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Venona の解読

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日本再生研究会SC 図書の紹介

Herbert Romerstein and Eric Breindel (ハーバート・ローマースタインとエリック・ブラインデル)著 The Venona Secrets: Exposing Soviet Espionage and America’s Traitors (ベノナの秘密:ソ連のスパイ行動とアメリカの反逆者を暴く),
Regency Publishing, Inc., Washington, DC (リージェンシー出版社), 2000年

担当: 目良浩一

まえがき:

この著書は、1940年代のソ連政府とその在米スパイとの傍受された交信を解読し(この秘密作業をVenonaという)、それをもとに、ソ連共産党のアメリカにおけるスパイ活動を記述したものである。その活動範囲は広範囲にわたるが、ここでは、日本国に関係する事項を中心として要約してある。

著者と著書について:
ローマースタインは朝鮮戦争の時に米国陸軍に勤務し、北朝鮮から民間人が命がけで共産主義政権から逃れるのを目撃した。その後、米国下院の非米活動委員会の調査官になり、後に下院の常設特別諜報委員会の職員となりその時(1978-1983)に、ハーバード法律大学院出身のブラインデルが同上院の諜報委員会の職員であったので知りあった。お互いに諜報や共産主義に深い関心を持っていた。ブラインデルの親は、ナチのホロコーストを逃れてきた経験があるので、彼は全体主義の脅威には深い理解をもっていた。ローマースタインは、1983年からは、米国情報局のソ連虚偽情報対策局の長として勤務し、1989年に引退した。1992から1993年にかけては、旧ソ連邦やチョッコスロバキアやドイツの古文書館で、古文書を調べる機会があった。以前のソ連のスパイの暗号通信が、Venona によって解読されて、その内容が発表されてきた1995年ごろから二人で協力してこの本を作成したが、ブラインデルは、1998年に42歳の若さで亡くなった。従って、この本はローマースタインが、二人で作成した原稿をもとに、まとめたものである。ローマースタイン には、下記の著書もある。
The KGB Against the “Main Enemy”: How the Soviet Intelligence Service Operates Against the United States, 1989 with Stanilav Levchenko.

目次

序章
1.ベノナ(Venona)とはなにか
2.「政策スパイ(Agent of Influence)」が歴史を作る
3.-13 (省略)
14.結論
付録A:文献
付録B:スパイ
注釈
文献リスト

序章

Venona の解読でかなりの資料が得られたが、1989年のソ連邦の崩壊後、Yeltsin 大統領がロシアにある資料への閲覧を制限するまでに、欧米の学者がコミンテルンの膨大な資料を閲覧し、相互にその情報を交換して知識を広げた。これらの資料とVenona の資料から明らかになったことは以下のことである。
アメリカの共産党指導者は党員に貴重な情報はすべてソ連の本部に伝達することを指令し、指導者層や主要党員は自分の国よりも、ソ連邦に忠誠を誓っていたこと。彼らは単なる左かかった異端者ではなく、腹黒い裏切り者であった。その結果として、以下のことが起こった。
1. ソ連はそのために早い時期に原子爆弾を製造することが出来た。
2. ソ連は、米国内のスパイを使って、第二次大戦の時に、米国と日本を争わせて、自国の安全を守ることが出来た。


第一章:Venona とは何か 

これはソ連の国際諜報本部と西側諸国内のそのスパイとの暗号による交信を解読する米国政府の活動であり、1943 年米陸軍信号諜報部{後にNSAとなる}によって開始され、1940 年から 1948 年までの交信が対象とされた。ソ連側では、諜報機関はOGPUと言われ、後に、NKVDとなり、更にあとでKGBとなった。当時、米国内には四つのNKVDの支部長がいて、その三つは正式のもので、ひとつは非公式(illegal)のものであった。公式のものは、ワシントンの大使館とニューヨークとサンフランシスコの領事館に席を置き、ソ連外交官や報道員として登録されていた。非公式支部長は、特にまったく表に出ず、ほんの少数の関係者にしか知られていなかった。
ソ連側は、一度しか使わない乱数表でもって暗号を使っていたので、解読が困難であったが、乱数表の数が不足して、同じものを再使用するようになって、解読が可能になってきた。1944 年の通信は49%が解読されたが、1943 年のものは15%、1942 年のものは2%しか解読できていない。
解読作業は主に、若い大学卒の女性によっておこなわれた。そして 1948 年から 1951 年の間に、米国内の数多くのソ連のスパイが発覚した。ソ連は米国が暗号の解読に成功したことを 1944 年に知り、暗号を変更した。


第二章:「政策スパイ」が歴史を作る

ハーバード大学で博士号を取り、IMFや世界銀行の構想を練った世界的な経済学者のハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)(1892 年生まれ)が、実は「政策スパイ」であった。彼はルーズベルトの New Deal に参加するために、学会を離れて、連邦政府に入り、間もなく財務省長官のヘンリー・モーゲンソウの下で、Assistant Secretary に昇進し、特に国際的問題については長官の重要な助言者になった。ホワイトは、1935 年から 1938 年の間にも、ソ連の諜報機関に情報を与えてきたが、1939 年に Vitali Pavlov と称する青年がソ連の諜報機関のアメリカ局の次長に任命されて、対米戦略を練ることになった。そこから彼の本格的な活動が始まる。

1941 年の初頭、ソ連は、日本問題に頭を悩ましていた。スターリンは、ある時期に資本主義国が一緒になって、ソ連を攻撃するであろうと考えていた。そこで、ソ連の目標は、それを囲む包囲陣に切れ目を入れることであった。ひとつの戦術は、日本の軍隊の注意を米国を向けることであった。日米関係はかなり深刻になっていたが、米国はただちに行為に移ることなく、戦争の準備をすることに専念していた。日本はこの時期を選んで、ソ連の極東地域に進出してくるかも知れないと考えられた。ソ連のもっとも重要な在日本スパイ、ゾルゲは、日本は米国を攻撃するかもしれないが、日米の協調もありうることで、そうなると日本はソ連を攻撃するであろうと伝えた。ゾルゲはモスクワの指示の下に動いていたが、ドイツの新聞社の記者という資格で日本に滞在していた。彼は 1941 年 10 月に東京で逮捕されたが、その一ヶ月前に「日本はアメリカとイギリスを攻撃する。ソ連への危険はなくなった」とソ連の本部に報告した。その少し前に、米国における諜報作戦で大きな成功を収めたアクメロフは、モスクワに戻り、戦略を立てる立場におかれて、そこで彼は NKVD は政策スパイを使って日米関係に介入することを提言した。そして、1941 年4月に、パブロフはハリー・ホワイトをこのために再起用することを進言した。彼は、5月にワシントンに行き、ホワイトを政策スパイとして起用した。これは雪作戦(Operation Snow)といわれ、ソ連がアメリカの外交政策に影響を与えるための重大なスパイ活動であった。。
パブロフはホワイトと、ワシントンの某レストランで会い、必要があればソ連政府が日本を陥れるために作った田中義一首相の作とされる「田中メモ」を示す用意をしていった。パブロフはホワイトに米国の外交政策に多大な影響を与えるように依頼し、特に以下の二点を強調した:日本は侵略から手を引き、中国と満州から軍隊を引き上げること、また日本は大多数の兵器を米国に売却すること。勿論これらの要求は日本人に米国に対する敵愾心を鼓舞するものである。ホワイトはこの役割を承諾し、メモをポケットに入れようとしたが、パブロフはそれを抑え、記憶するように伝えた。ホワイトはこの提案をメモとして、モーゲンソウ長官にに提出したが、その時は、採択されなかった。しかし、戦争が近くなった 1941 年の 11 月には、国務省は日本との外交交渉によって、戦争を回避しようとしていた。ソ連のスパイは、若し日本がアメリカと戦闘状態に入らなければ、ソ連と戦争することになることを恐れた。スターリンがもっとも嫌っていたのは、西においてドイツと戦闘状態にあるのに、また東において日本と戦争をすることであった。ホワイトはパブロフから指示を受け、ホワイトは前に書いたメモを書き直して、モーゲンソウ長官に提出した。長官は、サインして、ルーズベルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。ハル長官はホワイトの使った厳しい言葉をそのまま残して、彼の1941 年 11 月 26日の日本への最後通牒盛り込んだ。その結果が日本側の 12 月 1 日の真珠湾攻撃の決定につながった。雪作戦の一大成功例である。

ホワイトはその他、以下のような政策に関与した。1944 年 8 月 7 日にイギリス南部で米軍司令官アイゼンハワーとモーゲンソウと戦後ドイツの占領政策について協議した時に、モーゲンソウとホワイトは、英国政府の役人にドイツが早く回復しないように、この国は小さな州に分け、工業生産を中止し、小規模農業経済にするべきだと主張した。それが、ルーズベルト大統領やチャーチル首相の抵抗にも拘わらず、採用され、モーゲンソウ計画と言われるようになった。

1944 年には、ホワイトはIMF や World Bank を生むことになったBreton Woods 会議のアメリカ代表となり、1945 年4月のサンフランシスコの国際連合会議には、アメリカ代表の公式顧問として参加した。そして、後に、IMF の米国代表理事の役を果たした。しかし、彼は秘密情報をソ連に伝えていた。

Harry Dexter White は、共産主義への支持のために、報酬を期待することなく、ソ連の共産党のために献身的に貢献した。しかし、後に、娘の教育費をモスクワから受領した。戦後、米国内で、非米活動の糾弾が行われた。1948 年に彼は下院の非米活動委員会に召喚されたが、その時共産主義者であることも、秘密情報をソ連に提供したことも否定した。しかし、Venona の情報によれば、彼は第二次大戦中、一貫してソ連の諜報機関に情報を提供し続けていたのである。彼は非米活動委員会で証言しで間もなく、New Hampshire の自宅で心臓麻痺で倒れ、死亡した。1948 年 8 月16日 であった。
続く

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