戦するしかないという論理である。これがソビエトの正体である。内モンゴル侵略においても、戦後のハンガリー動乱やチョコ侵略においても被侵略国内に親ソグループを誕生させ、そのグループが民衆を救うためという大義名分を持ち出し、ソビエト軍が侵入していく。これは、スターリンの否ソビエトの常套手段である。また支那共産党政権も同じ理窟、手法で新疆ウイグルやチベットを侵略した。さて、日本への参戦であるが、この背景には日本にも親ソなるグループがいた、またそのグループがソビエトに密通していたとまではいかなくても、ソビエトを歓迎するものがあることをスターリンは感じ取った。ソビエトに終戦の斡旋をすることこそ、親ソである証拠であるとスターリンは読んだのだろう。日本は天皇を中心にしたる国家であるが、大衆は本当の意味での天皇精神に心酔しているのではなく、日本の親ソグループを中心にして、共産革命、プロレタリアート独裁に賛同する土壌があるとみたのだろう。そのような要因が参戦に踏み込む材料の一部にあったのではないか。また近頃の台湾の親中共馬英九政権誕生、日本においても媚中民主党政権の誕生の背景を考える時、スターリン参戦時の心理的状況を重ね合わせることも出来るのではないか。つまり、侵略される国の背景という観点から比較するのは意味のあることである。侵略するための口実に、侵略される国の事情が非常に大事になる。勿論スターリンのときの方が親ソという状況は弱いのであるが、特に台湾の場合、軍事的侵攻という手段をとらずとも、もはや中共に帰属されつつある。台湾の次は日本である。媚中共の民主党によって、「親分中国様、どうぞ日本の国体を変えて、あなた様の都合の良い国にしてもらって結構です」というところまで行く危険性がある。このような現在の日本の甘い国家意識、外交意識に警告を発するためにも、スターリンの参戦に対しての日本政府、軍部の状況を分析することは重要なことになる。N>

* 8月9日の零時の宣戦布告の時間が、どの時間帯であるのか佐藤は気が付かなかった。それはモスクワ時間より6時間早いザバイカル時間を意味していたのである。その上、ソ連政府はソ連の奇襲攻撃が抜かりなく遂行されるように、すべての電報を差しとめた。佐藤の打った電報は日本に到着しなかった。東郷外相が東京のマリク外相から10日に通知を受けたのである。 但し、9日の未明、ソ連の戦車が満州に攻め入ってから2時間半後、同盟通信のラジオは、モスクワ放送が対日宣戦布告を流しているのをキャッチした。
<前述した知人のロシア人の父親は第二次世界大戦のヒーローであった。だから知人は戦後のソビエトのエリートの父親を持ったということから、彼もソビエト社会のエリートの子弟として教育された。知人は父親からソビエト軍が緻密に満洲侵攻への準備をしていたことを聞いている。5月にドイツが降伏し、長年ドイツ戦線で活躍した兵士たちが満洲の国境線に送られた。戦争が終わり田舎に帰れると思っていたのに、なおも戦争に駆り立てられることに多くの兵士は荒れていた。戦場を経験した人間は荒れるのは当然である。しかもまだ戦いとなれば一層荒れる。8月9日午前0時に怒涛の如くソビエト軍が満洲を攻めていったのであるが、その攻められた人々のことについて、木庵は相当取材しているからその状況について分かる。しかし、ソビエト側がどのような状態であったかは、せいぜいこのロシア人の話から想像する程度である。ただ、当時満洲で逃避行をした日本人の中に、ロシア人は野蛮で、彼らはシベリヤからやって来た囚人兵であったというステレオタイプが広がっている。知人によると、囚人は戦争が始まってからすぐ戦場に送られた、それも最前線に。ソビエト式軍隊の攻め方は、最前列にこのような囚人兵が配置され、彼らは前進しか出来ない、もし後ろに下がれば彼らの後ろに控えているソビエト正規軍によって撃ち殺されるからである。ドイツ戦線からなおも戦争に借りだされたソビエト兵士が満洲で蛮行に走ったのであり、囚人兵であったが故の蛮行ではなかった。少し横に逸れたが書いてみた。N>

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