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南京大虐殺とは…

今日は南京大虐殺について書いていきたいと思います。
南京大虐殺は本当にあった出来事なのでしょうか?
自分は東京裁判で生東京裁判で生まれ、日中国交正常化で、朝日新聞が育てあげたっと思っています。

評論家の阿羅健一氏が、当時、南京にいた特派員や第十軍の参謀、領事官補など67人に直接面接等をして聞き取った(「聞き書 南京事件」図書出版社)ところによると、南京で大量殺戮を見たという人は1人もいないばかりか、東京裁判の検察側証人の言うような、あの狭い南京城内に1万2千もの死体がごろごろ横たわっていたとか、二筋の血の川が流れていた等と言うことは全くの作り話であり、ましてや「許伝音」証人の言うように、「日本軍は隊を組んで、人を見れば射殺し、女を見れば強姦し、物を見れば強奪する」といったような凶暴なふるまいや、残虐な場面などを見た者はいない。東京裁判で初めて南京事件なるものを聞いて驚いたという。
 中国は、東京裁判に備えて急きょ、「南京敵人罪行調査委員会」という組織を作り、軍事委員会、調査統計局、警察庁、弁護士会、医師会、商工会議所、紅卍字会などの14団体が集まって、全市あげての大々的に調査にのりだしたが、当初は、被害を申し出る者も少なく、殺害事件の目撃者もいない。再三、再四、占領時の日本軍の悪行を申し出るように勧誘するのであるが、一向に反応がない。その状況を調査報告書には、「進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少きのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際に於ても冬のセミのごとく口をつぐみて語らざる者、あるいは事実を否認する者、あるいは又自己の体面をはばかりて告知せざる者・・・・等あり。(そこでさらに)種々探索・訪問の方法を講じ、数次にわたり行われたる結果、確定せる被殺害者既に30万に達し、此外尚未だ確証を得ざる者20万を下らざる景況なり」とある。委員会が最終的に東京裁判に提出した「被殺害者確定数は34万人」であると言うが、その内訳(新河鎮地域(廟葬者、盛世徴・昌開運証言)28730名、兵工廠および南門外花神廟一帯(埋葬者、丙芳縁、張鴻儒証言)7000余名、 草鞋峡 (被害者、魯甦証言)57418名、漢中門 (被害者、伍長徳・陳永清証言)2000余名、 霊谷寺  (漢奸高冠吾の碑文により実証)3000余名、崇善堂・紅卍字会の埋葬屍体155337名の合計253485名)では、34万人にはとうてい足りていない。(のちに崇善堂の埋葬112262体は、崇善堂自体が当時休業状態にあり、関係ないことが判明)

当時は、日本国民の多くは、日本は戦争に負けたことでもあり、東京裁判で東條元首相以下7名が戦争の責任を問われて処刑され、その中に松井大将もいわゆる南京虐殺の責任で負わされたことも、やむを得ないかもしれない、程度の認識でしかなかったと思われる。
 それから約20余年、本多勝一記者による『中国の旅』と題するレポートが朝日新聞に連載(昭和46年8月〜12月)された。この連載は、「平頂山事件・万人抗・南京事件・三光政策」の順に、いずれも旧日本軍及び日本の民間人が戦前・戦中を通じて中国人に与えたとする数々の残虐行為の告発である。この衝撃的、残虐無惨な記述が、「南京大虐殺」の名を蘇らせ、これを契機に朝日新聞は、(意図的に?)ニセ写真や兵隊の日記まで偽造?し「南京大虐殺」を煽り立てた。また、「南京事件を考える会」まで結成し、その後も大虐殺があったという記事なら、大きく取り扱い、これに反する記事は取り上げないこととしているらしい。
例えば、「万人坑」。本田氏は、「撫順炭坑には約30の万人抗ができたというから、1つ1万人としても30万人になる。40年間も日本に占領された炭坑であれば、この数字は決して“白髪三千丈”の次元のものでないことが、・・・理解出来よう」と述べ、撫順炭坑でも30万人の虐殺があったと書き、コレラ発生で「防疫惨殺事件」なるものを告発し、中国人鉱夫が千人以上も残虐極まる殺され方をして、万人抗に投げ込まれる状況など、とても読むに耐えないようなことを著しているが、かつて撫順炭坑に勤務していた人々が組織する「撫順会」や元南満鉱業社員の人々は、「そんなことは絶対なかった」、「だいいち「万人抗」などというものは見たことも聞いたことがない」、「とんでもない濡れ衣だ」と口を揃えて言う。このことは、産経新聞にもしばしば報ぜられ、雑誌『正論』(『重ねて言う、万人抗はなかった』)、さらに『私たちは万人抗なんて知らない』『朝日・本多勝一記者の誤報』等々の言論活動を重ね、朝日新聞社への申し入れも行ったらしい。
これについて本多記者は、「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やってください」とジャーナリストらしからぬ発言しているそうだ。

このような朝日新聞の背景には何があったか?「いかに朝日新聞が、そして時の社長広岡知男氏が、日中国交回復に並々ならぬ思いで尽力したか。・・・・文化大革命を礼賛し、そして45年に広岡社長は、日中関係の改善を胸に抱いて、議長を務めるべき株式総会まですっぽかして1ヶ月も中国に滞在し、そして46年の世界卓球選手権大会、翌年47年の上海バレー団の招待・公演と、朝日はまさに八面六臂の役割を自ら買って演じたのである。しかもそれは中国の立場を重視し、中国の言いなりに無理をも通したのであった。・・・・・・そして46年8月からの『中国の旅』の連載であるが、“南京大虐殺”なるものを、中国側の言い分だけでまとめていった理由がここにある。」(『間違いだらけの新聞報道』 新聞評論家 片岡正巳著) 朝日新聞のこのような努力は、実を結び、昭和50年からは教科書に「南京大虐殺」が載るようになったし、毎日新聞やNHKなど日本のマスコミや時代に阿る学者、文化人、教育者がこれに追随し、今日の風潮を作ってしまった。
日教組に至っては、南京大虐殺を「アウシュビッツの大虐殺」と「広島・長崎の原爆による大量殺戮」とならべて教育の3大重点項目とし、これを明記している教科書を選べ、と指導しだしたそうである。

もう一つ南京大虐殺を裏付ける証拠として、よく目にする残虐な写真。皆さんも一度は見たことがあると思いますが、虐殺の証拠写真は、いずれも出所不明、あるいは捏造、捏造の疑いがあります。確かに、戦場において、いかなる精神状態におかれるかは、計り知れませんが、日本の歴史(戦史)上ありえない。しかしながら、このような凶暴残虐な殺害は、 「食人風俗(カンニパリズム)」のあった漢民族3千年の歴史ではたびたび見られることであります。この4ヶ月前、通州で、日本人居留民2百余名が虐殺(通州事件)されたのは、まさにこの状態であった。どうも自分たちがやる殺し方そのままを記述したようですね。
 ともあれ、こんな地獄のような恐怖の街で、誰がこれを撮影し、戦後30年を過ぎてから続々と出てくるのでしょか?不思議です。

上記には今まで調べたことを乱雑に書かせてもらいましたが、今から虐殺否定の14の根拠を書いてみたいと思います。

1. 陥落当時の南京の人口(虐殺者数より少ない人口)
2. 陥落後、難民帰還で人口は急速に増加(翌年3月の人口調査)
3. 目撃者のいない“大虐殺”、大量の死体など見たものはいない(同時に入城した百数十名の新聞記   者、カメラマン、評論家、だれも見ていない)
4. 南京国際委員会の日本軍犯罪統計(犯罪統計は、伝聞、うわさ話を元に作成した)
5. 難民区は安泰、感謝状を受け取る                              6. 崇善堂11万埋葬のウソ(東京裁判で「南京敵人罪行調査委員会」 提出した25万3千人のうち、1  1万人は、後の中国側史料で明らかな誤りと判明)
7. 上海特務機関員、丸山進氏の回想
8. 金陵大学教授ルイス・S・C・スミス博士の『南京地区における戦争被害調査』
9. 何応欽将軍(中華民国陸軍一級将校(大将)、軍政部長(国防省)兼軍事委員会委員長)の軍事報告  書(戦闘ごとに詳細な統計が百数十点付録されているが、この報告書の中にも“南京大虐殺”を匂わ  せるようなものは何もない)
10. 中国共産党の記録にもない
11. 国際連盟も議題にせず、米・英・仏などからの抗議もない、米・英のマスコミもほとんど取り上げず
12. 箝口令(かんこうれい)など布かれていない
13. 記録映画「南京」(昭和13年に東宝文化映画部が製作した記録映画「南京」:陥落直後から数週間にわたる南京の状況をリアルにとらえたフィルム)
14. 全く動機が見当たらない事件

みなさんはどう考えますか?過去に教わったことは決して事実ではないと思います。自分で調べ、その手で触れ、その目で見たものこそ真実ではないでしょうか?

読みにくい長文を最後まで読んでくださった方ありがとうございます。

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前回に続き…

前回書いた通州事件の続きで東京裁判で弁護側が同事件に関する外務省の公式声明を証拠として提出した証人の宣誓口供書の内容を書きたいと思います。かなりきつい内容ですが事実を見たい方は読んでみる価値はあります。




萱島高証人(支那駐屯歩兵第2連隊長(28日の南苑戦闘後、30日午後に通州に急行)「旭軒(飲食店)では40から17、8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
 

桂鎮雄証人(第2連隊歩兵隊長代理)「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
 

桜井文雄証人(支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として、30日、連隊主力と共に救援に赴く)「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」

ここに書いた通州事件以前から続く中国人の猟奇的反撃はまだまだあります。

◎尼港事件 大正9年(1920年)
ロシア、中国人からなる4000名のパルチザン(遊撃隊)により、領事夫妻以下居留民384名(内女子184名)、日本守備隊351名が陵辱、暴行のうえ、虐殺(通州事件は「第2の尼港事件」と呼ぶ)
◎南京事件 昭和2年(1927年)
 中国軍兵(200名)と一般人暴徒により、各国領事館が襲撃され、英国人2名、日本人、米国人、イタリア人、フランス人、デンマーク人各1名が死亡した。これに対し米英は軍艦より砲撃
◎済南事件 昭和3年(1928年)
日本陸軍が、居留邦人保護を名目に山東省に出兵し、多数の市民を殺傷した事件となっているが、事実、中国軍による居留邦人に対する略奪、陵辱、殺人事件があり、略奪被害戸数は136戸、被害人員は約400名とある。この事件における日本人被害者の検死結果(済南医院で中国側も立会)のうち悲惨なものは、次のとおり。
藤井小次郎:頭及び顔の皮をはがれ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除。斎藤辰雄:顔面に刺創、地上を引きずられたらしく全身に擦創。東条弥太郎:両手を縛られて地上を引きずられた形跡、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出。東条キン(女性24歳):全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離、陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり、両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損。井上国太郎:顔面破砕、両眼を摘出して石をつめる。多比良貞一:頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて小腸露出。中里重太郎:顔面壊滅、頭骨粉砕、身体に無数の刺創、右肺貫通銃創。高熊うめ:助骨折損、右眼球突出、全身火傷、左脚の膝から下が脱落。他に顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能な遺体が2体あった。

もちろん、これらはほんの一部の中国人の行為ですが…一ついえることは南京虐殺の中国の公式見解と比べてみると酷似するっと言うことです。

読みにくい長文を最後まで読んでくださった方ありがとうございました。
皆さんは読んでみて何を思いますか?意見を残してくだされば大変うれしいです。

皆さんは通州事件をご存知ですか?南京大虐殺を語る前に、この通州事件ついて書いてみたいと思います。

昭和12年(1937年)7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊(3千人)によって行われた大規模な日本人虐殺事件(残留邦人380名中、260名が惨殺、助かったのは日本軍の兵営に逃げ込んだ120名)である。これは、明らかな戦時国際法違反であるが、東京裁判においても封殺され、我が国の歴史学者の多くも口を緘し、教科書も新聞も雑誌もほとんど書かれなかったため、一般の市民にはほとんど知られていない。
 通州には、昭和10年(1935年)に親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設したキトウ防共自治政府があり、保安隊(約1万余、保安隊と言うものの、機関銃や野砲も持ち十分な戦闘能力を備えていた)を有していたが、この親日政権の保安隊が日本人居留民虐殺事件を起こすことになる。
 27日早朝から、日本軍(関東軍)と中国第29軍との間で、戦闘が開始され、正午までに第29軍(宝通寺部隊)は敗走、潰滅した。ところが、関東軍の爆撃機が、誤ってキトウ保安隊の幹部訓練所に爆弾を投下し、数名の保安隊員が死亡するという事態が起きた。直ちにキトウ政府に釈明、陳謝、遺族の弔問等をしたが、折りしも南京放送(中国国民政府の宣伝放送)が「盧溝橋で日本軍は29軍に惨敗し…日本軍の潰滅も旬日のうちであろう」等の事実と正反対の放送を流した為、通州の保安隊に相当の心理的動揺を与え、日本側についているよりも29軍側に寝返ったほうが有利であるとの判断を抱かせたと言われている。また、この時、通州の日本軍守備隊主力が不在で、留守部隊110名程度の微弱な兵力でしかなかった。この機を狙って、キトウ保安隊は襲撃を開始、長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、日本軍守備隊、特殊機関を襲撃のみならず日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、無辜の居留民に対して略奪、暴行、凌辱、殺戮など、残虐の限りを尽くし、猟奇的な殺害、処刑の場面が白昼堂々と展開された。
中国軍による猟奇的虐殺(頭部切断、眼球抉り取り、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺など)は、日清戦争以来、お決まりの惨殺パターンとして行われてきた。この通州事件も発端は日本側の誤爆であり日本に責ありとのように言われるが、近年になって、通州のキトウ保安隊第1、第2総隊の計画的行動であることが中国側史料(キトウ保安隊第1総隊長)の「キトウ保安隊通県決起始末記」や「キトウ保安隊の決起について」(武月星他「盧溝橋事変風雲偏」等)によって明らかとなった。
 通州事件については、東京裁判で弁護側が同事件に関する外務省の公式声明を根拠として提出したが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。しかし、虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されている。

次回はこの宣誓口供書の中身を書いていきたいと思います。内容的にかなり残虐な内容が含まれていますので書こうか悩みましたが、事実を知っていただきたいので次回書きたいと思います。

読みにくい長文を最後まで読んでくださった方ありがとうございます。それでは次回…

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